第25話 リンダンリーフの蜜が香る日
商会の中に戻ると、プティの分の椅子だけが引きっぱなしになっていた。
食卓の上には食べかけのパンが一切れ残っていて、エデルはそれをしばらく見つめてから、丁寧に布で包んだ。どこにしまうのか、ラオトには聞けなかった。
「帳簿の整理をしていいか」
ラオトは言った。
「どうぞ」
エデルが答える。いつもと同じ言葉のやりとり。だが今朝の空気は、少し違った質感を持っていた。プティがいないことで生まれた静けさは、不在の重さそのものだった。
ラオトは帳簿を開く。今日の調合の予定、仕入れの確認、近隣の商会からの依頼。それらを一つ一つ確認しながら、ふと気づいた。
薬草の仕入れ量が、いつもより多い。
エデルが昨日のうちに注文を出していたのだろう。プティがいなくなる分、ラオトの調合量が増えると踏んで、先回りして手を打っている。それはエデルらしい、静かな配慮だった。
「仕入れを増やしたな」
「プティがいなくなりますから」
「手早い」
「三ヶ月前から準備していました」
ラオトは帳簿から顔を上げた。エデルは食器を洗いながら、こちらを見もせずに続ける。
「プティが竜専門士の試験に合格した日に、仕入れ先との相談を始めました。三ヶ月あれば、ちょうど今頃には切り替えが完了する計算でした」
「……三ヶ月前から、見送りの準備をしていたのか」
「いいえ。仕事の準備です」
エデルが食器を置き、布巾で手を拭いた。それからやっとラオトの方を向く。その目が少し赤かったが、声は落ち着いていた。
「泣いてもいいんですよ、ラオトさん」
「くしゃみが出ているので十分だ」
「出てませんよ、今は」
ラオトはそれに答えなかった。帳簿に目を落とし、今日の調合材料を書き出す。エデルは何も言わずに台所へ戻っていった。
静かな朝だった。
ラオトは帳簿の端に、小さな字で書き込んだ。
『プティ、旅立つ』
それだけ書いて、ペンを置いた。
プティがいなくなって最初の一週間は、いつもと同じように過ぎた。
朝に調合をして、昼に客の応対をして、夕方に帳簿をつける。エデルが夕食を作り、二人で食卓につく。プティの椅子はそのままにしてあった。どちらが言い出したわけでもなく、自然にそうなっていた。
「プティはもうどのあたりにいるんでしょうね」
最初にそれを言ったのはエデルだった。旅立ちから五日目の夕食の時だ。
「竜の足なら、もう最初の竜族の集落には着いている頃だ」
「手紙は来るでしょうか」
「来るだろう。あいつは手紙を書くのが好きだったから」
「誰に似たんでしょうね」
「お前じゃないか? 俺は書き物より計算が好きだ」
「私も書き物は好きですが、そこまで積極的に書く方ではないです」
二人は少し考え込み、結局誰に似たのかはわからないまま、食事を続けた。
翌週から、近隣の商会が忙しくなった。季節の変わり目で各地の竜族が移動を始める時期であり、交易路の管理に関わる依頼が増えた。竜専門士への需要も高まり、ラオトは珍しく数件の相談を断った。一人では手が回らなかった。
「プティがいれば、もう少し対応できたんですが」
と言いそうになって、ラオトは口をつぐんだ。
言っても仕方がない。プティは今、もっと大事な仕事をしている。
二週目の終わりに、商会の扉に一通の手紙が差し込まれていた。プティの筆跡だ。封を開けると、竜語と人間語が混じった書き方で、文字がびっしりと並んでいた。
『パパ、ママ、元気ですか。プティは元気です。最初の竜族の集落に着きました。族長さんがとても親切で、歓迎の宴を開いてくれました。竜族のご飯は量が多いです。美味しいです。でも人間のパンが恋しいです。ママのパンが特に食べたいです。次の集落まで三日かかるそうです。途中で川が増水しているかもしれないと聞いたので、迂回路を探します。パパ、調合の材料は足りていますか。ルッグ草は梅雨前に多めに仕入れた方がいいです。去年より気温が高そうだから、虫除けの需要が増えると思います』
ラオトは手紙を読みながら、何度かくしゃみをした。プティの文章は情報量が多く、話題が次々と切り替わる。商売の助言をしたかと思えば、次の行では川の増水を心配している。まるで本人が目の前でしゃべっているようだった。
「帰ってきたみたいですね」
エデルが横から覗き込んで言った。
「手紙だけで疲れそうだ」
「でもラオトさん、読むのが止まらないじゃないですか」
「……確認することが多いからな」
エデルは笑った。今度は隠さずに、声を出して笑った。
手紙はその後も、不定期に届いた。竜族の子供たちに絵本を読み聞かせたこと、山越えで嵐に遭って洞窟で一夜を明かしたこと、竜族の長老から古い薬草の調合法を教わったこと。どれも短い報告だったが、プティが確かに生きて動いていることが伝わってきた。
そして三ヶ月が経った頃。
一通の手紙が届いた。
その手紙は、いつもより厚かった。
封を開けると、数枚の紙が丁寧に折りたたまれて入っていた。一枚目には短い書き出しがあり、「報告があります」と書いてあった。プティにしては珍しく、丁寧な書き出しだ。
『旅先で、竜族と人間の境界争いに遭遇しました』
ラオトは読む速度を落とした。エデルが隣に来て、静かに読み始める。
事の経緯はこうだった。
プティが向かっていた竜族の集落の手前に、人間の小さな農村があった。そこと竜族の居住区の間に一本の川があり、その川の流路が大雨で変わったことで、どちらの土地がどこまでかが曖昧になった。竜族の側は「川が境界だったのだから、川が動いた今は土地が増えた」と主張し、人間の側は「もともと農地として耕してきた土地を今更取られるのは納得できない」と反発した。
小さな争いではあったが、こじれると大事になる種類の問題だった。竜族は物理的な力で圧倒的に強い。だからといって、人間の側が黙っているわけでもない。歴史的に見ても、こういった小さな土地争いが大きな対立の火種になることは珍しくなかった。
『逃げる理由がなかったので、竜専門士として仲介に入りました』
ラオトはくしゃみをした。エデルは手紙から目を離さなかった。
プティはまず両者の話を別々に聞いた。次に現地の川の状況を自分の目で確認し、流路が変わった範囲と農地の境界を記録した。それから双方を一堂に集め、事実だけを示した。感情的な主張は一度横に置いて、「川が変わる前の境界はどこだったか」という点に絞って確認を取った。
竜族の長老の一人が最初に難色を示した。「竜族として当然の権利を主張しているだけだ」と言った。プティはそれに対して静かに言い返した。
『「権利があるとしても、筋が通るかどうかは別の問題です」と言いました。パパの言葉を借りました』
ラオトはそこで手紙を持つ手を止めた。
エデルが隣でかすかに息を呑む。
『長老さんは少し黙ってから、「筋を通せ、か」と言いました。プティは竜族なので、竜族の論理もわかります。人間の論理もわかります。だから間に立てると思いました。竜専門士は通訳じゃなくて、橋だとパパがいつか言っていました。その言葉の意味が、仲介に入ってみて初めてわかりました』
双方が納得できる落としどころとして、プティが提案したのは三点だった。一つ目は、川の変化以前の境界線を文書で確定させること。二つ目は、変化によって生じた新しい流路周辺については共同管理の区域とすること。三つ目は、今後同様の自然変化が起きた場合に備えて、竜専門士を交えた定期的な確認の場を設けること。
竜族の側も人間の側も、すぐには頷かなかった。だが翌朝、双方の代表者がプティのところに来て、「その案で進めたい」と伝えた。
『パパの言った通りでした。筋が通っていれば、自ずと道は開けました。あっさりと解決しました。パパと同じでした』
そこで本文は終わっており、その下に一行の追記があった。
『例のポーションだけど、リンダンリーフの蜜を足したら格段に飲みやすくなったよ。華やかな香りだし、少し清涼感があるから、朝の目覚めにも良いかも。今度、パパにも教えてあげる』
ラオトは手紙を折り畳んだ。
くしゃみが出た。今日は特に多い。
調合台の上に手紙を置き、彼は薬草を刻み始めた。いつもの仕事。いつもの音。だが今日は、その音の中に何か違うものが混じっているような気がした。
(リンダンリーフか。あの苦味を清涼感に変えるという発想はなかったな)
リンダンリーフは蜂蜜に近い甘みを持つ植物だが、後味に独特の清涼感を残す。それ単体では薬草としての効果が弱く、調合の補助材料としてしか使ったことがなかった。だが確かに、苦みの強いポーションの飲みやすさを改善するために使えないことはない。
問題は、清涼感が薬の効き目の体感に影響しないかどうかだ。心理的に「効いている」と思えることは、実際の回復に影響する場合がある。そのバランスをどう取るかが問題になる。
でも、試してみる価値はある。ラオトは帳簿の余白に書き込んだ。
『プティ、初仕事成功。リンダンリーフの蜜、清涼感あり。試してみる価値あり』
エデルが横に来て、手紙を覗き込んだ。
「……プティからですか?」
「ああ。ちゃんとやっているみたいだ。この際、あいつが竜気過敏症を完治させる薬でも作ってくれないかな」
エデルはしばらく黙ってから、静かに言った。
「ラオトさんが作った方が、すぐに飲めますし、安心なんじゃないですか?」
ラオトは頷いて笑った。
「それは言えてるな……」
その夜、ラオトは夢を見た。
夢の中でも、ジェルバ商会は変わらなかった。調合台があり、帳簿があり、薬草の匂いが染みついた壁がある。蝋燭の光が柔らかく揺れていた。
プティがいた。大きくなったプティが、あの白い髪を後ろで束ねて、調合台の前に立っていた。竜専門士の登録証を首から下げ、旅の装備を身につけたまま。どこか遠くへ行く途中のように、あるいはどこかから帰ってきたばかりのように。
「パパ、ポーションの改良うまくいったよ」
夢の中のプティはそう言った。手に小さな小瓶を持っており、ラオトに差し出してきた。受け取って蓋を開けると、清涼感のある甘い香りが立ち上った。リンダンリーフだ。
「飲んでみて」
「……悪くないな」
「でしょ! 竜族の長老さんにも好評だったよ。人間の子供にも飲みやすいって言ってもらえた」
夢の中のプティは笑っていた。屈託のない、変わらない笑顔。
「パパ、元気にしてた?」
「している」
「くしゃみは?」
「相変わらずだ」
「ポーション、ちゃんと飲んでる?」
「必要になったら飲んでいる」
「ちゃんと飲んでね。パパの竜気過敏症を治す薬、いつかプティが作るから」
「大きいことを言う」
「できるよ。パパが前例ないって言ったって作る。プティ、前例がないなら自分で作るって決めてるから」
ラオトはくしゃみをした。夢の中でもくしゃみが出るのかと、他人事のように思う。
プティはびくともしなかった。ただ笑っていた。
「じゃあ、また行くね」
「どこへ」
「次の場所。呼ばれている気がするから」
「また手紙を書け」
「書く。帳簿の余白にもメモしておいてね」
「余計なことを言うな」
プティが笑いながら扉を開けた。外は朝の光に満ちていた。彼女が一歩踏み出すと、また白竜に変わった。光の中で、その白い翼が広がる。
飛び立つ前に、一度だけ振り返った。
『パパ、ありがとう』
それだけ言って、空へ消えた。
ラオトは夢の中で、しばらくその空を見ていた。青い空だった。雲一つない。
ありがとう、というのは何に対してだろうと、夢の中でも彼は考えた。育てたことか、登録証を認めたことか、旅立ちを止めなかったことか。あるいはそのどれでもなく、ただ父親だったことか。
答えが出る前に、くしゃみが出た。目が覚めた。
「パパー! 起きてー!」
ラオトは重い瞼を開ける。視界に入ったのは、見慣れた商会の天井だった。
顔を覗き込んでいたのは、小さなプティだ。純白の髪に、金色の瞳。片手にお気に入りのぬいぐるみを持ち、もう片方の手でラオトの頬をぺちぺちと叩いていた。
「パパ、おきてってばー! ごはんできてるって、ママがいってるよ!」
ラオトはしばらく、その幼い顔を凝視していた。小さい。まだ、こんなに小さかった。
夢の中の大きなプティと、目の前の小さなプティが、同じ笑顔をしている。同じ金色の目で、同じ屈託のなさで。
「……どうしたの、パパ?」
「ん? なんでもない」
ゆっくりと起き上がると、いつものようにくしゃみが漏れた。プティは、まだその音に慣れておらず、少しだけびくっと肩を揺らした。それでも逃げなかった。いつも逃げない。この子は昔から、ラオトのくしゃみに驚きながらも、その場を離れなかった。
一階に下りると、エデルが朝食の準備を整えていた。パンの焼ける香りが充満している。彼女は振り返り、ラオトのぼんやりした様子に首を傾げた。
「どうしたんですか。酷く寝惚けていますね」
「夢を見ていた」
「どんな夢ですか?」
ラオトは少し考えた。プティが「どんな夢~!?」と両手を広げて聞いてくる。その目が期待でいっぱいだった。
「……プティが、立派に大きくなった夢だ」
「プティがおおきくなったの!? どんなだった!?」
「竜専門士になって、旅をして、難しい問題を解決していた」
プティが目を輝かせた。金色の目が、朝の光を受けてきらきらと光っている。
「プティが、パパとおんなじおしごとするの!?」
「あくまで夢の話だ」
「でもなりたい! プティ、絶対なる!」
エデルが声を出さずに笑った。ラオトには、それが深い幸福の笑みであることが、よくわかった。エデルの笑顔は大抵静かだが、こういう時だけは笑い方が少し違う。
ラオトはくしゃみをしながら、いつもの椅子に座った。帳簿を開く。今日の調合、仕入れの確認、近隣からの依頼。いつもの朝だった。
だが彼は、帳簿の余白に、自分だけにわかるように一行書き添えた。
『プティの将来、楽しみにしている。リンダンリーフも、今度試してみよう』
「パパ、なに書いてるのー?」
覗き込んできたプティに、またくしゃみが飛んだ。彼女は再びびくっとしたが、それでも逃げようとはしなかった。商会の朝が始まる。薬草を刻む音、パンの焼ける匂い、小さなプティの声。それらが重なり合って、いつもの一日が動き出す。
やることは変わらない。作って、売って、くしゃみして、また考える。
ただ今朝は、夢の中で見た大きなプティと、目の前でパンを頬張る小さなプティが、どちらも同じ誇らしげな笑顔を浮かべていたことが、なんとなく嬉しかった。
それだけのことだ。
ジェルバ商会の帳簿には、ところどころに余白がある。
ラオトが時折書き添えるメモのためのものだ。調合の覚書、仕入れ先への確認事項、近隣の竜族の動向。それらの間に、ごくたまに、仕事とは無関係の一行が混じっている。
卵が届いた日。
孵化した日。
プティが初めて薬草の名前を正確に言えた日。
初めて人間の姿で一日過ごした日。
どれも短い一行だ。感想も評価もない。ただ日付と、出来事の名前だけが書いてある。
帳簿はあくまで商会の記録だから、仕事以外のことを長々と書くのは筋が通らない。だから短くていい。一行あれば十分だ。見返す時に、その一行で思い出せる。
そういうものだ、とラオトは思っている。
記録とは、記憶の錨だ。書いておくから、忘れない。書いた事実があるから、それがあったと確認できる。
プティがいつかこの帳簿を見る日が来るかもしれない。あるいは来ないかもしれない。どちらでもいい。この帳簿はラオトが自分のために書くものだから。
ただ、もし見ることがあったとしたら。
その時のプティが、これらの一行一行を読んで、何かを受け取ってくれればそれでいい。何を受け取るかは、プティが決める。父親が押しつけることではない。
「パパー、今日のポーション、またちょっと苦い」
小さなプティが、瓶を持って調合台の前にやってきた。
「効き目があるから苦いんだ」
「うー……甘くならないの?」
「ならない」
「なんとかならないの?」
「今のところはならない」
プティはしばらく瓶を睨んでから、もう一度ラオトを見た。
「じゃあプティが大きくなったら考える」
「余計なことしなくていい」
「えー? いいかもしれないじゃん!」
ラオトはくしゃみをした。プティはびくっとして、それでもその場を離れなかった。
窓の外では、今日も澄んだ空が広がっていた。いつかプティが飛んでいくための、大きな青い空が。
ラオトは帳簿の余白に、今日の日付と一行を書き添えた。
『ポーションを苦いと言う。将来、改良するかもしれない。楽しみにしている』
* * *
それから何年も経って、ある日ジェルバ商会に一通の小包が届いた。
差出人は竜専門士プティ。差出地は遠方の竜族の集落。
中に入っていたのは、小さな小瓶だった。
蓋を開けると、清涼感のある甘い香りが立ち上った。リンダンリーフの蜜が入っている。添えられた短い手紙にはこう書いてあった。
『パパへ。約束通り、完成させました。試してみてください。プティより』
ラオトはその小瓶をしばらく眺めてから、一口飲んだ。
苦くなかった。むしろ、飲みやすかった。
くしゃみが出た。
彼は帳簿を開き、余白に書いた。
『プティのポーション改良、完成。苦くない。よくやった』
エデルが横から覗き込んだ。
「プティから?」
「ああ」
「なんて?」
「ポーションを完成させたと」
エデルはしばらく黙り、それから静かに言った。
「……飲んでみましたか」
「飲んだ」
「どうでしたか」
ラオトは少し考えてから答えた。
「悪くない」
エデルが笑った。今度は声に出して。笑った。
商会の外では、風が吹いている。どこか遠くの空から、白竜の羽ばたきが聞こえてくるような、そんな気がした。
もちろん、気のせいだ。でも、そういう気のせいは、悪くない。
ラオトはそう思いながら、今日の薬草を刻み始めた。くしゃみと戦いながら。いつもと同じように。
(了)




