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第19話 繰り返さないための沈黙

翌朝、エオに話を通した。ノックは三回。ラオトがメモを見せると、エオは黙って読んだ。一度目を通して、また最初から。それからラオトを見た。


「……竜族個人情報の除外は、確約として書面に残せますか」

「残せると思います。ベルクはメモを取っていました」

「残せるなら、異議はありません」エオが短く言った。「竜専門士が国に認定されることで、竜族との交渉において一定の権威が生まれる。それは竜族にとっても利点です」

「条件の詰めについては、三者で話し合う場を設けてもいいですか。俺とエオさんとベルクで」


エオが少し間を置いた。「……ベルク殿と、直接話すということですか」

「エオさんがいれば、竜族側の条件を俺が翻訳する必要がなくなります。話が早い」

「私は人間の国家機関との直接交渉は、通常行いません」

「通常でないことは、この案件から始まっています」


エオが黙った。長い沈黙だった。帳簿のページがめくれる音がする。くしゃみが出た。エオが三歩下がった。


「……わかりました。その場を設けてください。ただし――」

「ただし?」

「私の正体については、ベルク殿には明かしません。竜族の誓約の番人が人間の国家機関と直接交渉したという記録は、残したくない」

「じゃあ、どういう立場で出席しますか」

「竜専門士の助言者……で、構いません」

「わかりました」ラオトが言った。「エデルはどうしますか」

「同席させてください」エデルが静かに言った。「アズライト家として、竜族側の条件確認に立ち会います」


ラオトはメモに書き足した。

『三者会談・エオ(竜専門士助言者として)・エデル(アズライト家代表として)・ベルク・一週間以内』


「プティはどうします?」

「一緒って事で」

ラオトの答えに、プティがエオに笑顔で問いかけた。「エオおにいちゃんもいっしょに、おはなしくる?」

「……行きます」

「やった! プティもいっしょ!」プティはエオに駆け寄って抱きついた。エオは一瞬驚いた表情をしたが、プティの頭を軽く手で撫でた。ラオトはそれを見て、少し驚いた。エオがプティに心を許している。

「……静かにできますか?」

「できる! ぜったいしずかにする! ぜったい!」

エオを見上げたプティの言葉に、エオが短く息を吐いた。表情はほとんど変わらなかったが、ほんのわずかだけ口の端が動いた気がした。ラオトはそれを見て、またくしゃみをした。

(プティが正解だったかもしれない。エオさんが断りにくくなった)


「エオさん」

「なんですか」

「ありがとうございます」

「……礼は交渉がうまくいってからで」

エオが立ち上がった。扉に向かいながら、もう一度だけ振り向く。

「ラオト殿。ベルク殿は交渉が上手い相手です。事前に条件の優先順位を整理しておいてください」

「わかりました」

「それと」エオが少し間を置いた。「……三者会談の場で、私が感情的になることはありません。ご心配なく」

「心配していませんでした。でも、プティが何か言っても怒らないでください」

エオは「……わかりました」と了承し、扉が閉まった。


プティが「エオおにいちゃん、いい顔してた!」と笑顔でラオトを見た。

「そうかもしれないな……」

ラオトはプティの頭を撫でる。くしゃみをしながら、帳簿に書き足した。


『三者会談・エオは感情的にならないと自分で言った・プティへの対応は善処』


やることが増えた。でも今日は、三者が同じ方向を向いた。


* * *


三者会談当日。場所はラオトが指定した商会の一階だった。

先に着いていたのはエオとベルクで、二人は同時に到着していた。

二人とも早かった。理由は聞いていない。ただ、ラオトが扉を開ける前から、

中が妙に静かなことはわかっていた。静かすぎる静かさだった。


先に気づいたのはプティだった。


「あっ!」


扉を開けた瞬間、プティが声を上げた。エデルの手を振り切って、真っ直ぐ走る。目的地は二つ。エオと、ベルクが膝の上に置いていた耳の長い縫いぐるみだ。


「エオのおにいちゃん! それなにー?」


エオが抱えていた絵本に、プティが両手を伸ばした。竜族の絵本だった。表紙に大きな竜の絵が描いてある。エオが少し間を置いて、プティに渡した。


「……竜族の話が載っています」

「りゅうぞくー! すごーい!」

プティが表紙を眺めた。それからベルクの膝の縫いぐるみを見た。耳が頭の二倍ほどある、丸い生き物の可愛い魔獣の人形だった。


「ベルクのおにいちゃんもー! それ、いいのー?」


ベルクが縫いぐるみをプティの前に差し出した。受け取ったプティが、ぎゅっと抱きしめる。満足そうだった。


「おにいちゃんたち、ありがとう! プティすごくうれしい!」

ラオトはくしゃみをしながら、二人を交互に見た。

(どういう経緯でそうなったんだ、この二人……?)


エオが視線を逸らした。ベルクが書類を整え始める。二人とも何も言わなかった。


「プティの贈り物ありがとうございます……来るの早かったですね」

「早めに着いてしまいまして。プティ殿も退屈では可哀想ですし」ベルクが答えた。声は平静だった。「エオ殿も同様だったようで」

「……業務上、時間には正確でなければなりませんし、あの子が静かになればいいかと」エオが静かに言った。


(二人共、結構素直じゃないんですね……)


二人のぎこちない表情を見て、エデルが口を抑えて笑みを隠した。ラオトもそれ以上は聞かなかった。


ラオトは椅子を引いて座った。エオが三歩下がった。ベルクが書類を一枚取り出す。

「では、本題に入りましょう」ベルクが切り出した。「竜専門士の国家側での正式登録について、現状を確認したいと思います」

「こちらも同じ目的で来ました」エオが言った。「竜族側の条件と、国家側の条件を擦り合わせる必要がある」


会議が始まった。

傍らでは、ベルクから贈られた縫いぐるみを抱きしめたプティが、エオから贈られた竜族の絵本をエデルにめくってもらいながら、静かに、しかし熱心に眺めていた。


* * *


交渉が佳境に入った頃だった。

国家側が求める「中立性の保証」と、竜族側が懸念する「秩序の維持」について議論が熱を帯びていた、その時。


「エオのおにいちゃん、これなにー?」


プティが立ち上がり、絵本を広げたままエオの膝元へ駆け寄って、ページの一点を指差した。

古びた金泥で描かれた「己の尾を噛む竜」の図案。

それを目にした瞬間、常に冷静なエオの指先がわずかに震えた。眼鏡の奥の蒼い瞳が、大きく見開かれる。エデルを追いつめ、かつてアズライト家を利用しようとした組織――竜牙の紋章に、酷似していた。


「……それは」


論理と沈黙を武器にする監察官が、初めて言葉に詰まった。子供向けの絵本という意外な場所から顔を出した情報の断片。そこに刻まれた不穏な意図を察した緊張が、部屋の温度を急激に下げた。ラオトは思わずくしゃみをした。


「……っくしゅ。すまん、緊張感があるんだかないんだか」


鼻を押さえながら言うと、エデルが小さく息を吐いた。プティはまだエオを見上げていた。


* * *


会議が一段落し、ベルクが書類をまとめ帰っていった後のことだ。

エオが席を立ち、扉の前で一度だけ足を止めた。

いつもの事務的な静けさではなかった。八百年の時を見続けてきた番人としての重みが、低い声に滲んでいる。エオはラオトではなく、エデルを真っ直ぐに見据えた。


「エデル。一つだけ確認したいことがある」


少しの間があった。


「あなたが彼に授けた属性と誓いは……本当に、アズライト家が八百年前のあの悲劇を繰り返すための道具として、彼を選んだのではないのだな?」


問いではなかった。確認だった。それでも、言葉の重さは問いと変わらなかった。

エオがかつて止められなかったもの――竜牙に利用されたアズライト家の先祖と、人間社会を揺るがした過去の因縁。その記憶が、目の前の穏やかな光景に冷たい楔を打ち込んだ。


「……それは」


エデルは否定しようとした。しかしエオのあまりに重い眼差しが言葉を喉の奥でつかえさせ、沈黙が商会の中に新しい緊張の糸を引いた。


「エデル、八百年前ってなんだ?」

「……私は、かつてアズライト家の者が利用されるのを止められなかった。人間との関与で傷ついた竜の中に、アズライト家の者がいたのです」


エデルが静かに話し始めた。


「私の先祖に当たる竜が、かつて竜牙に利用されて人間との関係を断ち切られた歴史があります。エオ様が私を特に気にかけていた理由は、そこにあります」

「アズライト家の者が竜牙に利用され、人間との関係を断ち切られた。その傷を、私は止められなかった」エオが続けた。声は静かだった。「だから……同じことを繰り返させたくなかった」


エデルが静かに頭を下げた。言葉はなかった。でもその沈黙は、否定でも肯定でもなく、ただ受け取ったという沈黙だった。

エオが扉を開けた。足音が遠ざかっていく。いつもと同じ、静かな足音だった。

扉が閉まった。しばらく、誰も口を開かなかった。

プティが縫いぐるみを抱えたまま、閉まった扉を見ていた。


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