表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/40

第7話 辺境伯が運ぶ朝の黒インク

 翌朝、私が工房へ入ると、机の脇に新しいインク壺が置かれていた。


 煤と鉄胆礬を使った、深い黒。北辺では雪解け水で粘度を整えるらしい。蓋を開けると、澄んだ鉄の匂いが立った。


「補充が遅れていた」


 振り向くと、ルーカスが木箱を抱えて立っていた。辺境伯が自分でインクを運んでくるとは思わず、私は目を瞬かせた。


「使用人に頼めば済んだでしょう」


「君の机へ入れるものは、一度自分で見る」


 それだけ言って箱を置く。指先には昨日の圧布を動かした時についた黒が、まだ少し残っていた。書類だけでなく、自分の手も汚す人なのだと知る。


 その日は朝から村人が工房へ列を作った。濡れた地券、裂けた養子契約書、読むたびにほどける古い借用証。私は一枚ずつ修復し、必要なものは複製を刷り直した。


「これで畑を取られずに済む」


 泣きそうな顔で地券を抱えた老女に、エルザがそっと肩を貸す。工房の空気が、少しずつ仕事場のものへ戻っていく。


 昼過ぎ、一通の匿名文が届いた。封を切る前から、甘い白薔薇の香りがした。


『古びた鼠は北辺の埃でも舐めていればいい』


 ミレイユだ。王都でいつも使っていた香粉と同じ匂いが、紙の繊維に染みている。


「捨てるか」


 ルーカスが言う。


「いいえ、保管します」


 私は文を封筒ごと薄紙で包んだ。


「香りは消えます。でも、消える前に記録しておけば証拠になる」


 ルーカスは何も言わず、私の横に新しい記録箱を一つ置いた。


 無駄な慰めより、こういう箱の方が今の私にはありがたかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ