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第21話 商人の流儀、虹色の処方箋

口論は、夕方から始まった。

きっかけは小さなことだった。


「プティを、一度竜族の聖地に預けることを考えたいんだ」

エデルが顔を上げた。「……どういうことですか」

「竜牙は俺たちの動きを見ている。プティの成長速度も把握している。このまま商会に置いておくのは危険すぎる」

「でも」エデルの声が、わずかに硬くなった。

「プティは毎朝、パパとママのそばがいいと言っています。あの子を引き離すということですか!」

「俺たちの気持ちの問題じゃない。あの子を守るための話だ」

「引き離すことが守ることになるんですか?」


二人の声が少しずつ大きくなっていった。どちらが間違っているということではなかった。どちらも正しかった。だからこそ、答えが出なかった。

扉の隙間に、小さな影があることに、二人は気づかなかった。


* * *


プティは走った。裏口から外に出て、石畳を踏んで、町外れまで走った。足がよろけても転ばなかった。転ぶ前に走ることをやめなかった。

大きな広葉樹の下で、膝を抱えて座った。縫いぐるみをぎゅっと抱いた。ベルクがくれた、耳の長い丸い生き物の人形だ。

涙が出た。溢れて止まらなかった。


「プティがいるから……パパとママ、ケンカしてる……」

「それは違うよ、小さなお嬢さん」


上から声がした。穏やかな声だった。どこか商人めいた柔らかい声だった。プティが顔を上げると、灰色の鱗を首筋に覗かせた男が立っていた。細い目。いつも笑っているような顔。

(このひと、しってる。おみせであったおにいちゃん)

ゼンだった。


「君のパパはね」ゼンがしゃがんだ。プティと目線が合う高さになった。

「君の持っている力が、どれだけすごいか、わかっていないだけなんだ」

「プティの……ちから?」

「そう。パパたちを君の力で驚かせるために、私も協力しよう。さあ、おいで」


以前市場で会った時より声が優しかった。プティの警戒が、少しずつ解けていった。

ゼンが手を差し出した。プティはおずおずと指を重ねた。

縫いぐるみが、音もなく地面に落ちた。


* * *


「プティ!」

日が傾いた頃、ラオトとエデルは町中を走っていた。調合台の横に縫いぐるみがなかった。プティの靴もなかった。裏口が少し開いていた。それだけでわかった。

町外れの広葉樹の下で、ラオトの足が止まった。地面に、縫いぐるみが落ちていた。


「っくしゅ、っくしゅ――」


くしゃみが連発した。鼻の奥が、焼けるような感覚で痛んだ。涙が出た。充血した目で周囲を見回した。

(竜気がする。エデルじゃない。これは……灰色の鱗の匂いだ)

「エデル……プティを連れて行ったのはゼンだ。竜牙だ」


エデルの顔が変わった。その背後で、エオの声が地の底から響くような低音に変わった。

「……また、彼らか」

エオの周囲の空気が変わった。一瞬だった。次の瞬間には、目に見えないものが渦巻いていた。木の枝が揺れた。地面が低く震えた。エデルが一歩後退した。

「また……彼らはアズライト家を、あの子を……」

「エオ」

ラオトがエオの前に出た。くしゃみをしながら。涙を流しながら。惨めな格好のまま、一歩も引かずに立った。

「今ここで暴れたら、プティが帰ってくる場所がなくなる!」

ラオトの必死の訴えに、エオの動きが止まった。

「力で片付けるのは竜牙のやり方だ。俺たちはそれと違うと、ずっとそう言ってきただろう?」


ラオトはくしゃみをした。涙を拭った。それからエオを真っ直ぐに見た。

「あの子は、お前のことをおにいちゃんと呼んでいる。その顔を、あの子に見せるつもりか」


木の枝が静かになった。地面の震えが止まった。渦巻いていたものが、ゆっくりと霧散していった。

エオが膝をついた。

「……すまない。私は、また……」

「謝るのはプティを取り返してからだ」


ラオトはくしゃみをした。大きなくしゃみだった。エオが暴走した際に舞い散った竜の魔力粉が、まだ空気の中に残っている。身体中がかゆい。薬を飲むのを忘れていた。

懐を探って薬を取り出した。飲んだ。苦い。

(俺にできることは何だ。武器の扱いも知らない商人が……)

くしゃみをしながら考えた。身体を搔きながら考えた。それから、思い当たった。

「準備しよう」ラオトが閃くように答えた。

「エオさん。エデル。あいつらに、商人の流儀ってやつを叩き込んでやる」

「ラオト殿……何を考えているんですか」エオが静かに聞いた。

「策がある。ベルクさんも呼んで話をしたい」


* * *


数刻後。商会の一階に、エデル、エオ、ベルクの三人が集まっていた。

「では」と、先にラオトが口を開く。

「エデル。プティを助けるために、アズライト家の力を借りたい。協力してくれる竜族も」

「……わかりました。急ではありますが、事情を説明すれば動いてくれる者はいると思います」

「トルダ老にも連絡を入れる。竜族の医者の協力が必要になる。エオさん、頼めるか」

「……作戦の全容はまだわかりませんが、力を貸しましょう」

「ベルクさん」ラオトがベルクを向いた。「国の人手を少し借りたい。できれば魔獣などの背に乗って動いた経験がある者を優先で」


ベルクの眉が上がった。「ラオト殿、竜族と戦争を起こすつもりですか」

「違います。武器は使わない。人手が足りないだけです。後でこちらから調合書を渡しますので、参加する人数分を作っておいてもらえますか」

「武器を使わないというなら……わかりました。検討します」

ベルクが頷いた。武器を使わない作戦なら、軍からの承認も取りやすい。


「さて」ラオトが調合台に向かった。「作るぞ」


* * *


数十種類の薬草の粉。数種類の鉱石の粉。乳を乾燥させた乳化石の粉。煮詰めた複数の果汁。それから、琥珀色の花の蜜。

花の蜜を量りながら、ラオトはプティのことを思った。焼き菓子に蜜をかけて嬉しそうに食べるプティのことを。口の周りを汚してエデルに拭いてもらっていたプティのことを。


「トルダ老から教わった、竜族用の安定剤の粉だ。これを全部、純水に混ぜ込む」

大きな透明の容器に、全部を入れた。

細かく輝きだした安定剤の粉が、他の材料を分離させながら生成していく。赤、青、緑、白、金色。そして花の蜜の琥珀色。

虹色に輝くポーションが完成した。

「綺麗……」エデルが静かに言った。

「竜族との協力なしでは作れなかったポーションだ」ラオトが言った。「効果は……予想が当たれば、あるはずだ。あとは試してみないとわからないが」

エデルが心配そうな顔をした。「武器の代わりに、これだけで行くんですか」

「武器は要らないと言っただろう。俺は商人だ。武器の扱いは知らない。あるのは交渉手段と、これを作ることだけだ」


容器の中で、虹色の光が揺れた。揺れるたびに輝きの尾を引いた。

ラオトはポーションを腰に付けた。そこで視界に入ったのは、プティのお気に入りの椅子だった。いつもそこに座って、絵本を読んでいた。

(プティ。待ってろよ)

「作戦は三日後、日が高くなった刻に決行する」


縫いぐるみに付いていた土を払って懐に入れた。

今はやることが一つ。

プティを連れて帰る。それだけのこと。

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