十章
CA二人にはそれぞれジャンプシートに座ってもらい、持参してきたカップを受け取る。中身はただのミネラルウォーターだったがそれが今はとてもありがたかった。
それをぐいっと飲み干しカップホルダにある先客にそのまま重ねる。隣に目をやる。晴夏はカップに口を着けずにずい、とこちらを見やんでいた。さっきまでの怒りは尚も引き継いでいるようだった。
それを見て少しふわふわした気持ちになる。今日一日だけで随分と彼女の様々な喜怒哀楽に触れてきた気がするのだが、自分に対してこうも直接的なものを向けられるとは思ってもいなかった。なんだろうな、この感じは。
「ねえ、いい加減どういうことか説明してもらいたいんだけど」
そう言い、不満を露わにしながら顔を寄せてくる姿を見ても、この謎の感覚は消え去るどころか一層増していくばかりだった。
ふうっ、と。決してネガティブではない溜息を一つする。
「このまま千歳に降ります。使用する滑走路は36R、GCAアプローチを行います」
「36R?」
「GCA?」
香織と早希が交互に首を傾げる。なんのことだかさっぱり、という表情だ。
そして唯一、健の発言の意味を理解している人間が一人。
晴夏がため息交じりにこう続けた。
「――千歳基地よ」
空軍千歳基地。新千歳空港の西側にある、二本の滑走路を有する空軍北の砦。新千歳空港と千歳基地は隣接してはいるものの空港と基地、法的には別の飛行場とされている。
だが、かつて千歳基地は旧千歳空港と滑走路を共用していたことがある。そのため基地と空港とは誘導路がつながっているし、管制も一括して空軍で行っている。基地の滑走路は空港のそれと並行に設けられているから混同を避けるために空港側の01/19とは違い36/18を名乗っている。
早い話が千歳には滑走路が四本あり、普段は官民で二本づつ分け合って使っているのだ。
「それで、今回はお隣を使わせてもらうってことだね」
香織が確認をとるように重ねて言う。
「で、でもっ。そんなことしていいの?」
それに呼応するようにぷるぷると頭を震わせて早希が疑問を投げた。
「まあ滅多にあることじゃないけれど、ダメだっていう決まりもないんだよ」
過去に民間機が千歳基地の滑走路を使った事例は稀にある。
だから問題はそこではない。そこではないのだけれど、もう一つの問題というものがいかに問題であるかを健はどうにかしてこの三人に伝えなければならない。
どうしたものかと一瞬考え、その後口から出た言葉は自分自身からしても意外なものだった。
「二荒さん。さっきのあれね、実は半分くらい嘘」
「えっ?」
「俺が航学に来た理由。家族の顔を見たくなかったからっての、半分くらい嘘なんだ」
「新川君こんな時になに言って……」
健の頭がおかしくなったのでは、と心配するような困惑するような表情をつくる彼女。見ると香織も早希も「何を言っているんだ」というようなな表情をしている。
全くもってその通りだと思った。俺は何をやっているんだろう。
でも――
「俺、姉が嫌いでここにここに逃げてきたんだよ」
どうしてだろう――
「俺の姉はすごい人でさ、多分天才ってああいう人をいうんじゃないかと思うんだ。勉強でもなんでも一度見聞きしたことは絶対に忘れないし、スポーツでも芸術でも何をやらせてもすぐに本業の人をあっさり負かしちゃうくらいのことをやってのけるんだ」
どうして俺は今こんなにも――
「幼い頃はそんな姉が大好きで俺にはヒーロー同然だったんだけど、小学校に上がる頃には俺も人並みに世間が見えてきて、姉がいかに異常なもんなのかわかるようになった」
ふわふわしているのか――
「そんなのがキョウダイにいるともう地獄でさ、俺はどこへ行っても『天才の弟』で『新川健』なんて個人はどこにもいやしなかった。そのへんを歩けば初対面の人でもみんな俺を知っているんだよ。ああ、あの天才の弟ね、って。親戚もご近所さんも学校の先生もみんなそんな具合で、俺を姉の付属品くらいにしか思っていなかったんじゃないかな」
事態は最悪で――
「そんな姉が中学を出るとき、航学を受験して落ちたんだ。あの天才でも立ち入ることができないところがあるなんて、俺は夢にも思わなかった。それを聞いてからはいつも航学のことが頭から離れなくってさ、俺も中学を出たら受けてみようと思ったんだ。ああ、もちろん受かるなんて思ってなくて、ただあの姉を拒絶した世界がどんなもんか見物したかったってくらいの理由なんだけどさ」
気持ちのいい話をしているわけでもないのに――
「そしたらまさかの合格さ。その時以上の嬉しさを、俺は未だに味わったことがないよ。パイロットになれるってことよりも、難関を突破したことよりも、姉を差し置いて自分が選ばれたってことが何よりも嬉しかったんだ。そうして航学に入った新川少年はそらもう死に物狂いで努力したよ。なんせ俺にはもうここしか居場所がなかったからね。俺には、この操縦幹しかすがりつけるものがなかったんだ。次席になれたのはそのオマケみたいなもんでさ。ただ俺は、操縦席から引きはがされてもう一度姉のいる世界に連れ戻されたくなかっただけなんだよ」
どうしてこんな気持ちになるのだろう――
「あの、その……、なんて言っていいかわからないけど……」
早希がおずおずと口を開く。
「それ、笑いながら言う話、なの?」
言われて気づく。風防の暗さに反射し映し出された俺の口元は、確かにニヤけていた。
「で、その新川君の嬉し恥ずかし昔話を聞かされて私たちはどうすればいいのかな」
香織はここまでの話をさもなんでもないような風に疑問を投げかける。
「あ、うん。まあ、今のは着陸に関係あるかって言われたらあんまりないんだけど。ところで、八重樫さんと佐藤さんはGCAアプローチってなにかわかる?」
「ううん」
「いや」
「GCAアプローチってのは視界が悪い時に管制官がレーダーで監視して飛行機に口頭で指示を出して着陸させる方法なんだ。もっと下とか、もっと右とかってね」
「なんかスイカ割りみたいだね」
それを聞いて早希が微笑む。
さすが、普段からスイカ二つを身体に付けている人は言う事が違う。
「その例えは言いえて妙かもね。でも、これが意外とバカにできなくって誘導電波を使うILSアプローチのカテゴリーⅠと同じくらいの精度があるんだ。今の視程は丁度ILSカテゴリーⅠの範囲内なのでこの方式で着陸します」
「ふむふむ。でも、まださっきの新川君の話が結びついてこないよね」
まあ、うん。そうだろうな。さっきのはそもそも、これを言うための前振りみたいなものだから。
俺は決して物怖じせず、あくまで堂々と、事の本題を口にした。
「俺は、GCAアプローチが苦手です」
「へ?」
「えと……、冗談、だよね?」
「……本当よ。彼、那覇で一度墜落未遂を起こしてるもの……。36Rへのランディングは私も考えたけど、羽田に戻るべきだと言ったのもそれがあるからよ……」
ここでようやく晴夏が重たい口を開いた。開き喋るとすぐに口直しをするようにカップの水に口をつける。健がGCAを苦手としているのはやはり彼女も知るところにあったようだ。どうりで羽田へ戻ることを強固に主張し、千歳基地に降りると宣言してからこのかた、だんまりを決め込んでいたわけだ。
「ちなみに俺が次席なのはそのとき落としたスコアが原因なんだよね」
「いや、あの、そこまでは聞きたくなかったかなー」
香織が苦い顔をする。
「さっき昔話をしたのは、なんていうか覚悟みたいなものでさ。もしもこの着陸が失敗したとしたら、当然フライトレコーダーとボイスレコーダーは解析されることになるわけで、そうしたらさっきの話も世間に知られることになる。俺としてはそんなことは絶対に嫌だから命がけで成功させようっていうものだったんだよ。だから、客室のみんなにもそれくらいの覚悟で臨んで欲しいんだ」
「じゃっ、じゃあ私も!」
早希が文字通り声を大にして言う。
「私も覚悟を決めるっ!!」
早希はそのまま背筋をピンと張り、すうっと深く息を吸い込んだ。ただでさえ大きい胸がさらに膨らむ。
「新川君っ!!このフライトが終わったらこの間の告白の返事を聞かせてくださいっ!!」
「ごぶふうっ!!」
誓って言うがこんな下品に吹いたのは俺じゃない。吹きたいくらいに驚いてはいたけれどあいにく俺は口に何かを含んでいなかったのだから。今この場で口に水気を含んでいたのは唯一人。
「ちょっ、ごぼうっ!なにそれ、どういうっ、げほっ。こ、こくはくっ!?」
二荒さんが俺の顔めがけて盛大にリバースしてくれた。俺の顔、びっしゃびしゃ。
「……これは軍隊式の気合の入れ方ですかキャプテン?」
「そんなことはどうでもいいでしょ!!なに!?佐藤さん、あなた新川君に告白したの!?あのお付き合いしてください、とかっていうあれ!?」
いつも冷静沈着で有名な二荒晴夏が今日一番の動揺を見せる。
「うん、えと。その……、お正月に、ね」
「それで、まだ返事をもらってないの?」
「う、うん。なんか、いろいろあって聞きそびれちゃった」
「いいこと新川君!!フライトが終わったらすぐに佐藤さんに返事なさい!!」
キャプテンからとんでもねえ指示が飛ぶ。それに唖然としてる間にこのしたたる水の怒りもどこかへいってしまった。
「さ、佐藤さんさ、どうしてこんな時に言うかな、そゆこと」
「覚悟と、女の子を焦らしていじめる新川君に、ちょっとお仕置き」
「盛り上がってるところ悪いんだけど、客室は具体的に何をしたらいいのかな?」
ここまでのやりとりをさほど気にする素振りもなく、香織は指示を仰ぐ。この人、普段はただニコニコして朗らかな人のようだけど、時たまこんな感じに雰囲気が変わることがある。
「基本的には安全な着陸になると思って大丈夫だけど、機体もコクピットもこんな状態だから何が起こるかわかりません。なので、乗客に安全姿勢をとらせてください。それも、なるべく穏便な方法で」
「簡単に言ってくれるなあ、この女殺しさんは。まあ、それに応えるのが私たちのお仕事だから。お安いご用ですよ、と言っとくけどね」
軽く悪態をつきながらそう言う彼女は、いつもの笑顔に戻っていた。
「コクピットからのアナウンスは着陸2分前と30秒前だよね」
「うん。特に30秒前のだけは絶対に忘れないで」
「了解。それじゃよろしくお願いします。佐藤さんも、力を貸してね」
「はい。新川君と二荒さんも、がんばってね」
そう言葉を交し、二人の仲間はコクピットを後にした
「さっきのあれ、本当に嘘なのね」
あきれたように晴夏が言う。
「うん。やっぱりバレてた?」
「それはそうよ。だってボイスレコーダーは30分のエンドレステープでしょう。さっきの会話が解析されるには30分以内に録音を停止する必要が、機体を墜落させる必要があるじゃない。確かにこのランディング中にトラブルが起こって墜落したとしたら、レコーダーにはさっきの辺りも残っているかもしれないけれど、そもそもランディングできなければ着陸復航したらいいだけのことだもの」
「そうだね、もう一度千歳基地にアプローチしても余所の空港へ行っても確実に30分以上は経過するだろうから、結局あの会話は残っていないかな」
「じゃあなんであんなこと」
はじめ、俺は自身でもどうしてあんなことを言うのか理解できなかった。彼女の言うとおり自分を奮い立たせるためにしては色々と辻褄が合わない。さっきの覚悟だなんだのといった感情にも決して嘘はないのだけど、本当のところはそれ以外にある。だがそれを、いったいどんな言葉にすればいいのだろう。俺は、自分の気持ちをどうやって他人に伝えればいいのだろう。自分の気持ちを人に伝えたことなど、俺にはない。
俺はどうしたい。
違う、こういうことじゃない。俺が何かをしたければ勝手にそうすればいい。俺がなにかをしたいわけではない。
俺はどうなりたい。
これも違う。俺が何かになりたければ好きにどうとでもなればいい。
よく考えろ、これは俺のことであって俺のことではない。俺は、誰に気持ちを伝えようとしている。
――彼女だ。二荒晴夏だ。左隣でケガを負っている、空軍から編入してきた操縦科首席。家に縛られ翻弄されながら、結局はそれにすがり今も空を飛び続け、そして時々それに疑問を抱いている、そういう一人の女の子だ。
いつかの森教官の声が頭にこだまする。
『それに、とってもいい子です。仲良くしてあげてくださいね』
俺は彼女に――、彼女に――
「信用、されたかったんだと思う」
「うん?」
「俺、二荒さんに信用されたかったんだ」
「信用?どうして」
わからない。彼女に信用されたい確固たる理由なんかない。ただ――
「力を貸してほしい。このランディングを確実に成功させるために、二荒さんの力を貸してほしいんだ」
それを聞いた彼女は一瞬呆けたような、虚をつかれたような表情をしていたが、すぐにいつもの凛とした顔つきに整えた。
「もちろん、私はこのシップのキャプテンよ。フライトを成功させるためならなんだってする」
「そっか、そうだよね」
「当たり前じゃない。それで、何をしたらいいの」
副操縦士に積極的に指示を求める機長というのがちょっとおかしくて思わず吹き出しそうになる。が、彼女への頼みを考えたらそうしている余裕もなくなった。
「俺、ファイナルアプローチを開始したらコントローラーの指示聞かないから」
「はあ?」
「俺、どうしてもダメなんだ。GCAの指示通りに飛ばしているのにきちんと滑走路に合わせられないことが何度もあって。なんていうか、あいつらが何を考えて指示を出しているのか俺にはわからないんだ」
GCAコントローラーはレーダー監視中に個々のパイロットの癖や機体特性までも見抜き、それを計算した上でパイロットに指示を出してくる。これは最早神業と言ってもいいくらいだ。だが、どうしても健はその指示通りに飛ばすことができない。それでも訓練の賜物か、多少お粗末になら降ろせるようにはなった。しかし今は機体も機内もこの状況だから、それでは心もとない。
「だから二荒さんがコントローラーの声を聞いて、口頭で俺に指示してくれないか。二荒さんがGCAの指示を聞いて飛ばすやり方を、俺に言ってくれればいい」
「でも、そんなことは……」
はっきり言ってこんなことはありえない。最悪、GCAの指示通りに飛ばせないばかりかさらに危険な飛行になってしまうかもしれない。だが優秀なパイロットは口だけで飛行機を飛ばせるともいう。操縦している人間に指示を出すだけできちんとその通りに飛ばせることができるらしいのだ。俺はそれに賭けたい。
「頼む。俺は二荒さんを信用して二荒さんの指示通りに飛ばす。だから、二荒さんは俺を信用して俺に指示を出してくれないか」
彼女は少しの間考えるようにしていたが、
「わかりました。でも、私のは軍隊式だから厳しいわよ」
と笑った。
穏便な方法、か。簡単に言ってくれるねえ新川君は。でもそういう言葉が出るってことは大分後ろの方にも気を配れるようになったんだね。最後の方は前より大分いい顔になっていたし。お姉さん嬉しいよ。
「でも、あともう少しなんだよねえ」
「ん?かおちゃん何か言った?」
「いんやなにも。みんなをギャレーに集めて。作戦会議しよ」
早希ちゃんと手分けしてCA全員を後部座席に集める。浅海悠介、秋山純、久保美穂、井上薫子、そして早希ちゃんとわたしの計六人。101便のCA全員が後部ギャレーに集合した。すぐに事の次第を皆に伝える。
「穏便な方法で安全姿勢をとらせるって、そんなの習ってない」
すぐに反応を示したのは真面目なじゅんじゅん(秋山純)だった。その通り、緊急事態では乗客はパニックになるのが当たり前で、私たちが受けてきた訓練はそれらを厳しく正しく安全に避難させる方法だった。これじゃ訓練とは前提から違ってくるもんね。
「いっそ、全部正直に話しちゃう?その上で協力してもらうの。みんな聞き分けのいい子ばかりみたいだしいけんじゃない」
クボミ(久保美穂)が言う。その方法も一理ある、けど危険も大きいかなあ。
「でも、そういう人に限ってパニックになるってそれこそ訓練でよく言われているじゃない。無用な不安感を与えるだけだって」
すぐにるこ(井上薫子)から反対意見がでる。
が、それにもすぐに悠君が被せてくる。
「仕方ないんじゃないかな。普通の高校生は狭い機内っていう慣れない環境にいるから既に不安で一杯だろうし。怖がらせるようで悪いけれど」
「そ、そうだよね。私たちは訓練で慣れているけれど、一般の人たちはやっぱり……」
早希ちゃんもそれに乗っかる。どうやら結論は出そうだった。乗客の高校生たちには悪いがここは少し怖い目にあってもらうしかないかなあ。
ん、ちょいまち。
「早希ちゃん。今のもっかいプリーズ」
「え?あ、うん。一般のひとたちはやっぱり――」
「その前」
「え、えと。私たちは訓練で慣れているけど――、」
それだ!
「さすが早希ちゃん。わたしが見込んだだけあってただの可愛い女の子じゃないね。ご褒美に後でちゅっちゅしてあげる」
「えぇ!?い、いいよう……」
そこまで露骨に嫌がられると、女のわたしでも傷ついちゃうぞ。
「かおちゃん。何か思いついたね」
悠君がにやりと笑――わずに、爽やかに微笑み目くばせしてくる。
「まあねん。みんな、避難訓練覚えてる?わたしたちが航学でやってるやつじゃなくてもっと前、小学校から高校までやってたやつ。それでいこ」
誰一人返事はしなかったけれど、この一言で私の考えが全員に伝わったことはみんなの顔を見れば明らかだった。
101便の私以外のCA全員はすぐに所定の位置に移動し。
私は引率の先生を焚き付けに向かった。




