第24話 調合台のとなり、十八年目の旅立ち
旅立ちの前の夜というものは、不思議と長い。
ラオトはそう思いながら、調合台の前に立っていた。蝋燭の炎が静かに揺れ、薬草を刻む音だけが商会の一階に響いている。夜半を過ぎても手を止める気になれないのは、単に仕事が残っているからではなかった。手を動かしていないと、余計なことを考えてしまいそうだったからだ。
包丁の先で乾燥させたモスグレン草をまとめて押し切ると、青みがかった粉末が台の上に広がった。独特の清涼感を持つ香りが鼻をくすぐり、ラオトは反射的にくしゃみをした。静まり返った夜の商会に、その音が妙に大きく響く。
くしゃみをするたびに思い出してしまう。
プティが初めてこの調合台の前に立ったのは、いつのことだったか。まだ腰の高さにも届かないほど小さかった彼女が、つま先立ちをして必死に台の上を覗き込んでいた。「パパ、なにしてるの?」と無邪気に問う声に、ラオトは作業の手を止めた。薬草の欠片を一つ渡すと、プティはそれを大事そうに両手で受け取り、くんくんと匂いを嗅いだ。そして真剣な顔で言ったのだ。「にがい」と。
当時のラオトは笑いをこらえるのに苦労した。にがいのは当然だ。それは薬草なのだから。だが彼女の真顔があまりにも真剣で、しかも的確な感想だったので、なんとなく誇らしい気持ちになったことを覚えている。
翌日も、その翌日も、プティは調合台の前にやってきた。ラオトが薬草を刻んでいると、隣に立ってじっと見つめる。何かを聞くわけでもなく、邪魔をするわけでもなく、ただそこにいる。その習慣はいつの間にか当たり前になり、プティが少し大きくなった頃には、簡単な薬草の名前を覚え、乾燥の度合いを判断できるようになっていた。
ラオトは教えた記憶がほとんどない。プティはただ、見ていた。見て、覚えて、いつの間にか体で知っていったのだ。
それはどこか、自分と似ていると思う。
もっとも、ラオトの場合は師匠がいた。一見胡散臭いが腕は確かだった老竜専門士から、言葉よりも背中で多くを学んだ。プティにとっての師匠は父親だったわけだ。そう考えると、少し申し訳ない気もする。もっとちゃんと教えてやればよかったと思わなくもない。だが一方で、プティが自分で掴み取った知恵は、誰かに与えられたものより遥かに強く根付いているはずだ。
くしゃみがまた出た。今度は連続して三回。
「……ラオトさん、まだ起きていたんですか」
階段の上から声が降りてきた。振り返ると、エデルが蝋燭を持って立っている。白い寝衣の裾を片手で押さえ、眠そうな目でこちらを見ている。それでも完全に寝惚けているわけではなく、その瞳にはいつもの澄んだ光がある。
「眠れなかっただけだ」
「わかります」
エデルは階段を下り、ラオトの隣に立った。調合台の上に広がった薬草と粉末を眺め、それからラオトの横顔を見る。
「私も、同じです」
ラオトは何も言わなかった。言う必要などなかったからだ。
二人はしばらく並んで立っていた。蝋燭の炎が揺れ、影が壁に踊る。外では風が低く唸っていたが、商会の中は静かだった。
「明日、泣きますよ。私」
エデルが静かに告げた。告白というよりも、確認のような口調だった。
「わかっている」
「ラオトさんは泣かないのですか」
「くしゃみで誤魔化す」
エデルがかすかに笑った。笑いながら、目元を指先で押さえる。
「ずるいですね」
「便利な症状だ、たまには」
二人はまた黙った。ラオトはモスグレン草の粉末を小瓶に移しながら、考えていた。明日の朝、プティが旅に出る。竜専門士の登録証を懐に、竜族の領地を渡り歩き、竜と人間の間に立つ仕事をする。十八年間育てた娘が、ついに自分の足で世界へ踏み出すのだ。
それは喜ばしいことだ。誰よりもラオト自身がそれを望んでいた。プティが自分の意志で道を選び、自分の力でそれを歩もうとしている。商人として、竜専門士として、それ以上に一人の親として、これ以上望むことがあるだろうか。
それでも。
「エデル」
「はい」
「あいつが卵だった頃のことを覚えているか」
エデルは少し思案して、微笑んだ。
「覚えています。あの卵が届いた日、ラオトさんが持ち上げた瞬間に盛大なくしゃみをして、落としそうになりましたよね」
「……覚えていなくていいことを覚えているな、あなたは」
「大事な思い出です」
ラオトは苦い顔をしたが、否定はしなかった。あの日のことは確かに覚えている。商会に届けられた白い卵。誰が送ったのかもわからないまま受け取ったそれを、恐る恐る持ち上げた瞬間、竜気に反応してくしゃみが出た。幸い、エデルが素早く受け止めてくれたのだ。
「孵化した時も、ラオトさんはくしゃみをし続けていましたね」
「あの時ほど激しい症状はなかった。竜気の塊が真隣で割れたんだから」
「でも、ずっとそこにいた」
ラオトは返事をしなかった。エデルもそれ以上は言わなかった。
孵化した直後のプティは、体長にして三十センチもない小さな竜だった。白い鱗を持ち、金色の瞳で世界を初めて見て、それから人間の赤子のような声で泣いた。ラオトはくしゃみを連発しながら、それでも動けなかった。動く必要などなかったのだ。いや、動きたくなかった。
あの瞬間のことは、うまく言葉にできない。
ただ、何かが始まったのだということだけは、はっきりとわかっていた。
「明日」ラオトは言った。「見送りが終わったら、仕事に戻る」
「私もそうします」
「プティの分の作業が減る分、少し早く終わるかもしれない」
エデルは一瞬黙り、小さな声で言った。
「……そういう言い方をしなくてもいいと思います」
「事実だろう?」
「事実だとしても」
ラオトは口を閉じた。エデルが蝋燭を持ち直し、階段の方へ向く。
「早めに寝てください。くしゃみをしすぎると疲れますから」
「……わかっている」
「わかっていない人が言う言葉ですね、それ」
エデルの足音が階段を遠ざかっていく。ラオトは小瓶に蓋をして、作業台の上を片付けた。蝋燭を吹き消す前に、もう一度だけ調合台を見る。
明日から隣にプティのいないその台が、今夜はひどく広く見えた。
旅立ちの朝というのは、どこの家でも似たようなものだ。
威勢のいい声、荷物の軋む音、そして香ばしい焼きたてのパンの匂い。ラオトが階下に下りると、エデルがすでにパンを焼き上げており、プティは食卓の椅子に腰かけて大きなパンを両手で持ち、豪快に頬張っていた。
「おはようございます」
エデルが振り返る。その目が昨夜より少し赤みを帯びていたが、ラオトは気づかなかったことにした。
「おはよう、パパ!」
プティがパンを持ったまま手を振る。
「今日から旅だよ! わかってる?」
「わかっている。毎朝聞かされている」
「昨日からそわそわしてたの、バレバレだったよ」
「してない」
「くしゃみの回数が増えてた」
「……そっちは関係ない」
エデルが背中を向けたまま、かすかに笑った気配があった。ラオトはそれも気づかなかったことにして、椅子に座る。
朝食はいつもよりも品数が多かった。パンの他に、スープと焼いた根菜、それに干し肉を薄く切ったもの。エデルが普段より一時間早く起きて用意したのだろう。プティもそれを察しているのか、いつもより少しだけ丁寧に食べていた。
「ママ、今日のパン特においしい」
プティが言うと、エデルは「毎日同じように焼いています」と答える。だがプティは「でも今日のは特においしい」と言い張った。エデルはそれ以上言わなかったが、嬉しそうな横顔だった。
食事が終わると、プティは荷造りの仕上げにかかった。ラオトは帳簿を開いたが、文字が頭に入ってこない。仕方がないので帳簿を閉じ、プティの作業を眺めることにした。
旅の荷物には、詰める人間の性格が出る。ラオトの質素な旅支度に対し、エデルはあらゆる事態を想定して膨れ上がる傾向がある。プティはその中間だった。
「ポーションが七本、薬草が三種類……」
彼女は指折り数えながら確認している。
「竜族の領地では人間向けの薬が手に入り難いから、多めに持っていきなさい」
エデルが横から助言する。
「うん、だからこれだけ持っていく。でも重くって……」
「荷物が重いなら、竜の姿で飛べばいいんじゃないか?」
「そうなんだけど、人間の姿でも行動したいし……」
「両方持てる量にしなさい、ということよ」
プティはしばらく考え込み、それからぬいぐるみを取り出した。ベルクから贈られた魔獣のぬいぐるみだ。古びて色が少し褪せているが、縫い目はまだしっかりしている。エデルが何度か補修したのだろう。
「これは持っていく……でも重い……」
「ぬいぐるみは重くないでしょう?」
「絵本も持っていくから」
「絵本を沢山持ったら、さすがに重いかもな」ラオトが苦笑する。
「いる!」
プティが言い返した。
「旅先で竜族の子供に会った時に読んであげるの。これが一番わかりやすいんだから」
かつてエオから贈られたその絵本は、竜族の歴史と世界の理を平易な言葉で記したものだった。プティが幼い頃、何度もラオトに「読んで」とせがんでいた本だ。今ではその絵本を自分が読み聞かせる側になろうとしている。
ラオトはそれ以上何も言わなかった。
「……じゃあ、持っていけ。その代わり、自分の身は自分で守れよ」
「うん!」
プティが笑った。何年経っても、何があっても、変わらない屈託のない笑い方。ラオトはそれが自分に似ていないことに、密かに安堵していた。きっとエデルから受け継いだものだ。
荷物を縛り直しながら、プティが懐を確かめる。
「竜専門士の登録証、ちゃんと持ったから」
「見せてくれるか」
プティが取り出したのは、小さな薄い板だった。掌に吸い付くような不思議な質感。竜族の長老会議が認めた証であり、その裏面には七つの認証印が誇らしげに刻印されていた。ラオトは自分の首から下げている登録証と見比べた。プティのものには、彼女自身が竜族であることを示す特別な認可印が一つ多かった。
「……竜族で竜専門士になったのは、お前が初めてだな」
「パパが竜気過敏症で竜専門士になったのも、前例なかったんでしょ?」
「まあ、そうだな」
「じゃあ、プティも同じ。前例がないなら、私が作ればいいんだよね」
プティがにっこりと笑って、登録証を大事そうに懐に戻す。
ラオトは内心で舌を巻いた。思考の筋道の立て方が、あまりにも自分に似すぎている。自分のどこを見て育ったのかと問いたくなるが、問うまでもなかった。十八年間、毎朝同じ調合台の前に立っている男の背中を、ずっと見ていたのだから。
エデルが弁当を包んでいるが、その量は尋常ではない。
「エデル、多すぎないか。彼女は身軽に動く必要があるんだ」
「旅先で食べるものに困ったら大変じゃないですか。美味しいパン屋があるとも限りません」
「プティは竜族だ。多少の空腹ならなんとかなる」
「なんとかならないかもしれないでしょう? もし、お腹が空いて力が出なくなったら……」
二人のやりとりを、プティが可笑しそうに眺めている。
「ママ、泣きそう~」
「泣いていません」
「目が赤いよ?」
「これは、竜の魔力粉の影響です」
「ママは竜族だから、魔力粉なんて関係ないでしょ?」
エデルが言葉に詰まり、プティはいたずらっぽく笑った後、駆け寄ってエデルに強く抱きついた。エデルの手がプティの背中に回る。その動作はいつもより速く、ためらいがなかった。
「行ってきます、ママ」
「……行ってらっしゃい。無茶だけはしないでくださいね」
プティの白い髪を撫でるエデルの声は、わずかに震えていた。でも、崩れはしなかった。エデルはいつでもそうだ。揺れながらも、ちゃんとそこに立っている。ラオトはそれが好きだと、今更ながら思った。
扉の前で、プティがラオトを振り返る。
「パパ、最後になんか言うことある?」
ラオトは少し考えた。十八年間で山のように言ってきた言葉がある。薬草の扱い方、交渉の進め方、竜族との対話における礼儀、くしゃみが出ても怯まない方法。だが今この瞬間に言うべき言葉は、そのどれでもなかった。
「筋を通せ」
「それだけ?」
「それだけだ。商人の交渉も、竜族との対話も、筋が通っていれば自ずと道は開ける」
プティが声を上げて笑う。
「わかった。パパと同じようにする。逃げないし、怯まない」
「俺みたいになる必要はない。お前はお前の筋を探せ」
「でもパパみたいになりたい!」
ラオトはくしゃみをした。プティはびくともせず、そのまま扉を開けた。
外には、抜けるような快晴の空が広がっている。朝の光が眩しく差し込み、商会の石畳を金色に染めていた。春の風が入り込み、プティの白い髪を揺らす。
「パパ、ポーションが苦すぎるから、旅先で甘くする方法を考えてくるね!」
「余計なことするな。あれは効き目が大事なんだ」
「えー? いい改良かもしれないじゃん!」
プティが笑いながら一歩踏み出した。その瞬間、彼女の姿が光に包まれ、白竜へと変化する。太陽の光を浴びたその白い鱗が輝き、金色の瞳が空を映した。首に掛けた袋からは、あの魔獣のぬいぐるみがぶら下がり、元気よく揺れている。
親馬鹿を差し引いても、この世のものとは思えないほど綺麗だった。
『パパ、ママ、行ってくるね!』
「無理するなよ!」
「ご飯はちゃんと食べなさいよ!」
『うん。行ってきます!』
大きな翼が一度羽ばたき、突風がラオトの髪を乱す。石畳の小石が舞い、エデルが手で顔を覆った。白竜の姿は、あっという間に青空の彼方へと小さくなり、そして消えた。
後に残ったのは、風の音と、朝の光と、二人分の沈黙だった。




