第20話 もうこの頁は破らせない
半年後、北辺印刷工房は『北辺文書修復工房』の名も掲げるようになった。
契約書の複製だけでなく、古い地券の補修、婚姻証の再製本、徒弟契約の点検まで請け負う。工房の朝は早い。紙を運ぶ音、活字の触れ合う音、湯気の立つ茶の匂い。
そして決まって、扉の向こうから低い声がする。
「インクを持ってきた」
辺境伯で、今は私の夫でもあるルーカスが、相変わらず自分で黒インクの木箱を運んでくるのだ。使用人に任せればいいのに、と何度言ってもやめない。
「条項だからな」
そう言われると弱い。
私はその朝、若いパン職人の徒弟契約書を修復していた。雨で滲んだ文字を拾い、欠けた署名欄を和紙で補う。少年の母親が、ほっとした顔で頭を下げた。
「これであの子も安心して働けます」
「紙が守れることは多いですから」
窓の外では、ヨハンとエルザが今日の刷り上がりを運び出している。北辺の村々へ配る新しい地券も、救恤契約も、全て正しい文面で整っていた。
修復台の脇には、あの婚姻契約書がある。もう誰にも奪わせないと決めた、私自身の頁だ。
ルーカスが木箱を置き、私の肩越しに覗き込む。
「次は何を直す」
「たくさんありますよ」
私は笑って、新しい紙を引き寄せた。
「でも今度は、全部私が選んで綴じていけます」
破られた頁も、焼けた契約書も、もう怖くない。
この先の物語は、私の手でめくられていくのだから。




