第三話「感染者」
地下へ降りるたび、空気が重くなっていく。
赤い非常灯だけが間隔をあけて灯り、階段に二人の影を落としていた。コンクリートの壁は冷えきっていて、触れれば水分を含んだような感触が返ってきそうだ。
先を歩くヴィンター・ノイマンの背中を、カリーナ・パールヴァティは無意識に追っていた。ついさっきまで軽口を叩いていたはずなのに、今は口を開く気にならない。
その沈黙を破ったのは、自分自身の声だった。
「……なんか、変な感じ」
階段の途中で、カリーナは思わず立ち止まった。
頭の中で、何かがざわついている。
さっきまでは聞こえなかった、別の誰かの息遣いが、意識のすぐ裏側をうろついていた。
ヴィンターが数段上から振り返る。
「どうした」
「頭の中で、誰かの声がする」
カリーナはこめかみを押さえた。
「さっきの通信、聞いてから……ずっと。ノイズみたいに、何かが言いたがってる感じ」
「何て言ってる」
「わからない。まだ言葉になってない。でも――」
言いかけたところで、自分の口から違う名前が漏れた。
「カリーナ……いや、違う……私は……マリア? ……いや……」
自分の舌が、自分の名前以外を言おうとした瞬間、背筋に冷たいものが走る。
ヴィンターは階段を下りきり、カリーナの肩を両手でつかんだ。
「カリーナ」
真っ直ぐな視線が、彼女の目を捉える。
「お前の名前はカリーナ・パールヴァティだ」
「……わかってる。わかってるけど」
それでも、頭の中のざわめきは消えなかった。
別の人生。別の記憶。別の「私」が、薄い膜の向こうでこすれ合っているような感覚。
一瞬だけ、視界が揺れた。
四層の廊下に出ると、前よりもはっきりとした異臭が鼻を打った。
金属と焦げと、古い血と、長く放置された薬品の匂いが混じり合って、喉の奥にまとわりつく。
廊下の先に、扉の開いた部屋があった。
プレートには「研究室」と書かれている。
「中、見ていこう」
カリーナが言うと、ヴィンターも無言で頷いた。
研究室の中には、砕けたガラス容器や倒れた機材が散乱していた。
壁際には、さきほどと同じ型の端末が並んでいる。
カリーナは一台の前に座り、電源を入れた。
起動画面ののち、「記憶転送実験プロトコル」というファイル名が目に飛び込んでくる。
「……『記憶転送実験プロトコル』」
彼女はスクロールバーを動かしながら、重要そうな箇所に視線を走らせた。
「死亡した兵士の脳波データをデジタル化して、生存者の脳に上書きする……」
読み上げる声が、次第に硬くなる。
「目的は、戦死者の経験と技能を新兵に即時継承……」
別の項目に目が止まった。
「副作用。自我の混濁、人格の多重化、最終的には元の人格が消失……」
リストの最後には、実験結果が簡潔にまとめられていた。
「成功例、ひとり。被験体No.07」
そこで、カリーナは息を飲んだ。
「部分成功、三名(制御不能)。失敗、その他全員(暴走、自我崩壊)……」
隣でヴィンターが黙ったまま画面を見ている。
彼の視線の先には、関連資料の小さなサムネイルが並んでいた。
そのうちのひとつに、少年の写真が表示されている。
金髪の少年。
無表情で、どこか空っぽな目。
キャプションには、こう記されていた。
被験体No.07
ヴィンター・ノイマン
「……」
カリーナはゆっくりとヴィンターを見上げた。
「ヴィンター」
「知ってた」
彼は短く言った。
「え?」
「完全には思い出せない。でも、どこかで知ってた」
ヴィンターは自分の手のひらをじっと見た。
指を握りしめ、また開く。その動作に、何かを確かめるような真剣さがある。
「俺は……誰かの記憶で作られた人間だ」
それは、諦めでも開き直りでもなく、ただの事実の報告のように聞こえた。
沈黙が、二人の間に落ちる。
その沈黙を破ったのは、カリーナだった。
「ヴィンター。私も、ひとつ言わなきゃいけないことがある」
彼女は端末から目を離し、真っ直ぐに彼を見る。
「私の本当の任務は、あなたの監視。もしあなたが“汚染”されたら……その場で処分するように命令されてた」
ヴィンターの表情は、意外なほど変わらなかった。
「そうか」
それだけだった。
カリーナは、自分の胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ軽くなるのを感じた反面、どこか拍子抜けもした。
「でも、もうそんなの関係ない。私、あなたを撃たないから」
「なぜだ」
「だって……」
口に出してしまえば、もう引き返せない。
「あなた、ちゃんと生きてるから」
ヴィンターは一瞬だけ目を瞬かせた。
「記憶が偽物でも?」
「記憶が本物か偽物かなんて、誰にもわからないでしょ。大事なのは、今のあなたが何を選ぶかだよ」
ヴィンターは、わずかに口の端を上げた。
それは微笑みと呼ぶにはあまりに小さかったが、カリーナにはそれで十分だった。
「……お前、案外いいやつだな」
「今更?」
二人の間に、ほんの少しだけ、いつもの空気が戻った。
その瞬間だった。
施設全体に、甲高い警報音が鳴り響いた。
赤い警告灯が点滅し、天井のスピーカーから無機質な声が流れる。
『培養区画、封鎖解除。被験体、解放』
カリーナとヴィンターは同時に顔を上げた。
「最悪のタイミングだね」
カリーナの冗談は、さすがに軽さを欠いていた。
「来る」
ヴィンターは既に銃を手にしている。
廊下に出ると、足音が聞こえた。
さっきと同じ、引きずるような足音――ただし、今度はひとつではない。
いくつもの足音が、廊下の奥からゆっくりと近づいてくる。
赤い非常灯の下、いくつもの影が揺れた。
軍服を着た男。白衣の女。実験服の人物。
年齢も性別もバラバラな人々が、同じような虚ろな目でこちらに歩いてくる。
そして、全員の口から同じ言葉が漏れていた。
「転送……完了……私は……」
声は途切れ途切れで、そこに別の声が重なっていく。
「私は……誰だ……?」
「俺は……彼女は……」
複数の人格が、一つの身体のなかで混ざり合っている。
そんな不安定なバランスが、歩みの不自然さにも現れていた。
「何人いるの……」
カリーナは、咄嗟に数えるのをやめた。
「わからない。走れ」
ヴィンターは即座に方向転換し、逆側の廊下へと駆け出す。
カリーナもそれに続いた。
背後から、足音が一斉に響く。
さっきまでのゆっくりとした歩みとは違う、獣じみた速度を持った足音。
廊下を曲がるたび、赤い非常灯の光が視界を切り替えていく。
しかし――
「行き止まり!」
カリーナの叫びが、壁際に跳ね返る。
正面には、大きな扉。その横には「倉庫」と書かれたプレート。
だが、扉は歪み、完全に閉じていた。開く余地はない。
ヴィンターは一瞬だけ状況を見渡し、即座に決断した。
「迎撃する」
彼は扉の前に身を寄せ、銃を構える。
カリーナも隣に腰を落とし、銃口を廊下の奥に向けた。
感染者たちの足音が、角を曲がって近づいてくる。
やがて、赤い光の中に、その群れが姿を現した。
「撃て」
ヴィンターの合図と同時に、銃声が廊下を切り裂いた。
弾丸が先頭の感染者の胸と頭を撃ち抜く。
彼らは後方の者たちに押されるように倒れ、雪崩のように崩れていく。
しかし、すぐにその上を別の足が踏み越えてきた。
倒れたはずの身体が、痙攣しながら這い寄ろうとする。
それでもなお、彼らの口は意味のない断片を吐き続けていた。
「助けて……」
「殺して……」
「戻して……」
「転送を……」
どの声が誰のものなのか、もはや分からない。
「キリがない!」
カリーナは叫びながら、弾倉を入れ替えた。
その間にも、頭の中のざわめきが強くなる。
誰かの記憶が押し寄せてくる。知らない景色、知らない名前、知らない家族。
「ヴィンター……頭の中の声が、強くなってる」
「聞くな」
ヴィンターは短く言い、次の標的を撃ち抜く。
「お前の声だけを信じろ」
「でも……もう、私が誰なのか……」
視界が揺らぎ、感染者たちの姿が二重に見える。
自分の手の感覚もぼやけ始めていた。
このままでは、自分も向こう側に引きずり込まれる――。
カリーナの指から、銃が滑り落ちかけた。
その頬に、鋭い痛みが走る。
「カリーナ!」
ヴィンターの平手が、彼女の頬を叩いていた。
「――っ!」
カリーナは反射的に目を見開く。
「戻ってこい」
ヴィンターの視線が至近距離から突き刺さる。
「お前はカリーナ・パールヴァティだ。忘れるな」
「……うん」
カリーナは、震える手で再び銃を握った。
まだ、自分の手だと感じられるうちに。
だが、状況は明らかに悪化していた。
弾薬は残り少ない。
感染者たちは倒れても倒れても、後ろから押し寄せてくる。
このまま打ち続ければ、いずれ追い詰められるだけだ。
視界の奥で、ノイズが膨らんだ。
あの声が、再び聞こえてくる。
『お兄ちゃん。こっちだよ』
壁の一部が、ギイ、と音を立てて動いた。
カリーナは思わずそちらを見る。
さっきまで何の変哲もなかった壁面に、縦長の隙間ができていた。
中は暗く、細い通路が奥へと伸びているように見える。
「今の……」
「……エリカ」
ヴィンターが低く呟いた。
『早く。彼女を助けたいなら、最深部に来て』
その声は、間違いなく彼に向けられていた。
「罠かもしれない」
カリーナは唇を噛む。
「わかってる」
ヴィンターは短く答えた。
「でも、他に道はない」
背後では、まだ感染者たちが呻きながら廊下を埋め尽くそうとしていた。
「行くよ!」
カリーナは決断すると、先にその暗い隙間へと飛び込んだ。
ヴィンターがすぐ後に続く。
足が内部に入った瞬間、壁が再び閉じ始めた。
わずかな隙間から、感染者たちの手が伸びてくる。
指先が空をつかみ、扉は音を立てて閉じた。
廊下の喧騒が途切れる。
薄暗い通路に、二人の荒い息だけが残った。
通路は狭く、天井も低かった。
非常灯もないため、足元のライトだけが頼りだ。
しばらく進むと、螺旋階段が現れた。
上ではなく、下へと続く階段。さらに深い場所へと続く。
「奥まで行けば、何がある?」
カリーナが問う。
「さあな」
ヴィンターはそう言いつつも、その声には確信めいたものが滲んでいた。
階段を下りきった先に、重々しい扉が待っていた。
扉には、消えかかった文字でこう刻まれている。
培養実験区画 最深部
エリカ・プロジェクト管理室
「エリカ・プロジェクト……」
カリーナは、喉の奥がひゅっと鳴るのを感じた。
ヴィンターが扉に近づくと、横の認証装置が勝手に起動した。
古い電子音が鳴り、画面に文字が浮かぶ。
〈ヴィンター・ノイマン〉
〈被験体No.07 認証〉
『お帰りなさい』
機械音声がそう告げたあと、重いロックが外れる音がした。
扉が、ゆっくりと内側へ開いていく。
中から漏れてきたのは、青白い光だった。
最深部の部屋は、思っていたよりも広かった。
天井は高く、壁一面にケーブルと端末が並び、中央に――一つの巨大な培養槽が鎮座している。
透明な液体に満たされたその中で、ひとりの少女が眠っていた。
銀色の髪が液中で揺れ、閉じられた瞼の向こうには、見覚えのある青い色が潜んでいる。
ヴィンターの足が止まった。
喉の奥から、自然とひとつの名前が漏れる。
「……エリカ」
その瞬間、少女の瞼がゆっくりと開いた。
青い瞳が、ガラスの向こうからまっすぐ彼を見つめる。
『お兄ちゃん。やっと、来てくれたね』
第三話 終




