第22話 帰る場所、筋を通す場所
ラオトはくしゃみをしながら、帳簿を思い出した。ゼンの竜気が流れている方向。東の倉庫街のさらに先。山の手前に、使われていない採石場があると聞いていた。
「行くか」
「……はい」
エデルの声が、いつもより低かった。
採石場に近づくにつれ、くしゃみの間隔が短くなった。
竜気が濃い。エデル一頭分ではない。複数いる。ラオトは薬を一口飲んだ。苦い。懐の中でもう一本確認した。今日は多めに持ってきていた。それでも足りるかどうかわからなかった。
「ラオトさん」エデルが静かに言った。「私が先に入ります」
「一緒に入ろう」
「でも――」
「プティを怖がらせたくない。俺の顔を見たら安心すると思う」
エデルが黙った。それ以上言わなかった。
採石場の入り口に、影があった。一つ、二つ、三つ。人型を保っているが、竜族だとわかる。鱗の名残が首筋や手に出ている。
ラオトが前に出た。くしゃみが出た。影の一つが動いた。
「来ると思っていました」
ゼンだった。穏やかな声だった。いつもと同じ、商人めいた口調だ。
「プティを返してください」
「返す、というのは語弊があります」ゼンが言った。
「プティちゃんは自分の意志でここに来た。違いますか」
ラオトは答えなかった。
「中に入りますか」ゼンが続けた。
「プティちゃんも中にいます。あなたの顔を見たがっていましたよ」
中は広かった。採石場の奥、岩を削って作られた空間に竜族が集まっていた。人型の者、竜化した者、大きさも鱗の色も様々だった。ラオトは数えた。数十は超えている。くしゃみが連発した。薬が追いつかない。目が充血し始めた。鼻の奥が痛い。それでも歩いた。
くしゃみが連発した。薬が追いつかない。目が充血し始めた。鼻の奥が痛い。それでも歩いた。
すると頭の中に低い声が直接響く、これまで聞いたどの竜の声よりも重く、古い声だった。
『来たか、竜専門士』
空間の奥、岩の裂け目に、それがいた。大きかった。ヴェルグ老より大きい。鱗は黒に近い深緑で、長い年月で色が沈んでいる。瞳は金色ではなく、暗い赤だった。ゆっくりと頭を動かして、ラオトを見た。
『人間が、ここまで来るとは』
「プティを返してください」
『返す気はない』声が静かに言った。『あの幼竜は、竜族の常識を超えた成長をしている。竜牙として、放置できない』
「プティはただの子供です」
『ただの子供が、竜属性の人間のそばで孵化し、竜族の段階を踏まずに飛ぶか』
ラオトはくしゃみをした。涙が出た。拭って、続けた。
「それがなぜ問題なんですか」
『問題ではない』声が言った。『価値がある、と言っている。この子が持つものは、竜牙にとって必要なものだ』
「プティは道具じゃない」
『道具とは言っていない』声が、わずかに変わった。『仲間と言っている』
周囲の竜族が動いた。囲まれていてラオトの竜気過敏症が、急激に悪化した。
「っくしゅ、っくしゅ、っくしゅ――」
薬が効かない。いや、効いているが追いつかない。目から涙が止まらない。鼻が完全に詰まった。全身がかゆい。立っているのがやっとだった。
エデルが隣に来た。肩に触れた。
「ラオトさん、下がってください」
「下がらない」
「でも――」
「下がらないです」
ラオトは正面を向いたまま言った。声が少しだれた。くしゃみのせいで鼻声になっている。それでも前を向いた。
『……なぜ逃げない』
奥の声が言った。今度は少し違う温度だった。問いかけの声だ。
「逃げる理由がないので」
くしゃみが出た。涙が出た。それでも立っていた。
その瞬間、症状が最大値に達した。
視界が滲んだ。全身が燃えるようにかゆい。鼻の奥が砕けそうに痛い。それでも足は動かなかった。動かさなかった。
『……竜気過敏症でありながら、十を超える竜族に囲まれて、逃げない』
「逃げたってプティは返ってこないので」
ラオトは薬をもう一口飲もうとした。手が震えていた。それでも瓶を開けた。苦い。
いつも苦い。飲み干した。
『お前は変わった人間だ』
「よく言われます」
『ならば、こちら側に来い』声が続けた。
『竜牙はお前のような人間を必要としている。竜気過敏症でありながら竜族に関わり続ける人間は、数百年に一人も出ない。その力を、我々のために使え』
「お断りします」
『なぜだ』
ラオトはくしゃみをしながら、続けた。声がだれている。涙で視界がぼやけている。それでも言葉は出た。
「竜族が人間を支配することも、人間が竜族を排除することも、どちらも俺には関係ない。俺が動くのは、困っている人がいるからだ。プティが困っている。だから来た。それだけの話です」
沈黙が落ちた。採石場の奥底、重苦しい竜気が渦巻いていた。
岩壁に亀裂が走り、粉塵が舞う中、ラオトの手には虹色に輝く特製ポーションの容器があった。掠れた声が、空間に静かに落ちる。
「俺が望むのは、どちら側の支配でもない。和解だ」
その言葉が消えるより早く、背後で爆発的な竜気が膨れ上がった。
(分かってる……わかっているけど……っ!)
エデルであった。
金色の瞳は既に漆黒の憎悪に塗り潰され、理性の縁を焼き切ろうとしていた。人型の外殻を脱ぎ捨て、巨大な竜へと姿を変えた彼女は、雷鳴のような咆哮を上げて竜牙の首領――「奥の声」へと肉薄しようとした。
「うぁぁぁぁああぁあぁぁ!」
人間の叫びと竜の叫びとどちらともつかない咆哮を上げたエデルは岩壁を砕き、立ちはだかる竜族をなぎ倒す。その姿はもはや、安寧を守る加護の竜ではなかった。八百年の間、一族を道具として使い潰し、ラオトの身体すら変質させた元凶への、苛烈な殺意を宿した復讐鬼だ。
――八百年。
その時間の重さを、エデルは誰よりも知っていた。使い潰された一族の少女たちの声。道具として扱われ、名前すら与えられなかった命。憎まなければ、アズライトの竜達に顔向けができない。憎み続けなければ、自分がここに立っている意味が消えてしまう。そういう感覚が、白い鱗の奥底で、ずっと燠火のように燃え続けていた。
「八百年の対価を、貴方達の血で払わせる!」
咆哮が採石場全体を揺さぶった。鋭い爪が「奥の声」の喉元を狙い食い込もうとしたその瞬間。
空気を切り裂くようなくしゃみの音が、響き渡った。
「っくしゅ! ……止めろ、エデル! それは俺たちの、筋じゃない!」
ラオトの声だった。
エデルの意識の奥底に、その声が真っ直ぐに落ちてくる。血に飢えた獣の理性をこじ開けるように、あの不格好で、しかし一切揺らがない声が。
爪に込めた力が、わずかに緩んだ。
「……筋、だと」
エデルの声は、自分でも驚くほど低く掠れていた。
「奪われたから奪い返す。それでは奴らと同じだ」
ラオトが続ける。粉塵の中を歩きながら、くしゃみを堪えながら、それでも一歩ずつこちらへ近づいてくる。
「お前が奴らを憎む理由は、俺にはわからない。八百年分の痛みを、俺は知らない。だが」
彼の声が、一度だけ止まった。
「俺がここに来たのは、お前を復讐者にするためじゃない。家族として、一緒に家に帰るためだ」
エデルの身体が、びくりと震えた。
家に帰る。
その言葉が、胸の中で何かに触れた。爪の先から心臓まで、一本の細い糸が通ったような感覚だった。
「……帰る、場所など」エデルは低く言った。「私には、最初からなかった。一族が滅び、八百年を経て、私が持っていたのは憎しみだけだ。それだけが、私をここに立たせていた」
「今もそうか」
「……」
「今この瞬間も、憎しみだけで立っているか」
エデルは答えなかった。答えられなかった。
ラオトの問いは、問いの形をした鏡だった。その鏡に映るのは、竜牙を滅ぼすために立つ復讐鬼ではなく、毎朝商会の食卓でパンを焼き、プティの白い髪を撫で、くしゃみを連発するラオトの隣で静かに笑っていた、あのエディの姿だった。
あの場所は、確かにあった。
「……ラオトさん、私は貴方の身体を変えた。一生治らぬ苦痛を私の都合で与えた。それは竜牙の所業と、何も変わらない。だから」
「だから、奴らを殺せば帳消しになるか」
エデルは黙った。
「ならないだろう」ラオトは静かに言った。「俺がくしゃみをするたびに、お前が俺に詫びるたびに、その罪は消えない。奴らの血で塗り潰しても、消えない。そういう種類のものだ」
「……では、私はどうすればいい」
「帰ればいい」
あまりにも簡潔な答えだった。エデルは思わず、眼下の男を見た。粉塵で汚れた顔で、くしゃみを堪えながら、それでも真っ直ぐにこちらを見上げている。
「罪が消えなくても、帰る場所はある。お前が作った場所だ。プティがいて、パンがあって、毎朝くしゃみがうるさい場所。あそこに帰る」
エデルの爪から、力が抜けた。
首領を組み伏せたまま、しかしその命を奪うことはなかった。瞳から漆黒の憎悪が退いていく。それに代わって戻ってきたのは、凛とした金色の光だった。守ると決めた場所を、守ると決めた人を、手放さないための光だった。
「……私は、もう道具にはならない」
エデルは静かに言った。「奥の声」を見下ろしたまま、しかしその言葉はもう、目の前の敵に向けたものではなかった。
「貴方たちを滅ぼすための刃ではなく、彼らを守るための盾として、私はここに立つ」
エデルは竜の姿を解き、人型へと戻った。まだ震える足で、くしゃみを連発するラオトの元へと歩み寄る。
「……ラオトさん。私を、呼び戻してくれて、ありがとう」
ラオトはくしゃみをした。それから短く言った。
「帳簿が滞ると困るので」
彼女はラオトの隣に一歩踏み出し、その細い肩を並べて竜牙の首領を見据える。もはやその瞳に、過去の因縁に振り回される危うさは微塵も残っていない。
「私たちは、貴方たちの道具にはならない。商人の筋も、竜族の誇りも、これ以上土足で踏みにじることは、私が許さない」
エデルの宣言が、採石場の冷えた空気を震わせる。 その言葉を受け、奥の裂け目から漏れ出る竜気が、一気に殺意を帯びて膨れ上がった。和解を説くラオトの「筋」も、それに呼応したエデルの決意も、略奪と支配を是とする者たちにとっては、排除すべき不快な雑音に過ぎない。
「……和解だと。そんな戯言のために我らの悲願を捨てるというのか。アズライトの若竜よ、お前は救いようのない愚か者だ」
冷酷な「奥の声」が、暗い赤の瞳を不気味に細めた
「私たち側に付かないと言うのなら……やれ」




