第一話「死者からの通信」
山岳地帯の夜は、音が薄い。
風が鉄塔を撫でる音も、遠くで崩れる小石の音も、すべてが白い霧に吸い込まれていく。その中に、古い通信塔が一本、ぽつんと立っていた。
三年前に放棄された軍施設。
記録上は電源も落ち、回線も断たれ、誰も近づかないはずの場所。
――そのはずの通信塔から、今夜。
救難信号が発信された。
「……寒っ」
山道を登りながら、カリーナ・パールヴァティは両腕をさすった。白い息が、暗闇に溶けていく。茶色のカールヘアが風に揺れ、軍服の赤い縁取りが、霧の中でぼんやり浮かんだ。
「ねえヴィンター。こういう場所って、絶対出るよね」
隣を歩く青年は、答えなかった。
金髪を短く刈り上げたヴィンター・ノイマンは、ヘッドセットに指を添え、無表情のまま通信ノイズに耳を傾けている。
「無視?」
「任務中だ」
「任務中でも会話くらいできるでしょ」
「必要な会話ならな」
カリーナはわざとらしく肩をすくめた。
「じゃあ必要な会話。幽霊って信じる?」
「信じない」
間髪入れずに返ってきた。
カリーナは少し笑う。
「じゃあ、三年前に全滅した部隊から救難信号が来てるのは?」
その一言に、ヴィンターの足が、わずかに止まった。
本当に一瞬だけ。
けれどカリーナは、その硬直を見逃さなかった。
「……誰かが、死者のふりをしてるだけだ」
ヴィンターは低く言う。
「だったらいいね」
カリーナの声から、軽口の色が少し薄れた。
「死者本人よりは、まだ撃てるから」
二人は、霧の向こうにそびえる通信塔へと歩を進めた。
通信塔の入口に辿り着く。
錆びついた鉄扉には、古い部隊章が残っていた。半分剥がれた白い鳥の紋章。その下に、かすれた文字が読める。
第七通信実験分隊
カリーナは眉をひそめた。
「聞いたことない部隊名。それに“実験”って何?」
「記録から消されたんだろう」
「さらっと怖いこと言うね」
ヴィンターはそれ以上答えず、扉横の認証盤に端末を接続した。
古い電子音が鳴り、内部でロックが外れる重い感触が伝わってくる。
――その瞬間、ヴィンターの視界の端が白く弾けた。
白い部屋。
赤い警告灯。
割れるようなアラーム。
誰かの悲鳴。
短い断片が、頭の奥を針のように刺す。
「ヴィンター?」
カリーナが振り返る。
「なんでもない」
ヴィンターは短く返すと、扉を押し開けて中へ入った。その背中には、僅かな硬さがあった。
中は暗かった。
だが、完全な廃墟ではない。
床の非常灯が、細い線となって赤く点滅している。
壁を這う配線には微弱な電流が流れているようで、時おりかすかな明滅を繰り返す。奥の方から、途切れ途切れのノイズが、波のように押し寄せては消えていく。
カリーナは腰のホルスターに手を添えた。
「三年放置された施設にしては、ずいぶん元気だね」
「誰かが動かしてる」
「その誰かが問題なんだけど」
二人は自然と、壁際に身体を寄せる。足音を抑えながら進む廊下の壁には、焼け焦げた跡がいくつも残っていた。黒く焦げた穴。散らばる弾痕。さらに、その上から何かが爪で引き裂いたような深い傷。
カリーナはそれを横目に見て、一瞬だけ口を開きかけたが、冗談を挟むことはしなかった。
やがて、「通信室」と刻まれたプレートのある扉の前に辿り着く。扉の隙間からは、青白い光が漏れていた。
「ここだ」
ヴィンターが短く言い、扉を押し開ける。
通信室の中央には、旧式の大型通信機が一台置かれていた。
金属の筐体には傷と錆が目立つが、電源ランプは青く点滅し、休むことなく規則的な明滅を続けている。
誰もいない部屋で、その機械だけが、ひとりでに信号を発し続けていた。
「……三年放置されてたにしては、がんばりすぎじゃない?」
カリーナが皮肉混じりに呟く。
ヴィンターは答えず、通信機に端末を接続した。
黒い画面に緑色の文字列が流れていく。解析結果が無機質に表示される。
「発信元はここで間違いない」
「救難信号の内容は?」
「音声データが混じってる」
「再生できる?」
ヴィンターは一拍置き、頷いた。
彼の指が再生コマンドに触れる。
スピーカーから、激しいノイズがあふれ出した。
耳を刺す砂嵐のような音。その奥に、別の音が潜んでいる。
『――こちら、第七通信実験分隊』
古びた男の声が、波間に浮かぶ。
カリーナの表情が固まる。
『応答を、願う』
男の声には、かすかな息遣いと震えがあった。録音された音声にしては、妙に生々しい。
『我々は、まだ――転送を続けている』
「“転送”?」
カリーナが眉をひそめる。
ヴィンターは解析画面を見つめた。音声の波形が、不規則に蠢いている。
『――記憶の移植は、成功した』
その言葉に重なるように、通信機のモニターが明滅した。
一瞬だけ、ノイズの隙間から映像がのぞく。
白い部屋。
縦に伸びる透明な培養槽。
その中に、ぼやけた人影が浮かんでいる。
すぐに映像は砂嵐の奥へと沈んだ。
「今の、見た?」
カリーナは思わず声を上げる。
ヴィンターは答えなかった。
顔色が、ほんの少し青ざめている。
短い沈黙。
その後を裂くように、別の声が流れ込んできた。
今度は、若い女の声だった。
『――ヴィンター』
カリーナの背筋を冷たいものが走る。
隣で、ヴィンターの身体が微かに強張った。
『ヴィンター。戻ってきて』
静かな呼びかけ。
名前を呼ぶだけの短い言葉。それだけで、通信室の空気が少し冷えた気がした。
「……知ってる声?」
カリーナは慎重に問う。
ヴィンターは、何も言わない。
喉の奥が、ひくりと動く。
「ヴィンター」
彼はヘッドセットを外そうと手を伸ばしたが、途中で止まった。
外してしまえば楽になる。だが、そうすればもう二度と、その声を聞けない気がした。
「知らない」
搾り出すような声だった。
カリーナは、その嘘を責めることはしなかった。
代わりに、いつもの調子を少しだけ取り戻して笑う。
「そっか。じゃあ知らない女の子に名前呼ばれたわけだ。モテるね」
「黙れ」
「はいはい」
カリーナは片手で肩をすくめつつ、もう片方の手でそっと自分の端末を操作した。画面に暗号化された簡易報告フォームが開く。
〈対象、反応あり。継続監視〉
短い文を打ち込み、送信ボタンに触れる。
画面はすぐに暗くなった。
ヴィンターは、通信機を振り返った。
スピーカーから、またあの声が流れてくる。
『ヴィンター。戻ってきて』
その声に合わせるように、ヴィンターの頭の奥で何かが軋んだ。
白い部屋。
赤い警告灯が点滅し、サイレンが耳を刺す。
視界が揺れ、身体が思うように動かない。
冷たい液体の感触。
ガラスの向こう側で、誰かが手を伸ばしている。
小さな手。細い指。震える体温。
「行かないで」
――違う。
「戻ってきて」
その声と、今スピーカーから流れている声が、ぴたりと重なった。
ヴィンターは奥歯をきしませた。
胸の中に湧き上がるものを、力ずくで押し込める。
「行くぞ」
低く短い言葉に、カリーナが瞬きをする。
「どこに?」
ヴィンターはモニターを指差した。
そこには、数列の数字と簡単な文字情報が表示されている。
地下第五層
培養実験区画
「地下だ」
施設の奥へ続く階段は、地下へ向かって果てしなく続いているように見えた。
赤い非常灯が一定間隔で並び、その光の輪が、二人の影を長く伸ばしている。
降りるにしたがって、空気が変わっていく。
冷たさとともに、湿り気が濃くなり、わずかに薬品の匂いが混じり始めた。
壁には太い配管が走り、その横からさらに太いチューブがいくつも分岐して、下方へ伸びている。どれも、何か液体を運ぶためのものに見えた。
カリーナは、それを見上げながら呟く。
「これ……培養槽の冷却システムじゃない?」
「そうだ」
ヴィンターは短く答える。
「通信実験なのに、なんで培養槽が必要なの?」
返事はなかった。
カリーナが横目で見ると、ヴィンターの右手がわずかに震えていた。
握りしめた拳の中で、爪が掌に食い込んでいる。
上の階のどこかで、まだ通信機が鳴り続けている。
不規則なノイズ。その奥に、途切れ途切れの声。
それは確かに、救難信号の形式をしていた。
だが、その実体は別のものだ。
――呼び声。
三年前に終わったはずの何かが、なおもこの塔の中で息をしている。
そして今、その何かは、ヴィンター・ノイマンという一人の人間だけを、執拗に地下へと誘っていた。
二人の足音が、階段の闇に吸い込まれていく。
第一話 終




