第五話「増殖する死者」
静けさが、嘘のようだった。
さっきまで頭の中を引き裂いていた無数の声が、遠ざかっている。
カリーナ・パールヴァティは、まだ床に片手をついたまま、荒い呼吸を落ち着かせようとしていた。
「……生きてる?」
背後からかかる声に、彼女は顔を上げる。
培養槽の中のエリカ・ノイマンは、ひどく疲れた顔をしていた。
透明な液体は濁り、ところどころ赤みを帯びている。
『うん。なんとかね』
エリカは冗談めかして言うが、その声には力がなかった。
『カリーナさんの頭に入り込んでた記憶データ、だいぶ削ったから』
「“だいぶ”って言い方が怖いんだけど」
カリーナは苦笑しようとしたが、それすら上手くいかなかった。
さっきまで、自分の頭の中は地獄の見本市だったのだ。
名前の違う「私」が何人も叫び、別々の人生の断片がぶつかり合い、擦り切れそうになっていた。
今は――
静かだ。
うっすらとした頭痛は残っているが、意識は自分のものだと感じられた。
「ありがとう。エリカ」
心からそう言えた。
『どういたしまして』
培養槽の向こうで、エリカが微笑んだ。
『お兄ちゃんの大事な人だから。守らないと』
「……その言い方、ちょっと照れるんだけど」
カリーナは頬を指でこすり、わざとそっぽを向いた。
一方、ヴィンター・ノイマンは、部屋の隅の端末に視線を向けていた。
「カリーナ。これを見ろ」
呼びかけに、彼女はふらつきながらもヴィンターの隣に立った。
画面には地図が表示されている。
中心には、この山岳通信塔。
そこから、赤い円が同心円状に広がっていた。
「これ……」
「救難信号の到達範囲だ」
ヴィンターは静かに言った。
「最初はこの施設の周囲だけだった。今は――」
彼が操作すると、時間軸を示すバーが動き、それに合わせて赤い円がじわりと広がっていく。
「市街地に届いてる……」
カリーナは画面の一角を指さした。
「この辺り、基地も街も病院もあるじゃん。よりによって全部混在エリアとか、勘弁してよ……」
端末の別ウィンドウには、簡易報告が次々と流れていた。
〈第三前線基地にて、複数の隊員が錯乱〉
〈市街地で原因不明の集団パニック〉
〈病院から、患者と医師の異常行動報告〉
〈原因を通信障害と関連づける報道が一部で発生〉
「これ……全部、エリカのシステム由来の記憶汚染……ってこと?」
「そうだろう」
ヴィンターは目を伏せた。
『ごめんなさい』
エリカの声が、小さく割り込んできた。
『私が信号を止めなかったから。呼び続けたから』
ヴィンターは首を振る。
「お前のせいじゃない。お前は命令に従っていただけだ」
『でも――』
「悪いのは、ここまで作ったやつらだ」
ヴィンターの口調は淡々としていたが、その裏に張り詰めた感情が見え隠れしていた。
モニターがひとつ、急に別画面に切り替わった。
軍本部の会議室と思われる場所。
制服姿の将校たちが、円卓を囲んでいる。画質は悪いが、表情の険しさはわかる。
「盗聴までできるの?」
カリーナが半ば呆れ、半ば感心した声を出した。
『うん。ここ、いちおう“通信実験分隊”だから』
エリカは苦笑する。
『軍の主要回線には大体アクセスできるよ』
〈感染者、推定千名以上〉
〈市街地への波及も確認〉
〈現時点では、メディアには“通信障害による集団ヒステリー”として説明〉
将校のひとりが報告を読み上げている。
〈このままでは隠しきれません〉
〈第七通信実験分隊の存在が明るみに出れば、我々は――〉
「黙れ」
別の将校が、苛立ったように言葉を切った。
〈施設ごと消す。予定を繰り上げろ〉
〈すでに爆撃計画は立っている。周辺住民には訓練とでも説明して避難させろ〉
〈内部の証拠は?〉
〈すべて灰になる〉
会議は短く、冷酷だった。
カリーナは、思わずモニターから目をそらした。
「やっぱり、そうなるよね」
「驚くようなことではない」
ヴィンターは、昔からそういう場所にいた、という顔で言った。
エリカは、しばらく無言だった。
その沈黙が、かえって彼女の疲弊ぶりを際立たせる。
『……ねえ、お兄ちゃん』
ようやく口を開いた時、その声はさっきより少し掠れていた。
『私、まだできることがあると思う』
「何をする気だ」
『外の人たちを、少しだけ守る』
エリカは、自分の頭に手を当てようとして、腕に繋がれたケーブルを意識して動きを止めた。
『私に繋がってる感染者の意識。全部、少しだけ操作できる。今までは、ただ流れてくるだけだったけど……ちょっと頑張れば、逆に信号を送れる』
「……操るつもりか」
『うん。全部とはいかないけど、近い範囲の人たちなら。軍の邪魔をさせたり、誰かを攻撃しないように抑えたり』
カリーナが口を挟む。
「でも、それやったら――」
『私の負荷は増える』
エリカは、あっさりと続けた。
『たぶん、長くはもたない』
ヴィンターは、しばらく黙っていた。
長い沈黙。
その間にも、端末の画面には「感染拡大」のレポートが流れ続けている。
「やるかどうか、決めるのはお前だ」
やがて、彼は静かに言った。
「俺が止めろと言っても、お前はやるだろう。逆に、やれと言われてもやりたくないなら、やらなくていい」
『ズルいよ』
エリカが笑う。
『そういう言い方、前から変わってない』
ヴィンターも、少しだけ口元を緩めた。
「決めろ。エリカ。これはお前の選択だ」
エリカは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
そして、ゆっくりと開く。
『やる』
迷いはなかった。
『お兄ちゃんたちがここから出るまで。外で誰かが死なないように、できるだけ』
「じゃあ、私たちはその間に出口を確保して、システムを壊す」
カリーナが言う。
「あなたが無駄死にしないようにね」
『うん』
エリカは、彼女の言葉に柔らかい微笑みを返した。
『じゃあ、始めるね』
培養槽の周囲に設置されたモニターが、一斉にノイズを走らせる。
次いで、いくつもの数字と波形が激しく動き出した。
『……っ』
エリカの身体が、ぴくりと震える。
彼女の瞳の焦点が一瞬だけ揺らぎ、すぐに戻る。
『大丈夫……まだ、いける』
同じ頃。
山を下った基地の周辺でも、異変が起きていた。
警備線の外側に、よろよろと歩いてくる人影がいくつも見える。
民間人の服を着た者。軍服のままの者。病院衣の患者らしき者。
「止まれ! ここは立ち入り禁止だ!」
警備兵が叫ぶ。
彼らは、その声を聞いているのかいないのか、ふらふらと近づいてくる。
隊員たちが構えた銃口が、わずかに震えた。
対峙しているのは、あくまで「人間」の姿をした何かだ。
やがて、その足がぴたりと止まる。
一斉に。
整列するように並んだ感染者たちが、同じ方向に顔を向けた。
基地の方ではなく、反対方向へ。
そして、何かに命じられたかのように、彼らは一斉に踵を返した。
「……逃げてく?」
警備兵のひとりが茫然と呟く。
「いや、“散ってる”のか」
指揮官が低く言う。
感染者たちは、基地から遠ざかるように散開していった。
誰かを襲うでもなく、ただ圧力を分散させるように。
別の場所。
市街地を見下ろす高台に、ひとりの男が立っていた。
彼の頭の中には、さっきまで無数の声が渦巻いていた。
戦場の記憶。銃声。爆発。誰かの叫び。
今、それが静まりつつある。
「……俺は」
男は、自分の手を見た。
そこには、まだ血の跡が残っている。
それが自分のものなのか、他人のものなのか、判然としない。
「俺は……誰なんだ?」
問いは、空に向かって消えた。
だが、さっきまであった「自分の中に他人がいる」という確かな感覚は、少しずつ薄れていく。
どこか遠くで、誰かが、繋がっている意識をまとめて握りしめている気配があった。
力尽きるまで、彼らを“人間”のままに留めようとしている存在が。
培養槽の中で、エリカは必死だった。
『う……っ』
頭の中に、膨大な数の意識が渦巻いている。
それぞれがバラバラの方向に動こうとしながら、なおもエリカという一点を通過しようとしている。
『大丈夫……まだ……』
腕に繋がれたケーブル越しに、脳へさらに信号が送り込まれる。
負荷は明らかに限界を超えつつあった。
液体は、さっきよりも赤く染まっている。
「もういい」
ヴィンターが思わず声を上げた。
「充分だ。これ以上やったら――」
『やるって、決めたから』
エリカは笑おうとするが、表情がうまく作れない。
『お兄ちゃんたちがここから出るまで。約束したでしょ』
「約束なんかしてない」
『嘘。したよ』
青い瞳が、少しだけ楽しそうに細められる。
『お兄ちゃん、いつもそうやって、私にだけ甘いんだから』
ヴィンターは言葉を失った。
それでも、時間は残酷に進んでいく。
端末の隅には、爆撃までのタイマーが小さく表示されていた。
冷たい数字が、一秒ずつ減っていく。
残り二十四時間。
爆撃という名の大きな消しゴムが、この山と、この施設と、この真実のすべてを一度に塗りつぶそうとしている。
「時間、ないね」
カリーナが深く息を吐いた。
「エリカを守ってる間に、こっちも動かないと」
「ああ」
ヴィンターは頷く。
「システムの中枢を破壊する準備に取りかかる。爆薬の設置と経路の確保だ」
「私は?」
「動けるようになったなら、上との連絡経路を確保してくれ。……それと」
ヴィンターは、カリーナの目をまっすぐ見た。
「お前の端末に残ってるデータを、全部コピーしろ。ここで何が行われていたのか、“証拠”が必要だ」
「了解。記者でも裁判でも何でも来いってくらいのデータ、まとめてあげる」
カリーナは端末を握り、少しだけ口元を引き締めた。
エリカは、そんな二人をじっと見つめていた。
『ねえ、お兄ちゃん』
「なんだ」
『ありがとう』
青い瞳が、まっすぐに彼を映す。
『私を見つけてくれて。助けに来てくれて。私を、“エリカ”として見てくれて』
ヴィンターは、少しだけ視線を逸らし、それから戻した。
「まだ何もしてないさ」
『してるよ。いっぱい』
エリカは、穏やかに微笑んだ。
『だから、次は私の番。お兄ちゃんとカリーナさんを、外に出す』
部屋の天井が、かすかに揺れた。
遠くで爆発の音がする。
軍が施設の外側から何かを始めているのだろう。
時間の猶予は、もはや「たっぷりある」とは言えない。
だが、それでも。
この短い時間の中で、三人の間に交わされた言葉と選択は、確かに積み重なっていた。
死者の通信は、ただの亡霊の囁きではない。
そこには、今も生きて、選び続けている者たちの意思が、確かに宿っている。
それを証明するかのように。
エリカは自らの意識を削りながら、外の世界へと手を伸ばし続けていた。
第五話 終




