第13話 ブカレストのダンジョンと仲間との遭遇
こうして俺は、木下先輩という名の置き去りマスターによって、いきなり「安宅興商ブカレスト現地法人・準備室室長(仮)」という、なんとも壮大で、しかしどこか虚しい肩書きを背負わされたのだった。
部下ゼロ、予算は「君の熱意次第」という名の不明金、言語力は中学生レベルどころか、ルーマニア語は「ブナズィア(こんにちは)」と「ベレ(ビール)」しか知らない。
頼れるのは、奇跡的に繋がるWi-Fiの弱いスマホと、ポケットに忍ばせた岡山弁小冊子、そして、故郷の母親が持たせてくれた「元気が出るおまじない塩」だけ。
これはもう――サバイバルだ。いや、もはや、サバイバルリアリティショーの撮影現場に、突如として放り込まれた素人だ。
カメラはどこだ? 助けて、長峰さん! この番組、きっと視聴率爆死するぞ!
昼は役所や設備会社との格闘の日々。
格闘、という言葉は生ぬるい。
それはまるで、ラスボスが無限増殖するダンジョンに、初期装備のまま放り込まれた勇者のようだった。
役所の担当者は、俺の拙いルーマニア語を理解しようともせず、書類を俺の目の前で叩きつけてきたり、突如として謎の怒鳴り声を上げたりする。
まるで、彼らの呼吸そのものが、ルーマニア語を話せない異邦人を罵倒することであるかのように。
「ムルツメスク……アオシマ……イエス……」
俺の持ちうるルーマニア語と英語、そして全身を使ったジェスチャーは、もはや原始時代のコミュニケーションだ。
書類を一枚もらうだけで、半日かかり、その間、俺は何度も膝から崩れ落ちそうになった。
彼らの目は、まるで「なぜこんなFランのような人間が、国際ビジネスの場にいるのだ? 迷子か?」とでも言いたげだった。
ある役所の受付では、俺が差し出した名刺を、受付の女性がそのまま鼻をかむティッシュペーパー代わりに使った。
その瞬間、俺のプライドは紙切れのように粉砕された。
夜は、さらに悲惨だった。俺の仮オフィスは、以前クリーニング店だった場所を無理やり借りたもので、家具と呼べるものは、埃まみれの折りたたみ椅子と、謎のシミがついた段ボール箱、そしてゴキブリの死骸だけ。
照明は裸電球一つで、薄暗い。
地べたに直置きした、安物のウイスキーボトルを隣に置き、まるで座禅を組む仙人のように一人で飲む。
酒の味が、なぜか石油のように感じられた。
毎日がカビ臭い空気と、孤独な独り言の無限ループだった。
ネットを開くと、神戸の長峰がカフェラテを片手に、ハイセンスなカフェで優雅に笑っている写真が流れてくる。
隣には大沢葵が満面の笑顔で写り込み、二人で「神戸のスイーツ巡りなう! #映え #おしゃれ女子会」とか書かれている。
俺の心にトドメを刺すには十分すぎる光景だ。
「……こっちは紙コップすらないっつーの! 陶器のカップなんて夢のまた夢だぞ! お前らのラテアートの泡は、こっちでは高級な石鹸水だ!」
俺はスマホに向かって叫んだ。
もちろん、向こうに聞こえるはずもない。
この落差。
東京の同期たちは今頃、スマートな高層ビルで、ワイングラスを傾けながら華麗なビジネスの話をしているんだろうな。
それに比べて俺は、元クリーニング店で、カビ臭い空気の中で、石油みたいなウイスキーを紙コップもないまま飲んでるって……。
これが、商社マンのリアルなのか?
これが、木下先輩が俺に与えた試練なのか?
もはや、これは試練ではなく、罰ゲームだ。
そんなある日、あまりの虚しさに、気晴らしにと旧市街をぶらぶら歩いていたら――運命的な事件が起きた。
いや、運命というより、厄介事の神様が俺に試練と同時に、とんでもないサプライズを仕掛けた、という方が正しいかもしれない。
旧市街の裏手、石畳の薄暗い路地。
ゴミが散乱し、ネオン街の裏側のような、いかにも「ヤバい」雰囲気が漂っている。
そこで、数人の男たちが、一組の母娘を取り囲んでいた。
男たちは皆、見るからに柄が悪く、腕には不気味なタトゥーが彫られ、その目はまるで飢えた狼のようだった。
母親は顔を真っ青にして怯え、若い娘は母親のスカートにしがみついて、震える小さな背中を見せていた。
男たちは、ルーマニア語で何かをまくし立て、母親を突き飛ばしたり、娘の髪を乱暴に引っ張ろうとしたりしている。
これは、完全にアウトだ。
俺の中の本能が『関わるな! これは、お前の手に負えるシチュエーションじゃない!
走って逃げろ、今すぐ! お前はFランなんだぞ、ヒーローになんてなれるわけがない!
ここは日本じゃない! 刺されるぞ! 内臓が出るぞ!』 と警鐘を鳴らす。
だが、その時、娘が恐怖に怯えながら顔を上げた。
その大きな瞳が、俺の目と一瞬重なったとき――俺の脳内で、なぜか『勇者よ、立ち上がれ!』という、ファミコンRPGの戦闘開始BGMが鳴り響いた。
いや、違う。
よく聞いたら、それは俺の胃が空腹を訴える音だった。
しかし、俺の口から、何かが勝手に飛び出していた。
「おい、お前ら! 何してんだ!」
俺の声は、路地の静寂に不似合いなほど響き渡り、男たち全員が、まるでスローモーションのように俺に振り向いた。
その目つきは、まさに「よくも邪魔しやがったな、このヒヨコ野郎、今すぐ潰してやる」と言っているようだった。
え、ちょ、やばくねこれ!?
俺、何言ってんの!?
脳みそが筋肉でできてるような、見るからに強そうなゴリマッチョな男が、俺に向かって一歩踏み出した。
彼の腕には、意味不明な文字のタトゥーが浮き上がっている。
その手には、なぜかサビだらけの鉄パイプが握られている。しかも、その先端には、なぜかピーマンが突き刺さっている。
どういうことだ!?
ヤクザと家庭菜園を兼業しているのか!?
「この野郎……何だ、お前?」
男はドスの効いた声でルーマニア語を吐き捨てた。
俺は当然、何を言っているのか分からない。
だが、その殺気だけは嫌というほど伝わってきた。
鉄パイプが、ゴキリ、と鈍い音を立てて持ち上げられる。
ピーマンが震えている。
完全に、死んだ。
俺のルーマニア生活、三日で終わるのか……。
走馬灯のように、長峰さんの笑顔が脳裏をよぎる。
「青島くん、ちゃんと帰ってきてよね」
……ごめん、無理みたいだ。
俺は、最後の力を振り絞って、叫んだ。
「オーマイガー! ヘルプミー! ポリース! パトカー! ピーポーピーポー! 助けて! 岡山弁で言うと『おえりゃあせんのぉ!』ってことじゃけぇ!」
半泣きで、ありったけの知ってる英語と擬音語、そして岡山弁まで叫びながら、両手をぶんぶん振って、まるで踊っているかのような奇妙なジェスチャーを繰り出した。
多分、男たちは「こいつ、頭おかしいんじゃないか?」と思ったに違いない。
だが、運命は、なぜか俺に味方した。
いや、俺の日頃の行いが良かったのか、それとも単に天が俺にまだ生きていてほしいと願ったのか、はたまた、俺の奇妙な舞が彼らを困惑させたのか。
まさかの――ピーポーピーポー!という、あの聞き慣れたパトカーのサイレンの音が、背後から聞こえてきたのだ。
それも、かなりの大音量で。
まるで、俺の願いが物理的に具現化したかのように。
男たちは、ギョッとした顔で互いを見合わせると、舌打ちを残し、蜘蛛の子を散らすように路地の奥へと散っていった。
鉄パイプのピーマンが、地面にポトッと落ちた。残されたのは、恐怖で青ざめた母娘と、腰が抜けてその場にへたり込み、息も絶え絶えに「助かった……」と呟く俺だけ。
俺は震える足で立ち上がり、必死のジェスチャーと、片言のルーマニア語(「ドナ……ムルツメスク……ブナズィア……」という支離滅裂なものだった)と、英語で話を聞いた。母親は怯えた顔で、幼い娘を抱きしめながら、か細い声で答えた。
「夫が失業中に病で亡くなり、家賃が払えなくなって家を追い出された。親戚も、頼る人もいない」
俺の耳には、その言葉の半分も入ってこなかったが、彼女の顔に刻まれた絶望と悲しみは、痛いほど伝わってきた。
彼女の目は、まるで、この世の全てに裏切られたかのように曇っていた。
そして、しがみつく若い娘のイオナ。
彼女の大きな瞳は、恐怖の代わりに、今はただ、寂しさと不安で満たされていた。
まるで、拾われたばかりの子猫のような、助けを求める目だ。
(どうしよう……俺、何もできない……でも、この二人をこのまま放っておくわけには……)
東京なら、すぐに警察に通報して、あとはプロに任せるだろう。
だが、ここはルーマニア。
言葉も通じない。頼れる人もいない。
俺にできることなんて……。
いや、待てよ。
俺には、仮設事務所があるじゃないか!
家具も何もない、元クリーニング店だけど!
気がつけば、俺は言っていた。
「……Come with me」
俺の「仮設事務所(元クリーニング店)」を指さしながら。
なぜか、その時だけは、ルーマニア語の単語が、スラスラと出てきたような気がした。
いや、完全に気のせいだ。
母親のエレナは、最初、戸惑ったような顔をしていたが、俺の真剣な、そして何より途方に暮れたような顔を見て、何かを感じ取ったようだった。
娘のイオナは、俺の指差す方向を、不思議そうに見つめている。
そのきれいな手が、母親の服をぎゅっと握りしめている。
こうして――俺、エレナ、そして娘のイオナの奇妙な共同生活が、ルーマニアという異国の地で、突然始まったのだった。
事務所か、家か、それとも難民キャンプか、それとも俺の精神崩壊が生み出した幻影か。
わけが分からないが、なぜか俺の生活は、これまで感じたことのない、少しだけ、あたたかいものになった気がした。
段ボール箱のデスクの隣に、イオナが描いたと思われる、下手くそな虹の絵が貼られている。
それが、俺のブカレストでの唯一の彩りだった。
夜、ウイスキーを飲む俺の隣で、イオナが段ボール箱に絵を描き、エレナが片言の英語でルーマニアの民話を語ってくれる。
その声は、俺の孤独な夜に、ささやかな光を灯してくれた。
そして、この生活が、新たな地獄の始まりなのか、それとも奇跡の序章なのか、俺にはまだ判断できなかった。
ただ、一つだけ確かなのは、俺の「ルーマニア現地法人・準備室室長(仮)」としての任務は、会社の業務だけでなく、人生という壮大なクエストへと、静かに、そしてカオスにシフトしていったということだった。
長峰さん、俺、頑張ってますよ。たぶん。
吸血鬼にはまだ会ってないし、ピーマンの鉄パイプを持ったヤクザにも二度と会ってないし。




