第二話「記憶の残響」
階段を降りるたび、空気が変わっていく。
赤い非常灯が、一定間隔で足元を照らしていた。コンクリートの壁は冷たく湿り、さっきまでの乾いた山の空気とは別の匂い――金属と薬品が混じったような匂いが鼻につく。
カリーナ・パールヴァティは、前を行くヴィンター・ノイマンの背中を見ながら、靴底の感触に意識を集中させていた。段差を踏み外せば一気に転げ落ちそうな急な階段だった。
「ねえ」
彼女は、黙ったままの相棒に声をかける。
「さっきの、あの女の子の声。本当に知らないの?」
ヴィンターの足取りが、ほんの少しだけ重くなる。
「……覚えていない、が正しい」
「覚えていない?」
カリーナは首をかしげた。
彼は前を向いたまま、淡々と続ける。
「俺には、五年以上前の記憶がほとんどない」
その言い方があまりに事務的で、かえってひっかかった。
「記憶喪失ってこと?」
「そういうことになってる」
「“なってる”って……」
問い返しかけた言葉は、薄暗い階段に飲み込まれた。
ヴィンターはそれ以上喋ろうとせず、カリーナも無理に引き出すのをやめる。
沈黙のまま、二人はさらに下へと降り続けた。
階段を降りきると、薄く埃をかぶった金属扉が待っていた。
ドアプレートには「第三層 管理区画」と刻まれている。
ヴィンターがドアノブを押すと、ギギ、と嫌な音を立てて扉が開いた。
中は、思ったほど荒れてはいなかった。
長机が並んだ部屋。壁沿いに古いコンピュータ端末がいくつも並んでいる。
モニターの多くは黒いままだが、いくつかにはまだ電源が入っていて、待機画面がぼんやりと浮かんでいた。
「生きてる端末、あるね」
カリーナは机を回り込んで、一番手前の端末に触れる。
電源ボタンに触れると、画面がゆっくりと明るくなった。
ロゴ画面の後、簡素なメニューが表示される。
「記録映像……ログ……エラー報告……」
カリーナはメニューの中から「記録映像」を選び、リストをスクロールする。
「けっこう残ってる。削除する時間もなかったのかな」
「再生してみろ」
ヴィンターの声は、低く抑えられていた。
カリーナは頷き、一番上の日付のファイルを開く。
画面には、白い実験室が映し出された。
壁も床も天井も白。中央に、縦長の培養槽が一基。
透明な液体が満たされ、その中に人影が沈んでいる。顔までは見えない。
画面の端に、無機質な文字が並ぶ。
〈第七通信実験分隊 記憶転送試験ログ〉
〈被験体No.07 状態:安定〉
〈成功率:12%〉
『被験体No.07、記憶転送プロセス開始』
スピーカーから、白衣の男の声が流れる。
研究者らしき男がコンソールに向かって立ち、その後ろで別のスタッフたちが慌ただしく動いている。
培養槽の中で、人影がわずかに痙攣した。
大型モニターに、複雑な脳波のグラフが映し出される。
その波形が、急激に乱れ始める。
『脳波パターン、不安定化!』
『入力を絞れ! これ以上やると――』
「うわ」
カリーナは思わず声を漏らした。
培養槽の中で、人影が激しく暴れ出した。
透明なガラスを内側から叩きつけるように、四肢が激しく動く。泡立つ液体が、真ん中で渦を巻く。
室内に、赤い警告灯が一斉に点滅した。
警報が鳴り響き、人々の怒号が重なる。
『拒絶反応だ! リンクを切断しろ!』
『だめだ、信号が――』
映像が乱れ、そこで途切れた。
「……これ、完全に人体実験じゃん」
カリーナは青ざめた顔で画面を見つめた。
隣を見ると、ヴィンターはじっとモニターを見据えていた。
彼の目は、どこか違う場所を見ているようにも見えた。
「被験体No.07……」
カリーナは別のタブを開き、関連データを呼び出す。
画面に、白黒の証明写真が表示された。
短い金髪。無表情な少年。
その目には、どこか空虚な光が宿っている。
写真の下に、名前が書かれていた。
ヴィンター・ノイマン
被験体No.07
カリーナは息を呑んだ。
「……ヴィンター」
ヴィンターは、ほんの一瞬だけ視線を写真に向け、それからゆっくり目をそらした。
「知ってた」
押し殺したような声だった。
「え……」
「完全には思い出せない。でも、どこかで知ってた」
彼は自分の手のひらを見つめる。
指先を握ったり開いたりして、まるで自分の感触を確かめているかのようだった。
「俺は……誰かの記憶で作られた人間だ」
その言葉が落ちた瞬間、ヴィンターの身体がふらついた。
「――っ」
鋭い痛みが、頭の奥を貫いたのだろう。
ヴィンターはこめかみに手を当て、その場に片膝をついた。
「ヴィンター!」
カリーナが慌てて駆け寄る。
視界が滲み、世界が白く反転する。
音が遠ざかり、一つだけ別の音が近づいてくる。
――冷たい。
最初に感じたのは、それだった。
四方を液体に縛られたような感覚。
身体が自分のものではないような、重く、鈍い気だるさ。
目を開けると、歪んだ世界が見えた。
少し遅れて、そこがガラス越しの光景だと理解する。
白い天井。
白い服を着た大人たち。
赤い警告灯。
耳を刺すアラーム。
その中で、小さな顔がひとつ、ガラスに張り付いていた。
銀色の髪を肩まで伸ばした少女。
涙で濡れた青い瞳。
今にも砕けそうな声で、何かを叫んでいる。
『お兄ちゃん!』
口の動きが、そう告げていた。
『お兄ちゃん、行かないで!』
伸ばされた小さな手が、ガラスを叩いている。
こちらも手を伸ばそうとする。だが、身体が思うように動かない。
腕は重く、動くたびに全身に痛みが走る。
――行かないで。
違う。
――戻ってきて。
「……っ」
ヴィンターは、荒い呼吸とともに現実に引き戻された。
視界が元の管理室に戻る。
カリーナの顔が近くにあった。心配そうに覗き込んでいる。
「ヴィンター! 大丈夫?」
「……平気だ」
「平気じゃないでしょ。今、何が見えた?」
「……わからない」
本当にわからないのか、自分で認めたくないのか。
ヴィンター自身にも、その境目は分からなかった。
彼の呼吸が落ち着くのを待つ間、カリーナはこっそり自分の端末を開いた。
軍本部から、新たなメッセージが届いている。
〈対象の異常行動を確認次第、拘束せよ。必要なら無力化も許可する〉
スクリーンに表示された短い文面を、カリーナはしばらく見つめた。
視線の端に、床に片膝をついたヴィンターの背中が入る。
(今ここで、命令どおりにしたら――)
それが何を意味するか、考えるまでもない。
カリーナは、端末の電源を落とした。
「まだ、大丈夫」
小さく、自分に聞こえるだけの声で呟く。
第三層を出ると、さらに下の階へと続く階段が口を開けていた。
二人は無言で降りる。
カリーナの肩越しに見える壁には、何枚かの紙がガムテープで貼り付けられていた。焦げと埃で半分ほど読めなくなっている。
その中の一枚に、彼女の目が留まった。
「……何これ」
紙には、乱暴な字でこう書かれていた。
〈もう誰が誰だかわからない〉
隣には別のメモがある。
〈俺は本当に俺なのか?〉
さらにもう一枚。最後の行だけが辛うじて読めた。
〈エリカを止めろ。彼女はもう――〉
そこで文字が途切れている。
紙のその先は、焼け焦げて欠けていた。
「エリカ……さっきの声の主?」
カリーナは呟き、無意識にヴィンターの方を見る。
彼は何も言わなかったが、その名前に対して身体のどこかが反応したように見えた。
地下四層の廊下は、さらに荒れていた。
天井の照明は半分以上が割れ、非常灯だけが赤い光をぽつぽつと落としている。壁には焦げた跡だけでなく、何かが這い回ったような汚れがうねっていた。
その時だった。
足音が聞こえた。
コツ、コツ、と不規則なリズム。
重心の崩れた、引きずるような歩き方。
二人は即座に銃を構えた。
暗闇の奥から、一つの人影がこちらに姿を現す。
軍服を着た男だった。
だが、その目は焦点が合っていない。
虚ろな瞳が、どこも見ていないまま正面を向いている。
「生存者……?」
カリーナが、かすかな希望を込めて呟く。
男は口を開いた。
「転送……完了……私は……」
声はかすれていた。
言葉の途中で、誰か別の人間の声が上書きされたように、調子が変わる。
「私は……誰だ……?」
「違う」
ヴィンターが低く言った。
彼の目には、目の前の男が「生存者」には見えていなかった。
男は、ぎこちない動きで顔を上げた。
その表情は、笑っているようにも、泣いているようにも見える。喜びと恐怖と絶望が、ひとつの顔の上で同時に発生しているかのように、筋肉がバラバラに動いていた。
「私は……お前だ……」
男の目が、ヴィンターを捕らえる。
「いや……違う……私は……」
その瞬間、男が飛びかかってきた。
ヴィンターは躊躇なく引き金を引いた。
銃声が狭い廊下に反響する。
男の身体が後ろに弾け飛び、床に叩きつけられる。
それでも、完全には止まらない。痙攣する指が、空中を掴もうと動き続ける。
口はなおも動いていた。
「助けて……」
「殺して……」
「戻して……」
「転送を……」
それは一人分の声ではなかった。
複数の声が、ひとつの喉を通して無理やり出てきているような、不快な重なり方をしていた。
カリーナが追撃しようと銃を構える。
「待て」
ヴィンターが手で制した。
「でも――」
「……もう、死んでる」
男の動きが、ゆっくりと止まっていく。
虚ろな瞳に、最後の一瞬だけ、人間らしい光が戻った気がした。
そこから、一筋の涙がこぼれた。
ヴィンターは屈み込み、男の胸元から認識票を引き抜いた。
そこには、かろうじて文字が残っている。
マーク・レイトン
第七通信実験分隊 上等兵
カリーナは自分の端末を操作し、軍のデータベースにアクセスした。
「この人……三年前の事故で、死亡扱いになってる」
「だが、今ここにいた」
ヴィンターは短く言う。
「じゃあ、他の“死者”も……」
カリーナは言いかけて口をつぐむ。
ヴィンターは男の遺体から目を離し、地下のさらに奥を見据えた。
「まだ、いる」
それは観測ではなく、確信に近い響きだった。
そして、彼は自分でも気づかないうちに呟いていた。
「エリカも」
カリーナの耳が、その小さな声を捉える。
「ヴィンター。あなた、本当は――」
彼女の言葉を遮るように、通信ノイズが周囲に満ちた。
どこにも接続されていないはずのスピーカーが、小さく震える。
『お兄ちゃん。もうすぐ会えるね』
少女の声が、廊下に滲み出るように響いた。
ヴィンターの顔から血の気が引いていく。
カリーナは、その横顔を見て確信した。
――この男は、知っている。
この通信塔で何が起きたのか。
エリカと呼ばれた存在が誰なのか。
ただ、自分でそれを思い出せていないだけだ。
階段へ向かう。
赤い非常灯が、また下へと続く影の道を照らしていた。
足音がひとつ、ふたつ。
地の奥から、何かが呼んでいる。
記憶の残響が、ヴィンターの名を呼んでいた。
第二話 終




