第10話 竜専門士の帳簿
そこで、声が割り込んできた。
広間の入り口から地の底から響くような、低い声だった。
『儂も発言してよいか』
全員が入り口を見た。そこにいたのはヴェルグ老だった。
深い赤褐色の鱗。長年風雨にさらされた岩のような重厚さ。濁った金色の瞳が、広間を見回し金色の長老が翼を動かした。
『ヴェルグよ。今日の会議への招集はしていないが』
『知っている。だが儂からも今回は発言しないといけないと思ってな……』
ヴェルグ老が広間に入ってきた。大きな体が動くたびに、石畳が低く響いた。
『ただ、この人間については、儂が直接見聞きしたことがある。それを述べる権利はあるだろう』
黒い長老が言った。
『何を見聞きした』
『裏山での件だ』ヴェルグ老がラオトを見た。濁った金色の目が、あの時と同じ目だった。『この人間は、竜気過敏症でありながら儂に会いに来た。炎を向けても逃げなかった。筋の話をした』
『それが何だと言う』
『儂は最初、この人間を追い返すつもりだった。だが話を聞いた。聞く価値があると思ったから聞いた』ヴェルグ老が広間を見回した。『竜族の誓いは恩を返すためのものだとこの人間は言った。儂はそれを筋が通っていると判断した。今も同じ考えだ』
広間がまた静まったが赤い長老が口を零した。
『ヴェルグよ。お前が個人的にそう判断したとしても、竜族全体の問題は別だ』
『別か?』ヴェルグ老の声が、わずかに低くなった。『竜族の誓いとは何だ。恩を受けた者への返礼だろう。その本義を守った若竜の行動を、長老会議が否定するのか』
『問題はそこではない。竜族と人間の関係の在り方の問題だ』
『その在り方を、人間を排除することで守ろうとしているのか』
黒い長老も続けて口を開く。
『ヴェルグ老。感情で話すな』
『感情ではない』ヴェルグ老が答えた。声は静かだった。でも広間全体に響く静けさだった。『儂は筋の話をしている。この人間は筋が通っていた。竜専門士という役職を設けることも、筋が通っている。それだけだ』
* * *
金色の長老が、長い間黙っていた。広間が静かだった。風だけが動いている。
ラオトはくしゃみをした。薬がほとんど切れていた。目が充血して、鼻が詰まっている。全身がかゆい。でも立っていた。倒れるわけにいかなかった。
幼竜がエデルの腕の中から鳴いた。小さな声だった。
金色の長老がその声に反応して、幼竜を見た。幼竜もじっと長老を見ていた。
長老がゆっくりと、ラオトに視線を移した。
『人間よ。一つ聞く』
「なんですか」
『この幼竜を育てることが、お前にとってどういう意味があるのか』
ラオトは少し考えた。
「意味は特にないです」
広間がざわめいた。
「ただ、俺が温度の管理をしていたので、俺の匂いを一番最初に覚えた。親だと思ってる。それを放っておくことはできない」
『なぜだ』
「かわいそうだからです。そういう話です」
広間が静かになった。金色の長老が、また長く黙った。
それからゆっくりと翼を広げた。広間全体を包むような、大きな動きだった。
『…………竜専門士の設置を、検討に値すると認める』
エオが静かに息を吐くと同時に黒い長老が言った。
『条件を述べよ』
「竜族の内部問題には介入しない。竜族と人間の間で起きた問題のみを扱う。竜族の長老会議が問題ありと判断した場合、役職を停止できる。国家側との取り決めについては、ラオト殿が交渉する」
エオが一つ一つ、淡々と述べた。広間の竜たちが聞いていた。
『竜族側の監督者は誰が務める?』
「誓約の番人が務めます。私が担当します」
ラオトはエオを見た。エオが少しだけこちらに視線を向けた。目が合った。
(この人は、最初から最後まで俺を管理しようとしている。でも今は、その管理の形が変わった)
それでいいと、ラオトは思った。管理されることと、自由に動けることは必ずしも矛盾しない。枠があった方が、動きやすい場合もある。
「一つだけ確認していいですか」ラオトがエオに言った。
「なんですか」
「竜専門士が竜族側に不利な判断をした場合も、長老会議は認めますか」
広間が静まった。
金色の長老が答えた。
『中立を守るという誓いを立てるなら、認める』
「誓います」
くしゃみが出た。幼竜が鳴いた。
ヴェルグ老が低く、短く声を出した。笑ったのかもしれなかった。
* * *
会議が終わったのは、日が傾き始めた頃だった。
広間の外に出ると、山の空気が冷たかった。ラオトは岩に背を預けて座り込んだ。薬を一口飲んだ。苦い。どこまでも苦い。
エデルが隣に座った。幼竜がラオトの膝の上に移動してきた。
「……お疲れ様でした」
「疲れました……」
「くしゃみが止まりませんでしたね」
「七頭も居ましたからね」
エデルが少し笑った。声に出さない笑いだったが、ラオトにはわかった。
「ラオトさん」
「なんですか」
「竜専門士になることを、後悔しませんか」
ラオトは空を見た。日が傾いて、空が少しずつ色を変えている。
「後悔するかどうかは、まだわからないです」
「……そうですか」
「やってみないとわからないことは、やってみてから考えます」
エデルが黙った。
足音がした。エオが出てきた。広間の外に出ると、長衣が風に揺れた。ラオトを見て、少し立ち止まった。
「ラオト殿」
「エオさん」
「今日の件、国家側との交渉は早めにお願いします。竜専門士の役職が正式に成立するまでは、グレーな状態が続きます」
「ベルクに連絡します」
「それから」エオが少し間を置いた。「……くしゃみが酷かったですね」
「七頭いましたから」
「次の会議までに、薬の備蓄を増やしておいてください」
「次もあるんですか」
「竜専門士が正式に登録された後、竜族への正式な紹介が必要になります」
(また会議か)
ラオトは額を押さえた。くしゃみが出た。
「わかりました」
エオが踵を返した。それからもう一度だけ振り向いた。
「一つだけ言っておきます」
「なんですか」
エオが少し間を置いた。これまでとは少し違う間だった。
「……今日のヴェルグ老の発言がなければ、結果は違っていたかもしれません」
「はい、お礼に帰りに寄ろうと思います」
エオがまた少し間を外した。それから何も言わず、歩いていった。足音が遠ざかっていく。静かな足音だった。最初からずっと静かだった。
ヴェルグ老が広間から出てきた。大きな翼を折りたたんで、ラオトの横を通り過ぎようとした。
「ヴェルグ老!」
老竜が足を止めるとラオトはお辞儀をした。
「今回は、ありがとうございました!」
『礼には及ばん』ヴェルグ老が低く言った。『筋を通しただけだ』
「同じこと言ってますね、いつも」
『同じことをしているからな』
老竜が翼を広げた。上昇気流に乗って、空へ上がっていく。あっという間に小さくなった。
ラオトは膝の上の幼竜を見た。幼竜が目を開けて、ラオトを見た。
「とりあえず、名前をつけないといけないな」
「……そうですね」エデルが静かに言った。
「お前が決めていいぞ。同族だろ」
「ラオトさんが決めた方がいいと思います」
「どうして?」
「この子はラオトさんを親だと思っています。親がつける方が、意味があります」
ラオトはしばらく幼竜を見ていた。薄い白い鱗。大きな目。まだ半透明に近い翼。
「プティ」
「そ……それだけですか?」
「シンプルでいいだろ……プティってのは純白って意味もある」
幼竜が鳴いた。気に入ったのかどうかはわからなかった。
山の上の空が、夕焼けに染まり始めていた。
やることは増えた。竜専門士の登録、国との交渉、プティの世話、明日の調合分の準備。
(作って、売って、くしゃみして、交渉して、また作る)
それだけのことだった。
翌日。ラオトに届いた竜専門士の登録証は思ったより小さかった。素材は良くわからないが、掌に収まるほどの薄い板だった。会議が終わって数日後。エオが持ってきた時ラオトは思わず「これだけですか」と聞いてしまった。
「これだけです。サイズはラオト殿が持ち易いように加工しています。裏面に竜族長老会議の認証印が入っています。竜族が人間に対して認可を受けた証書は、国内に一枚しかありません」
「……そうですか」
「感慨はないのですか?」
「苦い薬を飲みながら交渉した甲斐があったとは思います」
エオが少し間を置いた。
「……あなたは本当に変わった人ですね」
「よく言われます」
くしゃみが出た。エデルが三歩下がった。プティが肩の上で小さく鳴いた。
エオが持ってきてくれた登録証を手に取り、裏返した。竜族の紋章が七つ、小さく押されている。七つの家系、全員の印。長老会議でくしゃみを連発しながら立っていた時間のことを思い出した。
(やることは増えた)
帳簿を開いた。今日の調合分、明日の仕入れ、来週の依頼。その隣に新しい欄を作った。竜専門士関連、と書いた。
まだ何も入っていない欄を見ながら、ラオトはくしゃみをした。




