第17話 嵐の前のラブコメ喜劇
ブカレストに戻ると、俺は「安宅興商ルーマニア駐在員事務所」の所長に正式任命された記念に、盛大な就任パーティを開くことにした。
完全なる公私混同だったが、経費申請書には「日ルーマニア経済交流促進目的、兼、現地スタッフ慰労及び相互理解促進のための懇親会」と書いたからセーフだ。
なぜなら、この「所長」という名の地獄を共に生き抜いてくれたエレナとイオナに、せめてもの感謝の気持ちを伝えたかったからだ。
もちろん、予算は少なく、当然のように別枠の「青島君の熱意次第」からも出さざるを得ず、俺のポケットマネーが盛大に蒸発した。
「青島、無理しないで。お金、ないでしょ?」
エレナが心配そうに言う。
「大丈夫だ、エレナ! 俺は日本のトップ商社マンだ! 金は湧いて出る!」
もちろん、そんなことはない。
俺の財布からは、悲しい砂漠の風が吹いていた。
パーティ会場は、俺の仮設事務所(元クリーニング店)を、エレナが魔法のように飾り付けた、奇跡の空間だった。壁にはイオナが描いた、なぜか全てが筋肉隆々な桃太郎と犬と猿と雉の絵が飾られ、会場のあちこちにはルーマニアの刺繍入りハンカチが吊るされていた。
まるで、ルーマニア版桃太郎の世界に迷い込んだかのような、シュールで独特な雰囲気だ。
パーティには、大使館の大場さん(相変わらず冷たい視線だが、なぜか参加してくれた)を招き、エレナの親戚は居なかったが近所の人たちもたくさん呼んだ。
そして、大場さんが連れてきたのが、ルーマニア経済省の若手エリート官僚――ヴァシレ・コスマだった。
彼はスラリとした長身で、髪は完璧にセットされ、その顔立ちからは知性と野心が滲み出ていた。
まるで、少女漫画に出てくる王子様そのものだ。
そして、事件は起きた。
ヴァシレの視線が、料理を運んできたエレナにピタリと吸い寄せられたのだ。
彼の目が、まるでアニメのキャラクターのように完全にハートになっていたのを、俺は見逃さなかった。
いや、見逃すわけがない。
俺の目とヴァシレの目が、エレナを巡って一瞬、火花を散らした。
俺は心の奥底で「うおおおお、Fランの俺が、エリート官僚と恋のバトルロイヤルか!?」と謎の雄叫びを上げていた。
それからというもの、ヴァシレは怒涛のアタックを開始した。
毎日のように事務所に現れ、エレナに花束を贈ったり、詩を朗読したり、時にはルーマニアの伝統的なラブソングを歌い上げたりする。
その度にエレナは困ったように微笑み、イオナは眉間にシワを寄せ、俺は「なんで俺の事務所でラブコメやってんだよ! 仕事しろよ!」と内心叫んでいた。
ある夜、俺がオフィスで領収書と格闘していると(なぜかルーマニアの領収書は全て手書きで、読解不能なミミズの這ったような文字なのだ)、エレナが珍しく真剣な顔で俺に呟いた。
「Naoto……私、相談ある」
俺は、思わず持っていたボールペンを落としそうになった。
その真剣な表情に、何か重大な告白をされる予感がした。
「もし、私が……別の男と、結婚したら。あなた、怒る?」
俺は、一瞬、思考が停止した。
脳内を、ヴァシレの「ハート目」がチラつく。
「……ヴァシレのこと?」
彼女はゆっくり頷いた。
正直、驚きはしたが、それ以上の感情は湧いてこなかった。
いや、正確には、湧いてくるはずの恋愛感情が、ルーマニアでの過酷な生活と、所長という重圧、そしてイオナの謎の視線によって、完全に麻痺していたのかもしれない。
俺たちの関係は、孤独の慰め合い。
恋愛感情というより、どこか“割り切った同居人”に近かった。
もちろん、彼女は俺にとって大切な人だ。
しかし、それは、家族のような、あるいは戦友のような、そんな感情だった。
俺がエレナに「幸せになるなら、それが一番だよ」と、まるで出来た男みたいなセリフを吐いた翌日から、俺の事務所はラブコメの舞台装置へと完全に変貌を遂げた。
原因は、言うまでもなく、経済省のエリート官僚、ヴァシレ・コスマだ。
どうやら俺の言葉を「エレナとの交際の公認」だと盛大に勘違いしたらしく、彼のアタックはそれまでの比ではなくなっていた。
やれやれ、そんな許可、俺が出せるわけないだろ。
「愛しのエレナ! 今日の君の瞳は、ドナウ川の夜明けよりも美しい!」
朝一番、事務所のドアを蹴破る勢いで入ってきたヴァシレは、巨大なバラの花束を抱え、朗々と詩を詠み始める。
なんだこれ。
毎朝の日課か?
エレナは「まあ、ヴァシレさん……」と困ったように微笑むだけ。
その隣で、イオナは「またか」と言わんばかりの冷ややかな視線をヴァシレに向け、俺は「頼むから仕事させてくれ……」と頭を抱える。
これが、安宅興商ルーマニア駐在員事務所の新しい日常だった。
ヴァシレの求愛行動は、日に日にエスカレートしていく。
ある日はヴァイオリン奏者を連れてきて情熱的なセレナーデを奏でさせ、またある日は自作のラブソングを熱唱する。
事務所中に響き渡る、お世辞にも上手いとは言えない歌声。
近所から苦情が来ないのが不思議なくらいだ。
「ナオト。あの男、いつまでいるの?」
俺のデスクの隣で、イオナがボソリと呟く。
「俺が知るか。というか、お前、さっきヴァシレのコーヒーに塩入れてなかったか?」
「知らない」
プイッとそっぽを向くイオナ。
やれやれ、この娘もなかなかの食わせ者だ。
ヴァシレの猛アタックに振り回される俺と、地味な嫌がらせで対抗するイオナ。
そして、その中心で困ったように微笑むエレナ。
なんだこのカオスな空間は。
まるで、ドタバタコメディの脚本でも読んでいるかのようだ。
そんな昼間の喧騒とは裏腹に、夜は静かだった。
そして、俺たちの奇妙な関係も、まだ続いていた。
ヴァシレが意気揚々と引き揚げた夜、エレナが俺の部屋を訪れることもあれば、エレナが寝静まった後に、イオナが滑り込んでくる夜もあった。
なんだこのローテーションは……。
俺は一体、誰の恋人で、誰の保護者なんだ?
だが、昼間のヴァシレの存在が、俺たちの夜の関係に微妙な影を落とし始めていたのも事実だった。
以前のような、ただ孤独を埋め合わせるような切実さは薄れ、どこか義務的で、ぎこちない空気が漂う。
自然と、その回数は減っていった。
まるで、潮が引くように、ゆっくりと。
そんなある日、ヴァシレが珍しく真剣な顔で、分厚いファイルを持ってきた。
「青島所長。君に、仕事の話がある」
「……え、仕事?」
いつも「愛しのエレナ」しか言わない男の口から、初めてまともな単語が出てきた。 「ああ。私がどれだけ有能な男か、エレナに証明する必要があるからな!」
下心、丸出しじゃねえか。
だが、彼が持ってきた話は、意外にもまともな羊毛の輸出案件だった。
どうやら、俺たちが契約したロム・テクスティル以外の、別の国営企業が在庫を抱えて困っているらしい。
「なるほど。これは、検討の価値がありますね」
俺が真面目に応じると、ヴァシレは「そうだろう!」と胸を張った。
そして、エレナの方をチラリと見て、ドヤ顔を決めている。
やれやれだぜ。
その一件を皮切りに、ヴァシレはエレナへのアタックついでに、様々な仕事を持ってくるようになった。
最初は、羊毛関連の小さな話だった。
だが、徐々にそのスケールは大きくなっていく。
「国営製鉄所の民営化案件なんだが、日本の技術に興味はないか?」
「次の五カ年計画で、この地域のインフラ整備を予定している。資材調達のコンペがあるんだが……」
持ってくる案件のレベルが、おかしい。
どう考えても、一駐在員事務所が扱える規模じゃない。
まるで、序盤の村にいきなりラスボス級のクエストが持ち込まれるようなもんだ。
「……無理だろ、こんなの!」
俺は、ヴァシレが置いていった山のような資料を前に、頭を抱えた。
すぐに、大使館の大場さんに泣きつきの電話を入れる。
「――というわけでして、どうしたらいいでしょうか!」
『……青島君、君は本当に、トラブルを呼び寄せる天才だな』
電話の向こうで、大場さんが心底呆れたようにため息をついた。
『いいか、その規模の案件は、安宅一社でどうこうできる話じゃない。下手に手を出すと大火傷するぞ。君の事務所の権限でできることは、情報を整理して、他の適切なプレイヤーに流すことだけだ。わかったな?』
「は、はい……」
『やれやれ、君のところの岡山事務所長は、一体どんな化け物をブカレストに送り込んだんだ……』
大場さんの言う通りだ。
俺には、この巨大すぎるクエストをクリアする力はない。
俺は次に、日本の岡山事務所へと電話をかけた。
頼れるのは、やはり師匠である木下さんだ。
「――という状況なんです。俺、どうしたら……」
俺が半泣きで状況を説明すると、木下さんは「なるほどな。まあ、お前らしいっちゃお前らしいな。……よし、所長に代わる」と言った。
え、所長に? あの、謎の……?
『――おう、青島か。元気でやってるか』
電話口から聞こえてきたのは、あのいつも気の抜けた、それでいてどこか底知れない所長の声だった。
俺は、ヴァシレから持ち込まれた巨大案件の数々を、必死に説明した。
国営製鉄所の民営化、インフラ整備の資材調達……。
複雑怪奇な話を一通り終えると、所長は「ふむ、なるほど。わかった」と、あっさり一言、そう言っただけだった。
え、それだけ?
わかった、って何を?
俺が困惑していると、所長は、信じられない言葉を続けた。
『その製鉄所の話だが、ちょうど〇〇商事の専務に貸しがあるから、そいつにやらせる。インフラのほうは、専門の△△物産に話を通しておいてやる。お前は、ヴァシレとかいう役人に「日本の有力企業に話を通しておいた」とだけ伝えておけ。あとはこっちでやる』
「は……?」
なんだ、この人……。
まるで、ギルドマスターが、他の有力ギルドに次々とクエストを割り振っていくみたいじゃないか。
しかも、電話一本で。
あの巨大な案件を、いとも簡単に。
『いいか、青島。お前の仕事は、現地でデカい魚が釣れそうなポイントを見つけてくることだ。釣竿がデカすぎてお前にゃ扱えん魚でも、構わん。釣り上げるのは、俺たちや、他の船の役目だ。お前は、とにかくポイントを探せ。それが、駐在員の仕事ってもんよ』
そう言うと、所長は「じゃあな」と言って、一方的に電話を切ってしまった。
俺は、受話器を握りしめたまま、しばらく呆然としていた。
安宅興商・岡山事務所長。
あの人は、一体何者なんだ……。
ヴァシレは、俺が「日本の有力企業に話を通した」と伝えると、大喜びした。
自分の手柄ができたと、早速エレナに報告しに行っている。
その甲斐もあってか、ついにヴァシレはエレナを正式なデートに誘うことに成功した。
ある晴れた土曜の午後。
お洒落をして出かけていくエレナと、エスコートするヴァシレ。
俺とイオナは、事務所の窓から、二人の乗った高級車が走り去っていくのを、並んで見送っていた。
「……行ったな」
俺がポツリと言うと、 「……行ったわね」 と、イオナが応えた。
その横顔は、どこか寂しそうにも、安堵しているようにも見えた。
俺たちの間に、奇妙な連帯感が生まれている。
まるで、巣立っていく雛鳥を見送る親鳥のような気分だ。
いや、全然違うか。
エレナは、まだヴァシレに体を許してはいないようだった。
デートから帰ってきた彼女の表情は、楽しそうではあったが、どこか一線を引いているのが見て取れた。
だが、それも時間の問題だろう。
ヴァシレは、しつこいが、根は真面目で誠実な男だ。
エレナが彼に惹かれていくのは、自然なことだ。
少しの寂しさと、それ以上に、この訳のわからない状況に対する諦観。
そして、なぜかホッとしている自分もいた。
「さて、と」
俺は、大きく伸びをして言った。
「俺たちは俺たちで、仕事でもするか」
すると、イオナはクルリと俺の方を振り返り、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
「その前に、夕飯の買い出し。今日は、ナオトの好きなサルマーレにしてあげる」
「お、マジか」
「私が、作ってあげる」
エレナがいなくても、俺たちの日常は続いていく。
この奇妙で、歪で、でもどこか温かいブカレストでの生活。
やれやれ、この物語は、まだ当分、終わりそうにないらしい。
俺は、イオナと並んでスーパーへ向かいながら、そんなことを考えていた。




