彼女が望んだもの
「お客様、何かお探しですか?」
背後から声をかけられ、僕は振り返った。
恰幅のいい男が、愛想のよい笑みを浮かべて立っていた。腰には鍵束を下げている。どうやら、この店の奴隷商人らしい。
「旅の仲間を探しているんですが」
「なるほど! それでしたら、ぜひ私にお任せください!」
商人は待ってましたとばかりに手を叩いた。
「お客様のようなお方には、こちらがおすすめです!」
最初に案内されたのは、熊族の男が入れられた檻だった。
「ご覧ください、この身体! 力仕事はもちろん、戦闘でも十分に活躍できますよ!」
熊族の男は腕を組み、面倒くさそうにこちらを見下ろしていた。
確かに強そうだ。
魔王討伐を考えるなら、こういう仲間がいると心強いのだろう。
「こちらの狼族もおすすめです。足が速く、持久力もあります。長旅にはうってつけですよ!」
次に紹介された狼族も、見るからに屈強だった。
だが、値札を見て、僕はそっと視線を逸らした。
……高い。
いや、そりゃそうだろう。強くて健康な奴隷なら、それだけ値段も上がる。
しかし、僕は別に最強のパーティーを作りたいわけじゃない。
必要なのは、魔王を倒せるだけの戦力と、仲間全員の好感度を最大にすること。
そして、何より早く元の世界に帰ることだ。
最初の一人に大金を使うのは避けたい。
「ほかにはいませんか? もう少し安い人とか」
「安い者、ですか……?」
商人の笑顔が、ほんの少しだけ引きつった。
「もちろんおりますが、旅の仲間でしたら、ある程度の能力を持った者を選んだほうがよろしいかと」
「戦闘能力は、そこまで重視していないんです」
「と、おっしゃいますと?」
「できれば、僕についてきてくれそうな人がいいですね」
そう答えると、商人は何かを察したようにうなずいた。
「なるほど。でしたら……」
彼は店内を見回したあと、ふと思い出したように店の奥を指さした。
「一応、あちらにもおりますが……正直、おすすめはいたしません」
「どうしてです?」
「まあ、ご覧になれば分かりますよ」
妙な言い方だった。
僕は商人について、店の奥へと歩いていった。
そこは薄暗く、ほかの檻から少し離れていた。
隅に置かれた小さな檻。
その中に、一人の犬族の少女がいた。
痩せた身体を丸め、膝を抱えて座っている。
垂れた耳。
汚れた髪。
骨ばった手足。
ほかの獣人たちと比べると、あまりにも小さかった。
いや、小さいというより、弱々しい。
彼女は僕たちが近づいても、顔を上げなかった。
「この子は?」
僕が尋ねると、商人は露骨に嫌そうな顔をした。
「ああ、それですか」
それ。
人を指しているとは思えない言い方だった。
「犬族の娘ですよ。名前はありません」
「名前がない?」
「ええ。身元も分からなければ、家族もいない。自分の名前すら知らないようでしてね」
商人は、まるで欠陥商品の説明でもするように続けた。
「最初は店の裏口に現れたんですよ。食べ物をくれとでも言いたかったんでしょうな。追い払っても何度も来るものですから、雑用をさせて、余った食事を与えていたんです」
「それで、奴隷になったんですか?」
「働かせるなら、きちんと管理する必要がありますからね。身元のない獣人ですし、こちらで引き取ったわけです」
商人は肩をすくめた。
「ところが、使いものにならない。力もないし、仕事も遅い。おまけに、何を言っても返事すらしないんですよ」
彼は檻を軽く蹴った。
少女の身体がびくりと震えた。
それでも、顔は上がらなかった。
「おい。客が来ているんだぞ」
返事はない。
「まったく……」
商人はため息をついた。
「ほかの犬族なら、少しくらい愛想もあるんですがね。この子は本当に何もない。芸ができるわけでも、力があるわけでもない。見た目だって、これでしょう?」
彼は少女を一瞥した。
「正直、もう長くないと思いますよ。最近は食事も残すし、働かせてもすぐに倒れる。医者に見せる金ももったいない」
……ずいぶんな言い草だ。
「それなら、どうしてまだ売っているんです?」
「売れるものなら売りますよ。もっとも、こんなものを欲しがる人間がいるとは思えませんがね」
商人は鼻で笑った。
「今日も、ほら」
彼が指さした先では、別の客が獣人を選んでいた。
商人はすぐにそちらへ向かい、愛想よく説明を始めた。
その際、檻の前にいた少女を足先で示し、別の場所へ移るよう促した。
少女は慌てて立ち上がり、壁際へと移動した。
まるで、そこにいること自体が邪魔だと言われたかのように。
……なるほど。
彼女がこんな隅にいる理由が、少し分かった気がした。
買い手が来るたびに、邪魔にならない場所へ追いやられる。
ほかの奴隷が品定めされている間も、彼女だけは誰の目にも留まらない。
そもそも、商人自身が売る気もないのだろう。
「お客様、いかがです?」
戻ってきた商人が尋ねた。
「やはり、こちらの狼族のほうがよろしいのでは? あの娘は、正直なところ処分を考えているくらいですから」
「処分?」
「ええ。明日までに引き取り手が見つからなければ、もう置いておくつもりはありません。食事も手間もかかるだけですからね」
商人はあっさりと言った。
僕はもう一度、少女を見た。
彼女は壁際に立ったまま、こちらを見ていた。
いや、正確には、僕を見ているのかどうかも分からなかった。
視線が合ったと思った瞬間、彼女はすぐに顔を伏せてしまったからだ。
……妙な子だ。
普通なら、助けを求めるなり、少しでも自分をよく見せようとするなり、何かしらの反応があってもいい。
けれど、彼女にはそれすらなかった。
「少し、近くで見てもいいですか?」
「ええ、どうぞ。まあ、何も期待しないでくださいよ」
僕は少女の前まで歩いていった。
近づくと、彼女の身体がわずかに強張った。
殴られると思ったのだろうか。
僕はしゃがみ込み、できるだけ穏やかな声で話しかけた。
「こんにちは」
返事はない。
「僕はカイ。……君は?」
少女は口を開かなかった。
ただ、じっと僕の顔を見つめていた。
「名前、ないの?」
反応はない。
商人が後ろから答えた。
「ありませんよ。呼ぶときは、そこの犬族、とでも言えばいいでしょう」
僕は少し考えた。
名前がない。
家族もいない。
まともに食べることもできず、毎日働かされている。
そして、誰も彼女を欲しがらない。
……なるほど。
確かに、普通に考えれば、選ぶ理由はほとんどない。
戦闘能力は期待できないし、健康状態も悪い。会話すらできないとなれば、旅の仲間としては問題だらけだ。
けれど、僕が求めているのは、最初から完璧な仲間ではない。
好感度を最大にしやすい相手だ。
強い冒険者や、誇り高い騎士を相手にするよりも、僕を頼らざるを得ない相手のほうが、うまくいくかもしれない。
それに、この子は明らかに行き場を失っている。
助けて、食べ物を与えて、少し優しくしてやれば……。
案外、すぐに懐いてくれるかもしれない。
もちろん、そんなに単純な話ではないだろう。
それでも、ほかの奴隷に比べれば、ずっと安く手に入る。
試してみる価値はあった。
「……この子はいくらですか?」
商人は一瞬、きょとんとした。
「本当に、この娘を?」
「はい」
「いやいや、お客様。考え直したほうがいいですよ。こんなものを買うくらいなら、もう少しお金を出して、あちらの狼族を選んだほうが……」
「値段を聞いているんです」
商人は口を閉じた。
しばらく考えたあと、彼は呆れたように笑った。
「……分かりました。そこまでおっしゃるのでしたら、ほとんど無料で結構です。どうせ明日には処分するつもりでしたから」
提示された金額は、驚くほど安かった。
これなら、旅費にもほとんど影響しない。
「分かりました。それでお願いします」
「毎度ありがとうございます!」
商人は、ようやく厄介払いができたとでも言いたげな顔で笑った。
僕は代金を支払い、鍵を受け取った。
そして、少女の檻を開けた。
「……行こうか」
そう言って手を差し出してみたが、少女は動かなかった。
僕は少し困った。
「大丈夫。殴ったりしないよ」
その言葉に、彼女の肩が小さく震えた。
……ああ。
そういうことか。
僕は手を引っ込め、彼女が立ち上がるのを待った。
しばらくして、少女はゆっくりと立ち上がった。
僕が歩き始めると、彼女も後ろからついてきた。
その距離は、ずいぶん遠かった。
僕が立ち止まると、彼女も止まる。
僕が振り返ると、彼女は慌てて顔を伏せる。
まるで、近づきすぎたら怒られるとでも思っているようだった。
……まあ、時間をかければいいか。
最初からうまくいくとは思っていない。
それに、僕はこの世界で一生を過ごすつもりもない。
魔王を倒して、仲間の好感度を最大にして、元の世界へ帰る。
そのための第一歩だ。
そう考えながら、僕は奴隷市場を後にした。
背後では、少女が僕の姿を見失わないように、必死についてきていた。
僕はまだ知らなかった。
彼女が、どれほど長い間、誰かに見つけてもらうことだけを願っていたのかを。
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その少女には、名前がなかった。
生まれたときから、誰も彼女を必要としなかった。
まだ何も分からないうちに、彼女は捨てられた。
泣いても、誰も来なかった。
お腹が空いても、食べ物はなかった。
彼女は、街の片隅にある臭い水路で生き延びた。
人々が捨てた食べ物を拾い、泥のついたものでも口に運んだ。
腐りかけていても、食べた。
食べなければ、死んでしまうから。
いつからそこにいたのか、彼女自身にも分からなかった。
季節が変わっても、誰も気づかなかった。
彼女がいなくなっても、誰も探さなかっただろう。
ある日、彼女は噂を耳にした。
奴隷市場では、働けば食べ物がもらえるらしい。
そこに行けば、お腹いっぱいにはなれなくても、毎日何かを食べられるかもしれない。
彼女は、その場所を探した。
そして、見つけた。
最初にもらった食事の味を、今でも覚えている。
温かかった。
泥もついていなかった。
誰かが食べ残したものではあったけれど、それでも、彼女には十分すぎるほどだった。
だから、働いた。
重い荷物を運んだ。
床を掃除した。
何度も倒れそうになりながら、言われたことをやった。
遅ければ殴られた。
失敗しても殴られた。
食事を残せば、次の日には減らされた。
それでも、あの水路に戻るよりはよかった。
少なくとも、ここには食べ物があったから。
そして、ここには、ときどき客が来た。
客たちは檻の前に立ち、奴隷たちを眺めた。
身体の大きな者。
顔の整った者。
愛想よく笑える者。
彼らは値段をつけられ、選ばれていった。
ある日、一人の少女が買われていった。
彼女は泣いていた。
知らない人間に連れていかれるのが怖かったのだろう。
それでも、彼女は選ばれた。
別の日には、若い女性が買われていった。
彼女がどんな扱いを受けるのか、少女には分からなかった。
奴隷の中には、主人の慰みものにされる者もいるらしい。
それが恐ろしいことだというのは、なんとなく理解していた。
それでも、少女は思った。
――いいな。
自分も、誰かに選ばれたかった。
怖いことが待っていたとしても。
嫌なことをさせられるとしても。
少なくとも、誰かが自分を見てくれる。
自分を必要としてくれる。
自分に、何かしらの価値があると思ってくれる。
それが、羨ましかった。
けれど、客が来るたび、彼女は奥へ追いやられた。
見た目が悪いから。
身体が弱いから。
何もできないから。
そして、何より――誰も彼女を欲しがらなかったから。
彼女はいつしか、客の足音を聞くだけで身体を固くするようになった。
また、誰かが選ばれる。
また、自分だけが残される。
その繰り返しだった。
だから、今日も同じだと思っていた。
商人が客を連れてきたとき、彼女はいつものように隅へ移動した。
顔を上げない。
目を合わせない。
期待しない。
そうすれば、少しは傷つかずに済むから。
けれど、その客は彼女の前で立ち止まった。
彼女を見た。
そして、商人が何度も別の奴隷を勧めたあとも、彼女の前から離れなかった。
どうしてなのか、分からなかった。
何か失敗したのだろうか。
怒られるのだろうか。
また殴られるのだろうか。
それとも――。
彼が檻を開けたとき、少女は動けなかった。
差し出された手を見つめた。
誰かに手を差し出されたのは、初めてだった。
その手が何を意味するのか、彼女には分からなかった。
ただ、彼は待っていた。
怒鳴らなかった。
殴らなかった。
無理やり引っ張ろうともしなかった。
だから、彼女は立ち上がった。
彼の後ろを歩いた。
見失わないように。
置いていかれないように。
もう二度と、あの場所に戻されないように。
彼女には、まだ名前がなかった。
彼女には、まだ愛というものが分からなかった。
それでも、胸の奥に生まれた小さな感情だけは、確かに存在していた。
――この人についていけば、もう少しだけ生きていられるかもしれない。
それが、彼女の最初の願いだった。




