第3話 無口な辺境伯からの迎え
ルーカス・ライナーは三十八歳。北辺を治める辺境伯でありながら、名乗りのあとに余計な肩書きを足さなかった。
文書院向かいの貸し応接室で、彼は必要なことだけを述べた。
「北辺印刷工房で、領地契約の原本と複製が食い違っている。冬季救恤の支払先まで狂い始めた。修復官が必要だ」
「文書院を追われたばかりの人間に?」
「焼けた契約書を見て、燃える前に綴じ直されたと断言した。十分だ」
彼は机に雇用契約書を置いた。工房付き文書修復主任としての採用、住居、報酬、調査の独立性。最後の条項には、王都からの不当な身柄要求に対して辺境伯家が保護する、とある。
「笑えと言わないのですね」
「必要なら言う」
「必要ないでしょう?」
「ない」
短い返答に、私は少しだけ息をついた。丁寧な慰めより、こういう事実の方が信じられる。
「条件を一つ。私が見つけた証拠は、王都に戻して公に使います」
「望むところだ」
「もう一つ。仕事場には湿度計と低温箱が必要です」
「今夜のうちに用意させる」
迷いのない即答だった。私は契約書を最後まで読み、名を書いた。
「引き受けます。けれど私を憐れんでいるなら、今すぐ取り消してください」
「憐れんではいない」
ルーカスはそう言って、わずかに視線を和らげた。
「北辺で必要なのは、壊れた紙を直せる手だ」
夜の街を抜ける馬車の窓から、王都の灯りが遠ざかっていく。私は膝の上で請求票を握りしめた。フェリクスが持ち出した原本も、ミレイユの香油の匂いも、まだ終わっていない。
ただ一つ違うのは、今度は私の仕事を必要だと言う人が隣にいることだった。




