第7話 お人好しの決意
十日後の朝、ついに卵が動いた。
ラオトが気づいたのは調合中だった。薬草を刻む手を止めて、調合台の横を見た。布をかけた卵が、かすかに揺れている。
「エデル!」
返事より先に、エデルが隣に来ていた。人型のまま、卵の前にしゃがむ。
「……もうすぐです」
ひびが入った。細い線が一本、それから二本。内側から何かが押している。ラオトはくしゃみをした。卵からも竜気が出始めているらしい。
殻が割れた。
中から出てきたのは、手のひらに乗るくらいの小さな竜だった。鱗は薄い白で、まだ半透明に近い。目が大きく、焦点が定まっていない。濡れた翼をぱたぱたと動かして、殻の破片の上に座っている。
(小さい。エデルが最初に来た時より小さい……)
幼竜がゆっくりと首を動かした。エデルを見た。ラオトを見た。
それからラオトの方へ、よたよたと歩いてきた。
「……え」
ラオトの指に、小さな頭が押しつけられた。目を閉じている。満足そうだった。
くしゃみが出た。幼竜がびくっとした。それでも離れなかった。
『……あなたの竜気の匂いを、一番最初に覚えたのだと思います』
エデルの声が、いつもより少し低かった。
「俺の匂いって、くしゃみの匂いじゃないか」
『この子にとっては、それが全てです』
幼竜がもう一度、ラオトの指に頭を押しつけた。小さな尻尾が、ゆっくりと揺れている。
* * *
その三日後、エオが来た。
ノックはやはり三回、均等な間隔だった。ラオトが扉を開けると、前回と同じ深藍色の長衣、同じ黒革の手袋。表情も同じだった。
違ったのは、エオの後ろに二人いたことだ。同じような長衣を着た、年配の人物が二人。
「入っていいですか」
「どうぞ」
三人が入ってきた。エデルが一歩前に出た。幼竜はラオトの肩の上で丸くなって眠っていた。
エオの目が幼竜を見た。
一秒。二秒。
「……これは」
「孵化しました。三日前にね」とラオトが言った。
「誰が世話をしていたのですか?」
「俺と、エデルと」
「どちらが主に」
ラオトは少し考えた。
「俺が、温度の管理と夜の見回りをしていました」
エオがまた黙った。今度の沈黙は、前回より重かった。後ろの二人が何か小声で話している。竜語だったが、聞き取れた。
(……問題だ、という言葉が聞こえてくる)
「エオさん、何か問題ですか?」ラオトが口を開いた。
エオがラオトを見た。
「この幼竜は、あなたを親だと認識しています」
「見ればわかります」
エオが、初めて間を外した。ほんの少しだが、確かに間があった。
「竜の親代わりを人間が務めることは」エオの声が、わずかに変わった。低く、抑えているような声だった。「竜族の秩序に関わります。この幼竜が成長した時、人間の価値観で育った竜が竜族の中でどうなるか、あなたには想像できますか」
「できません。だから聞いています」
「……っ」
後ろの二人が静かになった。
エオが一歩前に出た。これまでの動きとは違う、感情が先に出たような一歩だった。
「これ以上は放置できない」声が、わずかに上ずっていた。「エデルの誓いの件も、この幼竜の件も。長老会議への正式な提訴を行います」
「提訴、というのは?」
「アズライト家の当主が呼び出されます。エデルの行動の是非を、竜族全体で問う」
エデルが息を飲んだ。
ラオトはくしゃみをした。幼竜が目を開けて、それからまた閉じた。
「一つだけ確認させてください」
エオがラオトを見た。
「その提訴で、エデルはどうなりますか」
「……誓いの取り消しを命じられる可能性があります」
「エデルが嫌だと言っても?」
「長老会議の決定は、個人の意思より上位です」
ラオトは少し黙った。
「わかりました」
エオが帰ろうとした。
「エオさん、俺も……その会議に出ます」
後ろの二人が顔を上げた。エオが振り返った。今度こそ、明確に表情が変わっていた。
「あなたは人間だ。竜族ではない」
「でも竜属性の登録証があります。竜語が聞こえます。エデルの誓いの相手です。関係者じゃないですか」
「……前例がない」
「前例がないことと、できないことは違います」
エオが何か言いかけて、やめた。それから短く言った。
「……検討します」
扉が閉まった。
* * *
静かになってから、エデルがラオトを見た。
「……ラオトさん」
「なんだ」
「なぜ、会議に出ると言ったのですか」
ラオトはくしゃみをした。肩の上の幼竜が、小さく鳴いた。
「お前の話なのに、お前だけで行かせるのは違うと思ったからな」
「でも、ラオトさんには関係のないことで――」
「エデル」
「俺がトカゲを拾ったことから始まってる。俺には関係ある」
それだけ言って、ラオトはくしゃみをしながら薬草を刻み始めた。幼竜はと言うと、肩の上でまた眠った。
エデルに「七日以内に竜族の聖地に出頭せよ」という召喚状が届くのは、時間が掛からなかった。それが届いたのは数日後の夕方だった。ラオトが今日の調合を終えて帳簿をつけていると、扉の外からノックをする音が聞こえ、エデルが開けると小さな黒い竜が封筒を持って待っていた。
封筒には厚手の紙で、深藍色の蝋で封がされている。蝋の紋章は見覚えがなかったが、竜族のものだろうとわかる意匠だった。しかし……エオが身に着けていた組織の紋章とは違う形だったが。
黒竜はエデルに封筒を渡すやすぐさま飛び退いて姿を消してしまった。エデルはと言うと、封筒を持ったまま動きを止めていた。
「エデル?」
返事がなかった。
「何が来た?」
エデルがゆっくりと振り返った。顔が、いつもと違った。感情を抑えている顔ではなく、感情の処理が追いついていない顔だった。
「……召喚状です」
「誰からの」
「竜族長老会議から」
エデルから封筒を受け取って、ラオトは中身を出し、折り畳まれた紙を開くと、竜語が並んでいた。エデルのお陰で属性が変わってから竜語が読めるようになったラオトには、意味が取れた。議題は『アズライト家の若竜による不適切な誓いの使用について』と書かれている。
『アズライト家の若竜エデルに対し、七日以内に竜族聖地への出頭を命ずる。』
署名は長老会議の名前で、七つの家系の印が押されていた。
「……読めましたか」エデルが静かに言った。
「ああ。読めた」
ラオトは紙を机の上に置いた。くしゃみが出た。いつもと同じ症状だったが、今は少しだけ違う感覚があった。いつもは「仕方ない」で流せるのに、今はそれが難しかった。
「エデル、座れ」
エデルが椅子に腰を下ろした。人型の手が、膝の上で重なっている。
「話してくれ」
エデルがしばらく黙っていた。
「……私が長老会議に出れば、誓いを取り消せと命じられるかもしれません」
「取り消せるのか?」
「……方法は、あります。でも……でも、私はしたくありません」
「エデル……」
ラオトは机の上の召喚状を見た。七つの印。七つの家系が全員で動いているということだ。エオが言っていた長老会議の召喚。エオが来た時から、こうなることは見えていたのかもしれない。
「方法というのは」
「……誓いを結んだ相手の記憶から、誓いを消す。相手が承諾すれば、誓いはなかったことになります」
「俺の記憶から」
「はい」
ラオトは少し考えた。
「それをしたら、お前はどうなる」
「……誓いを果たせなかった竜として、アズライト家への処分が下ります。ただ、長老会議への服従を示したことで、処分は軽くなるかもしれない筈です」
「かもしれない、か」
「……わかりません」
ラオトはくしゃみをした。エデルが反射的に三歩下がろうとして、止まった。今日はそのまま、距離を取らなかった。
「エデル」
「……でも、私はしたくない」
再び否定をしたエデルの声は静かだった。抑えているわけではなく、ただ静かだった。でもその静けさの中に、今まで聞いたことのない重さがあった。
「ラオトさんを助けたことを、なかったことにしたくない。誓いを使ったことを、間違いだとは思っていない」
ラオトは何も言わなかった。
「……勝手なことを言っているとわかっています。私の判断でラオトさんを巻き込んで、属性が変わって、依頼が来るようになって、国にも目をつけられて。それでも」
「エデル」
「……申し訳ありません」
ラオトはエデルを見た。エデルが顔を上げた。金色の目が、こちらを見ていた。
(謝らせるつもりはなかった)
大丈夫です、と言おうとした。いつもそう言ってきた。症状が出ても、依頼が増えても、国が来ても、「大丈夫です」と言ってきた。
でも今日はその言葉が出て来ず、なぜ出てこないのか、ラオトは少し考えた。
(エデルのせいで竜気過敏症が悪化した。おまけに属性が変わった。依頼が来るようになった。国に目をつけられた。面倒ごとが増えた。……それでもエデルを一度も嫌だとは思わなかった……)
思い返してみると、不思議だった。嫌だと思ったことが、一度もなかった。
実際、面倒だとは思った。しんどいとも思った。なんでこんなことになったんだとも思った。でも嫌だとは、一度も思っていなかった。エデルのことを、いなければよかったと思ったことも、なかった。
(……なんで)
自分でもわからなかった。ただのお人好しだからかもしれない。困っている生き物を放っておけない性分だからかもしれない。でもそれだけではない気がした。それだけでは、説明がつかない何かがあった。
「ラオトさん?」
エデルが、ラオトの沈黙を心配した顔で見ていた。
「……大丈夫です、とは今日は言えない」
エデルが少し目を見開いた。
「俺も、どうすればいいかわからない。長老会議に何を言えばいいか、お前をどう守ればいいか、今は答えがない。ただ……一つだけ言える嫌だと思ったことは、一度もなかった」
静かな言葉だった。大きな声でも、感情を込めた声でもなかった。でもラオトには、これが今言える一番正直なことだった。
「エデルがいなければよかったと思ったことも、ない。属性が変わったことも、依頼が来たことも、振り返れば嫌じゃなかった。……なんでそうなのか、俺にもよくわからないけど」
エデルが、何かを言おうとして、やめて代わりに静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「長老会議には、俺も行く」
エデルが顔を上げた。
「……え」
「七日以内だろ。それまでに考える。行くかどうかじゃなくて、どう動くかを」
「ラオトさん、竜族の聖地に人間が入るとなると」
「断られたらその時考える。でも最初から諦める理由もない」
エデルが黙った。今度は長かった。
ラオトはくしゃみをした。エデルが今度は三歩下がった。症状が少し楽になった。
「……薬草、刻まなきゃな」ラオトが立ち上がった。「明日の調合分、まだ終わってない」
「……手伝います」
「下手にやると駄目になるって言っただろ?」
「では、見てるだけでも良いですか?」
「……まあ、それなら」
ラオトは調合台に向かった。くしゃみをしながら薬草を刻んだ。エデルが隣に立って、黙って見ていた。
机の上に召喚状が残っていた。七つの印が、静かにそこにあった。
やることは変わらない。作って、売って、くしゃみして、また考える。
でも今夜は、「また考える」が「明日には始める」に変わった。




