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第15話 穏やかな午後の、静かな楔

東の市場へ、三人で向かった。

東の市場は町の外れにある。常設の店が並ぶ大通りとは違い、週に二度だけ立つ朝市で、農家や行商人が各地から集まってくる。魚の干物、木工品、遠方の香辛料。ラオトも薬草の仕入れで時々使う場所だ。しかし今日は、仕入れが目的ではなかった。


「エデル、プティはどうだ」

「大人しくしています」


エデルがラオトの斜め後ろを歩いている。

プティは人型のまま、エデルの腕の中で市場の賑わいを目で追っていた。初めて見る人の多さに、周囲をきょろきょろと見渡している。


「ママ……」

「うん?」

「ひとがいっぱいいるね……」

「そうね、人がいっぱいいるわね」


プティがエデルの服の袖を引っ張った。下りたいらしい。エデルがそっと地面に降ろすと、プティは今度はラオトの手を掴んで、半歩だけ前に出た。それ以上は出なかった。


(人が多い場所は怖いのか)


ラオトはプティの手を握り返した。くしゃみが出る。プティがびくっとしたが、今度は離れなかった。慣れてきたのだろう。

臨時の出店が並ぶ区画は、市場の東端にあった。常設でない分、掘り出し物もあれば怪しい品もある。ラオトは歩きながら、左右の台を流し見た。


(竜気がする)


くしゃみが出た。方向は前方。まだ遠いが、確かにそこにある。


「エデル」

「……感じています」


台の間を抜けていくと、一つの出店が見えた。小さな台に、石や鉱石の類が並んでいる。台の後ろに立っているのは、人型の竜族だった。背は高い。ラオトより頭一つ分ほど大きい。体格も細く、一見すると若い男のように見える。灰色の鱗が首筋と手の甲に薄く浮かび、細められた目は常に笑みを湛えているようだ。その男がラオトを見た瞬間、先に口を開いた。


「これはこれは!竜専門士殿ではないですか」


声が明るい。敵意も警戒もない、商人のような響きだった。


「こんな所まで、わざわざ」

「仕入れのついでです」ラオトは台の前で足を止めた。

「いい品が並んでますね」

「お眼が高い。どうぞ、ゆっくり見ていってください」


男が台の品を示した。青みがかった石、半透明の鉱石、細かく砕いた粉末を瓶に詰めたもの。くしゃみが出た。男がわずかに目を細める。笑みが微かに変わった。何かを確認したような目だ。


「……竜気過敏症をお持ちで?」

「子供の頃から」

「それは大変ですね」男が言った。「でも、だからこそ竜語が聞こえる事もある。不思議なものです」

(正確には半々だが、俺のことを幾らか調べているのか。でもそれを隠さない。隠さないことで、こちらに「全部知っている」と伝えている)


ラオトは台の石を一つ手に取った。くしゃみをしながら裏返す。


「これは、竜の鱗を加工したものですね」


男の表情は変わらない。


「よくわかりますね」

「わかります。竜気が残っている」

「…………」

「竜族に断りなく素材を販売することは、竜族との取り決めに反する可能性があります。竜専門士として確認に来ました」


しばらく沈黙が落ちた。市場の喧騒が遠くに聞こえる。プティがラオトの手をきゅっと握った。

男が笑った。今度は少し違う、もっと素が出た、面白がっているような笑い方だった。


「さすがですね、竜専門士殿」


男が台の後ろから出てきた。一歩、ラオトの方へ。


「申し遅れました……私はゼンと申します。竜族の者です。こちらの品については、確かにご指摘の通りです。ただ」

「ただ?」

「竜族に断りなく、というのは少し違う。私は竜族ですので、私自身の鱗を使っています。それは問題ないと考えていますが」


ラオトは少し考えた。


(自分の鱗を使っている、という主張か。それは確認できない。でも否定もできない)

「なるほど」

「竜専門士殿のお仕事は、双方の筋を通すことでしょう。私が私自身の素材を販売することに、問題はありますか」


筋、という言葉を使った。ラオトがよく使うことを知っている。


(情報を持っている。そして使ってくる)

「竜族が自分の素材を処分する権利については、私には判断できません」ラオトが答えた。「ただ、人間側への販売にあたって、素材の出所を明示していないことは問題になる可能性があります。購入者に『竜族の素材である』と伝えた上で売っていましたか?」

「……それは」

「買った方は、魔力を帯びた希少鉱石という説明を受けたと聞いています」

ゼンが少し間を置いた。「それは失礼しました。配慮が足りなかった。では、今後は明示するようにします」

「そうしてください」


あっさりと引いた。ラオトはゼンを見た。ゼンはまだ笑っている。引いたことに焦りも悔しさもない。最初から、これが目的ではなかったような引き方だ。


「竜専門士殿」ゼンが続けた。「せっかくですから、少しお話しませんか」

「何の話ですか」

「あなたのお仕事についてです」


エデルを一瞥する。アズライト家のことも当然知っている、という目だった。


「竜族と人間の仲介。大切なお仕事だと、私どもも思っています」

「私どもというのは?」

「志を同じくする者たちです」ゼンが穏やかに言った。「竜族と人間が、より良い関係を築くために動いている」

「竜牙のことですか」


ゼンが少しだけ表情を変えた。今度は驚いたような顔だった。演技かもしれないが、本当に少し意外だった可能性もある。


「……ご存じでしたか」

「名前は聞いています」

「では話が早い」ゼンが言った。「私どもは竜族の孤立を望んでいません。竜族と人間が共存し、共に栄える世界を目指しています。竜専門士という役職は、その意味で、私どもの理念と重なる部分が多い」

「支配ではなく、共存というわけですか」

「そうです」


ラオトはプティの手を握りながらゼンを見た。


(言葉はいい。でも言葉がいいことと、やっていることの筋が通っていることは別だ)

「一つ聞いていいですか」

「なんでしょう」

「先ほどの石の件、購入者への説明が不足していたと認めましたよね」

「はい」

「共存を目指すなら、人間側への誠実な説明は基本だと思いますが、なぜしていなかったんですか」

ゼンが少し間を置いた。「……急いでいたため、説明が行き届かなかった。反省しています」

「急いでいた理由は?」

「……竜専門士殿がこの地で活動を始めると聞いて、少し急ぎすぎました」


正直に言った。それがまた、巧みだった。一部を認めることで、ラオトの警戒を緩めようとしている。


(この人は交渉が上手い。嘘をつかずに、見せたい部分だけ見せる)

「竜専門士殿」ゼンが続けた。「私どもは、あなたと敵対したいわけではありません。むしろ、一緒に動けることがあれば、と思っています」

「どういうことですか」

「竜族と人間の間に立つ仕事は、一人では限界がある。私どもは竜族の中に広い繋がりを持っています。情報の共有、依頼の仲介、竜族側との調整。協力できることは多い」


プティがラオトの服を引っ張った。飽きてきたらしい。ラオトがプティを見ると、プティはゼンをじっと見つめていた。それからラオトを見て言った。


「パパ、かえる?」

「もう少し」

「……うん」


プティがまたゼンを見た。ゼンがプティを見た。ゼンの目が、わずかに変わった。

人間が孵した竜だと、わかったかもしれない。


「かわいいお子さんですね」ゼンが言った。声が少し柔らかくなっている。

「ありがとうございます」

「……竜属性の方が孵した幼竜ですか」

「そうです」

「珍しい。初めて見ました」ゼンが間を置いた。「大切にしてください」


その一言の温度が、それまでと違った。交渉の言葉ではなく、何か別のものが一瞬だけ混ざった。ラオトはそれを聞きながら、返事をしなかった。


「ゼンさん」

「なんでしょう」

「今日のところは以上にします。石の件は、今後説明を明示するということで確認しました」

「わかりました」

「一つだけ言っておきます」ラオトはゼンを真っ直ぐ見た。「俺が動くのは、困っている人がいるからです。どちらの側に都合がいいかで動くつもりはない。それは竜牙に対しても同じです」

ゼンが少し黙った。「……覚えておきます」

「では」


ラオトはプティの手を引いて、台の前を離れた。エデルが横に並ぶ。プティが振り返ってゼンを見ると、ゼンはまだそこに立って笑っていた。


* * *


市場を出たところで、エデルが口を開いた。


「……どう思いましたか」

「上手い人だ」ラオトが言った。「嘘をつかない。でも全部は見せない」

「警戒しますか」

「する。でも今日のところは、こちらも全部は見せなかったので、おあいこです」


プティが二人の顔を交互に見た。難しい話はわからないが、雰囲気はわかるらしい。


「パパ、こわい?」

「怖くないよ。大丈夫」

「……うん」


プティが前を向いて歩き出した。石畳の継ぎ目を踏まないように、少し大股で歩いている。ラオトはくしゃみをした。


「エデル、ゼンが最後に言った言葉、どう思った。プティを見た時」

エデルが少し黙る。「……本当に思ったことが、一瞬出た気がしました。交渉ではなく」

「俺もそう思った」

「それが何を意味するかは、わかりませんが」

「わかりません。でも、覚えておく」


プティが石畳の継ぎ目を踏み、少しよろけた。ラオトの手をぎゅっと握る。転ばなかった。


「じょうずでしょ!」

プティが振り返って、得意そうな顔をした。

「上手いな!」

「うん!」


エデルが二人の様子の可愛さに口元を押さえようとしたが、今回は隠さず、プティの反対側の手を握って三人で手を繋いだ。

ラオトは帰り道、頭の中で帳簿の欄を更新していた。

ゼン・竜牙渉外担当・交渉型・全部は見せない・プティへの反応・要観察。

やることは増えた。でも今日は、敵の顔を一つ、見た。それだけのことだった。


それが起きたのは、特に何もない午後だった。

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