第7話 辺境伯が運ぶ朝の黒インク
翌朝、私が工房へ入ると、机の脇に新しいインク壺が置かれていた。
煤と鉄胆礬を使った、深い黒。北辺では雪解け水で粘度を整えるらしい。蓋を開けると、澄んだ鉄の匂いが立った。
「補充が遅れていた」
振り向くと、ルーカスが木箱を抱えて立っていた。辺境伯が自分でインクを運んでくるとは思わず、私は目を瞬かせた。
「使用人に頼めば済んだでしょう」
「君の机へ入れるものは、一度自分で見る」
それだけ言って箱を置く。指先には昨日の圧布を動かした時についた黒が、まだ少し残っていた。書類だけでなく、自分の手も汚す人なのだと知る。
その日は朝から村人が工房へ列を作った。濡れた地券、裂けた養子契約書、読むたびにほどける古い借用証。私は一枚ずつ修復し、必要なものは複製を刷り直した。
「これで畑を取られずに済む」
泣きそうな顔で地券を抱えた老女に、エルザがそっと肩を貸す。工房の空気が、少しずつ仕事場のものへ戻っていく。
昼過ぎ、一通の匿名文が届いた。封を切る前から、甘い白薔薇の香りがした。
『古びた鼠は北辺の埃でも舐めていればいい』
ミレイユだ。王都でいつも使っていた香粉と同じ匂いが、紙の繊維に染みている。
「捨てるか」
ルーカスが言う。
「いいえ、保管します」
私は文を封筒ごと薄紙で包んだ。
「香りは消えます。でも、消える前に記録しておけば証拠になる」
ルーカスは何も言わず、私の横に新しい記録箱を一つ置いた。
無駄な慰めより、こういう箱の方が今の私にはありがたかった。




