第四話「エリカ・ノイマン」
培養槽の中の少女は、確かに笑った。
銀色の髪が液体の中でふわりと揺れる。ガラス越しに見える青い瞳は、三年という時間を挟んだとは思えないほど、まっすぐにヴィンター・ノイマンだけを見ていた。
『お兄ちゃん。やっと、来てくれたね』
その呼びかけに、カリーナ・パールヴァティは息を飲んだ。
「……お兄ちゃん?」
自分でも無意識に口にしていた。
問いかけるような視線が、隣のヴィンターへと向かう。
ヴィンターは、培養槽へとにじり寄るように歩み寄っていた。
ガラスに手を伸ばし、指先をそっと触れさせる。
「エリカ」
名前を呼んだ声は、驚くほど自然に出てきた。
「思い出した。全部……」
彼の中で、ばらばらだった断片がつながっていく。
霧の中から輪郭が現れるように、消えたはずの時間が姿を取り戻した。
まだ背の低かった頃。
街外れの公園で、二人で遊んだ日々を思い出す。
ぎい、ぎい、とブランコの鎖が鳴る。
『もっと押して! お兄ちゃん、もっと!』
銀色の髪の少女が、嬉しそうに笑っている。
『危ないだろ』
『お兄ちゃんがいるから大丈夫!』
笑い声。青い空。父と母の呼ぶ声。
夕暮れの匂い。帰り道のアイスクリーム。
ついこの前まで、確かにそこにあったはずの世界。
それが、ある日を境に、全部失われた。
白い部屋。
白衣の大人たち。
冷たいベッド。
消毒液の匂い。
父の死の報せ。母の死の報せ。
「君たちには特別な役目がある」と笑う軍人の顔。
ヴィンターは、その続きを思い出す前に、意識の奥で一度息を止めた。
「……俺たちは兄妹だった」
自分の声が、少しだけ震えていた。
「俺は、ヴィンター・ノイマン。お前の兄だ」
『うん。知ってるよ』
エリカは、当たり前のように頷いた。
『お兄ちゃんは、ずっとお兄ちゃんだった。忘れても、忘れさせられても』
カリーナは、二人のやりとりを黙って見守っていた。
「本当に……妹だったんだ」
そう言ってみると、とても陳腐な確認だった。
だが、口に出さずにはいられなかった。
「エリカ。あなた、ここで……」
カリーナは言いよどみ、ことばを選ぶ。
「ずっと、この状態で?」
『うん』
エリカは、ガラス越しに視線を巡らせた。
『私の脳は、もう普通の人間じゃないの。記憶転送システムの中核。死んだ人たちの記憶が、全部ここに集まってくる』
彼女は自分の頭に手を当てようとして、ケーブルに繋がれた腕を見て動きを止めた。
『兵士の記憶。研究者の記憶。実験された人たちの記憶。誰かの人生が、次から次へと流れ込んでくるの』
「そんなの……」
カリーナは思わず顔をしかめる。
「地獄みたいじゃない」
『最初はね』
エリカは、少しだけ笑った。
『最初は怖かった。自分が誰なのか分からなくなりそうで。頭の中でたくさんの声が喧嘩して、叫んで、泣いてて』
青い瞳の色が、少し揺れた。
『でも、だんだん慣れてきた。みんなの人生を覗き見するみたいで、楽しい時もあるよ』
彼女の表情が、ころころと変わっていく。
戦場を駆ける兵士の高揚。恋人を抱きしめる誰かの幸福。子どもを抱く腕のぬくもり。すべてが一瞬だけエリカの顔を通り過ぎる。
『戦場で仲間を守った人。大発見をして喜んでた科学者。誰かを愛して、愛された人。家族と一緒に笑ってた人……』
そのすべてが、今は彼女の中にあるのだと、エリカは言った。
「それは、お前の人生じゃない」
ヴィンターは静かに告げた。
『うん』
エリカは、素直に頷く。
『わかってる。みんなの人生は、みんなのもの。私は借りてるだけ』
彼女は、微笑みを少しだけ弱めた。
『だからね、本当はちょっとだけ寂しいの。どれだけたくさん記憶があっても、その中に“私”はひとつしかないから』
カリーナは唇を噛んだ。
この少女は、たった一人で、ここで三年間もそんな役割を担わされてきたのだ。
死者の記憶を取り込み続け、自我を削られながら、それでも笑顔を保っている。
「……ねえエリカ」
カリーナは歩み寄り、培養槽のガラスを指で軽く叩いた。
「私、カリーナ・パールヴァティ。あなたのお兄ちゃんの相棒」
『うん』
エリカはカリーナを見た。
その目は、あまりにもまっすぐだった。
『お兄ちゃんのこと、よろしくね』
「……そんなの、言われなくてもやるつもりだよ」
カリーナは照れ隠しに鼻を鳴らした。
ふと、その身体がぐらりと揺れた。
視界がぼやけ、足元が不安定になる。
頭の奥で、さっきよりも大きなざわめきがした。
「……っ」
「カリーナ?」
ヴィンターが気づいて振り返る。
カリーナは額に手を当て、眉をひそめた。
「なんか……また、声が……」
言い終わる前に、彼女の口から別の言葉が漏れた。
「敵戦力、推定――」
それは、聞いたことのない男の声だった。
カリーナ自身の声帯を使っているはずなのに、響き方が違う。
次の瞬間、その声は別のものに変わる。
「ご飯、まだ? お腹すいたよ……」
今度は幼い女の子の声。
さらに、年老いた女性のかすれた声が混じる。
「息子よ、どこへ行ったの……」
カリーナは目を見開いた。
「やめて……私じゃない……」
ヴィンターが彼女の肩を掴んだ。
「カリーナ!」
彼女の瞳の焦点が一瞬だけ外れ、すぐに戻る。
呼吸が荒くなっていた。
『汚染が進んでる』
エリカの声が、培養槽の中から聞こえた。
『通信を通じて、死者の記憶が流れ込んでる。カリーナさんの脳にも』
「止められるか」
ヴィンターが問う。
『できる。でも――』
エリカは、少しだけ視線を伏せた。
『私への負荷が増える。今でもいっぱいいっぱいなのに、これ以上やったら……』
声の先を、ヴィンター自身が補完する。
「お前が持たない」
『うん』
エリカは、あっさりと認めた。
カリーナは、自分の呼吸をなんとか整えながら、二人の会話を聞いていた。
頭の中のざわめきは、さっきよりも少し遠ざかった気がする。だが、完全には消えない。
「私のことはいいから」
カリーナは、言葉を挟んだ。
「エリカを……」
「黙れ」
ヴィンターは低く言った。
「お前も、エリカも、両方助ける」
そんなことができるのか、と自分でも思った。
それでも、ここでどちらかを切り捨てると言えば、二度と取り返しがつかなくなる気がした。
『お兄ちゃんは、昔から無茶するよね』
エリカが、くすっと笑う。
『でも、そういうところ、好きだよ』
その時、天井のスピーカーから別の音声が割り込んだ。
軍の公式通信フォーマットに似た電子音。
〈こちら軍本部。全隊に通達〉
〈山岳通信施設周辺、封鎖完了〉
〈四十八時間後、施設ごと爆撃を実施する〉
〈内部の全生存者は、直ちに投降せよ〉
カリーナとヴィンターは、顔を見合わせた。
「……四十八時間」
カリーナが呟く。
「私たちごと、ここを消すつもりだね」
「証拠隠滅だ」
ヴィンターの声には、怒りというよりも冷たさが宿っていた。
『お兄ちゃん』
エリカの声が、ふたたび二人を引き戻す。
『お願いがあるの』
「なんだ」
ヴィンターは、培養槽の前に立った。
エリカの青い瞳が、彼だけを映している。
『私を、止めて』
「……」
一瞬、言葉を失う。
『システムを破壊すれば、記憶の転送は止まる。感染した人たちも、これ以上増えない。外の人も、助かる』
「だが、お前は」
『消える』
エリカは、はっきりと言った。
『ううん、正確にはね。今ここにいる“エリカ”は消える。でも、きっとどこかに行ける気がする』
彼女の微笑みは、さっきよりも少しだけ優しかった。
『このままだと、私はもうすぐ“私”じゃなくなる。死んだ人たちの記憶に飲み込まれて、誰かの残響の一部になる』
その言葉には、かすかな恐怖が混ざっていた。
『最後だけでいいから、私で終わりたいの。“エリカ・ノイマン”として終わりたい』
ヴィンターは、ガラス越しに握りこぶしを作った。
「……それが、お前の望みか」
『うん』
エリカは、迷いなく頷く。
『お兄ちゃんにしか頼めない。お兄ちゃんだけが、私を“エリカ”として見てくれるから』
カリーナは、黙って二人のやりとりを聞いていた。
胸の奥のどこかが、ずっと締め付けられている。
「ひどい話だよね」
彼女は思わず呟いた。
「こんな選択、あっていいわけないのに」
『そうだね』
エリカは笑う。
『でも、こういう選択をするのは、きっと生きてる人の役目なんだと思う』
ヴィンターはゆっくりと息を吸い、吐いた。
「……わかった」
その声は震えていなかった。
「お前の望みどおりにする。システムを破壊する。お前を、解放する」
『ありがとう』
エリカの瞳が、ほんの少し潤んだ。
『その前に、もう一つだけ、わがまま言ってもいい?』
「何だ」
『少しだけでいいから、昔の話しよう』
彼らは、わずかな時間を使って、過去をなぞった。
公園のブランコ。
母のシチューの匂い。
父の大げさな冗談。
宿題をやらずに怒られたこと。
夜遅くまでこっそり二人で起きていたこと。
どれもこれも、当たり前に続くと思っていた日常。
その断片たちが、ぽつぽつと会話の中に並べられていく。
『お兄ちゃん、覚えてる?』
「覚えてないな」
『嘘。絶対覚えてる』
「……少しだけな」
『そういうところ、ずるい』
エリカは、時々笑いながら、時々泣きそうな顔をした。
その全部が、三年前の彼女と何も変わっていなかった。
やがて、話すことが尽きる。
沈黙の中で、電子音だけが静かに鳴り続けていた。
『そろそろ、行かないとね』
エリカが先に口を開く。
『軍も動き始めてるし、時間がない』
「システムの中枢は」
ヴィンターが問うと、エリカは視線で部屋の奥を示した。
『この部屋のさらに奥。そこに、全部を制御してる端末がある』
「爆薬で壊せばいいのか」
『うん。そうすれば、記憶の転送も、感染も止まる。私も、終わる』
「……そうか」
ヴィンターは、背負っていたバッグの口を固く締めなおした。
カリーナが一歩前に出る。
「私も行く」
「お前は入口を守れ」
ヴィンターは首を振った。
「軍の連中が来る。足止めが必要だ」
「でも――」
「これは、俺とエリカの問題だ」
彼の言い方は穏やかだったが、その目は揺らがなかった。
カリーナはしばらく黙り込み、それから息を吐く。
「……わかった」
短く答え、顔を上げる。
「でも、生きて戻ってきて。どんな顔しててもいいから、とりあえず生きて」
「ああ」
ヴィンターは、ほんの少しだけ笑った。
「約束する」
エリカが、二人を交互に見た。
『カリーナさん』
「ん?」
『お兄ちゃんのこと、これからも頼んでいい?』
「もう頼まれる前提で動いてるから安心して」
カリーナは口角を上げる。
『ありがとう』
エリカは、心からの笑顔を見せた。
『お兄ちゃん』
「なんだ」
『大好きだよ』
喉が詰まったように、ヴィンターは一瞬言葉を失った。
「……ああ」
ようやく絞り出した声は、いつもの彼らしくなかった。
「俺も、お前が大好きだ」
ヴィンターは、エリカに背を向ける前に、ガラスにそっと手を当てた。
それは、もう二度と届かないはずの手に向けた、最後の仕草だった。
「行く」
自分自身に言い聞かせるように呟き、彼は部屋の奥へと歩き出した。
カリーナは銃を握りなおし、培養区画の入口へと向かう。
上階からは、すでに遠くの爆音と、重い足音の振動が伝わってきていた。
軍もまた、この塔の最深部へ向かって、歩みを速めつつあった。
第四話 終




