第1話 厄災の魔女(1)
南部諸国群との国境を示す石碑は長年の風雨に削られ、刻まれた文字の半分がすでに読めなくなっていた。
私たちは石碑の横に馬車を止め、振り返ってベルガー王国の地を眺めた。
山並みの向こうに広がる緑の大地は、もうずいぶん遠く感じられる。
「感慨に浸るのはほどほどにしておけよ、ローゼ」
リョウが無愛想に言いながら、私の隣に並んだ。
声音は素っ気なかったが、私の横顔をちらりと窺う目に言葉にならない気遣いが滲んでいるのがわかった。
「うん、大丈夫」
私は苦笑し、前を向く。
私たち一行は、乾いた風が吹き始める南の大地へと足を踏み入れた。
最初の異変に気付いたのは、国境を越えてから半刻も経たない頃だった。
どこまでも広がる砂漠の輪郭が、ゆらゆらと揺れ始めたのだ。
「……あれ?」
ベレニスがレイピアの柄に片手を添えながら、細い指で道の先を指し示す。
「なんか、景色がおかしくない? 砂漠がぐにゃぐにゃ曲がって見えるっていうか……」
「蜃気楼っすね」
フィーリアが目を細めながら答える。
「蜃気楼というものは、炎天下の砂漠地帯でよく見られる現象です。惑わされず、地図に従って行動すれば問題ありません」
ヴィレッタの言葉が終わると同時に、ゆらぎは急速に広がり始めた。
砂漠が、空が、地平線が、まるで水面に映った絵のように波打ち、みるみるうちに私たちの視界全体を呑み込んでいく。
ヴィレッタが素早く私の腕を掴み、レオノールが双剣の柄へと手を伸ばす。
リョウも剣をいつでも抜ける体勢で、周囲を鋭く見渡していた。
「方向がわからなくなった。誰も動くな」
リョウが低く鋭い声で告げると、ゆらぎは完全に静止した。
無音となった世界の中で、私たちは息を潜めていく。
馬車を曳く2頭、フタエゴとバラオビもただならぬ気配を感じ取ったのか、不安げに低くいななき、足踏みをしている。
すると大気を引き裂くようにして、それは姿を現した。
大地が裂けて吐き出したかのように、天を衝く石造りの塔が砂漠の大地に屹立していたのだ。
古びた黒石で積み上げられた塔は、頂上が雲の中に消えるほどの高さを誇り、表面を無数に走る亀裂の間を枯れた蔦が血管のように縫っている。
窓はどこにもない。扉もない――いや、よく見れば塔の基部に一枚だけ、重厚な鉄の扉があった。
誰もが言葉を失う中で、私は、ぐっと息を詰めた。
胸の奥を氷の指で撫でられるような感覚に襲われる。
恐怖ではない。知識が、記憶が、全身の血を逆流させるような確信とともに脳裏で鳴り響いていた。
幼い頃から叩き込まれた魔女の知識。
師であるディルから受け継いだ術式の理論。
旅の途中で手に入れた魔導書に記された古代の術者たちの記録が、一つの答えを指し示している。
「あれは……」
私の口から、無意識に声が漏れていく。
「数百年前の魔女、ヴァレリアの塔……!」
ヴァレリアの名を聞いたフィーリアの顔から血の気が引くのが見えた。
博識にして魔女を警戒する彼女にとって、その名は記録の中だけに存在するもののはずなのに、目の前に聳え立っている事実を目にして。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっす。ローゼさん……! 魔女ヴァレリアって、あの……厄災の魔女の? 今のベルン近郊にいた存在っすよね。根拠はなんすか?」
フィーリアの震える問いに、私は頷いた。
「魔女ヴァレリアの後半生の資料は存在しない。けれど、同時期の他の魔女の文献に、南部砂漠地帯に魔女の棲む塔の伝承がある。塔の特徴は建造物ではなく、魔力によって組み上げられたこと。それが、目の前にある塔と合致する」
「厄災の魔女の名に、ふさわしい魔力ってことっすか」
納得というより、私の魔力を読む能力を信じてくれたかのように、フィーリアは嘆息した。
「厄災ですか? 何をしでかした人なんですか?」
レオノールの問いに、ヴィレッタが記憶の糸を手繰り寄せるように、古文書の内容を少しずつ言葉にして紡ぐ。
「……魔女ヴァレリア。もとはただの主婦だったと聞いています。それが、ある日突然、自分の家族を惨殺し……捕らえられ、処刑されるはずでした」
ヴィレッタは、自分が語る内容の重さに顔を引き攣らせながら続けた。
「……処刑当日に、封じられていたはずの強大な魔力が暴走して。逆に、処刑人も、見物人も、街全体を灰燼に帰した、と伝えられています」
砂漠の乾いた風が、私たちの間を吹き抜けた。
誰も何も言わなかった。目の前に聳える黒石の塔が凄惨な伝承の重さを、全身で体現しているかのように。
沈黙を破ったのは音だった。
ぎぃ、と軋む、重く深い金属音。
誰も触れていない鉄の扉が、内側から押し開けられていく。
冷気が生き物のように塔の内部から這い出てきて、私の足元に纏わりついた。
暗い内部の奥へと続く床に松明の炎が次々と灯っていく。
それに照らされ、石畳が一枚、また一枚と輪郭を浮かび上がらせた。
早く入ってきなさいと、招かれているように。
「入るわけないでしょ! こんな怪しいとこに!」
ベレニスが不愉快そうに叫ぶが、そうも言ってられないようだ。
「砂嵐が迫ってるっすね。あれが蜃気楼の保証はないっす」
フィーリアが指し示す先、視界を遮るどころか身体ごと吹き飛ばされそうな砂塵が、猛烈な勢いで迫ってくる。
リョウが投げた小刀が、砂塵に飲まれ、上空に弾かれていく。
「避難するしかなさそうね。塔の中に」
私たちはフタエゴとバラオビを連れ、頷きあって慎重に塔へと侵入した。
全員が内部に入ったと同時に、バタン! と扉が閉まる。
即座にクリスが扉を開けようと試みるが、彼女の膂力をもってしても開かない。
やがて扉そのものが、最初からなかったかのように消えた。
「どうする~? 竜に変身すれば壊せるかも知れないけど」
「待って、クリス。まずは塔の主と話し合いをするから」
私はそう口にし、松明に照らされた塔内部を見つめていく。
クリスが赤竜に変身しても塔が壊れる保証もない。
逆に、得体のしれない罠が発動する可能性がある。
思考をまとめていくと、どこからか風が吹いた。
『あら? 珍しいお客様ね。歓迎するわ』
風に乗り、澄んでいて、若く、美しく、それでいてどこか温度のない不思議な声が聞こえてくる。
塔の内部から響いてくるのに、私の耳元で直接囁かれているような奇妙な近さがあった。
「何者だ! 答えろ!」
リョウの叫びに、一拍の間を置いて返答が返ってくる。
『魔女ヴァレリア。あなたがたは? 見たところ不思議な御一行ね。剣士に魔女、エルフにドワーフ、王女に聖女、それに……赤竜までいるなんて』
一目でわかる長い耳のベレニスはともかく、初見で戦闘もせずにこちらの属性と種族を言い当てるなんて不可能に近い。
彼女自身の特殊な能力か、それともこの塔が見せる幻の声か。
「私は魔女のローゼ。お話があります。戦闘するつもりはありませんので、穏便に迎え入れていただけたら幸いです」
『そう……でも、中へ進むのは魔女だけにしてちょうだい。それ以外の者はそこで待機していてくださいな』
「……わかりました」
『ふふっ。約束を破り、魔女以外が踏み入れれば、敵対行為とみなして塔の防衛魔法を起動するわよ』
脅しの言葉ではない。あくまで当たり前として告げたのだと感じた。




