第4話 涙とくしゃみと、不条理な空中散歩
裏山までは歩いて半刻ほどかかった。
エデルは人型で隣を歩いている。青みがかった金の髪が、朝の光を受けてわずかに輝いていた。人型のときは魔力粉が出ないため、ラオトの症状は幾分か落ち着いている。幾分か、だが。
(それでもくしゃみが出るのは、竜気の残り香みたいなものがあるのか。あるいは、俺の体が敏感になりすぎているのか)
「……エデル」
「なんでしょう」
「裏山の竜、お前は知ってるか」
エデルはしばらく考えた。
「竜族の中では古い方の個体が、この山域に縄張りを持っていると聞いたことがあります。ヴェルグ老という方です。竜族の間では頑固で知られている」
「頑固」
「一度決めたことは曲げない。他者の意見を容易には聞かない。ただ――」
エデルが少し間を置いた。
「筋を通すことには、誠実な方だとも聞いています」
(頑固で、筋を通す。なんとなく想像できるな)
「俺に何かできることあるか」
「……あるかもしれません」
エデルの返答が曖昧だったのが少し引っかかったが、ラオトはそれ以上訊かなかった。くしゃみが出たからだ。
* * *
山の中腹、開けた岩場に出たとき、ラオトの竜気過敏症が一気に悪化した。
「っくしゅ、っくしゅ――!」
(いる。近くにいる。それも相当な竜気だ)
目が充血して、鼻の奥が痛い。懐から抗竜気過敏症薬を取り出して一口飲んだ。相変わらず喉が焼けるように苦い。だが、今は効き目の早さが大事だ。
そのとき、岩の影からそれが現れた。
大きかった。エデルより、はるかに大きかった。鱗は深い赤褐色で、長年風雨にさらされた岩のような重厚さがある。濁った金色の瞳が、ラオトとエデルを順番に値踏みするように眺めた。
頭の中に、直接声が落ちてきた。エデルのそれより遥かに低く、地の底から響くような地鳴りの声だ。
『……アズライト家の若竜か。こんな山に何の用だ』
エデルが一歩前に出た。
『ヴェルグ老。ご無礼をお許しください。麓の村から依頼を受けて参りました。牧草地への立ち入りを控えていただけないかと』
『断る』
即答だった。
『あの場所は昔から私の水飲み場だ。人間どもが後から来て牧草地にしただけのこと。私には何の関係もない』
(筋を通す、か。確かにそれは竜側の言い分としては筋が通っている)
『それに……どうしてアズライト家の竜が人間側に付いている?』
ヴェルグ老の声が落ちた瞬間、空気が一変した。
低く腹の底に響く唸り声とともに、鱗の隙間から不穏な赤い光が漏れ始める。
(まずい――!)
エデルが動いた。ラオトの腕を掴んで、横へと跳ぶ。
一瞬遅れて、二人がいた場所を炎の柱が貫いた。岩肌が一瞬で焼け、黒い焦げ跡が走る。凄まじい熱波が頬をなぶった。
「っくしゅ――」
着地の衝撃とくしゃみが重なった。エデルがラオトの体を支えるが、ヴェルグ老はすでに大きく息を吸い込んでいる。次が来る。
焦燥に、エデルの目が変わった。
『スミマセン、背に乗せます!』
返事を待たず、エデルが竜化した。膨れ上がる翼がラオトの視界を覆う。エデルの口がラオトの服の襟を軽く咥え、ひと振りで自身の背の上へと放り投げた。
「っ――!?」
声が出る前に、地面が急速に遠ざかった。二人が飛び退いた跡には、またしても荒れ狂う炎の柱が立ち上り、岩を焼き焦がしていた。
竜の背に直接触れたことで、ラオトは「全身に蕁麻疹でも発症するのではないか」と身構えたが、先ほどの薬がなんとか間に合ったようだ。念のため、すかさずゴーグルをつけて眼を守る。
空の上は、思ったよりも寒かった。エデルの背にしがみつきながら、ラオトは眼下を見下ろした。
岩場がぐんぐんと遠ざかっていく。ヴェルグ老の放つ炎が尾を引いて、なおも岩肌を黒く焦がし続けていた。
(高い、高すぎる……! 俺はただの商人だぞ。人生のライフプランに空を飛ぶ予定なんて一切なかったのに!)
「……っくしゅ!」
案の定、竜の背に触れている箇所から、じわじわとかゆみが広がってきた。薬が効いているから正気を保ててはいるが、これ以上長引けば間違いなく限界が来る。
「エデル!」
「大丈夫ですか!」
「大丈夫じゃないけど死にはしない! ヴェルグ老はどうした!」
エデルが翼をひと打ちしてさらに上昇した。その眼下で、再び炎が爆ぜる。追ってきているのだ。
(本気で怒っているのか、あの老竜は……!)
ラオトはゴーグル越しに下を睨みつけた。ヴェルグ老の巨体が岩場から飛び立ち、大きな翼を広げている。エデルより一回り以上大きな翼。あの体躯だ、速度も相当出るに違いない。
「エデル、交渉の余地はあるか!」
「……今は難しいかと!」
「なんで急に攻撃してきたんだ!」
「アズライト家が人間に味方したことを、同胞への『裏切り』と捉えたのだと思います!」
(裏切り……。竜族の内部事情が絡んでいるのか)
ラオトは思考を巡らせながら、またくしゃみをした。その拍子にゴーグルの内側が白く曇る。
(ヴェルグ老は「筋を通す」竜だとエデルは言っていた。なら、今の攻撃も彼なりの筋や誇りに基づいているはずだ。感情に任せて暴れているわけじゃない。それなら――話せる)
「エデル、降りられるか」
「え?」
「ヴェルグ老の前に降りるんだ。逃げずに、正面から」
エデルが一瞬、沈黙した。
「……危険すぎます」
「俺が話す。エデルは俺の横にいてくれればいい」
「ラオトさん」
「頼む」
再びの沈黙。短くも、重い沈黙だったが、やがてエデルが応じた。
「……わかりました」
エデルが翼をたたみ、速度を落とした。螺旋を描くように降下し、岩場よりは少し開けた斜面へと降り立つ。
ラオトがエデルの背から地面に足をついた瞬間、がくがくと膝が笑った。飛竜の背に揺られたあとの、これが生身の人間としての正直な反応だった。
(立て。今だけは倒れるな……!)
背後からヴェルグ老が追いついてきた。凄まじい着地の衝撃で地面が揺れる。見上げるほどの巨体が眼前に迫り、爆コテのような熱い息が顔にかかった。
同時に、ラオトの竜気過敏症のメーターが最大値に達する。
「っくしゅ、っくしゅ、っくしゅ――!」
目からボロボロと涙が出る。鼻は完全に詰まり、全身が猛烈にかゆい。それでもラオトは一歩も後退しなかった。ゴーグルを額へと押し上げ、老竜の瞳を真っ直ぐに見据える。
ヴェルグ老が、威嚇の手向けとしてラオトの足元へ炎を放った。だが、ラオトは微動だにしなかった。
直撃こそ避けたものの、熱波に煽られた右手のグローブが、炎に触れて一瞬で焼け焦げ、灰となって落ちる。しかし、ラオトの手そのものは火傷ひとつなく無事だった。
「ラオトさん!」
エデルが悲鳴を上げる。
(危な……っ! 死ぬかと思った……!)
ラオトは内心で冷や汗をだらだらとかいていたが、表面上は完全にポーカーフェイスを維持していた。
『……逃げないのか?』
老竜の声が頭に落ちてきた。先ほどよりも、わずかに声の温度が変わった気がした。
「逃げたって解決しないので」
『炎を向けられても逃げぬとは、如何なる理由だ』
「逃げる理由がないからです。俺はただ、話しに来ただけなので」
ヴェルグ老の濁った金色の瞳が、じっとラオトを観察するように見据えた。
『アズライト家が人間側に付いた。それは竜族への背信だ。そのような若竜を、お前は庇うというのか』
「庇うというか……」
ラオトは盛大にくしゃみをした。涙を袖でぐっと拭い、掠れた声で続ける。
「エデルが俺のそばにいるのは、俺が怪我をしていたエデルを助けたからで、エデル自身がそうすると選んだことです。竜族への背信だなんて大きな話じゃなくて、これは『個人と個人』の話だと、俺は思っています」
『竜族の誓いを人間のために使うことが、背信でなくて何だと言うのだ』
「誓いって、そもそも『受けた恩を返すため』のものでしょう?」
ヴェルグ老が、ぴたりと口を閉ざした。
「竜族の誓いがどういうものか、俺は詳しくは知りません。だけど、受けた恩を返すというのは、これ以上なく『筋が通っている』と俺は思います。ヴェルグ老、あなたも筋を何より大事にする方だと伺いました」
長い沈黙が流れた。
乾いた風が斜面を吹き抜けていく。静寂のなか、ラオトの鼻をすする音だけが響いた。
そこで、エデルが静かに一歩前に出た。
「ヴェルグ老。このラオト殿は重度の竜気過敏症でありながら、傷を負った私を三日三晩、不眠不休で看護してくださいました」
『……』
「これほどの症状が出ながら、それでも放っておけなかった、と」
老竜の視線が、再びラオトへと戻る。今度は先ほどとは明らかに違う目だった。人間の器の奥底まで、じっくりと測るような深い眼光。
『竜気過敏症の人間が、三日間もか』
「大したことじゃないです。ただ、放っておくにはかわいそうだったんで」
『それだけの理由で、命を削るような症状に耐えながら続けられたというのか』
「続けられましたよ。俺にとっては、それが普通のことですから」
ヴェルグ老が、ゆっくりと息を吐き出した。岩塊が冷えていくときのような、重く長い吐息だった。
『……お前は、奇妙な人間だな』
「よく言われます」
『怯えず、逃げず、身体を苛まれながらもここに立ち、儂に筋の話をするか』
老竜の巨体が、わずかに低くなった。それが「頭を下げている」のだとラオトが気づくまでに、数秒の時間を要した。
『無礼を詫びよう。先ほど炎を向けたことは非礼であった』
「あ、いえ……」
『誓いは、恩を返すためのもの。お前の言う通りだ。これ以上の筋はあるまい』
ヴェルグ老がエデルに視線を向けた。
『アズライト家の若竜よ。お前が選んだ道を、儂はもう否定せぬ。ただ……この人間を二度と粗末にするな』
「はい」エデルが深く頭を下げた。「肝に銘じます」
老竜は最後にもう一度だけラオトを見た。
『牧草地にはもう降りぬ。水飲み場は別の場所を探すとしよう』
「ありがとうございます」
『礼には及ばん。儂はただ、我が筋を通しただけだ』
それだけ言い残すと、ヴェルグ老は大きな翼を広げた。凄まじい上昇気流を巻き起こし、あっという間に空の高みへと消えていった。




