第11話 竜牙の影と、専門士の帳簿
三日後の夜、エデルがようやく「あのこと」について口を開いた。
きっかけは、プティだった。
プティが初めて声らしい声を出したのは、夕食の後だった。ラオトが帳簿をつけていると、膝の上で丸まっていたプティが小さく、しかしはっきりとした音を出した。
竜語だった。
(……聞こえた?)
ラオトは手を止める。エデルを見た。エデルもまた、驚きに固まっていた。
「今のは……」
「……はい」エデルの声が、弾むように上がった。「竜語です!」
「何て言ったんだ」
エデルがしばし沈黙し、それから少し照れたように言った。
「『……パパ』と」
ラオトはプティを見た。プティはすでに満足げに目を閉じている。
「パパって……俺のことか?」
「はい……ラオトさんだと思います!」
沈黙が落ちた。聞こえるのはプティの穏やかな寝息だけだ。
竜の成長は、ラオトが思っていたよりも遥かに早い。半透明だった翼は小さくとも、名前に違わぬ純白の翼へと育っている。これからどれほど大きくなるのか――。不安も同時に胸をよぎり、鼻がムズムズと痒くなった。
とりあえず、先走った心配はここで止めておこう。
「エデル」
「……はい」
「そういえば話せそうですか。あの路地裏にいた理由」
エデルが膝の上の手を見つめる。長い沈黙だった。しかし今度は、黙って終わることはなかった。
「……追われていたんです」
* * *
エデルが語り始めると、ラオトは帳簿を閉じた。
「竜族の中に、アズライト家の力を利用しようとする者がいます。『竜牙』と呼ばれる組織です」
「りゅう……が?」
「竜族と人間の関係について、私たちとは逆の思想を持つ者たちです。エオ殿たちは分離を望みますが、彼らは……支配を望んでいる。竜族が人間社会に深く入り込み、影響力を持つべきだと考えているのです」
「それがなぜ、アズライト家と関係する」
エデルが少し間を置く。
「私の家系には稀な能力があります。人間に属性を付与できる。ラオトさんに竜の属性が付いたのも、その力です。竜牙はこれを利用したかった。竜の属性を持つ人間を量産し、人間社会に竜族の力を浸透させる計画があったのです」
「……それで、お前が狙われた」
「はい。当主である親は断り続けていました。ですが私が成長するにつれ、親を飛ばして直接接触してきたのです。私は逃げました。竜化して町の上空を飛びましたが、翼を傷め、人型にも戻れないまま落ちて……」
「あの路地裏に」
「はい。力を使い果たし、子竜の姿にまで変わってしまっていました」
ラオトは黙り込んだ。あの小さなトカゲが、そんな過酷な事情を抱えていたとは。
(知っていたとして、俺は拾わなかっただろうか。いや、変わらない。かわいそうだったから拾った。それは今も同じだ)
「なぜ言わなかった」
エデルが顔を上げた。
「……ラオトさんを巻き込みたくなかったからです。竜牙のことを話せば、あなたも標的になる。属性付与の力を使った相手として、利用価値があると判断される可能性がありましたから」
「そうなったとしても、決めるのは俺だ」
「……分かっています。でも、あの時は……初めて誰かに助けてもらっていたので、それを壊したくなかったのだと思います」
ラオトはくしゃみをした。エデルが反射的に三歩下がる。
「巻き込まれてますよ、もう」
「……はい」
「竜専門士にもなりましたし」
「……はい」
「竜牙がこれからどう動くかは?」
「竜専門士という役職が成立したことで状況は変わりました。竜族と人間の仲介者が独立して存在することは、彼らの計画を妨げる。今のラオトさんは、彼らにとって『邪魔な存在』なんです」
「つまり、来る可能性があるってことか」
「……はい」
ラオトは帳簿を開いた。『竜専門士関連』というまだ空白の欄に、一行だけ書き足した。
『竜牙、について調べる』と。
「ラオトさん!」
突然、エデルが意を決したように声を上げた。
「戦うことになったら、私も戦います! アズライト家として、人間のラオトさんに守られてばかりでは……竜族としての立場がありません」
「戦うって……エデルが?」
「はい。プティもいます。この子は、竜属性を持つラオトさんが孵した竜です。竜牙が狙う可能性だってある」
肩の上でプティが目を覚まし、小さく「……パパ」と鳴いた。
ラオトがテーブルに降ろすと、プティはぎこちない足取りでラオトに歩み寄り、手にしがみついて嬉しそうに「パパ」「パパ」と頭を撫でるよう催促した。ラオトが撫でると、安心したように目を細める。
ラオトはこみ上げるくしゃみを布で必死に抑えた。安心しきったその表情を、驚かせたくはなかった。
* * *
翌朝、エオが訪ねてきた。
ノックは三回、均等な間隔。変わらない。
「エデルから話を聞きましたか」
「昨夜」
「……そうですか」
エオは今日、珍しく椅子に座った。ラオトも向かいに腰を下ろす。エデルが二人にお茶を差し出した。
「エオさん、知っていたんですね」
「エデルが追われていたことは」エオが答える。「誓約の番人の情報網で把握していました」
「だから接触を」
「監察という名目で来ましたが、実のところはエデルの状況と、竜牙の動きを直接確認したかったのです」
エオは机の一点を見つめていた。感情を整理するように。
「エオさんは、竜牙のことをどれくらい知っていますか」
「長い付き合いです。八百年、彼らの動きを見てきました」
「八百年……」
ラオトはペンを持つ手を止める。人間の感覚を超越した、果てしない時間だ。
「竜牙は古い組織です。竜族と人間の関係を巡って、常に一定の支持者がいた。支配すべきだという思想は根深い」
「エオさんの保守思想と、根っこは同じですか?」
エオが少し間を置く。
「……そう言われれば、そうかもしれません。どちらも、竜族が人間によって傷つくことを恐れている。答えが正反対なだけで」
「竜牙は支配しようとし、エオさんは関わらないようにする。どちらも違った」
エオがラオトを直視した。
「……関わり方による、というのが今の俺の考えです」
「覚えています」
「竜牙が問題なのは、支配しようとするからではなく、相手の『筋』を無視するからです。一方的に利用しようとする。それが問題の根っこでしょう」
エオが黙り込む。帳簿のページが風に揺れた。くしゃみが出た。エオが無言で三歩下がる。
(三歩、ちゃんと覚えてる)
「……あなたはよく、筋という言葉を使いますね」
「ヴェルグ老に教わりました」
エオが軽く苦笑した。表情が動かない人間が笑うと、どこか安心感がある。
「ヴェルグ老は頑固ですが、筋については正直な竜です」
エオは表情を締め直した。
「……竜牙への対処について、話し合いたい」
エオの記憶を引き出すような、静かな語り口。
「……私はかつて、アズライト家の者が利用されるのを止められなかった」
「それがエデルの先祖ですか」
「ああ」
「竜牙の思想は変質していった。分離を望んでいた者たちが、いつの間にか支配を望むようになった。他の地域では、竜族と人間の対立を意図的に起こそうと画策しているという話も聞く」
「争いの火種を、と」
「そうです。アズライト家の力を使い、人間に竜属性を付与できれば、人間は竜族に従属的になる。向こうはそう考えているでしょう」
エオは静かに息を吐いた。
「私は一人でも、人間の世界に竜族の傷跡を残したくなかった。だから、ラオト殿には関わってほしくなかった。あなたが利用され、排除されることを恐れていたのです」
ラオトはペンを走らせる。
(エオさんは、守りたかったのか。竜族も、人間も。どちらかではなく、両方を)
「エオさん」
「なんですか」
「力を借りたいと言ってくれましたよね」
「……ああ」
「分かりました。一緒に考えましょう」
エオは短く頷いた。
「あと、エオさん」
「……なんですか」
「会議の前夜、トルダさんを呼んでくれたのは、エオさんですよね」
エオがわずかに動きを止めた。
「……そうですが」
「ありがとうございました。おかげで自分の身体のこと、強くなっていること、これからも症状が続くこと……全て納得できました」
エオは視線をまた机の一点に戻した。
「監視者としての義務を果たしただけです。あなたが自分の状態も把握していないまま会議に来られては、こちらとして不安材料になる。それだけのこと」
「……そうですか」
「それ以上の意味はありません」
「分かりました」
(義務、か。八百年見てきた人間が、わざわざ医者を手配する義務が番人にあるとは思えないけど)
そんなことは口に出さない。
エオが話す竜牙の情報が、一つ一つ記録されていく。ページが埋まっていく。くしゃみが出るたびにエオが三歩下がり、薬の苦みが口に残る。プティが肩の上で小さく鳴いた。
やることは増えた。だが、もう一人ではない。
それだけのことだった。
* * *
竜専門士の仕事は、思ったより地味だった。
数週間でラオトはそう理解した。
竜語の翻訳依頼に、土地の境界争いの仲介。鱗を素材にしたい商人の相談。派手さはなく、調合台の前に座りながらこなせる案件ばかりだ。
(思ったより、普通だ)
くしゃみが出た。プティがびくっとして、肩の上で鳴く。
「驚かすなよ」
プティは鳴き止まない。パパ、とは言わなかったが、言いたそうな気配はある。
エデルが調合台の横で、借りた薬草帳を熱心に写している。竜が人間の文字を勉強している光景にも、だいぶ慣れてきた。
「エデル、それ終わったら仕入れの帳簿も頼めるか」
「はい、あと少しです」
平和だった。
扉を叩く音がしたのは、そんな穏やかな朝のことだった。




