二本の軌条
三号変圧器の前輪が、一本目の軌条へ乗った。
鋼が沈む。
穴の両側へ渡された二本のレールは、本来なら列車の重量を地面へ分散するためのものだった。今は支える枕木も道床もなく、爆発で裂けた床の縁へ引っかけられているだけだ。
下には、崩落した排水路が口を開けていた。
深さは見えない。
粉塵の奥で、水が流れる音だけがする。
『右側軌条、中央部で八・二ミリメートル沈下』
ノインが告げる。
左手は変圧器の側面へ添えられていた。
持ち上げる力は残っていない。
傾きを感じ取り、倒れ始めたときに押し返すための手だった。
「八なら進める」
ミラは搭乗席の側面窓からレールを見下ろした。
『安全域を定義できません』
「十二を越えたら止めろ」
『根拠を要求します』
「右の軌条は戦前品だ。十二を越えれば、古い溶接部が開く」
『溶接部を視認できません』
「私には見える」
レール中央の表面には、他と色の違う帯がある。
戦時中、砲撃で折れたものをつなぎ直した跡だ。
溶接そのものは厚い。
だが熱を入れた周囲の鋼が、二十年以上の荷重と錆で弱くなっている。
『あなたの判断を採用します』
「回収車、低速で巻け!」
ミラの声が外部拡声器を通して響く。
穴の向こう側で、ドーマが片手を上げた。
生き残った一基の巻上機が動く。
二本の牽引索が張る。
三号変圧器が、軋みながら前へ進んだ。
前輪。
二軸目。
西側の後輪は爆発で外れ、搬送架台の角が鋼製のそりへ載せられている。
そりが床を擦るたび、火花が穴へ落ちた。
『沈下九・一』
変圧器が一メートル進む。
『九・八』
回収員たちは誰も声を出さない。
巻上機の音。
鋼索の震え。
レールが曲がる低い音。
それだけを聞いている。
『十・六』
ドーマがミラを見る。
止めるか。
進めるか。
ミラは右側の溶接部から目を離さなかった。
継ぎ目の縁に、黒い線が生まれる。
亀裂ではない。
表面の錆が浮いただけだ。
「そのまま」
『十一・二』
変圧器の中心が、穴の真上へ来る。
二十一トンの重量が二本の軌条へ乗った。
レールが弓のように曲がる。
変圧器が右へ傾いた。
『姿勢偏位、二・一度』
「ノイン、左から押せ」
『左腕出力では補正できません』
「押し戻すな。傾く速度だけ殺せ」
ノインの左掌が変圧器の外板へ触れる。
潰れた指を開き、掌骨格の広い面を押し当てる。
人工筋肉束が張った。
『左腕荷重、二・七トン』
「それ以上はかけるな」
『傾斜速度を抑制しています』
右の軌条が鳴った。
短い。
高い音。
ミラの背中に冷たいものが走る。
「止めろ!」
巻上機が停止する。
変圧器も止まった。
だが、止めたことで荷重が一点へ残った。
右側の溶接部から、錆の粉が落ちる。
『沈下十二・三ミリメートル』
ドーマが叫ぶ。
「十二を越えたぞ!」
「見えてる!」
ミラは固定帯を外した。
『機体外へ出ることを推奨しません』
「継ぎ目を補強する」
『変圧器の直下です。軌条破断時、退避できません』
「このまま巻けば先に切れる」
『変圧器を後退させる案を提案します』
「後ろの床は爆発で割れてる。戻したらそっちが沈む」
ミラは搭乗口を開いた。
粉塵が流れ込む。
外へ出ようとしたところで、左手が胸部前へ上がった。
通路を塞ぐ。
「どけ」
『危険です』
「分かってる」
『危険を認識していることと、実行を許容できることは同一ではありません』
ミラは一瞬、動きを止めた。
ノインが、許容できないと言った。
命令でもない。
計算結果でもない。
「代案は」
『私が軌条を支持します』
「お前の腕は二・七トンで限界だ」
『左足を穴へ下ろし、足裏を軌条中央へ接触させます。膝を固定しているため、鉛直荷重を脛骨格へ逃がせます』
「穴の底は見えない」
『足裏を接地させる必要はありません。軌条の下から押し上げます』
「今の固定材で横から荷重を受けたら、左脚が外れる」
『ミラが固定位置を指定してください』
ノインは、自分の機体を使う案を出した。
だが、その可否をミラへ戻した。
設計する能力と、現物を読む能力。
どちらか一方では決めない。
「左脚を二十センチ前へ。爪先を外側へ三度」
『三度を確認』
「足首は固定するな。レールが沈んだ分だけ追従させろ」
『実行します』
ノインが右脚だけで身体を支える。
固定された左脚を、穴の縁へ滑らせる。
足先が暗闇へ入った。
ミラには見えない。
携帯端末へ、足首の角度と接触圧だけが表示される。
『軌条下面へ接触』
「荷重を一トンずつ上げろ」
『一トン』
右側の軌条が持ち上がる。
『二トン』
溶接部の黒い線が閉じた。
『三トン』
沈下が十・一ミリまで戻る。
「そこで止めろ」
『左脚固定部の変位が増加しています』
「どのくらい」
『一・七ミリメートル』
「二・五で切れる。変圧器が通るまで持つ」
『通過時間を要求します』
「ドーマ!」
「最大で四十秒!」
『固定材の残存時間は算出できません』
「四十秒持たせる。巻け!」
巻上機が再び動く。
変圧器が進む。
ノインの左脚が、下から軌条を押し上げる。
左手は側面の傾斜を抑える。
右脚は九・四メートルの身体を支える。
ミラは三か所の数値を同時に見た。
軌条沈下。
左脚固定材。
左腕荷重。
『固定材変位、二・〇』
変圧器の三軸目が溶接部を越える。
『二・二』
そりが軌条へ乗る。
鋼と鋼が擦れる。
『二・四』
「あと何メートル!」
「一・二!」
ドーマの声。
『固定材に破断兆候』
「左足首を緩めろ!」
『緩めた場合、軌条の沈下が増加します』
「レールはもう持つ。脚を残せ!」
ノインが足首の出力を抜く。
軌条が沈む。
十一・三。
十一・八。
『十二・一』
変圧器のそりが溶接部を越えた。
ドーマが腕を振り下ろす。
巻上機が最大出力へ上がる。
三号変圧器が穴の向こうへ滑り込んだ。
前輪が地面へ降りる。
そりの角が床へぶつかる。
巨大な機体が一度揺れ、それから止まった。
「巻きを止めろ!」
牽引索が緩む。
荷重を失った軌条が跳ね上がった。
右側の溶接部が、中央から裂けた。
半分に折れたレールが穴へ落ちる。
ノインの左足も一緒に引かれた。
『左脚が拘束されています』
「右へ倒れるな! 胸を左!」
ノインが腰を捻る。
左手を穴の縁へつく。
掌の損傷部から火花が散った。
右脚が床を滑る。
ミラは操縦桿へ飛びついた。
「左足首を外へ回せ! レールを蹴り落とせ!」
『足首出力が不足しています』
「膝ごと振れ!」
『固定材が破断します』
「レールと一緒に落ちるよりましだ!」
ノインが左脚全体を振った。
穴の中で鋼が激突する。
固定に使っていた鎖が一本切れた。
左足から荷重が消える。
折れた軌条だけが、暗闇へ落下した。
数秒後、遥か下で金属音が響く。
『拘束を解除しました』
ノインは左肩を床へ当てたまま、ゆっくり身体を起こした。
左膝の固定材は、鎖一本と曲がった支柱だけになっている。
「立てるか」
『左脚への荷重時間を一・一秒以内に制限すれば、可能性があります』
「出口まで二百八十九メートル」
『先ほどと同じです』
「長いな」
『はい』
穴の向こうで、ドーマたちが歓声を上げた。
変圧器が渡った。
それだけを喜ぶ声だった。
だが、すぐにエルナの怒鳴り声が響く。
「騒ぐな! まだ全員出ていない!」
施設奥から、白い灯りが一つ消えた。
続いて二つ。
四号変圧器の唸りが不安定になる。
『絶縁抵抗が急速に低下しています』
ノインが報告した。
マルタの声が保守回線へ入る。
『四号の油温が上がってる! 槽内で放電音!』
「住民は」
『全員、入口区画へ着いた。残っているのは私と回収員二人だけ』
「四号を止めろ!」
『止めれば施設照明と換気が落ちる』
「全員出たなら止めていい!」
『兵器庫の固定器も四号から取ってる!』
兵器庫には、折り畳まれた無人機と弾薬が残っている。
四号を止めれば、再封鎖した扉の保持機構が緩む。
今すぐ開くとは限らない。
だが、施設を無人のまま残すなら、危険は消さなければならない。
「ノイン、兵器庫を機械的に封鎖できるか」
『予備鎖一本だけでは長期保持できません』
「扉を壊して閉じろ」
『方法を要求します』
ミラは穴の向こうへ渡った変圧器を見た。
搬送架台から外れた後輪。
直径一メートルを超える鋼の車輪。
それを止めていた車軸。
「外れた車軸を扉の案内溝へ噛ませる。閉鎖圧で曲がれば、抜けなくなる」
『兵器庫扉を将来再開放できなくなる可能性があります』
マルタが回線越しに答えた。
『構わない! あそこは開けるべきじゃない!』
『住民側の同意を確認しました』
ノインは即座に動いた。
左脚を引きずり、右脚で跳ぶように進む。
一歩。
停止。
左足を滑らせる。
再び右脚。
兵器庫までの道を戻る時間はない。
だが、貨物搬送用の側路があった。
ノインは左手で外れた車軸を掴んだ。
指が閉じない。
掌と前腕へ巻きつけるように抱える。
「持てるか」
『車軸重量一・六トン。保持可能です』
「落とすなよ」
『左手第一指と第二指は使用不能です』
「分かってる。腕で抱えろ」
ノインが側路へ入る。
エルナの隊員二人が先を走り、瓦礫を退ける。
回収員が車軸へ鎖を巻き、ノインの前腕から落ちないよう支える。
誰も、作業機の命令を待たなくなっていた。
ノインの指示を聞き、自分の判断で動いている。
『前方右側の床が弱い。左壁沿いへ移動してください』
「了解!」
隊員が即答する。
『マルタ。四号変圧器の出力を三割まで低下させてください。兵器庫の閉鎖圧を弱めます』
『三割。そこから先は持たないわよ!』
『二分以内に固定します』
ノインが兵器庫前へ到着した。
扉は鎖に引かれ、数センチ開いている。
隙間の奥で、無人機の光学器が一つ点灯した。
赤い光。
『内部機体が起動準備へ移行しています』
「扉を開けるな」
『車軸を挿入するには、開口を十二センチまで広げる必要があります』
「その十二センチから撃たれたら」
『私が受けます』
「左腕はもう盾にならない」
『胸部右側で受けます。搭乗区画と反対側です』
ミラは一瞬、正面表示を見た。
ノインの提案は正しい。
右胸部の装甲は剥がれ、骨格も露出している。
それでも搭乗区画のある左胸よりはましだった。
「私は降りる」
『理由を要求します』
「搭乗区画を守る必要がなくなる」
『あなたが機体外にいる場合、跳弾を受ける可能性があります』
「壁の陰へ入る」
『退避位置を指定します』
ミラは外へ出た。
エルナの隊員とともに、兵器庫横の支柱へ身を隠す。
ノインが右胸を扉へ向けた。
『四号出力低下を確認。扉を開放します』
左肩を扉へ入れる。
押す。
隙間が広がる。
十センチ。
十二。
内部の無人機が動いた。
折り畳まれていた脚が伸びる。
銃身がこちらを向く。
「車軸を入れろ!」
ノインが左腕を振る。
抱えていた車軸を案内溝へ差し込む。
無人機が発砲した。
弾丸が右胸部へ当たる。
骨格が鳴る。
一本。
二本。
ノインは退かなかった。
『車軸位置、不十分』
「上を右へ押せ!」
『左手出力が不足』
ミラは支柱の陰から飛び出した。
車軸の下端へ解体棒を差し込む。
『ミラ、退避してください』
「ノイン、扉を三センチ戻せ! 圧力で噛ませる!」
『あなたの腕が挟まれます』
「私が合図したらだ!」
ミラは解体棒へ体重をかけた。
車軸が動く。
一センチ。
上端が案内溝へ入る。
「戻せ!」
ノインが肩の力を抜く。
扉が閉じる。
ミラは解体棒を引き抜いた。
扉の圧力が車軸へかかる。
鋼が曲がる。
直径二十センチを超える軸が、ゆっくり弓なりになった。
案内溝の中へ食い込む。
扉が止まった。
開口は指一本分。
無人機の銃身は通らない。
『機械的封鎖を確認』
「四号を切れ!」
マルタが主遮断器を落とした。
白い作業灯が消える。
兵器庫の赤い光も消えた。
施設全体が暗闇へ沈む。
ノインの琥珀色だけが残る。
『施設電力、停止』
どこかで送風機が回転を落とす。
変圧器の唸りが消える。
水滴。
冷える金属。
それ以外の音はなくなった。
三か月間、命令だけで生きていた施設が、ようやく停止した。
「マルタは」
『施設出口へ移動中です。回収員二名が同行』
「残ってる人間は」
ノインは施設全体の信号を探した。
電源が落ちたため、熱源検出も保安回線も使えない。
『施設回線からは確認できません』
「最後に見た数でいい」
『入口方向へ移動した人員は、住民十三名、先行回収班四名、都市防衛隊八名、民間回収員六名。あなたと私を除き、全員です』
「全員いるな」
『生存を保証する情報ではありません』
「外で数える」
帰路の二百八十九メートルは、進むたびに長くなった。
ノインは右脚で身体を持ち上げ、左脚を引き寄せる。
左脚へ荷重できるのは一秒ほど。
それを越える前に、右脚を前へ出さなければならない。
左腕は車軸を運んだ負荷でほとんど動かない。
転びかけても、壁へ手をつけない。
胸部を壁へ当て、装甲と骨格を削りながら姿勢を戻す。
『右股関節温度、危険域を維持』
「止まるか」
『停止した場合、再歩行できない可能性があります』
「なら進め」
『はい』
途中、左膝の鎖がもう一本切れた。
残るのは曲がった支柱一本。
ミラは降りようとした。
『作業を推奨しません』
「何でだ」
『現在位置で停止すれば、右股関節の保持圧が失われます。修理時間中の立位を維持できません』
「壁へ預ける」
『壁面に亀裂があります』
ミラは側面窓から見た。
ノインの言う通り、コンクリートには縦の亀裂が走っている。
九メートルの重量を預ければ崩れる。
「次の支柱まで」
『二十六メートルです』
「そこまで持つか」
『不明です』
「進めるか」
『進めます』
「なら、そこまで行け」
一歩。
二歩。
左脚の支柱がずれる。
膝の内側へ食い込み、人工筋肉束を圧迫する。
『左脚駆動率、二一パーセント』
「足首で補え」
『足首出力、一七パーセント』
「右へ倒すな。腰を左へ」
『修正します』
十二歩。
十四歩。
支柱まで残り六メートル。
右股関節から異音がした。
低く、二度。
「止まれ」
『次の支柱まで五・二メートルです』
「右股関節の音が変わった」
『温度上昇による潤滑粘度低下と推定します』
「違う。軸受けの外輪が回り始めてる」
『外輪の回転は検出していません』
「センサーが内側にしかないんだろ」
ノインは一瞬黙った。
『はい』
「右足を上げるな。床を滑らせろ」
『移動効率が低下します』
「軸を回すよりましだ。歩くな、引きずれ」
ノインは歩行制御を変えた。
右足を床から離さず、足首と腰の動きだけで前へ滑らせる。
左脚も続く。
兵器ではなく、荷物を押す壊れた作業機のような進み方だった。
支柱へ辿り着く。
胸部を預ける。
「今なら直せる」
『作業可能時間は推定七分です』
「三分でやる」
ミラは外へ出た。
左膝へ降りる。
切れた鎖を捨てる。
代わりに、兵器庫の固定で余った短い鋼線を何本も束ねた。
一本では弱い。
なら数を増やす。
六本。
八本。
曲がった支柱と膝骨格を縛る。
締めるたび、指の感覚がなくなる。
『三分を経過しました』
「数えるな」
『あなたが提示した時間です』
「希望だ」
『以前にも同じ説明を受けました』
「なら覚えてるだろ」
『記録しています』
最後の鋼線を締める。
解体棒で捻り、余分を折る。
「荷重をかけろ」
ノインが左脚へ重量を移す。
鋼線が鳴る。
一本。
二本。
切れない。
『固定状態は不安定です』
「出口まで持つ」
『根拠は』
「ここまで持たせた私が言ってる」
沈黙。
『あなたの判断を採用します』
ノインは支柱から身体を離した。
残りの通路を進む。
出口の光が見えたとき、外から声が聞こえた。
「来たぞ!」
「機体が戻る!」
エルナの隊員たちが入口へ集まる。
灰風の中に、人影が並んでいた。
住民。
回収員。
防衛隊。
負傷者は車両の荷台へ寝かされている。
マルタは最後尾に立っていた。
ノインが門を越える。
左脚が外の地面へ触れた瞬間、鋼線の一本が切れた。
機体が傾く。
回収員たちが走った。
人間の腕で九メートルの機体を支えられるはずはない。
それでも、ドーマは牽引索をノインの腰へ投げた。
他の者たちも索を掴む。
「右へ引け!」
ミラが叫ぶ。
十人以上が索へ体重をかける。
ノインは右脚を踏み直す。
傾きが止まる。
『立位を回復しました』
誰かが笑った。
別の誰かが座り込んだ。
ドーマは索を離し、息を切らしながら言う。
「人間で支えられる重さじゃないな」
『はい』
「少しくらい礼を言え」
『姿勢修正への寄与を確認しました。感謝します』
ドーマは眉を上げた。
「本当に言うとは思わなかった」
ミラは搭乗口から地面へ降りた。
エルナが手元の名簿を読み上げる。
一人ずつ。
住民十三名。
先行回収班四名。
都市防衛隊八名。
民間回収員六名。
全員が返事をした。
死亡者なし。
負傷者七名。
重傷二名。
三号変圧器、一基。
通信装置の記録媒体。
黒い認証箱は失った。
灰旗団四名は逃走。
「任務としては、成功でいいのか」
ミラが尋ねた。
エルナは三号変圧器を見た。
住民たちを見る。
壊れたノインを見る。
「契約対象は回収した」
「それ以外は」
「報告書が厚くなる」
「嫌な言い方だな」
「薄い報告書になる仕事は、最初から人が死なない」
帰路についたころには、日が傾いていた。
三号変圧器は二台の回収車で引く。
住民と負傷者は装輪車と荷台へ分乗する。
ノインは車列の最後尾を歩いた。
左脚の鋼線が切れるたび、止まって巻き直す。
右股関節の温度を下げるため、速度は人間の早足にも届かない。
それでも、誰も先へ行かなかった。
変圧器の車列も。
都市防衛隊も。
住民を乗せた車両も。
ノインの歩調へ合わせた。
『車列全体の移動速度が、私の歩行速度に制限されています』
「置いていけって言うのか」
『変圧器と住民を先行させる方が、任務上は合理的です』
「暗くなれば道が見えない。車列を分けたら、灰旗団が戻ったとき守れない」
『私は戦闘能力をほぼ失っています』
「相手には分からない」
『外見上の抑止効果を利用しているという意味ですか』
「それもある」
ノインは少し黙った。
『他の理由は』
ミラは後ろを見た。
施設の送電塔が、夕暮れの中へ沈んでいる。
止まった施設。
逃げた灰旗団。
回収した変圧器。
救出した住民。
どれか一つだけなら、もっと早く帰れた。
「全員で入った。全員で帰る」
『契約条件にはありません』
「現場で追加された」
『誰が追加しましたか』
「全員だ」
正面表示に、車列の位置が並ぶ。
ノインは返答しなかった。
だが、先行を提案することもなかった。
リーヴァ南門へ着いたのは、完全に夜になってからだった。
門上の照明が車列を照らす。
検問所の兵士が、三号変圧器を見て声を上げる。
続いて住民たちを見つけ、慌ただしく衛生班を呼んだ。
最後にノインが灯りの中へ入る。
右腕なし。
左手は潰れ、胸部と背部には新しい弾痕。
左膝は支柱と鋼線で縛られている。
昨日より壊れている。
それでも、自力で門前まで戻った。
前回と同じ検問官が出てきた。
用紙を片手にノインを見上げる。
「任務票では、変圧器一基と書いてあった」
「持ってきた」
「住民十三名とは書いてない」
「置いてこいと書いてなかった」
検問官はエルナを見る。
「現場指揮官の報告は」
「契約達成。追加で民間人十三名を保護。先行回収班四名を回収。灰旗団の施設工作を阻止」
「機体の制御人格が、防衛設備と複数班を同時に誘導したという報告もある」
エルナは一瞬黙った。
「損傷した保守設備の補助機能を利用した」
「第二級補助人格が?」
「検査員の署名が必要なら、明日取れ」
検問官はノインの琥珀色の光を見た。
ノインも検問官を見ている。
「仮登録の条件は満たした」
ミラが言った。
「契約書にある。居住資格、修理、燃料、格納場所」
「登録局が閉まっている」
「負傷者は朝まで門の外へ置くのか」
「人間は入れる」
「ノインは」
「機体は審査が必要だ」
ドーマが前へ出た。
「そいつがいなけりゃ、変圧器は穴の底だ」
検問官が見る。
「回収組合が保証するのか」
ドーマの口が止まった。
保証すれば、ノインが都市で起こした損害を組合が負うことになる。
簡単に言えることではない。
マルタが車両から降りた。
「私たち十三人が証言します。この機体は、避難区画の防衛装置を止め、換気の切替を指示し、帰路を確保した」
「証言は所有権の代わりにならない」
「所有の話はしていない。働いた事実の話をしている」
検問官が黙る。
エルナは契約書を開いた。
「報酬として仮登録を約束している。今ここで拒否すれば、都市防衛隊が契約違反を認めることになる」
門の上から、別の声が飛んだ。
「入れろ!」
灰色の作業外套を着た女が階段を下りてくる。
昨日、ノインの人格検査をした検査員だった。
「旧第六整備廠の緊急区画を一つ空けた。炉停止前に吊り上げる必要がある」
検問官が言う。
「登録が済んでいない」
「登録前に倒れたら、門と変圧器を一緒に潰す。どちらの書類が増えると思う?」
検問官はノインの左膝を見た。
鋼線がまた一本切れた。
機体が僅かに傾く。
「特例仮入城。四十八時間。移動経路は南門から旧第六整備廠まで。武装なし。出力制限」
「歩行制限は」
ミラが尋ねる。
「整備員の判断に従う」
「正式資格はない」
「今夜だけは現場責任者だ」
検問官は赤い印を押した。
所有者欄は空白。
運用責任者にはミラの名。
機体名称の欄も空いている。
「名前が要る」
検問官が言った。
「型式不明では登録番号を出せない」
ミラはペンを取った。
ノインの内部音声が小さく響く。
『正式名称を使用すれば、設計核の識別情報が露見します』
「分かってる」
『虚偽名称を登録しますか』
「通称だ」
ミラは機体名称の欄へ書いた。
《ノイン》
検問官が読む。
「外国語か」
「九番目って意味だ」
「型式名には見えない」
「名前だ」
検問官はミラを見た。
それから、ノインを見上げる。
「作業機に名前をつける整備員は珍しくない」
「そういうことにしておけ」
新しい札が発行された。
灰色の金属板。
《特例作業機 南仮九》
その下に、手書きで名称が記される。
ノイン。
兵士が札を左腰の骨格へ取りつけた。
『登録名称を確認しました』
「気に入らないか」
『すでに通称として受理しています』
「なら問題ない」
南門が開く。
昨日は越えられなかった線の向こうに、布壁の灯りがある。
屋台の煙。
人の声。
診療所へ走る担架。
三号変圧器を見て集まる工業組合の作業員。
ノインが一歩を踏み出す。
左膝の鋼線が鳴る。
検問官も、壁上の機関砲も、今度は止めなかった。
旧第六整備廠へ向かう途中、ノインが言った。
『ミラ。施設から回収した通信記録の保護を完了しています』
「灰旗団の送信か」
『送信内容は途切れています。受信記録が〇・八秒だけ残っています』
「読めるか」
『暗号化されています。ただし、応答側の識別符号を一部復元しました』
「どこの部隊だ」
『部隊ではありません』
ノインの返答が、僅かに遅れた。
『戦域統制用の設計核識別形式と一致します』
ミラは搭乗席の暗い表示器を見た。
「お前と同じ種類か」
『同一ではありません。私は一機の機体を制御する設計核です。応答側の識別形式は、複数の兵器系統を統制するものです』
「稼働してるのか」
『〇・八秒の応答だけでは断定できません』
表示器に、復元された符号が現れる。
大半は欠けている。
読めるのは、末尾の一字だけだった。
八。
「お前は九番目だったな」
『はい』
「八番目はどうなった」
ノインはすぐには答えなかった。
旧第六整備廠の門が近づく。
大型吊り上げ機の影が、夜空へ突き出している。
『軍の記録では、人格異常により廃棄されています』
「記録では」
『はい』
ノインの腰で、仮登録札が歩行のたびに揺れた。
薄い金属板。
四十八時間だけ、この都市に存在することを許す札。
その名前の下で、灰風とは違う風が流れる。
工場の熱を含んだ風。
油と石炭と、温かい食事の臭い。
二人はようやく壁の内側へ入った。
だが、地下から持ち帰ったのは変圧器と住民だけではなかった。
終わったはずの戦争から届いた、〇・八秒の返事。
それが誰の声なのかを、ノインはまだ語らなかった。




