第六話「最後の選択」
準備にかかる時間は、思ったより短かった。
ヴィンター・ノイマンは、無駄のない動きで装備を整える。
バッグの中身を確認しながら、必要なものだけを選び出していく。爆薬、起爆装置、予備マガジン、最低限の工具。
「こんな状況で“最低限”って単語使えるの、すごいと思う」
カリーナ・パールヴァティは、半ばあきれ、半ば感心して言った。
彼女もまた、自分の端末に保存されたデータを外部メモリへコピーし終えたところだった。
第七通信実験分隊に関する記録。記憶転送実験のログ。被験者のリスト。軍上層部の命令書。
本来なら、日の光を見ることのなかったはずの情報たち。
「全部持ち出せるの?」
「持ち出すのが無理でも、ばらまく準備はできてる」
カリーナはメモリを指で弾いて見せた。
「もし私たちがここで死んでも、一定時間後にネットワークに自動送信されるようにしてある。軍が嫌がりそうなとこに、まとめてね」
「……性格が悪いな」
「褒め言葉として受け取っとく」
培養槽の中のエリカ・ノイマンは、先ほどよりも明らかに消耗していた。
『ふたりとも、準備できた?』
青い瞳には、それでもまだ光が残っている。
「ああ」
ヴィンターはエリカの方へ向き直った。
「システムの中枢は、ここからどれくらいだ」
『この部屋の奥に、制御端末がある。お兄ちゃんのバッグの爆弾なら、たぶん一撃で全部止まるよ』
「“たぶん”か」
『科学に絶対はないんだよ』
エリカは、少しだけ得意げに笑う。
『でも、ここまでやってきたお兄ちゃんは、もう“たぶん”に付き合うしかないでしょ』
「……確かにな」
ヴィンターの口元にも、わずかに笑みが浮かぶ。
天井が、かすかに揺れた。
遠くで鈍い爆発音がする。
音と振動の感じからして、施設の外側、もしくは上層が攻撃されているのだろう。
「軍の連中、動き出したね」
カリーナが顔を上げた。
「爆撃の前に特殊部隊で片付けて、証拠を回収しようって魂胆かな。欲張りだね、ほんと」
『入口側のセンサー、反応がある』
エリカが言う。
『武装した人が何人も、中に入ってきてる』
「予想どおりだ」
ヴィンターは短く言った。
「カリーナ。お前は入口であいつらを足止めしろ。俺は中枢を壊す」
「単独行動?」
カリーナは眉を上げる。
「誰かと組んでやるような性格だったっけ?」
「いつもはそうだが、今回は例外だ」
「勝手なこと言うなぁ」
それでも、彼女はすぐに頷いた。
「いいよ。じゃあ私は“時間”担当ね」
カリーナの声は軽いが、その目は真剣だった。
「できるだけ長く、ここに誰も入れないようにしてあげる。その間に、エリカとシステムを終わらせて」
「ああ」
ヴィンターは頷き、もう一度エリカを見る。
「行ってくる」
『うん』
エリカは、小さく頷いた。
『待ってる』
ヴィンターが部屋の奥へ姿を消すのを見届けてから、カリーナは深く息を吸った。
「さてと」
自分に言い聞かせるように呟く。
「かっこいいところ見せないとね」
培養区画の入口へ向かいながら、彼女は肩と首の筋をほぐした。
さっき受けたダメージは完全には抜けていないが、動けない程ではない。
頭の中のざわめきは、今のところ静かだった。
エリカが抑えてくれているおかげだろう。
「エリカ」
振り返りもせずに、声だけを飛ばした。
「もしまた私の頭の中で誰かが騒ぎ始めたら、遠慮なく殴って」
『わかった』
エリカの声が返ってくる。
『でも、殴るのはお兄ちゃんにやってもらう』
「それはやめて。真面目に死ぬ」
培養区画と外の廊下を繋ぐ扉の前に立つ。
向こう側の空気が、わずかにざわついているのが分かった。
足音。金属が擦れる音。短い無線のやり取り。
カリーナは、安全装置を外し、銃を構えた。
「さて、監視役の本気、見せてあげるか」
ヴィンターは、薄暗い通路を一人で進んでいた。
奥へ進むほど、機械の数は増えていく。
壁一面に並んだ端末。その間を縫うように、無数のケーブルが床を這い、天井を伝っている。
通路の先には、ひとつの部屋があった。
中は、簡素なサーバールームに見えた。
しかし、よく見ると、その中心には他とは違う形の装置が鎮座している。
球形の透明な容器。その内側を、脈動するような光が満たしていた。
脳の神経網を模したような複雑な模様が、容器の内側に絡みついている。
「これが……」
エリカの「脳」の延長線。
死者の記憶データが集約され、再配分される中枢。
『お兄ちゃん。見える?』
頭の中に、エリカの声が直接響く。
「ああ」
ヴィンターは頷いた。
「ここを壊せばいいんだな」
『うん』
エリカの声は、少しだけ震えていた。
『そこに爆弾を仕掛けて。爆発すれば、システムは全部止まる。世界中にばらまかれてる記憶データも、これ以上は増えない』
「それで、お前は」
『消える』
エリカは、穏やかに言った。
『でも、それでいいの』
ヴィンターは、バッグから爆薬を取り出した。
手のひらより少し大きい、無骨な金属の塊。
それを慎重に、中央装置の基部に固定していく。
手順は身体に染みついている。考える余地はほとんどない。
考えなければいけないのは、別のことだ。
「エリカ」
『なに?』
「お前は……怖くないのか」
『怖いよ』
エリカは、素直に答えた。
『すごく怖い』
一呼吸おいて、続ける。
『でもね、お兄ちゃん。もっと怖いのは、“私じゃなくなる”こと』
ヴィンターは、作業の手を止めた。
『今はまだ、自分の名前も覚えてるし、お兄ちゃんの顔もわかる。楽しかった思い出も、悲しかったことも、ちゃんと“私”のものだって思える』
声の向こうで、彼女が微笑んだ気配がした。
『でも、このまま続けてたら、いつか境界が消えちゃう。みんなの記憶と混ざって、“誰かの残響”の一部になる。そうなったら、もう私は私じゃない』
「……」
『それが、一番嫌なんだ』
爆薬の設置は終わりかけていた。
最後のワイヤーを繋ぎ、起爆装置とのリンクを確認する。
「わかった」
ヴィンターは、小さく頷いた。
「お前の望みは、ちゃんと聞いた」
『ありがとう』
エリカの声が、ほんの少しだけ明るくなる。
『ねえ、お兄ちゃん』
「なんだ」
『最後に、わがまま言ってもいい?』
「今さらだな」
『ふふ。そうかも』
一瞬だけ笑ってから、エリカは言った。
『“またね”って言って』
ヴィンターは、息を飲んだ。
「……」
『“さよなら”は、やっぱり嫌だな』
エリカは続ける。
『だって、“さよなら”って、二度と会えないみたいでしょ。でも、もしかしたらさ、どこかでまた会えるかもしれないじゃない? 違う世界かもしれないし、違う形かもしれないけど』
言葉が、ゆっくりと紡がれていく。
『だから、“またね”って言ってほしい』
起爆装置のスイッチに、指が触れていた。
ヴィンターは目を閉じ、短く息を吸う。
「……わかった」
目を開けると、視界は不思議なほどクリアだった。
「またな、エリカ」
『うん』
エリカの声が、嬉しそうに震える。
『またね、お兄ちゃん』
その瞬間、培養区画の入口で、銃声が重なった。
「ここから先は、通さないって言ったでしょ!」
カリーナの怒鳴り声が、廊下に響く。
武装した軍の特殊部隊員たちが、狭い通路をじりじりと前進してくる。
彼らの装備は重く、訓練された動きでバリケードを崩そうとしている。
カリーナは遮蔽物の影から身を乗り出し、正確に狙いを定めて引き金を引いた。
一人、二人と前列が倒れる。
だが、後ろからすぐに補充される。
「しつこいんだよ、もう!」
弾倉が空になったので、彼女は素早く交換した。
肩から、鈍い痛みが走る。
さっき受けた傷だ。血が滲み、腕の動きが鈍くなっている。
それでも、彼女は前に出るのをやめなかった。
(時間稼ぎ)
それが、今の自分の役割だ。
ここで自分が倒れれば、軍はすぐに培養区画に雪崩れ込む。
そうなれば、ヴィンターは中枢で爆弾を設置するどころではなくなる。
エリカも、途中で止められてしまうかもしれない。
「まだ……」
カリーナは、歯を食いしばる。
「まだ行かせない……!」
施設全体が、かすかに震えた。
天井のどこかで、重い音が響いている。
外からの攻撃かもしれないし、内側のシステムの悲鳴かもしれない。
カリーナは、一瞬だけ後ろ――培養区画の方を振り返りたい衝動に駆られた。
だが、視線は前に固定した。
(あの子は、あの子でやることをやってる)
そう思った。
(私は、私の場所でやる)
ヴィンターの手元で、起爆装置のタイマーが作動した。
表示された数字は、三分。
「少し短くない?」
自分に問いかけるように呟く。
三分あれば、ここから培養区画へ戻り、カリーナと合流し、出口へ向かって走れる。
足がもつれなければ。途中で敵に捕まらなければ。
「十分だ」
自分に言い聞かせるようにそう言い、ヴィンターは踵を返した。
タイマーの数字が、ゆっくりと減っていく。
2:59
2:58
2:57
カリーナの前で、部隊員の一人が突入を試みた。
彼女は咄嗟に壁際に身を滑らせ、飛び込んできた男の足を払う。
倒れた頭部に向けて、一発。
「ごめんね。これは仕事だから」
自分でも何を言っているのか分からない。
ただ、殺すことと殺されることの境界線が、自分の引き金ひとつで決まるという現実だけが、妙に鮮烈だった。
2:10
ヴィンターは、通路を全力で駆けていた。
足音がコンクリートに響くたび、肺が焼けるように痛む。
だが、足は止まらなかった。
途中、壁が揺れ、天井から粉塵が降り注ぐ。
「……っ」
崩れかけた梁を飛び越え、曲がり角を滑るように曲がる。
頭の片隅で、別の時間の記憶がちらついた。
訓練場。実戦。銃声。爆発。
体が勝手に動くのは、その時代の記憶がまだ身体に残っているからだ。
誰の記憶かは、分からない。
だが、それに今さら意味はない。
今、この足で走っているのは、自分だ。
1:20
培養区画の入口付近は、煙と火花で満ちていた。
「……遅い」
カリーナは、たぶん冗談のつもりでそう言った。
壁に背を預け、肩で息をしている。
周囲には気絶している隊員と、倒れた隊員が混在していた。
「まだ動けるか」
ヴィンターが問う。
「動けるように見えない?」
「五割くらいだな」
「じゃあ十分、合格点だよ」
カリーナは笑い、銃を構え直した。
「あと何秒?」
「一分を切った」
「ギリギリまでここで粘って、あとは全力で逃げる、って感じ?」
「ああ」
ヴィンターは頷く。
二人は、最後の一斉射撃に備えて体勢を整えた。
0:40
廊下の奥で、特殊部隊員たちが再集結している気配がする。
彼らもまた、仕事をしているだけなのだろう。
「こういうとき、いつも思うんだよね」
カリーナがふいに口を開く。
「同じ人間なのに、なんでこんなに立ち位置違うんだろうって」
「答えを出すには時間が足りないな」
ヴィンターは言う。
「じゃあ結論は保留で。とりあえず、今は生き延びること考えよ」
0:20
「そろそろだ」
ヴィンターが言う。
「ここは切り上げるぞ」
「了解」
カリーナは最後に一発だけ牽制射撃をしてから、ヴィンターと共に逆方向へと駆け出した。
後ろから怒号と足音が追ってくる。
だが、それを振り返る余裕はない。
0:10
階段を駆け上がる足音と、心臓の鼓動が重なる。
カリーナは、自分の足が自分のものではないように感じながら、それでも前へ前へと走った。
「ねえヴィンター」
「何だ」
「もし生きて出られたらさ――」
「生きてから言え」
「それもそうだね」
短い会話が、走るリズムを崩さないように、慎重に交わされる。
0:03
0:02
0:01
爆発が起きたのは、二人が階段を曲がった直後だった。
鈍い衝撃が、施設全体を揺るがした。
轟音とともに、下の階から凄まじい圧力の波が押し寄せる。
二人は反射的に壁際に身を押しつけ、腕で頭をかばった。
熱と風と粉塵が一度に吹き上がり、階段の踊り場に押し寄せてくる。
「っ……!」
耳鳴りがする。
視界が一瞬白く飛び、続いて暗くなる。
その爆発は、エリカが繋ぎとめていたすべての回線を、一瞬で切断した。
培養槽の中で、透明な液体が大きく揺れた。
エリカは、最後の瞬間まで意識を保っていた。
『……お兄ちゃん』
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
『ちゃんと、生きてね』
液体が赤く染まり、ガラスにヒビが入る。
『またね』
その言葉に続く音は、もう誰にも聞こえなかった。
山の外。
遠くの街で、誰かがふっと顔を上げた。
さっきまで頭の中を占めていた「他人の」記憶が、雪が溶けるように退いていく。
自分の名前。
自分の家。
自分の好きだったもの。
それらが、ゆっくりと戻ってくる。
誰かの人生の断片を抱え込んでいた脳内から、余計なものが抜け落ちていった。
それを失ったことで、何かを喪失したように感じる者もいた。
だが、それ以上に、自分が自分に戻った安堵が大きかった。
彼らは知らない。
その裏で、ひとりの少女が静かに消えていったことを。
階段の踊り場で、ヴィンターは身体を起こした。
「……生きてる?」
カリーナの声が聞こえる。
「ああ」
自身の声も、ひどくかすれていた。
粉塵が舞う中で、二人は何とか立ち上がる。
下の階を振り返ると、そこには黒く焼け焦げた空間が口を開けていた。
さっきまでエリカがいた方向からは、もう何の気配もしない。
「終わった、のかな」
カリーナが呟く。
「ああ」
ヴィンターは、短く答えた。
「終わった」
それは、おそらく嘘ではなかった。
だが、「終わった」と言うには、胸の中があまりに重すぎた。
第六話 終




