十一章
シップはまもなく三週目のホールディングの最終旋回に入る。この周回でホールディングを離脱するにはそろそろチトセ・アプローチに連絡をとりたい。客室の準備が整うのをひたすら待つ。さっきはああ言ったものの、あれだけの乗客の対処をするのだからかなりの時間がかかるだろう。もう一周しても仕方ないか。
ぽーん。
「はい。コクピット新川です」
『も、もしもし。R1佐藤です。客室準備完了です』
「え、もう?」
『うん。かおちゃんのアイデアでね、避難訓練ってことにしたの。そしたら皆さんおもしろがってライフベスト着て、安全姿勢も覚えてくれたよ』
なるほど、相変わらずよく考え付くものだ。
「ラジャ。まもなくホールディングを抜けてアプローチを開始します。この後はランディングまでキャビンへ連絡できないと思いますがお互い全力を尽くしましょう。佐藤さん、客室のみんなにありがとうって伝えておいて」
『ラジャ。がんばろうね』
キャビンとの交信が終わるや否やすぐにチトセ・アプローチにシップの意向を伝える。既に最終旋回に入り機体は緩やかな左バンクになっている。
「チトセ・アプローチ。こちらアビエーションスクール101。ランウェイ36RへのGCAアプローチを要求します」
〈こちらチトセ・アプローチ。まもなく36Rの準備が整います。貴機はそのままヘディング180でホールディングを離脱、3000フィートまで降下してください。以降はファイナル・コントローラーまでレーダー誘導します〉
「了解。ヘディング180、3000まで降下する。アビエーションスクール101」
左旋回を180度で止め、再び太平洋上に出る。ここから一旦南下し、西に進路をとり千歳基地に向かう。
減速し、その分の揚力を確保するためにフラップを15度まで降ろす。
「フラップス15」
言いながらフラップ・レバーを15まで引く。
自分で指示して自分で実行。一人での作業にも違和感は無くなってきた。
「ねえ、新川君」
「ん?」
「私、父に会ってみようと思う」
晴夏が目を瞑ったまま、言う。
「新川君みたいに、私も逃げ続けるためだけに飛んできた。でもこれからはそうじゃいられない。飛び続けるなら自分のためじゃなくて乗客のために飛ばなきゃならない。今の私にはその資格は無いわ。だから、ちゃんとしようと思う」
ちゃんとする。
その単語は健や彼女にとってはこれ以上ない程の恐怖に感じる。何においてもまずやらなければならなかったことから、今までずっと逃げてきた。その逃げてきた時間の長さが、きっとこの恐怖心を生むのだろう。
彼女に聞いてみた。
「怖くないの」
「めちゃくちゃ怖いわよ。だから、新川くんも一緒にどう?」
「なんだよそれ」
「新川君も一緒に頑張るなら、私も頑張れそうな気がするから」
「それもキャプテンの命令?」
「ううん。個人的なお願い。お願いします、力を貸して。今回のランディングとこれで、貸し借り無しってことで」
「俺のさっきのはお願いにカウントされてたのかよ」
「お願い。私はあなたを信用するから。あなたは私を信用してほしい」
ずるい。それを言うか。
「……いいよ。わかった」
「ありがとう」
そう礼を言った彼女は、ゆっくりと目を開く。その眼前の風防の外はすっかり日も落ち、暗闇になっていた。その暗闇から目を逸らさず、健と晴夏は地上へ向けて降下を続ける。
「あと、佐藤さんにはちゃんと返事しなさいね。これはキャプテン命令よ」
「それこそなんだよ!!」
〈アビエーションスクール101。ヘディング270まで右旋回してください〉
間髪入れずにレーダーから指示が出る。MUKAWA・VORから南へ大体8マイル。ここから右旋回し西へ、滑走路方向に対して垂直位置になるように飛ぶ。相変わらず右旋回だけは厄介で、その上低空でエンジンを吹かしている分さっきよりもタチが悪い。フラフラと定まらない機首を何とか押さえつけて旋回をする。
「――ったく、こっちの気も知らないで」
そう悪態をつく。その言葉に入り混じる感情は嫌悪ではない。暗闇の風防に映る健の姿は笑っていた。
「そんなこと言っちゃだめよ。あっちは親切でやっているんだから」
そうたしなめる彼女も、さながら子を諭す親のように穏やかだ。
俺は、俺たちはこの状況を愉しんでいるのか。だとすれば俺たちはもうパイロットどころか人間失格かもしれない。
通常通り新千歳に降りるパターンであれば、このまま先ほど通過したYUKIIポイントへ向けてもう一度右旋回を行う。今回はさらに西側へ進む必要があるのでいくらかレーダーで引っ張られる。そこから先はもう、健にとって未知の領域だ。
〈アビエーションスクール101。125.3MHzでチトセ・GCAにコンタクトしてください。あともう少しだ、がんばれ〉
いよいよ管制がGCAに引き継がれる。
「チトセ・GCA。こちらアビエーションスクール101」
〈こちらチトセ・GCA。これよりランウェイ36Rへ誘導を行います。誘導限界高度は300フィート。場内経路上で1分、ファイナルで5秒以上通信が途絶した場合はチトセ・タワーと交信してください〉
この、もし通信が途絶したら、という文言が余計に緊張させる。
〈アビエーションスクール101。ヘディング350度に右旋回、1500フィートまで降下、維持してください〉
滑走路へ向けて最後の右旋回を行う。相変わらずふらつく機首を右手と両足で落ち着かせ、どうにか北へ針路をとり、最終進入速度へ減速するためにフラップを30度まで降ろす。
〈アビエーションスクール101。誘導をファイナルコントローラーへ引き継ぎます。周波数はこのままで待機してください〉
ややあって。
〈アビエーションスクール101。こちらファイナルコントローラーです。無線の感明度いかが?〉
「アビエーションスクール101。感明度良好です」
〈アビエーションスクール101。以後、こちらからの送信に対して応答は不要です。風は300度方向から12ノット。機首方位そのままで進入を継続してください〉
もうすぐだ。ギアを降ろし、フラップを40度まで下げる。目一杯翼を広げた機体は頭を少し上げ、地面に降り立つ準備を整えた。
隣では晴夏が苦痛に顔を歪めながら左手を伸ばし、HUDを引出していた。これで滑走路の視認確認と、健に指示を出すための機体姿勢監視の両方ができる。
〈グライドパスに接近しています。まもなく降下開始です〉
鼓動が高鳴る。もう一度シートの位置を調整し、オートスラストを解除する。この先は、両手足の感覚と彼女の指示だけが頼りだ。もう、彼女の方を向くこともできない。健は計器盤を見ることだけに集中し、晴夏はHUDを覗くことだけに集中する。二人とも、真っ直ぐ前を見据えたまま。
〈降下開始せよ〉
きた。視界の外にいるはずの彼女に、一言告げる。
「行こう」
「ええ」
乗員乗客159人を乗せた70トンの機体は速度138ノット(時速255㎞)、2.5度の降下角で最終進入を始めた。
〈接地点まで7マイル、初期の降下率は良好〉
7マイル地点を通過した。
客室に一言だけ告げる。
「着陸二分前。ツー・ミニッツ・ビフォア・タッチダウン」
言い終えるや否や、左前方から押し返されるような力を感じた。ファイナルコントローラーはその動きをレーダー越しでも見逃さない
〈コースのやや右寄りです。機首方位348度まで左旋回してください〉
「バンク左に2度。パワーそのまま、ピッチプラス0.5度、差はラダーで調整」
GCAの指示を、晴夏が健にわかりやすく伝える。
〈機首方位348度。コースに戻りつつあります。ギアは降りていますね〉
「ギアダウン、ロック確認済みです」
規則上返信はいらないのだが、ギアの確認だけは復唱するのが慣例になっている。
〈機首方位352度へ右旋回。接地点まであと5マイル〉
コース復帰したため右へ針路を戻す、慎重に。
瞬間、隣から怒号が飛ぶ。
「遅い!バンクさらに右に3度、スラストに触るな!差はラダーでどうにかしなさい!」
エンジン爆発以降、機首を押さえつけている両足はとっくに悲鳴を上げていた。機首方位のバランスを取るためにスラストを絞りたくなるが、降下パスに影響が出るためにそれはできない。痺れる両足で微調整を行う。
「そろそろバンク戻して、そっと、そっとよ」
操縦幹を少しだけ左に戻す。
〈接地点まで4マイル、コース良好〉
「パワープラス5パーセント」
なぜ?
「早く!頭を余計に振った分、高度が死に始めてるの!」
慌ててパワーを入れる。しかし、それに気を取られたせいで手元が緩み、エンジンパワーに押されて機体は右へ滑っていく。すぐに修正しようとする。
が―、
「バンクそのまま!パワーを増すのはあっちも解ってる!」
〈グライドパス良好、コースのやや左寄りです。353度まで右旋回〉
「バンク右に2度。パワー戻して」
――愉しい
やはりさっきの感覚は間違っていなかった。俺は、今この瞬間がたまらなく愉しい。この機体の状態も、GCAも、彼女の怒号も、すべてが俺を愉しませている。
〈接地点まで3マイル。コース、グライドパス共に良好〉
左右に蛇行した機体は適正コースに戻った。しかしそれもつかの間、風は気まぐれに息継ぎを起こす。それを感覚で察知し、計器を見ながら修正する。しかし滑走路の位置がわからないため、どうしても誤差が生じてしまう。
〈グライドパスのやや下にいます、降下角を修正してください〉
「パワープラス7パーセント。次頭振ったら殺すわよ」
「わかってるよ。激しい女だな」
パワーを増した分の機首の振れ具合はさっきので掴んでいる。両足と右手を機体バランスの丁度釣り合うところへ持っていく。
〈グライドパスに戻りました。そのまま進入を継続してください〉
「そうよ。やればできるじゃない」
「どうも」
女王様のお褒めに預かり真に光栄。俺は、ひょっとしてMなのか。そんなはずはないと思いたいが、もしそうでないとしたらこの愉しさはどこからくるのか。
〈コース、グライドパス共に良好。ランウェイ36Rへの着陸を許可します。風は310度から11ノット〉
「着陸許可、了解」
このままいってくれ。
「お願い……、このままいって……」
健の心の中を編むように彼女が呟く。その一言は、操縦はしていなくとも彼女の意識は機体を介して健と共ににあるからこそのものだった。
その一言で、俺は愉しさの正体を知った。
俺も、彼女も、ファイナルコントローラーも、八重概算も佐藤さんも悠君も他のCA達も、このボーイング737を通じて気持ちを共有しているんだ。
だから、愉しいんだ。
誰かと気持ちが繋がるのは、こんなにも愉しいものなんだ。
そして同時に、俺はあの姉がどうして空を飛ぶことを許されなかったかも察した。
あの天才には、誰も近づけない。
あの天才の気持ちは、誰も共有できない。
だからダメなんだ、あの人は誰とも繋がることができないんだから。
彼女は、人類の外側にいるような存在なのだから。
初めて俺は、自身が凡人であったことを誇りに思った。今ここで繋がっている全ての人間も、恐らくはこのボーイング737を造った人たちも現在の航空システムを作った人たちも、果てはリリエンタールやライト兄弟でさえも、凡人だったんだ。それらすべてが集まって、人の叡智なんだ。
心の中で叫ぶ。
ならばボーイング737よ!凡人の努力の結晶よ!人の叡智が造り出したものであるならお前の翼で俺たちを、生きて地上に降ろしてみせろ!
一瞬だけ視線を計器から上げる。ランディングライトに照らされた雪の粒が暗闇の中、キラキラと光の濃淡をつくる。その先にあるはずの無数のランウェイライトは未だ視認することはできない。少し視線を手前に戻すと、ニヤけ面で風防に映っていた筈の俺が、辛気臭い顔でこっちを見ていた。
――怖くないのか?
大丈夫だ。コントローラーが導いてくれる。
――コントローラーの意図するところが、お前にはわかるのか?
大丈夫だ。二荒さんが適切な指示をくれる。
――乗客はどうだ?機体に万が一のことがあっても無事に彼らを逃がすことができるのか?
大丈夫だ。CA達が命がけで彼らを守ってくれる。
――なんだ、結局は人任せじゃないか。
そうだ、俺は皆に任せている。俺は皆を信用しているからこそ、安心して任せられる。
――どうしてそう言い切れる?
皆が俺を信用して、俺に操縦幹を任せているからだ。
そう心で強く言い聞かせる。次に瞬きするときには、もう一人の健の姿はどこにもなかった。
〈接地点まで2マイルです。コースの右側に移動しつつあります。機首方位350度に左旋回してください〉
「バンク左に3度」
「おう」
「遅い!!大きすぎ!!舵はもっと早くっ!!小さくっ!!」
「おうっ!!」
やっべ、超愉しい。
〈接地点まであと1マイルです。機首方位352度に右旋回。コースのほんの少し右側です、調整してください。グライドパスは適正です〉
一瞬、ほんの一瞬だけ、1度程左にバンクさせた後、機首方位を352度へ合わせる。
「――っ、いいわ、今の合わせ方でいいのよ。よくやったわ」
笑いながら答える。
「当然」
「これくらいで得意になってもらっちゃ困るけどね」
そう返す彼女も、完全に笑っていた。
〈まもなく誘導限界高度に到達します。目視により着陸してください。滑走路が視認できない場合は復行してください〉
レーダー誘導の限界地点、高度300フィートが目前に迫っていた。計器から視線を上げてはいけない健は高度計の数字を凝視する。この数字が300になる前に、滑走路が見えなければ全てが台無しになる。310フィート、305フィート、そのとき――
「ランウェイ・インサイト!!」
晴夏が歓喜の叫びをあげた。
それをコントローラーに伝える。
「ランウェイ・インサイト」
〈了解。着陸後はチトセ・タワーと交信してください〉
「了解。協力感謝します。グッデイ」
すぐに、キャビンへ最後の一報を入れる。
「着陸30秒前。衝撃に備えてください。ブレス・フォ・インパクト」
キャビンへのアナウンスを終え、計器から視線を上げる。
そこには、煌びやかに輝く無数のランウェイライトが散りばめられていて。
機体は、その中央めがけて降下していた、
『着陸30秒前。衝撃に備えてください。ブレス・フォ・インパクト』
新川君のその一言で、私達は人格が変わる。
「頭を下げて!!お腹に力を入れて!!」
全身の力を振り絞って叫ぶ。
かおちゃんも、浅海君も、ジュンジュンも、クボミも、るこも、皆一様に叫ぶ。
こんな姿、お父さんやお母さんはおろか、亜希ちゃんにも見せたことがない。はしたないって怒られちゃうかな。
でも、私は叫ぶのを止めない。
「頭を下げて!!顎を引いて!!お腹に力を入れて!!」
それがお客さん達の生き残る唯一の手段で。
それを叫ぶのが私のお仕事だから。
進行方向の後ろ向きに座っている私の視界の端に、ランウェイライトが走っていくのが見える。その走る角度や迫りくる速さから、私は心の中で安堵する。
それは、いつも見慣れた光の線で、いつも見慣れた流れ方をしていたから。
でも、油断してはいけない。キャビンのドアが開き、お客さんが降機するまでがお仕事だから。
だから私は叫ぶ。
「頭を下げて!!お腹に力を入れて!!」
200フィートを切った瞬間、左前方からの風が息を弱めた。
本来なら右へ舵を切るところだがそうせずにエンジンを少しだけ吹かす。
「――っ?」
晴夏は何か言いたげな言葉にならない吐息を漏らしたが、すぐに健の意図を察してそれ以上何も言おうとはしなかった。
これなら降下率は過少になってもその分、不安定な右旋回をせずに済む。
設置目標が足元を流れていく。
しかし高度は依然として150フィートを示していた。
まだだ、まだ慌ててはいけない。
慎重に。慎重に。
『ワンハンドレット』
あと100フィート。
『フィフティ』
足元にはもう、接地目標はなかった。
『サーティ』
また、風が息を吹き返す。だがもう、この高度ではどうしようもない。
『トゥエンティ』
スラストを、アイドルまで下げる。
『テン』
そしてほんの少し、左へバンクを取る。風上側の脚から着けるのが、横風時のマナー。
続いて伝わった下からの振動は、聞きなれ、感じなれた心地よいものだった。
センターラインから若干右寄り、滑走路末端から1000メートル付近に着地した。
ここで初めて全ての元凶。憎きスピードブレーキ・レバーを思い切り手前に引く。
翼をバタつかせる振動も、体を前に投げ出そうとする程の空気抵抗も、今となっては待ちわびたものだった。
リバースが使えない分、フットブレーキを目一杯踏みつける。減速させるための手段が限られているため、速度は一向に減ってくれない。
体感では既に滑走路を2000メートル以上使ってしまっている。
しかし健も晴夏も慌てることなく、むしろ既に安堵の表情になっていた。
滑走路の先、3000メートルを過ぎてもランウェイライトの線は続いていたからだ。
千歳基地のランウェイ18L/36Rの北側には1000メートルの過走帯がある。
なのでこの滑走路は実質4000メートルあることになる。南側から進入するときだけ、この滑走路は4000メートルになるのだ。
その過走帯まで贅沢に使い60ノットまで減速する。最後の高速脱出路を出て右折すると、一面大雪原の巨大なレフ版に反射され、煌々と光り輝く新千歳空港のターミナルが遠くに見えた。翼や胴体に雪をたくわえながら、そこへ向かってゆっくりとタキシングしていく。
ふと思いつき、インターホンにチャンネルを合わせる。
「皆様、当機はただ今新千歳空港に着陸いたしました。尚、定刻より45分ほど遅れての到着となりました。飛行機が遅れましたことをお詫びいたします。本日は、ご搭乗頂きありがとうございました。またのご搭乗を乗務員一同、心よりお待ちしています」
そう言い、チャンネルを切る。
そして白々しく、
「あ。キャプテンがおやりになった方がよかったですか?」
と隣に問う。
晴夏は「ふんっ」と鼻を鳴らし。
そして、
「まあ、コパイにしては上出来ね」
と目を瞑ったまま笑った。




