初めて知った、優しさの味
奴隷市場を出てから、しばらく歩いた。
少女は、相変わらず僕の後ろをついてきていた。
距離は、相変わらず遠い。
僕が十歩進めば、彼女も十歩進む。
僕が振り返れば、彼女は慌てて顔を伏せる。
まるで、僕の影を踏むことさえ許されていないと思っているみたいだった。
「……ねえ」
声をかけると、彼女の肩がびくりと跳ねた。
「そんなに離れなくてもいいよ。逃げたりしないから」
彼女は僕の顔を見た。
それから、おそるおそる一歩だけ近づいた。
……一歩か。
まあ、昨日まで奴隷市場にいたんだから、仕方ないのかもしれない。
「ところで、まずは服を買おうか」
僕は彼女の格好を見た。
薄汚れた布切れのような服。袖はほつれ、裾には泥がこびりついている。靴も履いていない。
これでは、街を歩くだけでも目立ってしまう。
「こっちだよ」
僕が歩き出すと、少女は少し迷ってからついてきた。
入ったのは、街の小さな衣料品店だった。
店員は僕を見て笑顔を浮かべたが、隣にいる少女を見た途端、微妙な顔になった。
「いらっしゃいませ。……そちらの子のお洋服でしょうか?」
「そうです。着られそうなものを何着か見せてもらえますか?」
「かしこまりました」
店員は棚から何着か服を取り出した。
どれも丈夫そうで、値段もそれほど高くない。
「好きなのを選んでいいよ」
そう言って少女を見る。
しかし、彼女は服を見つめたまま動かなかった。
「……?」
「どれがいい?」
少女の耳がぴくりと動いた。
けれど、返事はない。
しばらくして、彼女は小さく首を横に振った。
「……い、いら……」
「いらない?」
彼女は慌てて首を振った。
「ち、ちが……」
言葉が続かない。
少女は服と僕の顔を交互に見て、最後にはうつむいてしまった。
ああ、なるほど。
選んでいいと言われても、何を選べばいいのか分からないのか。
それとも、値段が気になっているのだろうか。
「大丈夫だよ。そんなに高いものじゃないから」
そう言って、一番肌触りのよさそうな服を手に取った。
落ち着いた色のワンピースと、上から羽織れる薄手の上着。それから、歩きやすそうな靴。
ついでに、髪をまとめるための小さな紐も買った。
「これならどう?」
少女は、差し出された服をじっと見つめていた。
その目が、ほんの少しだけ揺れた。
けれど、彼女は受け取ろうとしない。
「……も、らって……いい、の?」
途切れ途切れの声だった。
「もちろん。君のために買ったんだから」
その瞬間、少女は固まった。
まるで、何を言われたのか理解できなかったみたいに。
やがて、震える両手で服を受け取った。
「……あ、りが……と……」
最後まで言い切る前に、彼女は口を閉じた。
それでも、僕には十分だった。
お礼を言えるなら、少しずつ会話もできるようになるだろう。
僕は内心で、ほんの少しだけ手応えを感じていた。
よし。
まずは身だしなみを整えて、食事をさせて、生活に慣れさせる。
焦る必要はない。
好感度攻略は、長期戦なのだから。
*
店の裏にある小さな着替え場所を借りて、少女は新しい服に着替えた。
戻ってきた彼女を見て、僕は思わず目を細めた。
服が変わっただけなのに、ずいぶん印象が違う。
まだ痩せすぎているし、髪もぼさぼさだ。それでも、さっきよりはずっと普通の女の子らしく見えた。
「うん。似合ってるよ」
少女の耳が、ぴくりと動いた。
そして、顔が少しだけ下を向く。
……照れているのだろうか。
いや、そんな単純なものでもないか。
彼女は自分の服の裾を、何度も指でなぞっていた。
まるで、少しでも汚したらいけないものを着ているみたいに。
「汚れても大丈夫だからね」
そう言うと、彼女は慌てて首を振った。
「だ、だめ……」
「え?」
「……だめ、に……しない……」
「いや、別に怒らないよ。服なんて、また洗えばいいんだから」
少女は黙ってしまった。
どうやら、まだ理解してもらうには時間がかかりそうだ。
僕たちは店を出て、今度は食堂へ向かった。
*
注文したのは、温かいスープとパン、それから柔らかく煮込まれた肉料理だった。
少女はテーブルの前に座っていたが、料理が運ばれてきても、すぐには手を伸ばさなかった。
「食べていいよ」
彼女は僕を見た。
「……い、いっしょ……?」
「うん。一緒に食べよう」
少女はしばらく僕の顔を見つめていた。
それから、ようやくパンを手に取った。
小さくちぎり、口に運ぶ。
一口。
もう一口。
その動作は驚くほど慎重だった。
まるで、誰かに見られていることを気にしているようだった。
「そんなにゆっくり食べなくても大丈夫だよ。まだあるから」
僕がそう言うと、彼女は慌てて手を止めた。
「……ご、ごめ……」
「謝らなくていいって」
彼女は不思議そうに僕を見た。
「食事くらい、好きなだけ食べていいよ。足りなかったら追加しよう」
少女の手が止まった。
それから、彼女はパンを見つめたまま、小さく尋ねた。
「……あと、も……?」
「うん。もちろん」
少女は何も言わなかった。
ただ、両手でパンを包み込むように持った。
その指先が、ほんの少し震えていた。
……そんなにお腹が空いていたのだろうか。
そういえば、商人も食事をろくに取らないと言っていた。
もしかすると、食べ物を与えられても、いつ取り上げられるか分からなかったのかもしれない。
僕は追加のパンを注文した。
すると少女は、何度も僕の顔を見た。
何かを確かめるように。
「……あ、りがと……」
「どういたしまして」
僕はそう答えて、スープを口に運んだ。
それだけのことだった。
けれど、少女はそのあと、少しだけ顔を上げて食事を続けた。
*
食事を終えたあと、僕たちは街を歩いた。
僕にとっては、どこにでもあるような街並みだった。
武器屋の前には剣が並び、露店には果物や焼き菓子が並んでいる。
子供たちが走り回り、店先では店員が客を呼び込んでいた。
けれど、少女にとっては違った。
彼女は何度も足を止めた。
水路を流れる水を見つめ、噴水の周りを歩く人々を眺め、店先に並ぶ色とりどりの品物に目を奪われていた。
「どうしたの?」
声をかけると、彼女は慌てて首を振った。
「……な、なんでも……」
そう言いながらも、目は店先の小さな飾りに向いていた。
木を削って作られた、動物の形をした置物だった。
犬や猫、鳥などが並んでいる。
値段は安い。
僕はその中から、小さな犬の置物を手に取った。
「これ、好きなの?」
少女は驚いたように顔を上げた。
そして、すぐに首を横に振った。
「ち、ちが……」
「違うの?」
「……み、て……ただ……」
「そっか」
僕は笑って、置物を買った。
そして、そのまま少女に差し出した。
「はい」
彼女は、まるで何か恐ろしいものでも渡されたかのように固まった。
「……え?」
「君にあげる」
「……わ、たし……?」
「そうだよ」
少女は置物を見つめた。
何度も、僕の顔と置物を交互に見る。
「……ど、して……」
「どうしてって……欲しそうに見てたから?」
それを聞いた彼女は、うつむいてしまった。
小さな手が、ゆっくりと置物を受け取る。
そして、両手で大事そうに包み込んだ。
「……あ、りが……と……」
今度は、さっきより少しだけはっきり聞こえた。
僕は満足した。
こういう小さな積み重ねが大切なのだろう。
高価な贈り物をする必要はない。
相手が喜びそうなものを見つけて、自然に渡す。
元の世界でも、そういう気遣いは人間関係を円滑にするものだった。
……まあ、今回の場合は少し特殊かもしれないけれど。
*
そのあとも、僕たちはいろいろな場所を回った。
露店で甘い焼き菓子を買い、広場の噴水を眺め、街の外れにある小さな花屋にも立ち寄った。
少女はほとんど何も言わなかった。
それでも、僕が歩き出すと、今までより少し近い距離をついてくるようになった。
立ち止まっても、以前ほど慌てて離れなくなった。
そして、僕が何かを買うたび、彼女は不思議そうに僕を見た。
まるで、いつか突然終わってしまうものを、一つずつ確かめているようだった。
「疲れた?」
僕が尋ねると、少女は首を横に振った。
「……だい、じょう……ぶ」
「無理はしないでね。疲れたら言っていいから」
彼女は小さくうなずいた。
それから、少し歩いたところで、僕の服の裾をつまんだ。
本当に、ほんの少しだけ。
僕が気づいて振り返ると、彼女は慌てて手を離した。
「……ご、ごめ……」
「どうしたの?」
少女は口を開きかけ、閉じた。
何度かためらったあと、ようやく言葉を絞り出した。
「……い、なく……なら、ない……?」
「え?」
「……い、なく……」
そこまで言って、彼女はうつむいてしまった。
僕は少し考えてから答えた。
「大丈夫。置いていったりしないよ」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の耳がわずかに持ち上がった。
それから、彼女は僕の服の裾を、今度は離さなかった。
……おや。
これは、少しは信頼してもらえたということだろうか。
僕は内心でそう考えた。
*
日が傾き始めたころ、僕たちは宿へ戻った。
部屋は一つ。
もちろん、別々のベッドを用意してある。
少女は部屋に入るなり、入口のそばで立ち止まった。
「そこにいないで、座っていいよ」
彼女はすぐには動かなかった。
僕が椅子を引いて見せると、ようやく腰を下ろした。
それでも、背筋はぴんと伸びていた。
いつでも立ち上がれるように。
いつでも謝れるように。
そんなふうに見えた。
「今日は疲れたでしょ。ゆっくり休んで」
僕がそう言うと、彼女は膝の上で手を握りしめた。
「……なに、も……」
「ん?」
「……しなく、て……いい……?」
どうやら、何か仕事をしなくていいのかと聞いているらしい。
「うん。今日はもう何もしなくていいよ」
少女は黙った。
それから、ひどく小さな声で尋ねた。
「……おこ、らない……?」
「怒らないよ。どうして?」
彼女は答えなかった。
ただ、何度も自分の指先を見つめていた。
僕はため息をつきそうになって、やめた。
焦っても仕方がない。
この子には、今までの生活がある。
一日優しくしただけで、すべてが変わるわけではないのだろう。
「とりあえず、今日は休もう。明日も街を見て回ろうか」
少女が顔を上げた。
「……あした、も……?」
「うん。まだ見ていない場所がたくさんあるからね」
彼女は何も言わなかった。
けれど、膝の上で握りしめていた手が、ゆっくりとほどけていった。
その夜、僕がベッドに入ると、少女は自分のベッドに座ったまま、こちらを見ていた。
「どうしたの? 眠れない?」
彼女は首を横に振った。
そして、少し迷ったあと、たどたどしく口を開いた。
「……あした……」
「うん?」
「……また……いっしょ……?」
僕は思わず笑った。
「もちろん。一緒だよ」
少女は、じっと僕を見つめていた。
それから、ようやく小さくうなずいた。
「……うん……」
それだけ言うと、彼女は布団に潜り込んだ。
顔は見えなくなったけれど、垂れていた耳が、布団の端から少しだけ覗いていた。
……なんだか、少しずつ距離が縮まっている気がする。
僕はそんなことを考えながら、目を閉じた。
明日も少しずつ仲良くなればいい。
そうすれば、きっと好感度も上がっていく。
今の僕は、そう信じていた。
けれど、僕が眠ったあと。
少女は布団の中で、買ってもらった小さな犬の置物を両手で握りしめていた。
壊さないように。
汚さないように。
取り上げられないように。
これは、自分のものなのだろうか。
本当に、もらっていいものなのだろうか。
明日になったら、すべてなくなってしまうのではないだろうか。
そんなことばかり考えていた。
彼女は、優しくされた理由を知らなかった。
ただ、理由があるはずだと思っていた。
身分の高い人間が、見せかけの善行をするために連れてきたのかもしれない。
珍しい獣人だから、実験に使うつもりなのかもしれない。
あるいは、もっとひどいことをするために、今は優しくしているだけなのかもしれない。
どれも、彼女には十分あり得ることだった。
だから、怖くなかったわけではない。
本当は、怖かった。
けれど。
それ以上に、嬉しかった。
服を買ってもらった。
温かい食事を食べさせてもらった。
小さな置物をもらった。
知らなかった場所を、いくつも見せてもらった。
そして、明日も一緒だと言ってもらえた。
そんなことは、今まで一度もなかった。
だから、たとえ何か目的があったとしても。
たとえ最後には捨てられるのだとしても。
今だけは、この時間を手放したくなかった。
もし、この優しさの代わりに何かを差し出さなければならないのなら。
もし、自分に価値がないと分かった瞬間、ここから追い出されるのなら。
そのときは、そのときだ。
自分には、もともと何もなかったのだから。
それでも、今日だけは。
今日だけは、自分のことを見てくれる人がいた。
少女は小さな置物を胸に抱き、目を閉じた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で、たった一つの言葉を繰り返した。
「……あした……」
明日も、あの人がいてくれますように。
それが、彼女のささやかな願いだった。




