第12話 海外へ そして置き去りに
関西国際空港の喧騒の中、俺はパスポートをガチガチに握りしめていた。
まるで、それが俺の命綱であるかのように。
表紙は汗でじっとり湿り、顔写真の俺は、死刑宣告でも受けたかのように青ざめて写っていた。
「おい青島、そんなに握りしめてたら、汗でふやけるぞ。国際的な書類をダメにしたら、お前、今度は地球の裏側に島流しだぞ」
隣で、木下先輩があくびをしながら言う。
彼はまるで近所のコンビニにでも行くかのような軽装だ。
ヨレヨレのTシャツに、どこで買ったのか分からない謎のアロハ柄ハーフパンツ。
手にはスポーツ新聞。
これで本当に海外出張に行く男か?
俺が、スーツにネクタイで、パンパンに膨らんだビジネスバッグを抱えているのとは大違いだ。
「……だって、俺、海外なんて初めてで。しかも東欧ですよ? マフィアとか、ヴァンパイアとか、本当にいるんですかね?」
俺は不安で震える声で尋ねた。
出発前に見たB級ホラー映画のせいで、ルーマニアは吸血鬼の巣窟だと信じ込んでいたのだ。
「だろうな。顔に書いてある。お前のそのヒヨコみたいな顔は、どの国に行ってもカモにされるぞ」
十数時間のフライトは、俺にとって拷問そのものだった。
機内食はなぜかカレー味ばかりだし、隣の席のおばあちゃんが、延々とルーマニア語で話しかけてくる。
笑顔で「イエス!」としか返せない俺は、途中から自分の存在意義すら分からなくなった。
そしてようやく、俺たちが降り立ったブカレストの空港は、どんよりとした曇り空の下、古びたコンクリートの塊のように鎮座していた。
空気は重く、社会主義時代の色が、まるで泥絵の具のように街の至る所にこびりついているようだった。
(長峰さん、見てますか? 俺、生きてますよ! 空港までたどり着いたぞ!)
心の中で、遥か彼方の神戸にいるはずの長峰幸に念を送る。
彼女の「ちゃんと帰ってきてよね」という言葉だけが、俺の心の支えだった。
「さて、まずは挨拶回りだ。最初のクエストは情報収集と決まってる」
ホテルに荷物を放り込むと、木下先輩はすぐに俺を促し、在ルーマニア日本大使館へと向かった。
大使館は想像以上に立派な建物で、ようやく日本の文明に触れた気がして、俺は思わず涙がこみ上げた。
そこで俺たちを出迎えたのは、大場雅人と名乗るエリート然とした三等書記官だった。
ピシッとしたスーツに七三分けの髪型、そして神経質そうなメガネ。
彼は、東京本社の長嶋や長谷川をさらに煮詰めて凝縮したような、完璧な「上から目線」の塊だった。
「安宅興商さんですね。わざわざこんな辺鄙な場所まで、ご苦労様です。で、どのようなご用件で?」
彼の声は、まるでガラス板をこするように冷たい。
俺たちが、ルーマニア産の高品質な羊毛を直接買い付けに来たという無謀な計画を話すと、彼の目の色が変わった。
驚き、というよりは、憐憫と嘲笑が入り混じったような色に。
「……正気ですか? あなたたち。お目当ての国営企業『ロム・テクスティル』は、筋金入りの役所仕事ですよ。役人どもは賄賂まみれ、時間厳守の概念は皆無、まともに交渉できた日本の会社なんて、今まで一つもありませんよ。まるで、生きたままブラックホールに飛び込むようなものですよ。まあ、ご健闘をお祈りします。せいぜい、無事に帰ってこられることを」
まるで呪いの言葉だ。
彼の言葉は、俺の頭の中に『ロム・テクスティル』という名の「絶望ダンジョン」のイメージを鮮明に描き出した。
最初のダンジョンは、相当な難易度らしい。しかも、ボスは賄賂好きの役人か……。
そして翌日、俺と木下先輩は、問題の国営企業へと乗り込んだ。
大使館の「ブラックホール」という言葉がぴったりな、石造りの、やけに威圧感のある建物。
正面の扉は、まるで中世の城門のように重厚で、開けるのにやたら力がいる。
入るとすぐに、薄暗い廊下と、無数の扉が並んでいた。
受付らしい場所で、どうにか英語で用件を伝えると、受付の女性は鼻で笑い、電話で何やらルーマニア語をまくし立てた後、「あっち行け」とばかりに指を差した。
案の定、たらい回しにされ、約束していたはずの担当者は現れない。
俺たちは、まるで罪人かのように、硬い木製の椅子が並んだ待合室に座らされた。
椅子は座面に謎のシミがついていて、触るのもためらわれる。
壁には古びたポスターが貼られ、時計の針はなぜか時々逆走しているように見えた。
一時間……二時間……。
携帯の電波も悪く、やることがない。
俺は隣で瞑想でもしているかのように静かに目を閉じている木下先輩を盗み見た。
彼は全く焦っている様子がない。
まるで、この待機時間が予定調和であるかのように。
「木下さん、これ、やっぱり……」
俺が焦り出すのをよそに、木下先輩は静かに目を閉じたまま、ボソッと呟いた。
「焦るな。これが、この国のやり方なんだよ。相手に『時間』という無限の資源を消費させ、精神的に追い詰める。一種の揺さぶりだ。この椅子も、座り心地が最悪だろ? あれも戦略だ」
戦略だと?
この座り心地の悪い椅子が?
俺の尻はすでに悲鳴を上げている。
こんな戦略、勘弁してくれ。
結局、担当者が現れたのは、約束の時間から三時間も過ぎてからだった。
「おい、あなたたち、日本人?」
いかにもやる気のなさそうな中年男で、目にはクマができていて、昨日徹夜で酒でも飲んだのかという顔つきだ。
彼はこちらを見るなり、あからさまに嫌そうな顔をして、俺たちの話もろくに聞こうとしない。
俺が拙い英語で、当社の素晴らしい技術と、御社の高品質な羊毛を組み合わせれば、世界市場に……と熱弁を奮うも、担当者はあくびをしながら、腕時計をチラチラ見ているだけだ。
まるで、目の前で子犬がキャンキャン吠えているのを無視しているかのようだ。
これはもうダメだ。俺は頭を抱えた。
このダンジョン、クリア不可能だ。
帰国したら、木下先輩に「お前、なんでFランなんだよ!」と怒鳴られ、岡山からさらに南の島へ流されるに違いない。
そう思った、その時だった。
「まあ、今日はこのくらいにしましょう」
木下先輩は、あっさりとそう言って立ち上がった。
俺は「え? もう終わりですか?」と目を見開いた。
3時間待って、何も進展なし?
木下先輩は、カバンからごそごそと何かを取り出した。そ
れは、プラスチックボトルに入った現地の安酒『ツイカ』と、カートン入りのタバコだった。
彼はそれらを担当者の机に「ドン」と音を立てて置いた。
「……なんだ、これは?」
担当者は、怪訝そうな顔でボトルを見つめる。
「まあ、日本のやり方ってやつですよ。日本の会社は、ねぎらいの気持ちを表すのに、ちょっとしたものを贈る習慣があるんです。これは、ほんの気持ちです」
木下先輩は、そう言ってニヤリと笑った。
そして、なぜか俺にウィンクした。
俺は内心、「これ、賄賂じゃね!?」と叫びそうになったが、口を閉じた。
「今日は、あなたと友達になりに来ただけだ。ビジネスの話は、また明日、ゆっくりと」
木下先輩の言葉は、なぜか担当者の心を掴んだようだった。
担当者はツイカのボトルを手に取り、ラベルをじっと見つめている。
そして、少しだけ、口元が緩んだように見えた。
翌日、俺たちが再び『ロム・テクスティル』を訪れると、昨日とは打って変わって、あの担当者が笑顔で出迎えてくれた。
いや、笑顔どころか、満面の笑みだ。
まるで、俺たちが旧知の友であるかのように、片言の日本語で「コニチワ!アオシマサーン!キノシタサーン!」と叫びながら、満面の笑顔で手招きしている。
「ようこそ! 昨日はどうも! 素晴らしいお酒をありがとう!」
どうやら、昨夜の『プレゼント』が効いたらしい。
いや、効きすぎじゃないか!?
彼は堰を切ったように、この非効率な国営企業を変えたいこと、上質な羊毛が国内で眠ったままになっていることを語り始めた。
その目は、まるで子供のようにキラキラと輝いている。昨日の「やる気ゼロ」のオーラはどこへ行ったのか。
「日本の技術と品質管理があれば、我々の羊毛はもっと世界で評価されるはずだ!ぜひ、御社と組みたい!」
そして、信じられないことに、その日のうちに、俺たちは高品質な羊毛の独占交渉権を獲得した。
マジかよ……。
この人、何者なんだ?
あの難攻不落と言われたダンジョンを、たった二日で、しかもこんな裏技みたいな方法で攻略してしまった。
木下先輩は、ただのダルいオッサンじゃなかった。
まるで、どんな状況でも活路を見出す、伝説のギャンブラーみたいだ。
俺は、感動で震えながら、木下先輩を尊敬の眼差しで見つめた。
興奮冷めやらぬまま、本社に契約成功の第一報を入れる。
「ブカレストの 木下と青島です! ロム・テクスティルとの独占交渉権を獲得しました!」
電話口の向こうで、本店の人間が驚いているのが伝わってきた。
いや、驚愕しているのが聞こえる。
「ば、馬鹿な!? ロム・テクスティルだと!? あのロム・テクスティルを!?」
役員の裏返った声が、受話器から漏れ聞こえてくる。
「よくやった、木下、青島! まさに快挙だ! 本社の誰もが無理だと思っていたぞ! 特に、あの青島が……いや、これはまさに奇跡だ!」
俺は、一瞬だけ褒められたことに舞い上がった。
まさか、あの『青島が』という部分が強調されていたとは気づかずに。
だが、その喜びも束の間、電話口の役員は、非情な言葉を続けた。
それは、俺の人生で最も理不尽で、最も残酷な通告だった。
「ついては、ブカレストに仮設事務所を設置する! ただし、人員は最小限でいく。木下はすぐに岡山へ戻り、後方支援に回れ。ブカレストには、青島が一人で残って事務所の立ち上げと実務を行え。いいね? これは、君の成長のためだ」
……え?
嘘だろ……?
俺が、この言葉もろくに通じない未開の地で、一人で?
俺の頭の中には、さっきまで響いていた長峰の声が消え去り、「ファミチキください!」と叫びながら、吸血鬼に追いかけ回される自分の姿が鮮明に浮かび上がった。
一人だ。
誰の助けも呼べない。
ここには、木下先輩のような奇跡のギャンブラーもいない。
俺が呆然としていると、木下先輩は俺の手から受話器を奪い取り、「承知しました。青島も頑張ります」とあっさり応えた。
おい、勝手に「頑張ります」とか言うな!
俺は頑張れない!
俺は「助けてください!」と叫びたかったが、声が出なかった。
その日の夕方、空港へと向かう木下先輩は、いつもと同じようにニヤリと笑った。
その顔は、まるで、俺を置き去りにすることを楽しんでいるかのように見えた。
「まあ、これも商社マンの宿命だ。お前ならやれるだろ。Fラン大の底力を見せてやれ」
それだけを言い残し、彼はあっさりと出国ゲートの向こうに消えていった。
まるで、俺の夢の中に現れた幻だったかのように。
取り残された俺は、ブカレストの空港のベンチに座り込み、天井を仰いだ。
(長峰さん……「変なものに手を出さないで」って言ってたけど、今、一番の変なものって、俺のこの現状じゃないですか……!?)
俺の周りには、もう誰もいない。
たった一人、広大なルーマニアの大地に、俺は放り出されたのだ。
そして、その夜、ホテルの部屋で、俺は初めて、ルーマニア語の辞書を真剣に読み始めた。「パンをください」
「助けてください」
「吸血鬼はいませんか?」
……俺の異国のダンジョン生活は、まだ始まったばかりだった。




