第14話 公私混同の果てに
俺が、木下先輩という名の置き去りマイスターによって、ブカレストのど真ん中に、ぽつんと一人、取り残されてから数週間。
俺の仮設事務所(元クリーニング店)は、当初の予想を遥かに超えるカオスな空間と化していた。
昼は役所の鉄壁の扉をルーマニア語の片言と、顔面蒼白の営業スマイルでこじ開ける日々。
夜は、まるで荒野の真ん中に立つ寂しい一本の木のように、裸電球の下、安物のウイスキーを紙コップで飲むのが常だった。
ああ、日本が恋しい。
特に、神戸の長峰さんがカフェラテを持っている写真が、俺のスマホの待受画面で輝くたびに、俺の心は「ピキィッ!」と音を立てて砕け散っていた。
しかし、そんな俺の砂漠のような生活に、一筋の清らかな水が流れ込んできたのは、エレナとイオナという、かけがえのない存在のおかげだった。
エレナは、想像以上に働き者だった。
いや、働き者というよりは、もはや「生活魔法の使い手」と呼ぶべきだろう。
俺が泥のように疲れて、体中に謎のホコリと役所の怒声、そしてルーマニアの怪しい屋台の匂いを纏って戻る頃には、殺風景だった元クリーニング店の事務所が、見違えるほど整えられ、温かいスープの湯気が立ち上っていたのだ。
「青島、おかえり」
彼女が微笑むたびに、あのカビ臭かった部屋に、確かに「生活」が息づいていることを感じた。
埃まみれの段ボール箱が、なぜか花瓶に変わっている。
ゴキブリの死骸は姿を消し、代わりに、安物のテーブルクロスが敷かれている。
まるで、魔法でも使ったかのように、俺の荒んだ心が、ゆっくりと温められていく。
異国の地で孤独に押し潰されそうだった俺にとって、その温もりは何よりの救いだった。
毎晩、エレナが作ってくれる、わけのわからない具材が入ったスープを飲むたびに、俺は「これで、明日も生きていける……!」と、絶望の淵から這い上がることができたのだ。
言葉はまだ不自由だが、18歳のイオナの通訳が助けになった。
彼女は驚くほど聡明で、俺が持っていた日本語の教材を夢中で学び、今では簡単な会話なら問題なくこなす。どころか、俺より流暢だ。
「Aoshima、"otsukaresama"、この使い方、合ってる? 日本のビジネスマンは、上司に『お疲れ様です』と言うと、なぜか怒られますが、それはなぜですか?」
「うん、完璧。もう日本の新人より敬語うまいかもな。いや、たぶん、日本の課長クラスより丁寧語がうまいぞ。怒られるのは、俺がお前の上司じゃないからだ。つか、俺に敬語使わなくていいから、お願いだから」
「それ、褒めてる?」
彼女の屈託のない笑顔は、ささくれた俺の心の隙間に、ふと入り込んでくるものがあった。
まるで、荒れた砂漠に咲いた一輪の花のようだった。
彼女が時々、俺の拙いルーマニア語の単語のチョイスを指摘してくるたびに、俺は冷や汗をかく。
「Aoshima、その言葉遣いは、羊を罵倒する時に使う言葉です。役所の担当者は、羊ではありません」
マジか!? 俺、毎日、役所で羊を罵倒してたのか!? そりゃあ、書類も投げつけられるわけだ!
やがて俺は、エレナを仮設事務所の現地スタッフとして正式に雇用した。
もちろん、予算は「青島君の熱意次第」という名の俺のポケットマネーから捻出するのだが、これで堂々と公私混同できる!
いや、違う。これで、彼女の生活を少しでも安定させられる。
俺は安宅興商の名の下に、小さな善行を積み重ねているのだ! と、自分に言い聞かせる。
だが、気づけば、俺たちの関係は“仕事”の枠を、緩やかに、そして確実に超え始めていた。
ある夜、契約先との交渉がこじれ、泥のように疲れて戻った俺を、エレナは黙って出迎え、温かいスープを差し出した。
今日の交渉相手は、まるでグリズリーのような体格の男で、俺の腕を掴んで「早くサインしろ、このひよこ野郎!」と脅し、危うく骨を折られるところだった。
腕には、まだ生々しい指の跡が残っている。
しかも、その男は、なぜか俺の「元気が出るおまじない塩」を強奪して帰っていった。俺はもう、何もかも嫌になっていた。
「青島、大丈夫?」
エレナは、俺の腕の痣を見て、心配そうに眉を下げた。
何も言わず、ただ隣に座り、俺の肩にそっと手を添える。
その指先から伝わる温もりが、俺の心の氷を溶かしていく。
彼女の優しさに、俺は思わず涙腺が緩みそうになった。
「ありがとう、エレナ……俺、ほんとにもうダメかと思ったよ。腕、折れるかと思ったし、おまじない塩も取られたし……」
そう呟いた瞬間、彼女はふっと微笑み、俺の頬にそっと唇を寄せた。
それは激しい情熱ではなく、異国の夜の静寂の中、お互いの温もりを確かめ合うような、静かで穏やかなキスだった。
そして、まるで凍てついた心が、春の陽光に溶かされていくような、そんな優しい感覚に包まれた。
抗う理由は、どこにもなかった。
俺は、その夜、異国の地で、彼女と結ばれた。
それは激しい情熱ではなく、お互いの孤独を癒し、温もりを分け合うような、優しい時間だった。
俺の人生は、東京で「足手まとい」と呼ばれ、岡山で「犬に追いかけられるFラン大卒」だったが、まさかルーマニアで、こんなドラマのような展開が待っていようとは。
これも、Fラン大学出身の俺が持つ、ある種の特殊能力なのだろうか?
例えば、「逆境に陥ると、なぜか美女が寄ってくる」というスキルとか?
翌朝、キッチンから聞こえてくる朝食の支度の音と、エレナの鼻歌に、俺は初めて
「ここで生きていけるかもしれない」と思った。
彼女の作るスープは、俺の冷え切った胃袋だけでなく、心まで温めてくれた。
それは、東京の高層ビルで夢見ていた、スマートな商社マンの生活とは全く違うものだったが、俺にとっては何ものにも代えがたい幸福だった。
まさか、俺がこんな形で「商社マンとして大成する」とは思ってもみなかった。
これが、木下先輩の言う「泥臭い仕事」の最終形態なのかもしれない。
だが、俺の中に、もうひとつ別の感情が芽生えていた。
それは、まるで警報が鳴り響くような、不吉な予感。
――イオナ。彼女の眼差しには、時折、母親とも違う、女としての気配が混ざることがあった。
俺がエレナと距離を縮めて以降、イオナの視線がほんの少し冷たくなったのは、気のせいだろうか。
それは、まるで凍てつく氷のような、それでいて何かを問い詰めるような、妙な重みがあった。
俺の心臓は、彼女の視線を感じるたびに、「ヒッ!」と悲鳴をあげる。まるで、俺が危険な香りを放つ獲物であるかのように。
ある日の夕食時。エレナが作った郷土料理を、俺が「ムムム、この料理は……まるで故郷の味がするな!」と、全力で演技しながら食べていた時だった。
イオナが、突然、俺の皿の肉をフォークでブスリと刺し、自分の皿に移した。
「Aoshima、それ、エレナがあなたのために時間をかけて煮込んだ、特別な肉よ。大切に味わうべきだわ。あと、嘘をつかないで。あなたはこれを初めて食べるでしょう?」
その笑顔は、どこか冷たかった。
まるで、俺の心を見透かすような、鋭い視線。俺は思わず「ヒィッ!」と声を漏らし、口の中の肉を危うく喉に詰まらせそうになった。
別の夜、エレナは何か用があるとかで遅くなる、と連絡があった。
俺とイオナだけが事務所に残る。
俺は、今日もトラブルになった役所との電話交渉で頭を抱え、疲れ果てていた。
「今日の役所の奴らは、俺が喋るたびに、机の下でなぜか腹筋運動を始めるんだ。あれは、俺を笑ってるのか?」
「……それは、ただのルーマニアの健康法よ。気にしないで」
イオナはそう言って、俺の愚痴に付き合ってくれた。
そして、俺の隣に座って、灯りの落ちた部屋で本を読んでいた。
窓から差し込む月明かりが、彼女の横顔を神秘的に照らしている。まるで、光り輝く彫像のようだ。
「……まだ起きてたのか」
「うん。眠れないの。こっちは静かすぎて」
そう言いながら、イオナは立ち上がり、俺に熱いミルクを差し出してくれた。
カップからは甘い湯気が立ち上る。
二人きりの空間。
静寂が、俺たちの間を埋め尽くす。
彼女からもらったミルクを飲むと、なぜか俺の心臓が早鐘を打ち始めた。
これは、カフェインのせいか? いや、ミルクだ。
ふと、彼女の唇が動いた。
「Aoshima、あなたって、時々すごく優しくて、でもすごく弱そうにも見えるの」
「……それ、褒めてるのか?」
俺は、困惑とドキドキが入り混じった顔で尋ねた。
弱そうに見える、ってのは、まあ否定できないが、褒められることではないだろう。
「ふふ、わかんない。たぶん、好きなんだと思う。……Aoshimaのこと、すごく好き」
一瞬、時が止まった。ミルクのカップが、俺の手から滑り落ちそうになる。
脳内では、緊急事態を告げる赤ランプが点滅し、非常ベルが鳴り響いている。
(うおおおおお!? 好きってなんだ!? その「好き」は家族としての「好き」なのか!? それとも、男女としての「好き」なのか!? 18歳だぞ、18歳! 俺、犯罪者になるのか!? いや、ここはルーマニアだ、ルーマニアの法律は一体どうなってるんだ!? 木下先輩! 助けて! ここに「元気が出るおまじない塩」以外に撒けるものはないんですか!?)
俺の脳内パニックは最高潮に達していた。
その真っ直ぐな言葉を、どうにか呑み込むように、俺は震える手で、そっと彼女の頭を撫でた。
柔らかい髪の感触が、指先に伝わる。
「ありがとう。でも……俺には、守らなきゃいけない人がいるんだ。イオナにも、きっと、そういう素敵な誰かが現れるよ。君は、本当に優しいから」
俺は、エレナの顔を思い浮かべながら、必死で言葉を選んだ。
同時に、自分自身の人生の混乱と、目の前の少女の感情に、どう向き合えばいいのか、全く分からなくなっていた。
彼女は黙って頷き、そっと俺の手を離した。そして、何も言わずに、ベッドへと戻っていった。
その小さな背中が、月明かりの下で、なぜかひどく切なく見えたのは、たぶん俺の弱さだ。
いや、単なる気のせいだ。
俺は疲れているんだ。ルーマニアの怪しいウイスキーの飲みすぎだ。きっと、ミルクの飲みすぎだ。
俺のルーマニアでの商社マン生活は、ビジネスの成功と、奇妙な同居人たち、そして、全く予想もしなかったラブコメ要素が、カオスな化学反応を起こしながら、複雑な様相を呈し始めていた。
長峰さん、俺、一体どうすればいいんですか!?
助けて!
そして、どうかこの状況を、神戸の映えカフェで笑いのネタにしないでください!
でも、もしネタにするなら、せめて俺の「おまじない塩強奪事件」も入れてくれ!
それだけは、絶対に忘れないでくれ!




