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第5話 甘口ポーションと、苦すぎる忠告

 静かになった斜面で、ラオトはその場に膝をついた。

 今度こそ、がくがくと震える足が笑いを止めなかった。


「ラオトさん!」

「大丈夫だ。ちょっと座らせてくれ」


 斜面の岩にどさりと背を預ける。全身が猛烈にかゆい。目も鼻もとっくに限界を超えていた。懐から取り出した薬を、もう一口あおる。苦い。状況の恐ろしさも相まって、いつもの二重に苦く感じられた。

 人型に戻ったエデルが隣に座る。魔力粉が引いたことで、わずかに症状が緩んだ。


「無茶をしました」

「解決したんだから、結果オーライだろ」

「もし、あの炎が直撃していたらどうするつもりだったんですか」

「当たらないと思ってたさ」

「なぜ、そんな確信が?」

「筋を通す竜が、わざわざ話し合おうと正面から向かってくる人間を、問答無用で焼き殺すのはロジック的におかしいからな」


 エデルが黙り込んだ。

(読み違えていたら一瞬で灰だったけど、まあ正解だったんだから問題ない)

 ラオトはゴーグルを外して、広く開けた空を見上げた。ヴェルグ老の巨体は、すでに雲の彼方へと消え去っていた。


「エデル」

「なんでしょう」

「竜族の誓いってやつは、俺みたいなただの人間が使っていいものなのか? ヴェルグ老が最初に怒り狂ったのは、そこだろ」


エデルはしばらく沈黙を守っていたが、やがてぽつりと言った。


「……問題視されることも、あるとは思います。竜族の中には、今回のヴェルグ老のように『人間に使われるなど誇りが許さない』と思う者もいるかもしれない」

「そうか」

「ただ――」エデルが言葉を継いだ。「私は後悔していません。ラオトさんに誓いを使ったことを」


ラオトが視線を向けると、エデルは真っ直ぐ前を向いたまま、静かに、しかし断固とした声で言った。


「ラオトさんはあのとき、命に関わる竜気過敏症でありながら、私を助けてくださった。それに応えることは、竜族の誰が何と言おうと、これ以上なく筋が通っています」

(筋が通っている、か。お前もあの老竜と同じだな)


山を下りながら、エデルがふと口を開いた。


「それにしても、うまくいきましたね」

「お前が最後にヴェルグ老に説明してくれたからだろ」

「いいえ、最後にあの場を動かしたのはラオトさんの言葉です」

「俺は理屈をこねて、あとはくしゃみをしてただけだ」


エデルがわずかに首を傾げた。


「くしゃみが止まらないほど苦しいのに、それでも逃げずに交渉の場に来た――というその事実そのものが、何よりも雄弁だったのだと思います」

(そういうものかね)


ラオトにはいまいちピンとこなかった。ただ村から依頼を受けたから来ただけで、商売人として当然の行動をしたに過ぎない。特別なことをしたつもりは一切なかった。


「エデル」

「なんでしょう」

「竜族ってのは、竜気過敏症の人間が竜に近づくことを、そんなに異常なことだと思うのか」


エデルはしばらく言葉を選んでから答えた。


「竜族にとって、竜気は自分たちの存在そのものです。それを拒絶する体質を持った者が、自ら近づいてくるというのは……」

 エデルは一拍置き、眼を伏せた。

「『怖くないのか』と、思うのだと思います。それほど苦しいのに、なぜわざわざ向かってくるのかと」

「怖くはないな。苦しいけどな」

「……それが、竜族には理解できないのです。苦しいなら来なければいい、と普通は考える。でも、あなたは来る。その理由が、竜族には想像もつかないのです」

(想像できないから、不気味で、すごいと思うのか)


ラオトは少し考えてから、鼻をすすった。


「俺からすれば、目の前で苦しんでいる生き物を、自分が苦しいからって理由だけで放っておける奴の方が理解できないけどな」


エデルが、ぴたりと足を止めた。

 ラオトも足を止めて振り返る。エデルは何かを言いかけ、しかし喉の奥で言葉を飲み込み、再び歩き始めた。


「……なんだよ」

「いえ」

「言いかけただろ」

「……本当に、変わった人間だと思っただけです」

「老竜と同じこと言ってるな」

「同じことを思っているので」


ラオトはまた盛大にくしゃみをした。エデルが素早く三歩、間を取る。それだけで症状がすっと楽になった。

(三歩。これがエデルとの安全距離か。覚えておこう)

 麓の町が見えてきた頃、ラオトの懐で革袋が小気味いい音を立てて揺れた。農家のお爺さんから受け取った依頼料だ。ずっしりとした重みがある。

(これで貴重な薬草の補充ができるな。明日の調合分も確保できそうだ)

 やることは何一つ変わらない。作って、売って、くしゃみをして、また仕入れる。それだけのことだった。


――その様子を、遥か遠くの岩陰から見つめているひとつの影があった。ラオトたちが町へと入っていくのを見届けると、その影は無音でひるがえり、空の彼方へと飛び去っていった。


* * *


新たな依頼が舞い込んでくる前の朝は、比較的静かだった。

 ラオトは調合台に向かい、今日の分の抗竜気過敏症薬を調合していた。乾燥した薬草をすり潰し、特定の鉱石の粉末を加えると、薬液が鮮やかな青色に変色する。それを手のひらに注いで一気に口に含んだ。苦い。相変わらず、容赦なく苦い。


エデルは一階の隅で人型のまま、調合室の棚をじっと眺めていた。昨日から薬草の名前を覚えようとしているらしく、時折棚の前に立っては、瓶を一本ずつ手に取って確認し、また戻すという作業を繰り返している。


「それは鎮痛用の薬草だ。間違っても飲むなよ」

「は、はい……飲みません」

「そっちの赤いのは発汗促進剤だ。飲んだら一晩中大汗をかくことになるぞ」

「覚えておきます」

(竜が熱心に人間の薬草を覚えようとしている。……なぜだ?)

 あえて訊かなかった。訊くと話が長くなりそうだったし、鼻の奥に軽いくしゃみの予感が走ったからだ。


先日、医者から譲り受けた調合書は、思った以上に出来が良く重宝していた。ラオト自身が開発した独自のポーション粉末と組み合わせることで、長時間の外出でも、酷い風邪のような症状に悩まされずに済む。人型のエデルが近くにいても、これなら軽い皮膚のかゆみやくしゃみ程度で抑え込むことができた。


「ラオトさん、最近は前よりも調合が捗っていますね」

「まあな。あの調合書のおかげで、竜気過敏症の煩わしさを少しの間だけでも忘れられる」


人型のエデルを横目に、ラオトは慣れた手つきで作業を続ける。今回作っているのは「体力回復のポーション」だ。

 数種類の薬草に、数種類の鉱石を合わせてすり潰していく。しかし、このままでは鉱石特有の鋭い苦味が強すぎて売り物にならない。そこでラオトは、純水の代わりに、甘みの強い「赤味の木の実」の濃縮果汁と、草食獣の乳を乾燥させて固めた「乳化石にゅうかせき」の粉末を隠し味として投入した。

 これにより、独特の苦味が消え、一気にまろやかな甘みが増して飲みやすくなる。これこそが、ジェルバ商会オリジナルの回復ポーションだ。

 この時期は討伐ギルドの活動が活発になる季節と重なる。回復系のアイテムは、多少強気の値段設定でも飛ぶように売れるだろう。


「よし、上出来だ。今回はどのくらいの価格で卸そうか……」


出来栄えに満足し、ラオトが手作りの計算補助用具で弾こうとした――その直後だった。

 店の扉を叩く音が響いた。


そのノックの音は、明らかに普通ではなかった。

 コン、コン、コン、と。正確に、均等な間隔で三回。必要以上に大きくもなく、小さくもない。それだけで、「この扉の向こうにいる者は、一切の感情を排して動いている」と本能で理解できるような、冷徹な音だった。


「こんな朝早くから、誰だろう……」

「あ、私が見てきます」

「すまん、頼んだ」


エデルがドアを開けたその先。そこに立っていたのは、まったく見覚えのない一人の男だった。


身にまとっているのは、深い藍色の長衣。立て襟が顎のラインを隠すほど高く閉じられている。前合わせに並んだ留め具には、一つ一つに緻密で幾何学的な紋様が刻まれていた。手元は黒革の手袋で覆われ、その背筋は定規で測ったかのように伸び、立ち姿には一分の無駄もない。

 肩まで流れる銀髪に、冷徹な蒼色の瞳。眼鏡の奥にあるその顔には、一切の表情がなかった。というより、最初から「表情という概念を必要としていない」かのような完璧な鉄面皮だった。


ラオトとほぼ同じ目線の高さで、その男は部屋の中を見据えた。


「ジェルバ商会のラオト殿ですね」


声は低く、そして静かだった。問いかけの形をとってはいるが、そこには確認ではなく「確定」の響きがあった。


「そうですが」

「エオと申します。――エデルは、おりますか」


ラオトが「どうぞ」と招き入れるよりも早く、エオの視線が室内に走った。一秒とかからず、部屋の隅にいるエデルを捉える。

 その瞬間だけ、エオの瞳の奥がかすかに細められた。感情が動いたというよりは、探していた獲物を「確認」したような目だった。


* * *


「……中へ上がってください」


ラオトが促すと、エオは足音もなく静室内に入ってきた。調合室の椅子を勧めたが、男は座ろうとはせず、立ったままエデルを冷たく見下ろしている。

 エデルが覚悟を決めたように、一歩前に出た。


「エオ殿」

「久しぶりだな、アズライト家の若竜」

「……はい」


エデルの声が、いつもより明らかに硬く強張っている。ラオトは二人を交互に見比べた。

(知り合いか? でもエデルの反応がいつもと違う。ただ緊張しているんじゃない。……目に見えない強烈な『圧力』を感じている顔だ)


「あの」ラオトが二人の間に割って入るように口を開いた。「エオさん、まずは御用件を聞かせてもらえますか」


エオの視線がラオトへと移った。それは、まるで並べられた商品を品定めするような目だった。値踏みでも敵意でもない。ただ、淡々と必要な情報を収集しているだけの目。


「竜族の『誓い』について、確認したいことがあり赴いた」

「……それを、俺に、ですか」

「エデルに、だ。ただ、当事者であるあなたにも同時に聞こえていた方が合理的だと判断した」


エオが再びエデルへと向き直る。


「竜族第七位、アズライト家の若竜として問う。あなたがこの人間に『誓い』を捧げたというのは、事実ですね」

「ええ、事実です」

「その誓いは、今もなお有効であると」

「はい」

「今からでも、それを取り消すつもりはないのだな」


エデルが一拍、息をのんだ。


「……ありません」


エオは何も言わなかった。ただ、重苦しい沈黙が部屋の隅々にまで広がっていく。

 ラオトは鼻をすするくしゃみを堪えながら、この「沈黙」そのものが、相手を追い詰める凶悪な圧力として機能していることに気づいた。エオは脅しも怒声も発していない。ただ黙っている。それだけで、エデルが逃げ場のない選択を迫られているような錯覚に陥るのだ。

(この男は、言葉よりも『沈黙』の使い方を知っている)


「エオさん」ラオトはたまらず口を挟んだ。「俺からも一つ、聞いていいですか」


エオの蒼い瞳がラオトを射抜く。


「あなたは何者なんです。竜族の誓いについてわざわざ確認しに来るってことは、エデルの身内か何かなんですか」

「そうだ」エオが淡々と答えた。「竜族の『誓い』が適切に運用されているかを監視・監察する組織の者だ。同胞からは――『誓約の番人』と呼ばれている」

「監察、ねぇ……」

「誓いは竜族にとって最も重き絶対の法。もしそれが軽く扱われるようなことがあれば、我らにはそれを是正する義務がある」

「じゃあ、エデルの誓いが、軽く扱われてるとでも?」


エオは少し間を置いてから、冷徹に言い放った。


「アズライト家の若竜よ。お前の行動は竜族の品格を著しく傷つけている。人間の商人の下働きなど、誓いの本義ではない」

「そんな……そんなことはありません! ラオトさんは私の命を――」

「近いうちに、竜族長老会議がアズライト家の現当主を召喚する。エデル、お前が犯したその『軽挙』の是非を問うためにだ」

「軽い……? 恩を返すことの、一体何が問題だと言うんですか!」

「……今日は確認に来ただけだ」


エオはエデルの反論を完全に無視し、扉の方へと身体を向けた。用は済んだと言わんばかりに、そのまま帰るつもりのようだ。

 エオが扉を開け、外へ出ていく直前、もう一度だけラオトを振り返った。


「一つだけ、忠告しておきます」

「なんです」

「竜に関わり続けることは、あなたのような脆弱な人間にとって、決して良い結果をもたらさない」

「どういう意味ですか」

「いずれ、嫌でも分かります」


エオは何かを言いかけ、しかし無意味と断じたように口を閉ざした。

 パタン、と扉が静かに閉まる。去っていく足音すら、恐ろしいほど静寂に満ちていた。


* * *


しばらくの間、調合室には重苦しい静寂が満ちていた。

 先に口を開いたのは、やはりラオトだった。


「エデル」

「……はい」

「あの眼鏡、絶対にまた来るな」

「……おそらく、そう遠くないうちに」

「エデルは、あの男のことを知っていたのか」

「名前と悪名だけは、かねがね。直接対面したのは、今日が初めてです」

「……怖いか」


エデルは少し間を置いてから、小さく拳を握りしめた。


「……恐怖はありません。ただ、エオ殿の言葉には、常に竜族の『法』という絶対的な根拠があります。感情論では、決して反論できない」

(感情で反論できない、か。一番厄介なタイプだな)


ラオトはついに我慢できず、くしゃみをした。

 再び薬草を刻む作業に戻りながら、さっきのエオの冷徹な目を思い返す。品定めをするような、冷たい目。だが不思議と、そこには明確な「敵意」や「悪意」は含まれていなかった。

(あの男は、俺たちを憎んでいるわけじゃない。ただ……規律を乱す『重大なバグ』として見ている。何がそこまで問題なのかは、まだ俺にはわからないけどな)


「エデル」

「なんでしょう」

「次にあの男が来たときは、俺も遠慮なく話に混ざらせてもらうからな」


エデルが驚いたように顔を上げた。


「……構わないのですか? 人間のあなたをこれ以上巻き込むのは……」

「構うもんか。思いっきり俺の名前が出てるんだ、完全に当事者だろう。それに、商売の邪魔をされるのは一番寝覚めが悪い」


ハックション、とまた大きなくしゃみが出た。

 エデルが察して、素早く三歩後ろに下がる。そのおかげで、鼻のムズムズが少しだけ和らいだ。


ラオトは再び、淡々と薬草を刻み続けた。

 扉の外はすでに静まり返っており、あの不気味な番人の気配は、もうどこにも残っていなかった。

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