第七話「地下最深部」
世界が、崩れていた。
爆発の衝撃から、ようやく耳鳴りが薄れ始めた頃。
ヴィンター・ノイマンは、階段の手すりをつかんで立ち上がった。
肺が痛い。
喉の奥に粉塵の味が広がっている。
「……生きてるか」
自分に向けて言ったつもりの言葉に、すぐそばから返事があった。
「生きてるよ。ギリギリだけど」
カリーナ・パールヴァティが、壁に背を預けて座り込んでいた。
肩の包帯がうっすらと赤く染まり、髪には粉塵と煤がまぶされている。
彼女は、冗談を言う余裕が残っていることに自分で驚いているような顔をしていた。
「よかった」
ヴィンターは、短くそれだけ言った。
「うん。ここまで来て死んでたら、エリカにめちゃくちゃ怒られるしね」
カリーナは、ゆっくりと立ち上がりながら笑う。
足元はまだふらついていたが、それでも前に進む意思ははっきりしていた。
階段の下を見下ろすと、そこには黒く焼けただれた空間が広がっていた。
ついさっきまで、そこには培養槽とエリカがいた。
今は、赤い非常灯の残骸と、溶けたケーブルと、割れたガラスの破片が散らばっているだけだ。
ヴィンターは、しばらくそこから目を離せなかった。
「……行く?」
カリーナが、そっと問う。
「ここに長居したら、上から第二波が来るよ」
「わかってる」
ヴィンターは視線を切り離すように階段を背に向けた。
「行こう」
施設全体が、かすかな軋みを上げていた。
爆発は中枢だけにとどまらず、周辺の構造にも少なからずダメージを与えている。
コンクリートの亀裂から、細かな砂がぱらぱらと落ちる。
「上まで持つ?」
カリーナが天井を見上げる。
「持たせるしかない」
ヴィンターは淡々と言う。
「まあ、それもそうだね」
カリーナは肩をすくめた。
二人が上階へ向かって歩き始めたときだった。
廊下の向こうから、別の一団が姿を現した。
黒い戦闘服に重装備。
ヘルメット越しのバイザーに反射する赤い非常灯の光。
軍の特殊部隊だった。
「――止まれ!」
先頭の隊員が銃を構える。
カリーナも反射的に銃を向けかけたが、ヴィンターがその腕を押さえた。
「撃つな」
彼はそう言って、一歩前に出る。
隊員たちの一人が、耳元の通信機に手を当てて何かを確認する。
すぐに、少し高い階級章をつけた男が前に出てきた。
「……被験体No.07か」
その男はヴィンターを見据えた。
「そして情報部のパールヴァティ中尉」
カリーナは口角をわずかに引きつらせる。
「中尉って呼ばれるの、もう気分的には微妙なんだけど」
「貴様らは、軍の極秘施設を破壊し、極秘プロジェクトを台無しにした」
男は淡々と告げた。
「本来なら、その場で射殺されても文句は言えん」
「本来ならね」
カリーナが言う。
「でも、“本来”が通じない状況ってあるじゃん」
カリーナは、ヴィンターの横に立ちながら、自分の端末を取り出した。
画面には、さきほどまでコピーしていたデータのログが並んでいる。
「この塔でやってた実験の記録。被験者のリスト。軍上層部の命令書。ぜんぶフルコースで取ってあるよ」
彼女は、あっけらかんとした口調で続けた。
「しかも、外部への自動送信もセット済み。もしここで私たちが“事故死”したら、全国のメディアと、ちょっと性格悪いジャーナリストたちに、一斉送信されるようになってる」
指揮官らしき男の目が、一瞬細くなった。
「脅迫のつもりか」
「ううん。現実確認」
カリーナは笑う。
「私たちを撃つなら、どうぞご自由に。ただ、その後に起こる情報爆撃は、ミサイルよりよっぽど面倒だと思うけどね」
短い沈黙。
隊員たちの銃口は、まだ二人に向けられたままだ。
ただ、その指先には迷いも混じり始めていた。
「……上はどう言っている」
指揮官が小さく問うと、後ろの隊員が通信機に手を当てたまま答えた。
「状況継続。被験体No.07およびパールヴァティ中尉については、一時拘束も視野に入れつつ――」
そこで、通信の向こうから何か別の声が聞こえたのか、隊員は言葉を止めた。
「……了解」
短く答え、指揮官の方を見る。
「命令変更。被験体および中尉は、一時的に不問。追跡監視下に置く、とのことです」
カリーナは小さく息を吐いた。
「ずいぶんと中途半端な命令だね」
「妥協というものだ」
指揮官は冷たく言う。
「こちらも、すべてを失うわけにはいかん」
ヴィンターは、静かに隊列の隙間を見た。
「その妥協に感謝しておく」
「勘違いするな」
指揮官はヴィンターを睨んだ。
「これは貴様らのためではない。我々自身の保身のためだ」
「わかってる」
ヴィンターは、わざわざそこに感情を乗せることはしなかった。
「俺たちは行く。止める気がないなら、道を開けろ」
短い視線のぶつかり合いの末、隊員たちが左右にわずかに分かれた。
ヴィンターとカリーナは、その間を通り抜けていく。
すれ違いざま、カリーナは指揮官の横で立っていた若い隊員と一瞬目が合った。
彼の目には、恐怖と混乱と、それに混じったかすかな好奇心が浮かんでいた。
(ごめんね)
カリーナは心の中で呟いた。
(世界の汚いところを見せちゃって)
施設の上階に近づくにつれ、空気が変わってきた。
爆発の影響で、一部の壁や天井は崩れかけている。
だが、外の空気の匂いが微かに混じってきた。
「もう少しだ」
ヴィンターが言う。
「この階段を抜ければ、地上に出られる」
「出た先に戦車とか待ってない?」
「いたら倒すしかないな」
「さらっと言わないで」
やがて、重い扉が前方に現れた。
錆びたハンドルを力いっぱい回すと、外側から冷たい風が流れ込んでくる。
二人は、眩しさに目を細めながら外に出た。
山の空は、灰色の雲に覆われていた。
遠くで煙が上がっている。
おそらく、さきほどの爆発で施設の一部が吹き飛んだのだろう。
地面には、崩れ落ちたコンクリートとねじ曲がった鉄骨が散乱している。
だが、その隙間から、かすかに青空が見えた。
カリーナは、息を深く吸い込んだ。
「……空気、まずい」
「山の空気に失礼だぞ」
「粉塵と爆薬の匂いが抜けてからもう一回来たいね」
ふと、山の麓の方に目をやる。
そこには、小さな人影がいくつも見えた。
白衣を着た者。軍服の者。一般人の服装の者。
彼らは、まるで夢から覚めたばかりのような足取りで歩いていた。
座り込んで泣いている者。
誰かを呼びながら周囲を探している者。
ただぼんやりと空を見上げている者。
彼らは皆、先ほどまで他人の記憶に侵食されていた感染者たちだ。
今、その頭の中から、余計な声は消えている。
「……戻ったんだね」
カリーナが呟く。
「エリカが、全部止めてくれた」
ヴィンターは麓の光景を見下ろしながら、静かに言った。
どの顔にも、名前にも、エリカ自身は知らないはずだ。
それでも、彼女は自分の命を削って、彼らの意識を守ろうとした。
「行こう」
ヴィンターは踵を返した。
「ここに長居したら、第二ラウンドが始まる」
「そうだね」
カリーナは、最後に一度だけ振り返った。
山の中腹。
瓦礫の向こうに、かつて通信塔があった場所がある。
そこにはもう、鉄塔も施設も存在しない。
ただ、黒く焼けた跡が残っているだけだ。
その下に、エリカと、第七通信実験分隊のすべてが埋まっている。
「エリカ」
カリーナは、小さく名前を呼んだ。
「……ありがとう」
風が吹いた。
返事の代わりに、暖かい空気が頬を撫でる。
それを、彼女は一方通行の挨拶だと理解している。
それでも、それで充分だと感じた。
第七話 終




