僕の後ろにいなさい
その日、僕は街でいくつか買い物をすることにした。
旅に必要な道具や、着替え。それから、しばらく滞在するための食料も買っておきたい。
問題は、隣を歩く少女だった。
相変わらず口数は少ないし、人が多い場所では落ち着かない様子を見せる。
それでも、最近は僕のすぐ後ろを歩くようになった。
少し離れていた距離も、いつの間にか縮まっている。
……まあ、悪い変化ではないだろう。
「ちょっと買い物をしてくるから、ここで待っていてくれる?」
通り沿いの店を指さしながら、僕はそう言った。
店内は狭く、二人で入ると少し邪魔になりそうだった。それに、すぐに戻ってくるつもりだった。
少女は僕の顔を見上げた。
「……ま、つ……?」
「うん。すぐ戻るよ。ここから動かなくていいからね」
そう言って、僕は彼女の頭に軽く手を置いた。
最近、少しずつ分かってきたことがある。
この子は、何かを命じられると、それを絶対に守ろうとする。
だから、待っていてほしいなら、そう伝えればいい。
それだけのことだと思っていた。
「じゃあ、行ってくるね」
僕が店に入ると、少女は言われた通り、店の前に立ち止まった。
*
最初のうちは、彼女もちゃんと待っていた。
通りを行き交う人々を眺め、時々、店の入口を確認する。
カイはすぐに戻ってくる。
そう言われたのだから、待っていればいい。
……きっと。
けれど、少し時間が経つと、胸の奥がざわざわし始めた。
店の中からは、知らない人たちの声が聞こえる。
何人もの人が入口を通り過ぎていく。
そのたびに、少女は顔を上げた。
けれど、待っている人は現れない。
もしかして、何か間違えたのだろうか。
自分が邪魔だったから、置いていかれたのだろうか。
それとも、もう必要なくなったのだろうか。
昨日までは、確かに優しかった。
服を買ってくれた。
食事を分けてくれた。
小さな置物もくれた。
明日も一緒だと言ってくれた。
けれど、それは昨日のことだ。
今日も同じとは限らない。
少女は、自分の手をぎゅっと握りしめた。
待っていなければいけない。
勝手に動いたら、怒られるかもしれない。
でも、このまま誰も来なかったら?
……どうしよう。
胸の奥が苦しくなった。
呼吸が浅くなる。
足元が落ち着かない。
少女は何度も店の入口を見た。
そして、とうとう我慢できなくなった。
「……カ、イ……」
小さく名前を呼んだ。
返事はない。
もう一度、今度は少しだけ大きな声で呼んでみる。
「……カイ……?」
やはり、返事はなかった。
少女は店の入口に近づいた。
けれど、中に入って探す勇気はなかった。
勝手に入ってはいけない。
待っていろと言われたのだから。
それでも、怖かった。
いなくなってしまう。
また、ひとりになる。
その考えが頭から離れなくなった。
少女は、店の前を離れた。
すぐ近くを探せば、見つかるかもしれない。
ほんの少しだけ。
怒られないうちに見つけて、戻ればいい。
そう考えて、彼女は人混みの中へと歩き出した。
*
「……どこに行ったんだ、あの子」
買い物を終えて店から出た僕は、思わずそうつぶやいた。
店の前にいるはずの少女が、どこにもいない。
最初は、少し離れた場所に移動しただけかと思った。
だが、周囲を見回しても、あの垂れた耳は見つからなかった。
……まさか。
嫌な予感がした。
僕は荷物を抱えたまま、通りを見回した。
「おい、あの子を見なかった?」
近くの露店の店主に尋ねてみる。
「犬耳の小さい子か? あっちの路地に走っていくのを見たぞ」
「ありがとうございます!」
僕はすぐに走り出した。
いや、ちょっと待て。
そもそも、どうして一人で行かせたんだ。
この街のことも、道も、何も知らない子なのに。
人が多い場所が苦手なのも、分かっていたはずだ。
……僕の失敗だ。
そう思った瞬間、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
ただの買い物だ。
少し待っていてもらうだけ。
それなのに、あの子が見当たらないというだけで、こんなに気になるとは思わなかった。
*
少女は、知らない路地に迷い込んでいた。
人通りは少なく、建物の壁は薄汚れている。
戻ろうにも、どちらから来たのか分からなくなってしまった。
どうしよう。
どうしよう。
頭の中が、その言葉でいっぱいになった。
そのとき、背後から声がした。
「おい、ちび。何をうろうろしてる?」
振り返ると、体格のいい獣人の男が三人立っていた。
熊族らしい大柄な男と、狼族の男が二人。
少女は反射的に後ずさった。
「お前、人間の連れか?」
返事はできなかった。
「おい、聞いてるんだぞ」
男の一人が近づいてくる。
少女は壁際に追い詰められた。
「……っ」
「なんだよ、その服。ずいぶん小綺麗になったじゃねえか」
男は少女の服を見て、にやにやと笑った。
「誰に買ってもらったんだ? 人間様か?」
別の男が、少女の腕をつかもうとした。
少女はびくりと身体を震わせた。
逃げなければ。
でも、どこへ?
助けを呼ばなければ。
でも、誰に?
「おい、ちょっとこっち来いよ。話くらいできるだろ?」
男の手が伸びてくる。
少女は目をぎゅっと閉じた。
まただ。
また、こうなる。
優しくしてもらえたと思ったのに。
新しい服を着せてもらったのに。
温かいご飯を食べさせてもらったのに。
結局、自分はこういう目に遭うのだ。
自分が悪いのだろうか。
待っていろと言われたのに、勝手に動いたから。
きっと、カイにも怒られる。
もう、迎えに来てくれないかもしれない。
そのときだった。
「――何をしている?」
低い声が、路地に響いた。
三人の男が振り返る。
そこには、息を切らした僕が立っていた。
少女の姿を見つけた瞬間、胸の奥がすっと冷たくなった。
壁際に追い詰められた彼女。
伸ばされかけた手。
怯えきった顔。
……なるほど。
状況は、だいたい分かった。
「なんだ、お前?」
狼族の男がこちらをにらんだ。
「こいつに用があるんだよ。部外者は引っ込んでろ」
僕は答えず、少女の前へ歩いていった。
そして、彼女と男たちの間に立った。
「その子から離れてくれないか」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
いや、むしろ冷たすぎたかもしれない。
「はあ? なんでお前に指図されなきゃならねえんだ?」
男が一歩近づいてくる。
そのとき、彼の視線が僕の服や腰に下げた身分証へと移った。
街に入るとき、門番から渡された仮の通行証だ。
人間の身分を示す紋章が入っている。
男の表情が、わずかに変わった。
「……人間、か」
「そうだけど?」
「いや、だが……」
三人は顔を見合わせた。
先ほどまでの態度が、目に見えて変わっていた。
この街では、人間の立場が強い。
それは、ここに来てから何度も目にしてきたことだ。
彼らが僕に手を出せば、面倒なことになる。
少なくとも、そう考えたのだろう。
「……ちっ。行くぞ」
熊族の男が舌打ちし、仲間たちを促した。
去り際、狼族の一人が少女をにらんだ。
「人間の後ろに隠れてんじゃねえよ」
その言葉を聞いて、僕は一歩前に出た。
「まだ何かあるのか?」
男は口をつぐんだ。
結局、三人は何も言わずに路地の奥へと消えていった。
……ふう。
僕は息を吐いた。
そして、振り返った。
「大丈夫?」
少女は壁際に立ったまま、僕を見上げていた。
目を大きく見開き、唇を震わせている。
「……カ、イ……」
「うん。僕だよ」
そう答えると、彼女の顔がくしゃりと歪んだ。
泣きそうになっている。
いや、もう泣いているのかもしれない。
彼女は何か言おうとした。
けれど、言葉にならなかった。
ただ、小さな手が伸びてきて、僕の服をぎゅっとつかんだ。
……ああ。
怖かったんだな。
僕はようやく、それを理解した。
「ごめん。待たせすぎたね」
そう言って、彼女の頭に手を置いた。
少女はびくりとした。
けれど、逃げなかった。
「もう大丈夫。帰ろう」
僕は彼女の手を取った。
今度は、彼女もすぐに握り返してきた。
驚くほど強い力だった。
まるで、絶対に離したくないとでもいうように。
*
路地を出てからも、少女は僕の手を離さなかった。
街の大通りに戻っても、店の前を通り過ぎても、ずっと握ったままだった。
僕が歩けば、彼女も歩く。
僕が止まれば、彼女も止まる。
けれど、以前のように距離を取ることはなかった。
むしろ、僕の腕に身体を寄せるように歩いていた。
……さっきのことが、よほど怖かったのだろう。
僕は歩く速度を落とした。
「もう、勝手に一人で歩かないでね」
少女の肩がびくりと跳ねた。
しまった。
叱られたと思ったのだろう。
「……ご、ごめ……」
「いや、怒ってるんじゃないよ」
僕はすぐに言い直した。
「この街は、まだ君が知らない場所ばかりだろう? 迷ったら危ないから、次からは一緒に行こう」
少女は、じっと僕を見つめた。
「……おこ、らない……?」
「怒らないよ。心配しただけ」
そう言うと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
心配。
その言葉の意味を、よく理解できていないようだった。
まあ、仕方がない。
今まで誰も彼女のことを心配してこなかったのなら、分からなくても当然だ。
僕は自然と、彼女の手を握り直していた。
「ほら、行こう。まだ買うものが残ってるからね」
少女は小さくうなずいた。
そして、僕のすぐ隣を歩き始めた。
*
買い物を終えて宿に戻ると、少女はようやく僕の手を離した。
けれど、僕が部屋の中を移動すると、その目はずっと僕を追っていた。
椅子に座れば、少し離れた場所に座る。
立ち上がれば、彼女も顔を上げる。
部屋を出ようとすると、すぐにこちらを振り返る。
……これは、どうしたものかな。
僕は苦笑した。
「そんなに心配しなくても、どこにも行かないよ」
少女は小さく首を振った。
「……ち、が……」
「違う?」
彼女はしばらく迷っていた。
それから、僕の服の裾をそっとつまんだ。
「……そば……」
「うん?」
「……そば、に……」
それ以上は続かなかった。
けれど、言いたいことはなんとなく分かった。
そばにいてほしい。
そういうことなのだろう。
「分かった。ここにいるよ」
僕は椅子に座り直した。
すると、少女はほっとしたように息を吐き、僕のすぐ隣に腰を下ろした。
……本当に、手のかかる子だ。
そう思ったのに、不思議と面倒だとは感じなかった。
むしろ、目を離すとまたどこかへ行ってしまいそうで、少し気になる。
まるで、迷子になった小さな妹を見ているような気分だった。
もちろん、僕に妹はいないのだけれど。
それでも、彼女が怯えていると放っておけない。
誰かに傷つけられたと知れば、腹が立つ。
安心させてやりたいと思う。
……なんだろうな、これ。
僕は自分の感情を深く考えることなく、少女の頭を軽く撫でた。
「今日は大変だったね。もうゆっくり休もう」
少女は目を丸くした。
それから、ゆっくりと目を細めた。
まるで、初めて安心していい場所を見つけたかのように。
彼女は僕の袖をつかんだまま、静かにうつむいた。
その手は、もう震えていなかった。




