第16話 ダンジョンに咲く恋?の花
秋口、羊毛のサンプル出荷がようやく軌道に乗ったころ、俺の仮設事務所(元クリーニング店)は、以前と比べて格段に人らしい生活ができる空間へと進化していた。
エレナの「生活魔法」とイオナの「言語魔法」のおかげで、もはや俺は、人間として最低限の尊厳を保つことができていた。
だが、そんな穏やかな、しかしどこか後ろめたい日々を送っていた俺に、一本の電話が鳴り響いた。
「青島! よくやった! お前の奮闘ぶりが本社にも伝わっているぞ! ついては、ブカレストの仮設事務所を、正式な『安宅興商ルーマニア駐在員事務所』とする! その所長に、君を正式任命する! 辞令と経費の手続きのため、至急、帰国せよ!」
俺の耳に響いたのは、まさかの帰国命令。
しかも、所長に正式任命だと?
俺が?
あのFラン卒の俺が、海外駐在員事務所の所長?
しかも、部下はエレナとイオナだけだぞ?
俺の脳内では、「え? もしかして、俺、出世した!?」という歓喜の声と、「いや、待て、これ罠じゃないか!?」という疑心暗鬼の声が激しく交錯していた。
「あ、青島、日本のパスポート、忘れてない?」
イオナが心配そうに尋ねる。
「大丈夫だ! 俺のパスポートは、肌身離さず持っている! なぜなら、俺にとってそれは、唯一の身分証明書であり、日本への帰りの切符であり、そして何より、日本から送られてきた唯一のダンボール箱に入っていた大切な書類だからだ!」
エレナとイオナとの別れは、想像以上に寂しいものだった。
エレナは俺に、なぜか大量のルーマニアの伝統的な刺繍入りハンカチを持たせた。
「青島、これ、お守り。無事に帰ってくるように」
その言葉に、俺は胸が熱くなった。
イオナは、何も言わず、ただ俺のスーツケースに、なぜか俺の顔が描かれた下手くそな落書きと「AOSHIMA GANBARE!」と書かれた紙を貼り付けた。
「これ、貼っとけば、変な奴がAoshimaに近づいてこない」
その目つきは、まるで、俺にマーキングをしている獣のようだった。
俺は内心、「お前が一番変な奴だよ」とツッコミを入れながらも、その紙を剥がすことができなかった。
そして、再び十数時間のフライト。
機内食のカレー味は健在だったが、なぜか今回は、横のおじさんが話しかけてこなかった。
俺の顔に「異国の地でサバイバルを生き抜いた男」というオーラでも出ていたのだろうか。
いや、単に俺の顔が、疲労困憊で死んだ魚の目になっていただけかもしれない。
久々の日本。
関西国際空港の空気は、湿気と、都会特有のせかせかした匂いが混じっていた。
この匂いを嗅ぐと、なぜか俺は落ち着く。
ああ、これが俺の故郷の匂い……。
神戸本店では、俺を出迎えた人事部や総務部から、まるで妖怪でも見るかのような視線を向けられた。
「またあんたか」
「噂の“ルーマニアの放浪者”ですか」
「あのFランが、まさか所長に……」
「お前、何か裏で悪いことしたんじゃないだろうな?」
散々な言われようだった。
俺の背中には、「ポンコツ所長(仮)」という見えない焼き印が押されている気がした。
実際に辞令でもらった役職も似たようなもので、結局(仮)はとられてはいなかった。
なんでも海外事務所の所長に就く者にはそれなりの格が必要だとかで、今回無理やり俺にそれをさせるものだから相当無理をしたらしい。
それでも平ではまずいらしく、特例で係長待遇に二階級特進させての発令だった。
なんとか手続きを終え、その夜は恒例の同期飲みが開かれた。
場所は、もちろん神戸のおしゃれなバルだ。
俺は、場違いにも、ルーマニアで購入したやけに派手な刺繍の入ったシャツを着て、バルの扉を開けた。
「おー! 青島! 世界最速の“スラムの王子様”が帰ってきたぞー!」
枦谷が、なぜかシャンパングラスを片手に、陽気に出迎えてくれる。
その隣では、大沢葵が満面の笑顔で手を振っている。
「青島くん、おかえりなさい! 生きててよかったー!」
「大沢さん! 枦谷! みんな! 生きて帰ってきたぞー! 俺は、ルーマニアの地で、人間として成長したぞー!」
俺は、感動のあまり、ルーマニアで覚えた「ビル!」(ビール)と叫びながら、二人に向かって駆け寄った。
その中で、不意に、店の奥の席に座っていた長峰と目が合った。
彼女は涼しげな笑みの奥で、何かを確かめるように俺を見ていた。
その視線は、まるでX線のように、俺の表面を通り過ぎ、心の奥底にある「秘密」を探っているかのように感じられた。
俺は思わず、持っていたビールジョッキを落としそうになった。
彼女の目の前で、俺は再び、ただのFラン大の学生に戻ってしまう。
「ねぇ、青島くん。海外生活って……やっぱ、いろいろ、あるの?」
長峰が、静かに、しかし有無を言わさぬオーラを放ちながら、俺の目の前にやってきた。
その質問の「いろいろ」という言葉に、俺は背筋が凍りついた。
まるで、隠し事を見破られたかのような、全身を貫くような恐怖を感じた。
まさか、エレナとイオナのことまでバレてるのか!?
いや、そんなわけない!
「い、いやあ、その、現地適応力と異文化交流が大事というか、うん! あと、ルーマニアの役所は、なぜか毎日、全員で腹筋運動をしているという噂がありましてですね、ええ、それを見ているうちに、俺も腹筋がちょっと割れて……」
俺がしどろもどろで、意味不明な説明をしようとすると、大沢が笑いを噴き出し、枦谷が背中をバシバシ叩いてくる。
「青島、無理すんなって! 顔が真っ赤だぞ!」
俺の内臓は焼け野原だった。
もはや、俺の心の臓は、ルーマニアの未開の荒野と化していた。
数日後、俺は岡山に戻り、木下先輩たちに帰国と正式任命の報告をした。
木下先輩は、いつも通りダルそうに「おう、お疲れさん。Fラン大卒でもやる時はやるな」とだけ言って、スポーツ新聞に目を戻した。
その言葉が、なぜか俺には最高の褒め言葉に聞こえた。
そして翌日――事件は起きた。
俺は、岡山事務所の薄暗い会議室で、ルーマニア語の書類と格闘していた。
相変わらず、羊を罵倒する単語が紛れ込んでいる気がする。
そこに、俺のスマホが震えた。
画面には「長峰 幸」の文字。
俺は心臓を掴まれたかのように固まった。まさか、日本まで俺を追跡してきたのか!?
「もしもし……青島です」
「青島くん、今、どこにいる?」
「え、あ、岡山事務所ですけど……」
「そう。じゃあ、今から行くから、ホテルのロビーで待ってて」
一方的に電話は切られた。俺は、頭が真っ白になった。
まさか、長峰さんが岡山に?
何しに? もしかして、俺の現地での「公私混同」が、本社にバレて、査問委員会でも開かれるのか!?
俺は、言われるがまま、事務所を飛び出し、最寄りのホテルへと向かった。
ロビーで震えながら待っていると、そこに現れたのは、白いワンピースに身を包んだ、まさしく女神のような長峰だった。
その姿は、周囲の風景から浮き上がるほどの輝きを放っていた。
まるで、桃太郎が鬼ヶ島から連れてきた、伝説の姫君のようだった。
「……岡山、一人で来たのは初めてかも。静かで素敵なところね。せっかくだから、案内してくれる? “所長さん”?」
逃げられなかった。
彼女の、すべてを見透かすような、それでいてどこか挑発的な笑顔に、俺は「イエス・サー!」と叫びそうになった。
俺たちは、後楽園の庭園を歩いた。
まだ紅葉には早いがそれでもきれいに手入れされた木々や、のんびり泳ぐ鯉。
日本の美しい情緒と、長峰の涼しげな笑顔が相まって、なんとも“青春デート”感が漂う。
周囲の観光客が、羨ましそうにこちらを見る。
俺は、冷や汗をダラダラ流しながら、必死で平静を装った。
「ここがね、昔の大名庭園で、水と緑のバランスが絶妙で、ええと、その……あの鯉、すごい大きいですね! 刺身にしたら何人前くらいになりますかね!?」
俺は、なぜか鯉の話題にシフトし、無理やり明るく振る舞った。
「……って、青島くん? どうして顔赤いの? もしかして、花粉症?」
長峰が、俺の顔を覗き込むようにして尋ねる。
その顔が近い!
長峰さんの顔が、こんなに近くに!
心臓が、ドクン!ドクン!と、まるで爆弾のように鳴り響く。
「いやいやいや、なんでもないよ!? 別に、庭が美しすぎるなーって思っただけで! あと、岡山の日差しが強すぎて、日焼けしただけです!」
(正確には「現地妻(仮称)と少女(成人済)を放置して、日本でマドンナとデートしてるという、あまりにも背徳的すぎる罪悪感」である)
俺の脳内では、エレナとイオナが、なぜか同時に桃太郎の格好をして、きびだんごを投げつけながら「アオシマ! ウラギリモノ!」と叫んでいる幻覚が見えた。
「ふーん……“現地適応力”って、どうやって身につけたのかな?」
長峰は、俺の顔をじっと見つめたまま、意味深な笑顔で尋ねる。
やっべ、心読まれてる!?
俺の裏の顔、バレてる!?
俺が終始しどろもどろで、額の汗が滝のように流れ落ちていると、長峰はずっと涼しい顔で微笑んでいた。
まるで、獲物を見つけた猫が、ゆっくりと追い詰めるのを楽しんでいるかのようだ。
そして、帰り際。駅のホームで、新幹線を待っている時だった。
長峰はふと、真顔になって、俺の目をまっすぐ見つめた。
その瞳は、昼間の明るい陽射しの中で見るよりも、ずっと深く、俺の心の奥底を見通すような鋭さがあった。
「……あんまり“帰ってこない人”にならないでね。私は、青島くんがちゃんと、自分の選んだ道で、真っ当に生きているか、ずっと見てるから」
その言葉に、俺は返事の代わりに、ただ黙って頷くことしかできなかった。
俺はまた海を渡る。
けれど今度は、心の中に、ルーマニアでの奇妙な生活の記憶と、エレナとイオナという忘れがたい人たちの笑顔、そして、なぜかいつも俺を翻弄する、長峰幸という名の「眩しい災厄」を抱えて。
岡山駅のホームに滑り込んできた新幹線は、長峰が神戸に帰る新幹線なのだが、俺には次の目的地、そして次の試練へと向かう運命の列車の様に感じた。
俺は、長峰が新幹線に乗り込のをただ見ていただけで何もできずにいたままだった。
窓から小さく手を振る彼女の姿が見えた。
俺は、その姿が完全に消えるまで、一人ホームから去っていく新幹線を見つめ続けた。
ルーマニアの地で、俺を待つのは、ビジネスの荒波か、それとも新たな修羅場か。
そして、長峰幸という名の、俺の心臓を常に危険に晒すマドンナは、この先、俺の人生に、一体どんな影響を与えてくるのだろうか。俺の異国での商社マンライフは、ますます波乱に満ちていく予感しかしなかった。




