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エピローグ


 そこからはもう、あまり覚えていない。

 タワーに連絡をとり、一番近いスポットへシップを止めブリッジを接続するや否や、コクピットに救急隊が駆け込んできて晴夏を迅速かつ丁寧に搬送していってしまった。彼女が離れた後の機長席の背もたれにあった、血の赤色だけは今でも鮮明に覚えている。

 一人残されたコクピット内で、健は各部の電源を落としたり飛行日誌を記入したりということを相変わらず興奮状態のふわふわ感の中でやっていたのだが、コクピットに入ってきた二人組の空港関係者に即刻降機するよう命じられた。

 降機させられる際にキャビンの中を一瞥したが、乗客はおろか客室科の生徒の姿もそこにはなく、恐らくは彼と同じように関係者に連れて行かれたものだろうと察した。

 空港施設内の小会議室に通された健は、差し出されたペットボトルの水をがぶ飲みしながら、以下のことを聞かされた。

 今回のフライトはインシデントに該当する。今後航空局による事情聴取がある。そしてそれは晴夏の回復を待って日を改めて行う。

 疲労困憊を理由にてんで聞く耳の持たない健の態度に彼らは何か言いたげであったが、必要事項を伝え終えると今日の宿泊場所として用意してくれたらしい千歳市内のホテルまで、タクシーを呼んでくれた。

 午後七時頃ホテルに到着し、ベッドに横たわる。

 本来なら折り返しの回送便でその日のうちに羽田へ戻るはずだったので泊りの用意などしていない。着替えやその他もろもろの買い出しに行かなければならないがそういう気力もなく、健はゴロ寝を決め込んでいた。

 さっきまでの出来事が、すべて夢のようだった。

 客室科の生徒の何人かにメールを送ってみたものの、誰からも返信はなかった。

 やがて疲労の波が徐々に身体を包んでいき。

 健は、そのまま眠りに落ちた。


 スマホの震える音で目が覚めた。

 「ん、……もしもし?」

 『お、やっと出たか健。おはようさん』

 この声は……

 「……弘人?」

 『おうとも』

 部屋の時計を見ると、時刻は午前三時を過ぎたところ。こいつがこんな時間に起床するはずがない。と、いうことは。

 「お前……、寝てないのか」

 『こっちで寝てるやつなんて誰もいないぜ。なんせ英雄たちを囲んでお祭り騒ぎだからな。俺は超眠いけど』

 「祭りってことは……、客室科はもう羽田に戻ったのか」

 『うん。102便の折り返し回送で。20時頃だったかな』

 だとしたら健がメールを送ったときは復路の機上だったということか。どうりで、誰からも返信がなかったわけだ。

 『あまり長話もできないんだ。お前と二荒さんへの連絡は慎むように言われてるんだよ。今もトイレ行くっつって抜け出してこっそりかけてるんだからな』

 「……だったらその通り慎んでくれりゃよかったのに」

 おかげで起こされてしまった。

 『まあ、そう言うな。んじゃ要件だけ言うぞ――』

 続けて弘人の口から告げられたのは病院名と、恐らくは病室番号と思われる3桁の数字だった。

 『んじゃ、確かに伝えたからな』

 「おいちょっと待て」

 『ん?』

 「お前、誰に何を聞いた」

 『え。ん、うん?誰にも?何も?』

 「隠すとためにならんぞ。お前のかわいい弟妹達はお前よりも俺に懐いているのを忘れたのか。俺にかかれば弘人兄ちゃんなる存在をいなかったことにするのは快晴無風の下地島に降りるより簡単なんだぜ」

 『お、俺じゃない、佐藤さんが勝手に飲みすぎて酔っぱらって、それで!!』

 何やら強姦犯の言い訳のようなことを言い出した。

 それから少し雑音があって。

 『ったくもう、弘人のバカっ!なにバラしてんよの!ああ、健?大変だったわね。あんた、今度お姉ちゃんにヤケ酒あおらせるような真似したら、あんたの乗る飛行機全部に先回りしてボルト何本か抜いとくからね。――っとえ、ちょっ、お姉ちゃん!?』

 それからも少し雑音があって。

 『あぁ~、しんかわくんのけいたいれすかあ~?さとうれすぅ~。かえってきたらふたりっきりでひっく、おはなししようねえ~』

 そしてそれからもまた雑音があって。

 『いやあ、ごめんね新川君。なんか明日からの訓練はしばらく中止っていうから、今日は朝までコースになっちゃってさあ。寮長も入り乱れての大宴会ってわけよ。ま、こっちはこういうわけだから新川君も久々の故郷を満喫するがいいさっ。そんじゃお疲れさんっ!』

 つー、つー、つー

「お前らちっとは慎めや!!」

 寝起き早々に通話の途切れたスマホに向かって唾を飛ばした。

 事実上の謹慎期間に大宴会とは、空を飛ぶ人間はやはり凡人ではないのかもしれない。

 まあ、整備場近辺に一般人はほとんど住んでいないから、寮内で騒ぐ分には心配ないのだろうけれど。

 吹きかけた唾をぬぐい画面を見ると、香織、早希、悠の他、どこでどうやってアドレスを入手したのか他の三人の客室科生徒からもちゃんとメールがきていた。文面こそそれぞれ個性豊かでまちまちだったものの、件名はどれも同じだった。それが何故か嬉しくて、またも浮ついた気持ちになった健は、二度寝をすることもできなかった。


 8時頃、フロントから来客があるという電話が入り、健はロビーへ降りて行った。

 昨日、彼を機内から連れ出した空港職員のうちの一人と、航空局の職員を名乗る女性が出迎えた。

 変な時間に寝て変な時間に起き、軽い時差ボケある上に昨日のままの服装という状態の健を見て、またも空港職員は何か言いたげであったが、航空局の職員がそれを遮り、事情聴取は明日の午後、航空局の職員と航学の教官とを交えて新千歳空港で行うので、もう一日ここにとどまるよう言い渡した。それらを伝える最中、その女性職員は航学の生徒のおかげで最小限の被害で済んだこと、乗務員がいかに活躍したおかげかを随所にちりばめて褒めちぎってくれたのだが、それでも健はやっぱり昨日と同じく上の空だった。

 彼らの去り際に外出してもよいか尋ねると、あっさり許可が下りた。明日の正午までは自由にしてよいとのこと。ただし報道関係者とは絶対に接触しないようにと、強い口調で付け加えられたりもした。彼らの車を見送ると、健はフロントにタクシーの手配を頼んだ。

 まもなく到着したタクシーに乗り込み、今朝電話で言われた通りの固有名詞を告げた。すると運転手は一度でその意を介し車両を発進させた。

 雪国特有の圧雪路面の凹凸を拾うサスペンションの振動は心地よい。おまけに今日は快晴で、一面白銀の地面に乱反射する太陽の光が眩しく目蓋は降りがちになり、それらが忘れかけていた睡魔を身体の奥から引っ張り出してくる。

 健の目蓋は徐々に重さを増し、ついには完全に閉じてしまった。


 ずいぶん後になってから、今回のインシデントの最終報告書を読んだことがある。


 アビエーションスクール101便ボーイング737‐800型機(JA73KX)は、離陸滑走中ローテーション速度に達する寸前かほぼ同時に滑走路上の異物をノーズギア右側のタイヤで踏んだ。それによりバーストし飛散した大小8つのタイヤ片はバウンドし、その大半は機体下部を引っ掻いただけであったが、そのうちの二つは右に逸れた。一つは第二エンジンに吸い込まれ、第二エンジン前部のファンブレードに軽微な傷を負わせた。さらにもう一つは右側メインギアの支柱に直撃しローテーション中で伸びきる直前のオレオ式緩衝装置を変形させ、オレオ内筒は僅かに伸びきらない位置で固着した。

 エンジンに吸い込まれた破片が小さかったことと、オレオ内筒の固着位置がわずかにオン・エア位置であったために計器にはタイヤのバーストのみが表示された。

 しかし、スピードブレーキを引いたことが全てを変えた。

 スピードブレーキを展開した時の初期の振動が、オレオ内筒の固着位置を微妙にずらし、そのずれはオン・グランドの位置にまで達した。その瞬間飛行機はそこが地上であると錯覚し、開くはずのないグランドスポイラーが自動的に開いた。

 グランドスポイラーを開いたことによる空気抵抗の増大と、主翼の空気の流れの変化はエンジンを異常燃焼に導いた。数秒にも満たないその異常燃焼は軽微であったはずのファンブレードの傷を徐々に成長させ、そしてついに二回目のグランドスポイラーの展開時にファンブレードは限界を迎え、破断した。

 一枚の破断したファンブレードの破片は連鎖的に他のファンブレードも破壊し、大量の破片となったそれらはエンジン内部に吸い込まれ圧縮機の低圧ブレードと高圧ブレードも破壊した。それらの破片は遠心力により飛散し、一部は機体下部に直撃したものの、奇跡的に他の装置を損傷させることはなかった。しかし一時的に空気の流れを乱されたエンジン内の温度は一気に2500度まで上昇し、エンジン本体は爆発した。最初のファンブレードの破断からエンジンの爆発までの時間は、約3秒間であった。

 異物を踏んだ時点では機体に深刻なダメージは無かったものの、スピードブレーキを引いたことがこれらのトラブルの最後の引き金になった。

 しかし通常の飛行でスピードブレーキを使わないことなどまず不可能であり、小さな偶然が重なった不幸なトラブルであると決定付けられ、乗務員の過失は無いとされた。

 肝心の滑走路上の異物であるが、これはボーイング737型機のテールスキッドの一部であると判明した。先発したボーイング737型機のうち、102便のテールスキッドは損傷の跡がなかった。その日羽田空港のランウェイ34Rを使用した同型機は数多くあり、どの機体の破片であるかは特定されなかった。航学側は直前を離陸していったJA73XJの再調査を強く求めていたが、不思議とその機体は伊丹空港到着後すぐにD整備に回されて当該部位の改修も行われてしまい、当時の状態を再現できないことから調査はされなかった。

 それでも尚強く抗議した教官たちの努力の成果だろうか、報告書の最後は次のような一文で締めくくられていた。

 『――このような不測の事態に際して、運航乗務員も客乗務員も、非常に優れて見事に対処した』と。


 そこは、千歳市内にある公営の総合病院だった。

 受付で件の病室番号を告げると、そこは空室であると一点張りだった。

 しばらくそこで問答した後、ふと思いつき首輪のIDを見せると受付の係員は急に眼の形を変え、どこかへ電話をかけた後、今度はすんなり通してくれた。

 どうにか病室へたどり着く。病室の名札入れは確かに空だった。

 閉ざされたドアを軽くノックする。昨日の怒号とは似ても似つかない穏やかな「どうぞ」の声が返ってきた。

 それを聞き、吹き出しそうになるのをなんとか抑えながら病室のドアを開けた。

 二荒晴夏がそこにいた。

 「すごいな、個室かよ」

 「お見舞いの第一声がそれ?」

 ベッドに身体を起こしていた彼女に歩み寄る。「座ったら?」と椅子を進めてくれるが長居するつもりもないので遠慮させてもらう。

 「容体はどう?」

 「なんともないわ。傷は縫ってもらったから心配ないし、出血も見た目だけで大した量じゃなかったみたい。頭を打ったせいで念のため今日一日は精密検査のフルコースだけど、恐らく大丈夫だろうって。明日には退院できそう」

 「縫ってもらったって、そりゃなんともあるだろ。傷の跡、残るんじゃないの?」

 「残るけど……、乗務に支障はないでしょう」

 「そらそうだけど……」

 こいつも大概凡人ではないかもしれない。

 「私の身体に傷が残るのを心配してくれる気持ちは嬉しいけど、そういうのは佐藤さんとのことをちゃんとしてからにしなさいね」

 「お前昨日からそればっかだな」

 「そりゃそうよ。あの子を泣かせたら、私はあなたを殺すわ」

 「その役はもう足りてんだよ!!お前は佐藤さんのなんなんだ!!」

 「もうちょっと静かに話してくれない。傷に響くじゃない」

 「自分の命がかかってりゃ叫びたくもなるわ!!」

 「昨日は叫んだりしなかったじゃないの」

 「昨日のは……。あれくらいは、できて当然だ。俺はプロだから」

 「そうよね。プロだもの、ね」

 そう言い目が合った瞬間、どちらからともなく吹き出し二人してしばらく笑っていた。

 「――で、それを言いにわざわざここへ?」

 「いいや」

 お互いまだ含み笑いをしながら言う。それを一旦落ちつけたくて、少し呼吸した後彼女に言う。

 「家族に……、姉に、会って来るよ」

 「そう……」

 「借りはなるべく早く返したいしな」

 「私たちは貸し借りだけの関係なの?」

 「それはお互いの努力次第じゃないかな」

 お互い今度はクスリと笑う。

 「私も、東京に戻ったら父に会ってくるわ」

 「うん」

 「これであなたとはフェアな立場になるから」

 「俺たちは出し抜き合いをする関係なのか?」

 「それはあなたの心がけ次第ね」

 「どうして俺だけが悪いような言い方をするかな」

 またも二人で笑い出す。なかなか笑いが収まってくれないのは、ずっと隣にいた人物と初めて真正面から向き合った照れくささのせいかもしれない。

 やがてその余韻も消えたころ。

 「それじゃ、行ってくる」

 「うん。でもそれはいいんだけど新川君」

 「ん?」

 「そのコスプレのまま、行くの?」

 「本職に向かってコスプレって酷くない!?」

 「冗談よ。でも、着替えてからの方がいいと思う」

 「どっかで調達してから行くさ。それじゃ」

 そう言い、きびすを返そうとする。その視界の端に――

 「ん。いってらっしゃい」

 と微笑む彼女の姿が目に入る。その笑顔が何故かとてもずるい気がして、何かひとこと言ってやりたくなった。

 さて、そのひとことをどうしたものかと一瞬思案したところ、それこそ、一番大事なことを言いそびれていたことに気付く。

 「二荒さん」

 「うん?」

 もう一度彼女の正面に向き合い、言う。

 「ありがとうございました」

 ほんの一瞬戸惑いの表情を見せた彼女は、すぐにその意を察し、答える。

 「はい。ありがとうございました」

 そう言う笑顔も、それはそれでずるいと思った。


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