第23話 商人の意地、和解への手紙
突然、巨大な白い竜がラオトの前に現れ、喉を鳴らして唸り声を上げた。
「何だ、これは……」
「こんな大きな竜、見たこともありません!」
その質量に、エデルが数歩引き下がった。
「ラオトさん!」
竜がラオトに突進する。しかしラオトは紙一重で回避し、勢い余った白竜はその場で体勢を崩して倒れ込んだ。
(動きが遅く見える……。まさか竜気過敏症が身体の強化に繋がるとは聞いていたが、視覚までも強化されるとは)
激しいくしゃみが止まらない。振動で頭痛がし、眩暈さえ覚える。体制を整える白竜の隙を突き、ラオトは懐のポーションを歯で開封して飲み干した。その間にも白竜が再び襲いかかる。
避けきれない――そう思った瞬間、ラオトは無意識に白竜の右足を掴んでいた。衝突の衝撃を覚悟したが、思ったより軽い。まるで子竜と遊んでいるかのような感覚だった。
「……くしゃみの衝撃の方が痛いな。あ、また出るっ!」
盛大な衝撃と共にくしゃみが出た。その反動で掴んだ竜を投げ飛ばすと、白竜は遠くの岩壁まで吹き飛んでいった。
掴んだ両手を見て、ラオトは驚愕した。
(……これは、まさか)
「ラオトさん、危ない!」
エデルの悲鳴に、ラオトは再度襲いくる尻尾を掴もうとしたが、逆に弾き飛ばされた。ポーション瓶だけは守り通したものの、そのまま竜の口へと飲み込まれてしまった。
「ラオト殿!」
ゼンがニヤリと笑い、悲鳴が辺り一面に響く。しかし次の瞬間、竜が激しく苦しみ出し、ラオトを即座に吐き出した。傍らには空になったポーション瓶が転がっている。
「……おいおい、お腹が空いてたからって……飲み込むなよ、プティ」
体液でずぶ濡れになりながらも、ラオトは微笑んで語りかけた。
「大丈夫か? ポーションを飲んだから直ぐに良くなるはずだ」
「パパ……?」
聞き覚えのある言葉が、ラオトの聴覚に響いた。言葉を零す白竜の口元を撫でて抱きしめる。
「ごめんな……俺もママもプティが大好きだ。ずっと一緒にいよう」
「うんっ! パパ……プティもだいすき!」
白竜が大きな光に包まれると、姿は消え、白い髪に金色の瞳を持つ、いつものプティの姿に戻っていた。プティはラオトの胸にしがみ付き、思い切り抱きしめる。
「……ごめんなさい」
「後で聞きます」
ラオトはプティの頭を撫でた。くしゃみを一つすると、プティがびくっと肩を揺らしたが、離れようとはしなかった。
「ラオトさん、どうしてあの竜がプティだとわかったんですか?」
「プティに触れた時……その芯に、小さな竜の鼓動を感じたんだ。巨大化したのは、竜牙の術か何かを施されたんだろう」
「じゃあ、今度は俺の番だな!」
プティを下ろし、ラオトは大きく息を吸い込んで足元を踏ん張った。
「私はジェルバ商会のラオトと申します! 今日、竜牙の皆様にお目にかかりますのは此方の商品です!」
喉は痒いが、研ぎ澄まされている。竜の唸りのような大声が会場に響き渡り、竜牙の竜たちが一斉に視線を向けた。
「皆様、出番ですよ!」
左手を掲げた合図とともに、会場を囲むようにして竜に乗った軍の集団が一気に現れた。
「アズライト家の竜たちだと!?」
ゼンが細めた目を見開く。アズライト家の竜と協力者たちが、液体の入った袋を次々と竜牙の竜たちへ投げつけていく。
「私達も居ますよ!」
竜化したエオの背で、ベルクが弓矢のように袋を射出している。漆黒だった会場が、鮮やかな色で染め上げられていく。
「染液か? 我々は派手な居場所など望んではいない」
「これは薬です」
「薬だと?」
「竜族の安定剤です。人間にも効く。長年、竜族は不安や暴走という孤独な毒に悩み続けてきた。俺はその争いを止めたい。だからこうして、貴方たちの元へ伺ったのです」
「そんな好都合な素材……見つかるわけがない!」
「あったんだ。ゼンさんの鱗にヒントを得て、竜族の医者と協力して作り上げた。皆で作った特製の安定剤だ!」
「そんな……馬鹿な!」
ゼンが狼狽える中、薬を浴びた竜たちは、一頭、また一頭と穏やかな眼差しでその場を飛び立っていく。
『和解、と言ったか』
奥の声が静かに響いた。
「言いました」
『竜牙と、竜専門士が、和解するとはどういうことだ』
「俺にはわからない。でも、今日俺がここに来たのは、プティを取り返すためです。戦いに来たわけじゃない」
『……戦う気がないのに、一人で乗り込んできたのか』
「エデルと二人ですけど」
静寂。それから、竜語による低い声が届いた。
(……面白い)
奥の竜がゆっくりと巨体を立ち上がらせた。岩が軋む。その巨体が、光の方へゆっくりと歩み寄ってくる。
「っくしゅ、っくしゅ、っくしゅ――」
症状が跳ね上がる。それでもラオトはプティの頭に手を置いたまま、前を向いていた。
竜が三歩手前で止まる。暗い赤の瞳が、ラオトを測るように見つめた。
『……竜専門士でもあり商人よ、なぜここまで来る』
「プティを育てたので」
竜がゆっくりと息を吐いた。岩が冷えるような、長い息だった。
『……この幼竜は、お前が育てたのか』
「庭に落ちていた卵を預かっただけです。かわいそうだったので」
『お前に一つ聞く。和解とは何だ。竜牙は八百年、人間との関係を巡って動いてきた。その我々に、お前は何を言う気だ』
「俺には八百年の話はわからない。でも今日、ここで言えることはある」
『言え』
「竜牙が間違っているのは、支配しようとすることじゃない。相手の筋を無視することだ。プティには自分の意志がある。それを無視して連れてきたことが問題なんだ」
周囲がざわめく中、ゼンが一歩前に出て頭を下げた。
「……申し訳ありません。今回の件、私の判断が行き過ぎました」
奥の竜がゼンとラオト、そしてプティを見比べた後、岩が沈むようにゆっくりと頭を下げた。
『……非礼を詫びる』
「受け取ります」
『和解の話、聞く気はある。ただし今日ではない。お前が次に来る時、正式な場を設けろ。竜専門士として来い』
「わかりました」
『それと――その症状、早く薬を飲め。その姿は見ていて苦しい』
ラオトが小さくくしゃみをすると、足元でプティがくすりと笑った。
* * *
外に出ると、空は既に藍色に染まっていた。
ラオトは岩に座り込み、薬を飲んだ。苦い。二重にも三重にも苦い。
エデルが隣に座り、プティがラオトの膝へと乗ってきた。重みが温かい。くしゃみが出るとプティがびくっと肩を揺らしたが、降りようとはしなかった。
「ラオトさん」エデルが静かに切り出す。「なんですか」「……無茶をしました」「解決したから、結果オーライだろ」「よくないです」
エデルの声がわずかに震えている。「よくないです。全然」
ラオトが隣を見ると、エデルは前を向いたままだったが、その目は少し赤く潤んでいた。
「……泣いているのか」
「泣いていません」
「目が赤いし……」
「……竜の魔力粉が目に入っただけです!」
「お前は竜族だから、そんなことあるか?」
エデルが黙り込む。プティが二人の様子を交互に見た。
「ママ、泣きそうだった」プティが言う。
「パパがいなくなったら、ずっと怖い顔してたと思う!」
「プティ、余計なことを言わなくていいです」
「でも、本当のことだよ?」
エデルが肩を落として俯く。ラオトはくしゃみをこらえ、懐から縫いぐるみを取り出してプティに手渡した。プティはそれをぎゅっと抱きしめる。
「プティ」
「うん」
「一人で出ていくな。次は本当に怒るぞ」
「……うん。ごめんなさい」
「わかればいい」
プティが縫いぐるみを抱いたまま、ラオトの胸に頭を預ける。ラオトはくしゃみが出そうになり、腕で鼻を覆って堪えた。プティを驚かせたくなかったからだ。
「エデル」
「……なんですか」
「心配をかけて悪かった」
エデルは長い沈黙の後、静かに言葉を継いだ。
「……次も、一人で行かないでくださいね」
「今回はエデルと二人で行っただろう?」
「それでも」
エデルは真っ直ぐにラオトを見た。金色の瞳が、切実な光を宿している。
「次も……わ、私も連れて行ってください。あなたの隣に……居させてください」
想定外の言葉に一瞬たじろいだが、ラオトの中で何かが満ちていくのを感じた。
「俺も……エデルの傍に居させてほしい。これからもずっと」
エデルは驚きに目を見開いたが、やがて喜びと涙が入り混じった表情でラオトに抱きついた。くしゃみが出そうになるのを必死にこらえながら、ラオトはエデルの頭を優しく撫でた。
プティは既に腕の中で寝息を立てている。空には少しずつ星が輝き始めていた。
やることは山積みだ。竜牙との正式な和解の場、エオへの報告、明日の調合。
(作って、売って、くしゃみをして、またここへ来る)
だが今夜は、エデルが隣にいて、プティが腕の中で眠っている。それだけで、今のラオトには充分すぎた。
その光景を少し離れた場所から見ていたエオが、呟くように言った。
「……私が、間違っていたのかもしれない」
「何がですか?」ベルクが問いかける。
「人間との関与は危険だと思っていた。だが、関与の仕方ひとつで、こうも変わるのか」
「そうですね」
「……ラオト殿のような関わり方なら、私は否定しない。実に面白い人間だ」
エオは小さく溜息をついたが、その表情は穏やかな納得に満ちていた。
* * *
「プティ、待て! 待ちなさい!」
朝のジェルバ商会に、ラオトの焦った声が響く。人型になっても相変わらず素早いプティは、ラオトの足の間を器用に抜け、時には竜の姿に変化して天井近くまで軽やかに舞い上がった。
「ふふっ。パパー! おそーい! おーいーでー!」
楽しそうに笑いながら逃げ回るプティに対し、ラオトは必死だ。棚の瓶を割られまいと神経を尖らせながら隙をうかがう。ようやくその小さな身体を両腕の中に捕まえると、プティは嬉しそうにジタバタと暴れた。
「今度はパパが竜になるぞー! がおーっ!」
ラオトが両手を上げて威嚇してみせると、プティは再び弾けたような笑顔で駆け出す。その賑やかな様子を、朝食の準備をしていたエデルが腰に手を当てて見守っていた。
「プティ、ラオトさん! 室内で追いかけっこをしたら賑やかすぎます。天気も良いのですから、外でやってください!」
エデルの口調は強いが、その表情はやれやれと困ったように笑っている。いつの間にか商会の中に「家族」のような場所ができていることに、彼女もまた幸福を感じていた。
竜族にも効く安定剤という大発明を成し遂げたとはいえ、ラオトの竜気過敏症は完治したわけではない。こうしてプティと遊んでいる間にも、過剰な免疫反応によって眼の奥がむず痒くなってくる。
「……ちょっと休憩だな」
ラオトは苦笑しながら、懐から自家製のポーション粉を取り出した。純水に混ぜる暇もなく、そのまま口へ放り込む。
「……っ、苦い」
相変わらずの、突き抜けるような苦味だ。医者の知恵を借りて配合を改良してはいるが、この味だけはどうにもならない。今度は本腰を入れて、飲みやすさの改善にも挑戦してみようか。そんなことを考えた、その時だった。
「御免下さい!」
ドアを叩く硬質な音が響く。ラオトが鼻をすすりながら扉を開けると、そこには一人の女性が立っていた。彼女は不安げな表情で、布に包まれた「何か」を大事そうに抱えている。
「あの……すみません。これが落ちていて、どうしたら良いのか悩んでまして……」
女性が恐る恐る布を開くと、そこには見覚えのある、薄く青みがかった卵があった。表面がうっすらと光を放つその姿は、かつてプティが生まれる前に見たものと酷似している。
瞬間、ラオトの鼻が再び激しい警報を鳴らした。
(……またか。またこれなのか)
込み上げてくるくしゃみを必死に堪えながら、ラオトは天を仰ぎたくなった。平和だったはずの商人の日常に、また一つ、厄介で愛おしい「依頼」が飛び込んできたことを確信していた。




