番外編 蒼き瞳の監察者――八百年前の残照
八百年前の空は、今よりもずっと高く、澄み渡っていた。
エオはそれを今でも覚えている。覚えていたくなくても、覚えている。八百年という歳月は、竜族にとっては人間の数十年ほどの重さしかないはずだった。それなのに、あの空の色だけは、昨日のことのように瞼の裏に焼きついて離れない。
あの頃、エオはまだ「番人」ではなかった。
役職も、使命も、冷徹な論理も、何も持っていなかった。ただの若い竜として、広い世界を知りたいと思っていた。それだけの、単純な存在だった。
彼の隣には、いつもアーヴェがいた。
* * *
アズライト家の血を引く少女竜は、朝露を浴びた宝石のように輝く鱗を持っていた。人型の時は蜂蜜色の髪が肩まで広がり、目が大きく、笑うと目尻に細かい線が入る。竜化すると、全身が淡い金色に輝いて、遠くから見ると星が落ちてきたかと見紛うほどだった。
「エオ、見て。あそこの人間、作物が育たなくて困ってる」
アーヴェが人型のまま、丘の上から麓の村を指差した。確かに、畑の色は悪い。乾いた土が割れていて、育ちかけの作物が頭を垂れている。
「見えている」エオが答えた。
「助けてあげたい」
「また力を使うのか」
「使える力があるなら、使った方がいいでしょ」
アーヴェが振り返って笑った。その笑い方が、エオは好きだった。好きだと気づいたのは、ずっと後のことだったが。
「竜族の力を人間に使うことは、長老会議が良しとしていない。お前も知っているはずだ」
「知ってる。でも目の前で困っている人を見て、見ぬふりができる?」
エオは答えなかった。
アーヴェはもう丘を下り始めていた。止める間もなかった。止める気も、実のところ、あまりなかった。
* * *
アーヴェが属性を授けた人間の数は、エオには数えきれなかった。
荒れた大地に豊穣を。病に苦しむ者に癒やしを。嵐の中で道を失った者に風の加護を。アーヴェは竜族の力を、惜しみなく人間に分け与えた。その度にエオは傍らに立って、周囲を見張った。アーヴェが力を使っている間は無防備になるからだ。その隙を守るのが、いつの間にかエオの役割になっていた。
「また来たぞ」
ある日の夕暮れ、エオが静かに言った。村の入り口に、三人の男が立っている。先週も来た。先々週も来た。農夫の親族だという話だったが、目が違った。感謝の目ではない。もっと欲しいという目だ。
「わかってる」アーヴェが小声で言った。
「ならば」
「でも、断れない。この前助けた子供の親なんだもの」
エオは黙った。
断れない――その言葉の意味をエオは理解していた。アーヴェは誰かの「親」や「子」という顔を見てしまうと、もう断れなくなる。それが彼女の強さであり、弱さだった。その夜、エオは初めて「これは危ない」と思った。しかし言葉を探しているうちに、アーヴェは男たちのほうへ歩いていってしまった。
* * *
竜牙の変質は、静かに、しかし確実に進んでいた。
エオが竜牙の集会に出席したのはその頃だ。かつての竜牙は穏健だった。竜族の自立を掲げ、人間との適切な距離を模索する、理想を語る集団だった。エオも若い頃は彼らの言葉に共感を覚えた時期がある。
しかし、集会の空気が変わっていた。
「分離では足りない」
壇上に立った竜が言った。エオよりずっと年を経た、古い竜だった。
「人間は際限なく力を求める。距離を取っても、彼らは追ってくる。ならば、こちらが先に動くべきだ」
「先に動く、とは」
「支配だ。人間の手が届かない高みに立つことで、初めて竜族は守られる」
エオは黙って聞いていた。論理としては理解できた。理解できてしまうことが、何より恐ろしかった。
「アズライト家の力がある」竜が続けた。「人間に属性を刻む力だ。その力を使えば、人間を竜族に従属させることができる。恩恵ではなく、隷属として」
エオは立ち上がった。
「それは誓いの本義を歪める」
竜がエオを見た。
「誓いは恩を返すためのものだ。道具にするためではない」
「感情論だ」竜が言った。「竜族の存続を考えれば、手段を選ぶ余裕はない」
エオは反論しようとした。しかし周囲の視線が変わっていた。賛成でも反対でもない、様子を見ている目だった。
その夜、エオはアーヴェに会いに行った。
* * *
「竜牙が変わってきている。お前を危険視する者がいる。お前の力を人間を従属させるために使おうとしているんだ」
アーヴェが静かに聞いていた。それから言った。
「知ってた」
「知っていたのか?」
「うん。前から、変な感じはしてた」アーヴェが窓の外を見上げると夜の空に星が出ていた。「でも、止められなかった」
「なぜ……」
「竜牙の中にも、本当に竜族を守りたいと思っている竜がいるから。その気持ちは嘘じゃない。だから、全部が間違いとは言えなくて」
エオはアーヴェを見た。彼女は窓の外を向いたまま言った。
「エオは、どう思う? 竜族と人間が、本当に分かり合える日が来ると思う?」
「……わからない」正直に答えた。「ただ、今のお前のやり方が危ないことは確かだ」
「じゃあ、エオは私を助けてくれる?」
その言葉が、ひどく静かだった。問いかけではなく、確認のような声だった。
「当たり前だ」
エオがそう言うと、アーヴェが振り返って笑った。
「よかった」
その笑顔を、エオはずっと覚えている。覚えていたくても、いなくても。
* * *
竜牙がアーヴェを捕らえたのは、それから間もなくのことだった。エオが気づいた時には、もう遅かった。追いかけた先で、村の外れに竜牙の者たちがいた。アーヴェを囲んでいた。
「放せ」
エオが前に出た。
「エオよ」古い竜が言った。「お前の気持ちはわかる。だが、これは竜族の存続のためだ。アズライト家の力は竜族全体のもの。一個人が好き勝手に使うものではない」
「アーヴェの力はアーヴェのものだ」
「感情で話すな」
「感情ではない。筋の話をしている。アーヴェは誰も傷つけていない。それを竜族の都合で縛ることは、筋が通らない」
竜牙の者たちが動いた。エオは抗った。力では負けていなかった。しかし数が違った。それに、竜族の古い法が枷になっていた。同族に手を上げることへの本能的な躊躇いが、エオの動きを鈍らせた。
その隙に、アーヴェが動いた。
「エオ、逃げて」
「逃げない」
「逃げて」アーヴェが言った。声が静かだった。「私のことはいい。でもエオまで捕まったら……」
「いいわけがない」
アーヴェが笑った。泣きそうな顔で、笑った。
「……ありがとう」
その後の争いで、アーヴェは死んだ。
竜牙に力を搾り取られ、使い果たした末に、人間との凄惨な争いの火種として、あまりに短い命を散らした。エオが手にしたのは、彼女が最期に結んだ、ひどく綻びた誓いの残骸だった。
* * *
虚無に満ちた跡地に、エオは一人立っていた。アーヴェの誓いの残骸を手の中に持ったまま、動けなかった。風が吹いた。
(……エオは私を助けてくれる?)
アーヴェの声が頭の中で繰り返した。「当たり前だ」と答えた自分の声も一緒に。助けられなかった。その事実が、エオの中で何かを凍らせた。情は判断を狂わせる。傍にいることが、かえって彼女の足を縛ったかもしれない。もし自分が最初から冷静に状況を分析していれば。
(人間と関われば、竜も人間も必ず傷つく)
エオは誓った。同じことを繰り返さない。感情を排した論理で動く。誓いを守るために、誓いを監視する者になる。蒼い瞳から、涙という機能を捨て去る決断をした。それが「誓約の番人」の誕生だった。
* * *
ジェルバ商会という小さな店の存在を知ったのは、エデルの報せを受けた時だった。
アズライト家の若竜が、人間と誓いを交わした。その事実を耳にした瞬間、八百年前に凍りついたはずの何かが、胸の奥でひびを割った。
誰よりも早く、その場所に向かった。監察官としての義務だと、自分に言い聞かせながら。
* * *
扉を開けた先に、くしゃみをしている男がいた。竜気過敏症の商人。なのに竜属性を付与された人間。竜語が聞こえる者。報告書で読んだ情報が目の前の人物と一致した。だがエオが最初に感じたのは、違和感だった。
かつて力を求めて竜族に近づいた人間たちは、例外なく「もっと欲しい」という飢えた目をしていた。しかしこの男は違った。くしゃみをしながら、薬草を刻みながら、淡々とこちらを見ていた。
(この人間は、何を望んでいる)
すぐにはわからなかった。
* * *
エデルへの確認を終えて帰ろうとした時、ラオトが口を開いた。
「エオさん、俺から一つ聞いていいですか」
「なんですか」
「あなたは何者ですか」
探るでも試すでもなく、本当にただ知りたいという問いだった。
エオは答えた。誓約の番人だと。ラオトが頷いた。それだけだった。警戒した様子もなく、ただ「なるほど」という顔をして、薬草を刻み続けた。
(なぜ怖がらない)
エオには理解できなかった。
* * *
長老会議の前夜、エオはトルダに連絡を入れた。
医者にラオトを診るよう頼んだ。自分の役職上の義務だと、自分に言い聞かせながら。しかし、真夜中に一人で手配しながら、エオは気づいていた。これは義務ではない。この人間が会議の場で倒れることを、エオは望んでいないのだと。
* * *
長老会議の広間で、ラオトがくしゃみをしながら立っていた。
「逃げる理由がないので」
その言葉を聞いた瞬間、エオの中で何かが動いた。
かつてアーヴェが農夫を見て言った、あの感覚と同じものがここにあった。ただアーヴェと違うのは、この男が自分の苦しさを理由に動きを止めないことだ。くしゃみをしながらでも、立ち続ける。
(なぜ、この人間はそうできる)
長い間、わからなかったが。
* * *
プティが生まれた日。ラオトの肩の上で、小さな白い竜が丸くなって眠っていた。
「誰が世話をしていたのですか」
「俺と、エデルと」
「どちらが主に」
「俺が、温度の管理と夜の見回りをしていました」
竜気過敏症の人間が、症状に苦しみながら、夜に何度も卵を確認していたということだ。義務などないのに。
「かわいそうだったので」という言葉が、またエオの頭の中で繰り返した。
* * *
ある日、成長したプティがよたよたと歩いてきて、両手を差し出した。
「エオのおにいちゃん! これあげる!」
掌に乗ったのは、ありふれた小さな光石だった。でも少し輝いていて、プティが選んで持ってきたことはわかった。
「……ありがとう」
受け取ると、プティが人差し指を口元に立てて笑った。
「ママにはないショだよ!」
その瞬間。
(皆にはナイショね!)
八百年前の声が、頭の中に響いた。プティの顔と、アーヴェの顔が、一瞬だけ重なった。
エオは石を握った。手の平の中で、石が温かかった。
* * *
三者会談が終わった夜は、路地で月を見上げた。
(エオは私を助けてくれる?)
当たり前だと言って、助けられなかった。ラオトという人間は、採石場で苦しみながらも歩いた。
(なぜ、あの人間はそうできる)
ずっとわからなかった問いに、エオはある日気づいた。
ラオトは「助けられなかったらどうしよう」という恐怖で立ち止まらない。ただ「困っている人がいるから行く」という、それだけで動いている。結果への恐怖が、動機より小さいのだ。
エオはずっと、助けられなかった恐怖の方が大きかった。だから枠を作り、排除しようとした。
(私が間違っていた)
感情を排した鎧が、かえって自分を閉じ込めていた。
* * *
翌朝、扉を叩くとプティが飛び出してきた。
「エオのおにいちゃん! おはよう!」
「……おはようございます」
「きのうのはないショ、ちゃんとまもった?」
「わかっていますよ」
中からはいつものくしゃみの音が聞こえた。エデルの声。プティの笑い声。薬草を刻む音。
エオは扉を開けた。エオは、この場所がアーヴェの望んでいたものに近い何かを持っていると、初めて思った。
人間と竜族が、支配でも排除でもなく、ただ同じ場所に立っている。
(筋が通っている)
ラオトがよく使うその言葉が、今日初めて、エオの中で別の響きを持った。
帰り際、エオは立ち止まった。振り返ると、プティが手を振っている。
エオはほんのわずかだけ頷いた。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。いつもと同じ、静かな足音。
ただ今日は、光石が手の中にあった。
(……アーヴェ)
八百年越しに、ほんの少しだけ答えを見つけた気がした。




