第八話「夜明け」
山を下りたあと、世界は何事もなかったように回り続けていた。
もちろん、そんなはずはないのだけれど。
病院の一室で、カリーナ・パールヴァティは白い天井を見上げていた。
肩には包帯。腕にも点滴。
世間的には「任務中の負傷」と記録されるらしい。
「退院していいってさ」
カーテンの向こうから、素っ気ない声が聞こえた。
視線を向けると、ヴィンター・ノイマンが病室の入口に立っていた。
いつもの軍服ではなく、簡素な私服を着ている。その姿が妙に新鮮に見える。
「急に私服とか着ないでよ。違和感で余計具合悪くなるんだけど」
「軍を辞めた」
あまりにもさらりと言うので、カリーナは一瞬耳を疑った。
「……え?」
「除隊手続きをしてきた。向こうも、あまりしつこく引き留めはしなかった」
「そりゃそうでしょ。問題案件の中心人物を、いつまでも組織に置いときたくないもんね」
カリーナは苦笑する。
「で?」
「お前はどうする」
「私?」
カリーナは少し考え、それから笑った。
「ついてく」
ヴィンターは、ほんのわずかに目を細めた。
「どこに行くかも言ってない」
「あなたが“どこかに行く”ってことだけ分かれば十分」
彼女は、ゆっくりと上体を起こす。
「それに、片腕くらい貸してもらわないと、私もやりたいことやれないし」
「やりたいこと?」
「うん」
カリーナは、窓の外を見た。
街は相変わらず騒がしく、人も車も小さく動いている。
しかし、ニュース番組のテロップやネット上の噂話は、少しずつ変わり始めていた。
「第七通信実験分隊って名前、ちょこちょこ表面に出てきてるでしょ」
「……ああ」
隠しきれないものは、いつか必ず滲み出る。
軍は「通信システムの暴走事故」として処理しようとしていたが、内部告発者の証言や、どこからともなく流出した資料のおかげで、その説明にはすでに穴が開き始めている。
「全部を一気に暴くのは難しいけど、少しずつ、ね」
カリーナは、自分の端末をポケットから取り出してみせた。
「被験者の家族にも連絡取れるようになってる。あとは、ちゃんと話を聞いて、ちゃんと世に出す人が必要なんだよ」
「それをお前がやるのか」
「ひとりじゃ無理だけどね」
カリーナは肩をすくめる。
「だから、戦闘担当と交渉担当の二人組ってことでどう?」
「勝手に役割を決めるな」
「でも、間違ってないでしょ?」
ヴィンターは、否定しなかった。
数日後。
二人は小さな事務所を借りた。
元はクリーニング店だったらしい、少しくたびれたテナント。
ガラス扉に貼られていた古い店名を剥がし、簡単なプレートだけを新しくつけた。
〈調査相談室〉
雑な名前だが、今のところはこれで十分だとカリーナは言った。
壁には、被験者リストの中から特定できた人々の名前と写真が貼られていく。
若い兵士。
初老の研究者。
笑顔の女性。
性別も年齢もバラバラな彼らの下に、小さくメモが添えられていた。
「家族と連絡取れた人には、ちゃんと説明しないと」
カリーナは紙を伸ばしながら呟く。
「軍の嘘の死亡報告だけで済ませるの、さすがにひどいし」
「全部伝えるのか」
「全部は無理。でも、少なくとも、“何も知らないまま”ってのは減らしたい」
ヴィンターは、その作業を黙って見ていた。
事務所には、時折訪問者がやってきた。
ある日は、中年の女性が古い写真を握りしめてやって来た。
机の上に置かれた写真には、軍服姿の若い男が写っている。
「この子が……息子です」
女性は、震える声で言った。
「三年前の事故で死んだと、軍からは……」
カリーナは静かに頷き、ゆっくりと言葉を選んだ。
「息子さんは、第七通信実験分隊の被験者でした」
「被験者……?」
「記憶転送実験に使われたんです」
女性の目に、理解と動揺と怒りが混ざる。
ヴィンターは、そっとその視線を受け止めた。
「彼は、最後まで戦おうとした。自分が何をされているのか理解した上で、抵抗した」
「……そう、ですか」
女性は、写真に指先を滑らせた。
「あの子らしい」
涙を流しながら、微笑もうとする。
「知れてよかった。本当に、ありがとうございました」
この「ありがとう」が、誰に向けられたものなのか、ヴィンターにはよく分からなかった。
ただ、彼は黙って頭を下げた。
別の日には、あのマーク・レイトンの姿もあった。
以前、廊下で遭遇した時は、彼は「複数の誰か」だった。
今、事務所の椅子に座っている彼は、「マーク・レイトン」という一人の人間に戻っていた。
「まだ時々、夢を見る」
マークは窓の外を見ながら話した。
「自分が誰かの記憶を見てる夢だ。戦場だったり、研究室だったり、家庭だったり。目が覚めると、どれが俺の人生で、どれが他人のものか、一瞬わからなくなる」
「辛い?」
カリーナが問う。
「辛くないと言えば嘘になるな」
マークは苦笑した。
「でも、それだけじゃない」
彼はテーブルの上で手を組んだ。
「俺は、他人の人生を覗いた。ある意味で盗み見たんだ。そこで感じたのは……」
言いかけて、少し照れくさそうに笑う。
「生きてるって、すごいことだなって」
カリーナは目を瞬いた。
「……すごい、こと?」
「当たり前を、当たり前のまま続けるってさ」
マークは言う。
「戦場で死んだ奴ら、病気で倒れた奴ら、事故で一瞬で消えた奴ら。みんな、明日も同じように続くと思ってた日常を、一瞬で奪われてる」
彼は、自分の胸を軽く叩いた。
「俺はいま、自分の名前を名乗れるし、自分の好きなものを選べる。たまに変な夢を見るけど、それでも“自分”はここにいる。……それって、奇跡みたいなもんだろ」
ヴィンターは、その言葉を聞きながら、心のどこかが静かに揺れるのを感じていた。
「そうだな」
短く答えた。
夜。
事務所にひとり残ったヴィンターは、机の上に一枚の写真を置いた。
古い、少し色あせた写真。
公園のブランコに座る小さな少女と、その後ろで鎖を押す少年。
銀色の髪の少女は、笑っていた。
今と変わらない、あの笑顔で。
「……エリカ」
写真の中の彼女に呼びかける。
返事はない。
あるはずもない。
それでも、言葉は溢れてきた。
「俺は、正しかったのか」
自分に問いかける。
「お前を殺して、正しかったと、本当に言えるのか」
写真の中の彼女は、ただ笑っているだけだ。
「お前は『ありがとう』って言った。『幸せだった』とも言った」
それは事実だ。
嘘ではなかった、と信じたい。
「でも、お前はもっと生きられたかもしれない」
もっと違う選択肢があったかもしれない。
もっと誰も傷つかない方法が、どこかにあったかもしれない。
そんな「もしも」は、どれだけ考えても答えは出ない。
「ごめん」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
「俺は、お前を守れなかった」
声が震えていた。
「最後まで、お前に頼ってばかりだった」
目の奥が熱くなる。
「……ごめん」
扉がノックされた。
カリーナの顔が、少しだけ心配そうに覗き込んでくる。
「やっぱりここにいた」
「……何か用か」
ヴィンターは、慌てて目元を拭った。
「うん。用、あるよ」
カリーナはずかずかと入ってきて、彼の向かいの椅子に座る。
「ひとりで、そんな顔してたら風邪ひくよ」
「顔と風邪は関係ない」
「あるよ。精神衛生的にね」
カリーナは短く息を吐いた。
「また、自分を責めてた?」
「当然だろう」
「当然じゃない」
彼女は声を少しだけ強くした。
「あなたは、エリカの望みを叶えた。苦しみから解放した。彼女は最後まで、あなたを“お兄ちゃん”として見てた。そこに嘘なんてないよ」
ヴィンターは、机の上の写真に視線を落とした。
カリーナは、その写真を覗き込み、柔らかく笑う。
「いい顔してるね、エリカ」
「……ああ」
「この写真の中の、この子がさ」
カリーナは続ける。
「今のあなたを見たら、なんて言うと思う?」
ヴィンターは答えなかった。
カリーナは、代わりに言葉を出す。
「『ちゃんと生きてるね』って言うと思うよ」
沈黙が、少しだけ穏やかなものに変わった。
「ヴィンター」
カリーナは、真剣な目で言った。
「私たち、これからどうする?」
「どう、とは」
「第七通信実験分隊のことは、少しずつ世に出ていくと思う。でも、それだけじゃ終わらないでしょ。他にも、似たようなことしてる場所がきっとある」
彼女の言葉には、確信があった。
「記憶をいじる技術。人間を武器にする発想。ああいうのって、一か所だけで止まるとは思えないんだよね」
ヴィンターは、少しだけ考えてから答えた。
「探すか」
「うん」
カリーナは頷く。
「隠されてる実験。消されそうになってる人たち。そういうのを見つけて、やめさせて、ちゃんと記録に残す。それが、エリカにできる唯一の“お返し”だと思う」
ヴィンターは、その言葉をゆっくりと飲み込んだ。
「……そうだな」
静かに同意する。
「戦いは、終わってない」
「うん。むしろ始まったばかりって感じ」
カリーナは立ち上がる。
「だからさ」
彼女は、意識的に明るい声を出した。
「まずはちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと生きよう。話はそれからだよ」
ヴィンターは、思わず苦笑した。
「そうだな」
数日後。
二人は、山へ向かうことにした。
通信塔があった場所がどうなっているのか、確かめておきたかった。
かつて施設があった場所は、きれいに均されていた。
瓦礫や鉄骨は片付けられ、簡素なフェンスと、小さな石碑だけが残っている。
そこには、こう刻まれていた。
〈ここに、名もなき実験の犠牲者たちを悼む〉
〈安らかに眠れ〉
「ずいぶんと、きれいな言い方するよね」
カリーナが、石碑の文字を指でなぞる。
「誰の手柄として建てたのか、想像つくけど」
「少なくとも、“なかったこと”にはしていない」
ヴィンターは、石碑の前に立ち、花束を置いた。
白い小さな花が、風に揺れる。
「エリカ」
彼は、石碑に向かって静かに呼びかけた。
「お前の分まで、俺は生きる」
それは、誓いのようでもあり、約束のようでもあった。
「お前が見られなかった景色を見て、お前ができなかった選択をして、お前が守りたかったものを、少しでも守る」
風が吹いた。
暖かい空気が、頬を撫でて通り過ぎる。
「カリーナ」
ヴィンターは振り向いた。
「行くぞ」
「うん」
カリーナは最後にもう一度石碑を見てから、彼の隣に立った。
「次はどこ?」
「まだ決めてない」
「じゃあ、歩きながら決めよ」
彼女は笑った。
「私たち、たぶんそういうタイプでしょ」
ヴィンターは少し考えてから、小さく笑みを返した。
「そうかもしれないな」
山の上で、薄い雲が切れた。
その隙間から、朝の光が差し込んでくる。
東の空が、ゆっくりと明るさを増していく。
通信塔はもうない。
あの鉄骨も、あの赤い非常灯も、あの冷たい機械も。
それでも――
夜は確かに明けていく。
記憶が本物か偽物か。
過去がどれだけ書き換えられていようと。
今ここにある選択だけは、誰のものでもない、自分たちのものだ。
ヴィンター・ノイマンは、朝焼けの空を見上げた。
その隣で、カリーナ・パールヴァティが同じ空を見ている。
「行こう」
カリーナが言った。
「新しい朝だよ」
「ああ」
ヴィンターは頷いた。
「行こう」
二人は、山道をゆっくりと歩き出した。
その足音は、もう逃げるためのものではない。
これから向かう場所へ、一歩ずつ進むためのものだ。
通信塔の夜明け――
それは、一つの物語の終わりであり、同時に、別の物語の始まりでもあった。
第八話 終




