第8話 三歩下がったその場所で
長老会議の前夜、ラオトは遅くまで調合台に向かっていた。明日の分の抗竜気過敏症薬を多めに作っておきたかった。七頭の竜族長老が集まると聞いて、薬の備蓄はいくらあっても足りない気がした。乾燥した薬草をすり潰して取り出した鉱石を加えると、いつもの青色に変色する。
エデルが人型のまま、調合台の横の椅子に座っていた。何か言いたそうな顔をしていたが、ラオトが作業に集中している間は黙っていた。そういう気遣いのできる竜だ、とラオトは暫く前から思っていた。
「ラオトさん」
「なんですか」
「明日のことなんですが」
ラオトは手を止めなかった。
「……本当に、来てくださる必要はないんです」
今度は手が止まった。
「俺も行くって言いましたよね」
「でも、竜族の聖地は竜気が濃いですし七頭の長老が揃えば……ラオトさんの身体には、かなりの負担になります」
ラオトは薬草を容器に移しながら、エデルを見た。 金色の目が、真剣にこちらを向いている。心配している顔だ。庇おうとしている顔だ。
「わかってます」
「わかってて、それでも来ると?」
「そうです」
エデルがまた黙り、扉を叩く音がしたのはその時だった。夜遅い時刻のノックにラオトは眉を上げた。エデルが先に立って扉を開ける。
そこに立っていたのは、小柄な老人だった。背が低く、白髪を後ろに束ねている。腰に大きな革の鞄をぶら下げていて、中から薬草の匂いが漏れていた。目だけが妙に若く、鋭かった。
「夜分に申し訳ない。ジェルバ商会のラオト殿でいらっしゃいますか」
「そうですが……」
「私はトルダと申します。竜族に関わる症例を専門に診ている者です」
ラオトはエデルを見た。エデルがわずかに首を振った。知らない人物らしい。
「今夜お伺いしたのは、明日の会議の前に診ておきたいことがあったからです。よろしければ少しお時間を」
「何故それを……?」
「勝手の事を承知しております。私は竜族から参りました。会議に来られるラオト様にお伺いしようかと思いまして。」
* * *
トルダ老は診察道具を取り出しながら、静かに話し始めた。
「竜気過敏症をお持ちとのこと。正式に診断されたのはいつですか」
「少し前です。それまでは病名を知らなかった」
「ずっと自家製のポーションで対処されていたと……長く続けておられましたね」
トルダ老がラオトの腕を軽く取った。脈を測るような所作だった。
「幾つから症状が」
「物心ついた頃から。竜なんて実在すると思っていなかったので、原因がわからなかった」
トルダ老が何かを書き留めた。それから顔を上げた。
「ラオト殿。一つ、伝えておかなければならないことがあります」
声が変わった。穏やかなままだが、はっきりと「これは重要な話だ」という温度があった。ラオトは薬草を刻む手を止めた。
「竜気過敏症の症状が出るたびに、あなたの身体は竜に近い強度になっています」
「……はい?」
「竜気に繰り返し晒された身体は、それに抵抗しようとして変質していきます。症状が出る、回復する、また出る、また回復する。その繰り返しが、組織を鍛えていく」
トルダ老がラオトの腕に触れたまま、続けた。
「長年にわたって自力で対処してきた。しかも最近は、竜と同居する状況まで生じている。私が調べた結果では……今のあなたは、普通の人間より遥かに頑丈です」
ラオトは少しの間、黙っていた。それからいつものくしゃみが出た。
ヴェルグ老に手を焼かれた時もグローブのお陰で火傷を逃れたと思っていたが、ラオトが思っている以上に身体は頑丈になっているらしい。
「……それ、もっと早く知っておきたかったです」
エデルが息を飲んだ。トルダ老が静かに答えた。
「信じていただけないと思いまして」
ラオトはエデルを見た。エデルが目を丸くしている。
「エデルと同じこと言う」
「……え?」
「属性が変わった時。お前も同じこと言いましたよね。『詳しくは追々』って」
エデルが黙った。そのまま少し赤い顔になった。人型でも顔色が変わるのか、とラオトは思ったが口には出さなかった。
「あの時お前が言っていた『追々』というのが、これだったのか」
「……はい」エデルが静かに認めた。
「ラオトさんの身体に変化が起きていることは、竜の加護を与えた時点から気づいていました。でも、うまく説明できる自信がなくて」
「遠慮しなくていいのに」
「でも……信じてもらえるかどうか、わからなかったんです」
ラオトはそれ以上は何も言わなかった。エデルが心配していたのが、今の今まで続いていたのだとわかった。症状が出ながらも世話をされた三日間、自分では言い出せなかった何か。
「……その話、もう少し詳しく聞かせてもらえますか」とラオトはトルダ老に問いかけ、老医者は頷いた。
「竜気は人間の身体に毒ですが、長く晒され続けた身体は耐性を獲得することがある。あなたの場合は症状が消えたわけではない。くしゃみも充血も、これからも出続けるでしょう」
「そうですか……」
「ただ、炎でも、多少の衝撃でも、普通の人間なら傷を負う状況で、あなたはそうならないかもしれない。竜気の毒は蓄積しますが、回復力もそれに比例して上がっている」
ラオトは自分の手を見た。じんましんの跡がある。くしゃみで充血した目がある。変わったところは何もない。でもトルダ老が言うには、その痕跡の下に、何か違うものが積み重なっているらしかった。
(竜気過敏症。長年原因もわからず、ただ症状と戦い続けてきた。それが……)
なんとなく、すっきりした気分ではなかった。すっきりもしなかったし、だからといって残念でもなかった。ただ、長い間ずっと「わからないもの」だったものが、また少しだけ「名前のついたもの」になった感じがした。
「明日の会議に行くつもりとのことで」トルダ老が続けた。
「止めません。ただ、薬は十分に持っていってください。症状は出ます。それは変わらない」
「わかりました」
「苦しくても、それで死にはしません。あなたは今、そういう身体です」
老医者が立ち上がった。帰り支度をしながら、もう一度ラオトを見た。
「ラオト殿。あなたの自家製のポーション、大変よく出来ています。長年の経験がそのまま出ている」
「……ありがとうございます」
「改良したいなら、いつでも。また来ます」
扉が閉まった。翼が風を切る音がしたがすぐさま静かになった。
* * *
しばらく、二人とも黙っていた。 ラオトは調合台に戻って、残りの薬草を刻み始めた。くしゃみが出た。エデルが三歩下がった。
「……ラオトさん」
「なんですか」
「長老会議に来てほしくないと言ったこと、撤回します」
ラオトは手を止めずに答えた。
「撤回しなくても来ましたよ」
「でも……あの、その」
エデルが珍しく言葉に詰まった。ラオトは薬草を刻みながら、横目でエデルを見た。
「なんだ?」
「……最初から、行くつもりでいたのに。あなたの身体のことを黙っていました。すみません」
「別に怒ってないです」
「怒っていないんですか?」
「『詳しくは追々』って言ってたじゃないですか。待ってました」
エデルが数秒、固まった。
「……待っていたんですか?」
「言いにくいことがあるんだろうとは思っていましたよ。急かしても仕方ないし」
また沈黙。今度は長かった。
「……ラオトさんは、変わった人間ですね」
「よく言われます」
そう言うとくしゃみが出た。エデルがまた三歩下がった。症状が少し楽になった。
(三歩。ちゃんと覚えてる)
机の上に、明日持っていく薬の小瓶が並んでいた。七頭分を想定して、いつもより多めに作った。苦い薬が、きれいな青色に光っていた。
やることは変わらない。 ただ、今夜ひとつ「わからないもの」が減った。




