帰路の重量
三号変圧器の固定ボルトは、最後の一本だけが外れなかった。
直径はミラの手首ほどある。
戦前なら油圧工具で抜く部品だったが、旧第四送電中継所に残っている工具は錆び、回収班が持ち込んだ切断器では根元まで熱が届かない。
ドーマが切断器を止めた。
赤熱したボルトから、白い煙が上がる。
「これ以上やれば台座まで溶ける」
「台座は持って帰らない」
ミラは変圧器の下へ潜り込み、携帯灯を継ぎ目へ向けた。
「搬送架台の車輪受けが台座と一体だ。ここを歪ませたら、二十二トンを床へ降ろすことになる」
「じゃあ、どうする」
ミラはボルトの頭ではなく、周囲の鋼板を叩いた。
高い音。
少し位置を変える。
鈍い音。
もう一度。
今度は内部で何かが震えた。
「ボルトが固着してるんじゃない。下の座金が割れて噛んでる」
ドーマも床へ膝をついた。
「見えるのか」
「見えない。音が違う」
「切る場所を外したら架台が落ちるぞ」
「だから私が線を引く」
ミラは融着剤の容器から黒い液を指へ取り、ボルトの周囲へ半円を描いた。
「ここだけ切れ。深さは三センチ。そこから先は止めろ」
「三センチを目で測れって?」
「切断音が変わる。裏の空洞へ抜けたら高くなる」
ドーマはしばらく線を見ていた。
それから切断器を受け取る。
「外れたら、お前が下敷きになれ」
「先に逃げる」
切断器の光が走った。
変圧器区画には、白い作業灯が戻っている。
四号変圧器が不均等な唸りを上げ、避難区画へ辛うじて電力を送っていた。
その音に混じって、切断器が鋼を焼く低い振動が続く。
二センチ。
三センチ。
音が変わった。
「止めろ」
ドーマが即座に手を離す。
ミラは切断部へ解体棒を差し込んだ。
体重をかける。
割れた座金が二つに砕け、床へ落ちた。
最後のボルトが抜ける。
三号変圧器の巨体が、搬送架台の上で僅かに揺れた。
「切り離し完了だ」
ドーマが変圧器の側面を叩いた。
「次は油を抜く。上から吸え。底の水は入れるな」
回収員たちがホースを接続する。
黒褐色の絶縁油が、三号変圧器から四号へ移されていく。
油が抜けるにつれ、搬送重量の表示が下がった。
二十二・四トン。
二十一・九。
二十一・三。
規定量まで移したところで、ノインの声が天井の拡声器から流れた。
『三号変圧器の推定搬送重量、二十一・一トンです。四号変圧器の絶縁抵抗は許容下限を一四パーセント下回っています』
マルタが四号の計器を見た。
「それでも動いてる」
『現在出力での連続稼働時間は、不明です』
「二時間持てば全員を外へ出せる」
『二時間を保証できません』
「止まる兆候は分かる?」
『温度上昇、絶縁抵抗の低下、油槽内の放電音を監視します』
「じゃあ、止まる前に言って」
『了解しました』
マルタは変圧器区画の入口に集まった住民を振り返った。
避難区画にいた十三人のうち、すでに五人が施設入口へ向かっている。
子供三人。
肩を負傷した回収員。
腰を痛めた施設主任。
残る八人は、毛布、保存食、工具、故人の認証札まで持ち出そうとしていた。
三か月を暮らした場所から出るのだ。
持っていくものを一分では選べない。
「手荷物は一人二つまで!」
エルナが声を張った。
「それ以上は車両へ積めない! 工具は回収班と相談しろ!」
住民の一人が、真鍮製の圧力計を抱えて反論した。
「これは一号機の予備だ。置いていけば二度と手に入らない」
「一号機はもう動かない」
「だから部品が要るんだ!」
「外へ出る人間の場所が先だ!」
怒声が重なる。
終戦を認めたからといって、生活をすぐに捨てられるわけではない。
ミラは変圧器の上から声を上げた。
「圧力計は持っていけ。木箱は置け」
住民が振り返る。
「箱に入れなきゃ割れる」
「毛布で巻け。箱の方が三倍重い」
「他の計器もある」
「針が固着してる二つは捨てろ。右端の一つだけ生きてる」
男は箱を開け、計器を確かめた。
指で針を叩く。
二つは動かない。
男は何か言おうとして、やめた。
生きている一つを毛布へ包む。
エルナがミラを見る。
「住民の荷造りまで指揮する気か」
「機械の生き死になら分かる」
「人間の方は」
「そっちはあんたの仕事だ」
エルナは返事をせず、住民たちの間へ戻った。
天井から、低い振動が伝わってきた。
ノインが兵器保管区画の扉を支え続けている。
右脚。
左脚の脛。
左肩。
三点へ荷重を逃がし、開放しようとする扉を身体で押さえている。
ミラの携帯端末には、ノインから送られる損傷情報が並んでいた。
左脚固定材変位、一・一ミリ。
右股関節温度、上昇中。
左肩外装、圧壊進行。
胸部姿勢角、許容上限に接近。
「ノイン。兵器庫の手動固定はまだか」
『エルナの第二班が固定機構を捜索しています。現在、二本の手動鎖を発見。いずれも切断されています』
「灰旗団か」
『切断面は新しいと推定します』
「溶接して戻せない?」
『鎖の長さが不足しています』
ミラは区画内を見回した。
変圧器搬送用の牽引鎖。
三号へ二本。
予備が一本。
兵器庫を閉じるには太さが足りる。
だが、予備鎖を使えば、帰路で牽引索が切れたときに代わりがなくなる。
「ドーマ。予備鎖を兵器庫へ回せ」
ドーマが振り返る。
「帰りの予備がなくなる」
「ノインをいつまで扉に挟んでおく気だ」
「機装兵なら持つだろ」
『現在姿勢での維持可能時間は、推定二十六分です』
ノインの声が響く。
「二十六分あれば搬出できる」
ドーマが言った。
「搬出してる間に腕か脚が壊れる」
「変圧器を持って帰れば修理できる」
「帰る脚を壊してどうする」
二人の視線がぶつかった。
ドーマにとって、任務対象は三号変圧器だ。
そのために六人の回収員と車両を連れてきた。
ノインは契約上、通路を開けるための作業機にすぎない。
だが、ノインが壊れれば住民の護衛も、変圧器の姿勢保持もできない。
「予備鎖は渡さない」
ドーマが言った。
「なら、帰りにノインの左腕が使えなくても文句を言うな」
「脅しか」
「損傷予測だ」
『訂正します。左腕だけではなく、左脚固定材または右股関節が先に限界へ達する可能性があります』
「お前は黙って持たせろ」
『不可能な場合は報告します』
エルナが二人の間へ入った。
「予備鎖を半分に切る」
ドーマが顔をしかめる。
「どっちにも足りなくなる」
「兵器庫には二本の切れた鎖が残ってる。予備鎖の半分を継ぎ材にする。帰路には残り半分と、回収車の補助索を組み合わせる」
「規格が違う」
「ノイン」
エルナが呼ぶ。
『組み合わせは可能です。ただし、接続部の安全荷重は本来の六二パーセントです』
「六二あれば、空の搬送架台には足りるか」
「帰りは空じゃない。二十一トンだ」
ドーマが言う。
『二台の巻上機へ荷重を均等配分すれば、定速搬送に限り使用可能です。急制動には耐えません』
エルナはドーマを見る。
「急制動させるな」
「簡単に言う」
「できないなら、ここへ変圧器を置いていく」
ドーマは予備鎖を見た。
三号変圧器。
ノイン。
住民。
どれも一つだけを選べる状況ではない。
「半分だ」
ようやく言った。
「長く切りすぎるな」
回収員が予備鎖を切る。
火花が床を走った。
半分はエルナの第二班が兵器庫へ運ぶ。
残り半分は回収車の補助索へ接続するため、ドーマが自分で継ぎ目を組んだ。
作業が進む間、ミラは三号変圧器の搬送架台を調べた。
四軸のうち、三軸は動く。
後方右側の一軸だけが固い。
軸受けへ油を差す。
車輪を解体棒で回す。
半回転。
そこで止まる。
もう一度回す。
同じ場所で引っかかる。
「軸が曲がってる」
ドーマが覗き込む。
「車輪ごと外すか」
「三輪で二十一トンは無理だ」
「予備台車を入れる?」
「高さが合わない。載せ替えに一時間以上かかる」
『兵器庫の手動固定を開始します』
ノインの声。
遠くで鎖が張る音がする。
『閉鎖圧を予備鎖へ移行。私の左腕荷重、低下』
携帯端末の数値が下がる。
左脚。
右股関節。
左肩。
危険域から離れていく。
「ノイン。動けるか」
『姿勢変更を開始します』
施設全体が揺れた。
九・四メートルの身体が、兵器庫扉から離れる。
扉が数センチ開きかける。
鎖が軋む。
だが切れない。
手動固定が圧力を受け止める。
『兵器庫の再封鎖を確認しました』
ミラは息を吐いた。
「変圧器区画へ来い。車軸を浮かせる」
『左腕駆動率二一パーセント。持上可能荷重は二・九トンです』
「全部持ち上げる必要はない。後ろだけだ」
『移動します』
ノインの足音が近づく。
その途中で、拡声器から別の警告が流れた。
『施設東側排水路で、急激な圧力低下を確認しました』
マルタが顔を上げた。
「排水路?」
『灰旗団が退却した経路です』
「外へ出たんじゃないのか」
『熱源は施設外へ移動しました。しかし、排水路内部に複数の小型熱源が残されています』
ミラは携帯端末を見る。
小型熱源。
一定間隔。
温度上昇。
「爆薬だ」
エルナが言った。
『可能性が高いと判断します』
「場所は」
『東側排水路の支柱基部。六か所。最初の熱源が作動するまで、推定四分二十秒』
変圧器区画が静まり返った。
灰旗団は通信に失敗した。
黒い認証箱を持って逃げた。
そして施設を残すつもりもなかった。
「爆発したらどうなる」
ドーマが尋ねる。
『東側排水路が崩落。連鎖的に主搬送路の床が沈下する可能性があります』
「可能性は」
『不明です』
「退避までの時間は」
『住民全員と車両だけなら、最短三分四十秒。三号変圧器を搬送する場合、推定十五分以上です』
誰も話さなかった。
三号を置いていけば、全員が逃げられる。
任務は失敗。
ミラとノインの登録も、修理も消える。
だが持ち出そうとすれば、住民を巻き込む。
『変圧器を放棄し、人員退避を優先する案を提案します』
ノインが言った。
ドーマが拳を握る。
「六日前に四人を失った。今日も機材を壊した。それで手ぶらで帰れって?」
『人的損失の増加を避けられます』
「簡単に言うな」
『簡単ではありません。任務失敗によって、リーヴァの送電設備修復が遅れます。私とミラの登録条件も失われます』
ノインの声は変わらない。
『それでも、現在得られる情報では退避を優先すべきです』
ミラは床を見た。
レール。
変圧器。
排水路。
施設図。
灰旗団が爆薬を置いたのは東側の支柱だけ。
主搬送路の床を落とし、変圧器を埋めるつもりだ。
だが床が落ちる方向は一つしかない。
「爆薬を止める時間は」
『六か所すべての解除は不可能です』
「一か所なら」
『最寄りの一基まで、エルナの隊員が走って一分四十秒。解除方法は不明です』
「止めるんじゃない」
ミラは施設図を床へ広げた。
「爆発する場所を変える」
エルナが眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「排水路は支柱の東側を通ってる。今のまま爆発すれば、床は排水路へ落ちる」
「それを防げるのか」
「西側の点検水路を開ける。床下へ水を入れる」
ドーマが理解できない顔をする。
「水で爆発を止める?」
「止めない。東側が崩れる前に、床下の空洞へ水圧をかける。支柱が折れても、床が一気に落ちるのを遅らせる」
『水圧だけでは、二十一トンの追加荷重を支持できません』
「だから変圧器を動かす。爆発と同時に西側レールへ寄せる」
『西側は点検水路の直上です』
「図面ではな。今の水路は土砂で埋まってる。さっき水が流れなかったのは、そのせいだ」
マルタが頷いた。
「二年前の小崩落で埋まった。排水は東側だけを使ってる」
「西は空洞じゃない。土砂が詰まってる。東より床が持つ」
ノインは数秒間、施設の振動を読んだ。
『西側床下に高密度の反射を確認。土砂堆積と一致します』
「変圧器を西へ寄せ、東側を崩す。落ちた床を壁にして、灰旗団の爆風を逃がす」
エルナが問う。
「成功すれば?」
「変圧器は西側に残る。人間は中央通路を抜ける」
「失敗すれば」
「変圧器ごと沈む。近くにいれば全員巻き込まれる」
『加えて、爆発時に搬送架台が脱線する可能性があります』
「だから後ろの固い車軸を浮かせる。三輪で西へ滑らせる」
ドーマが変圧器を見る。
「三輪じゃ支えられないと言っただろ」
「長く運ぶならな。五メートル動けばいい」
『爆発まで三分二秒です』
エルナが決断した。
「住民と負傷者を先に出口へ走らせる。防衛隊二名が誘導。残りは変圧器を西へ移す」
「小隊長」
部下が呼ぶ。
「命令だ。人間を先に出せ」
マルタは住民へ向き直った。
「工具は置いて! 子供の手を離さないで! 主任を二人で支えて!」
住民たちが走り出す。
持ち出そうとしていた箱が床へ落ちる。
圧力計を抱えた男も、一度だけ箱を振り返り、生きている計器だけを胸へ抱えて列へ加わった。
ミラは三号変圧器の後方へ潜った。
「ノイン。右後ろを二・五トンだけ上げろ」
『左手では保持できません』
「手じゃない。左肩を架台へ入れろ」
『肩外装は損傷しています』
「骨格で持て」
ノインが変圧器へ背を向けた。
腰を落とす。
左肩を搬送架台の下へ差し込む。
右脚へ出力を集める。
固定された左脚を床へ寝かせ、全身を一つの支柱にする。
『持上げます』
架台後部が数センチ浮いた。
固着した車輪がレールから離れる。
「回収車、巻け!」
二台の巻上機が動く。
牽引索が張る。
変圧器の前輪が西側分岐へ乗る。
後ろはノインの肩に支えられ、レールを外れて横へ滑る。
鋼が床を削る。
『爆発まで二分十一秒』
「もっと速く!」
ドーマが巻上機の出力を上げる。
「索が六二パーセントしか持たない!」
『現在荷重は安全域の八七パーセントです』
「安全なら上げろ!」
『急制動には耐えません』
「止めなきゃいい!」
変圧器が動く。
一メートル。
二メートル。
西側の床へ近づく。
ミラは前輪の位置を見る。
分岐器の先端が錆びて閉じきっていない。
このままでは左前輪だけが中央レールへ残る。
「止めるな! 前輪が割れる!」
「どうする!」
ドーマが叫ぶ。
「ノイン、左足で分岐器を押せ!」
『左脚は架台支持に使用しています』
「脛はそのまま。足首だけ内側へ回せ!」
『足首出力は二九パーセントです』
「足りる!」
ノインの左足が、床を擦りながら動く。
足先が分岐器の先端へ触れる。
押す。
錆が剥がれる。
もう一度。
軌条が西側へ開いた。
前輪が分岐を通過する。
『爆発まで一分二十七秒』
「あと二メートル!」
回収員たちが索を引く。
巻上機の一基から煙が上がった。
補助索との継ぎ目が伸びる。
「右側が切れる!」
「荷重を左へ寄せろ!」
『変圧器の重心が偏ります』
「分かってる!」
ドーマが左側巻上機を上げ、右を僅かに緩める。
三号変圧器が傾く。
高さ四メートルを超える巨体が、ゆっくり西へ倒れかける。
『転倒角まで六度』
「ノイン、立て!」
『架台を支持中です』
「肩で押し返せ!」
ノインが右脚を伸ばす。
左肩で架台後部を持ち上げながら、胸部を変圧器へ押し当てる。
傾きが止まる。
右股関節の警告が赤く点滅した。
『右股関節温度、許容上限を超過』
「あと一メートルだ!」
ノインが押す。
巻上機が引く。
ドーマたちが索へ体重をかける。
ミラは分岐器へ解体棒を差し込み、戻ろうとする軌条を押さえた。
一人。
一機。
二台の車両。
五人の回収員。
誰か一つの力が抜ければ、二十一トンが戻る。
『変圧器、西側支持区画へ到達』
「全員離れろ!」
ミラが解体棒を抜いた。
回収員たちが走る。
ドーマが最後の索を外す。
ノインが肩を引き抜く。
だが左脚が動かない。
支持桁の補助金具が、歪んだ架台へ引っかかっている。
「ノイン!」
『左脚固定材が拘束されています』
爆発まで二十三秒。
「動かすな。金具が全部外れる」
ミラはノインの左脚へ走った。
『ミラ、退避してください』
「切れば抜ける!」
『爆発まで十八秒です』
ミラは補助金具へ切断器を当てた。
捕獲鉤から作った鋼材。
灰鉄盆地を越えた。
留置場からここまで持った。
今はノインを床へ縫い止めている。
「脚を右へ引け!」
『金具の切断完了前です』
「張ってないと切れない!」
ノインが右脚へ力を入れる。
補助金具が伸びる。
ミラが切断器を押し込む。
火花。
鋼が赤くなる。
『十秒』
切れない。
『八秒』
「出力を上げろ!」
『切断器の蓄電残量が不足しています』
「手回し発電機をつなげる時間はない」
ミラは切断器を捨てた。
解体棒を赤熱した切れ目へ差し込む。
両足で床を蹴る。
『五秒』
鋼が裂ける。
「引け!」
ノインが左脚を引いた。
補助金具が切れた。
ミラの身体が後方へ投げ出される。
巨大な左手が伸びる。
二本しか満足に動かない指が、ミラの外套を掴んだ。
『二秒』
ノインがミラを胸部へ引き寄せる。
左腕で包む。
背を爆薬のある東側へ向ける。
爆発した。
最初の一つ。
続いて二つ。
六つの衝撃が、床下を走る。
東側の主搬送路が持ち上がった。
コンクリートが割れる。
レールが波打つ。
空気が壁のように押し寄せ、ノインの背部へ瓦礫が叩きつけられた。
東側の床が落ちる。
巨大な穴。
その縁が中央へ広がる。
西側へ移した変圧器が揺れる。
一度。
二度。
搬送架台の前輪が浮く。
だが床は落ちなかった。
土砂の詰まった点検水路が下から支えている。
三号変圧器は、西側で止まった。
爆音が収まる。
粉塵が施設内を覆う。
ミラはノインの左腕の中で咳き込んだ。
耳鳴りで何も聞こえない。
口を動かす。
「ノイン」
自分の声すら聞こえない。
琥珀色の補助光学器が点いた。
消える。
また点く。
『生体信号を確認』
声が遠い。
「そっちは」
『背部第二冷却器を損傷。左脚固定材を喪失。右股関節温度、危険域。歩行能力を再計算しています』
「変圧器は」
『西側区画に残存しています』
「住民は」
数秒の沈黙。
『全員、入口方向へ移動を継続。死者は確認されていません』
ミラは目を閉じた。
成功したわけではない。
変圧器はまだ施設内にある。
帰路の中央通路は半分崩れた。
ノインの左膝は、再び固定を失った。
右股関節も限界へ近い。
それでも、人間は外へ向かっている。
二十一トンの変圧器も埋まっていない。
「また脚を直す」
『使用可能な固定材がありません』
ミラは崩れた東側を見た。
爆発で曲がったレール。
千切れた支柱。
兵器庫へ使わなかった鎖の切れ端。
材料はある。
「ある」
『どれを指していますか』
「全部だ」
ドーマが粉塵の向こうから現れた。
額から血を流している。
だが歩いている。
後ろには回収員たちもいる。
「変圧器は無事か」
「見てこい」
ドーマは西側へ走り、三号変圧器の周囲を調べた。
外板に新しい傷。
架台の後輪が一つ外れている。
それでも本体は立っている。
「運べる」
戻ってきたドーマが言った。
「後輪はそりへ載せる。巻上機は一基焼けたが、もう一基は動く」
「帰路がない」
エルナが崩れた床を見た。
東側は穴。
中央は亀裂。
西側には変圧器が塞いでいる。
「作る」
ミラは曲がったレールを指した。
「東側から長い軌条を二本抜く。穴へ渡す。変圧器はそりで先に通す。重量で軌条が沈む前に、一気に引く」
「人間は」
「先に外へ出てる。残るのは私たちだけだ」
エルナはノインを見る。
「機体は渡れるか」
『左脚を再固定できれば、可能性があります』
「成功率は」
『不明です』
ドーマが笑った。
疲れた、乾いた笑いだった。
「今日はそればかりだな」
『不明なものを既知として提示することはできません』
「分かった。もう聞かん」
ミラは解体棒を拾った。
先端が曲がっている。
それでも使える。
ノインの左脚へ向かう。
「ドーマ。軌条を抜け。エルナは入口へ、住民が全員出たか確認してくれ」
「お前は」
「脚を直す」
『私は施設回線から、崩落拡大を監視します』
「それと変圧器の姿勢を見ろ」
『了解しました』
作業が始まる。
誰も命令だけを待たなかった。
回収員は軌条へ鎖を巻く。
防衛隊員は瓦礫を退ける。
マルタは四号変圧器の温度を確認し、退避完了まで電力を残す。
エルナは入口と施設内を往復し、最後の一人まで数える。
ノインは損傷した身体で、全員の位置と設備の状態を同時に見続ける。
ミラは曲がった支柱を切り、左膝へ当てた。
新しい固定材は、昨日よりさらに不格好だった。
規格の違う鋼材。
半分に切った鎖。
爆発で変形した留め具。
それを一つずつ締める。
『固定精度が不足しています』
「分かってる」
『左脚への荷重は、最大二・一秒に制限する必要があります』
「帰るまで何歩だ」
『崩落区画通過後、施設出口まで二百八十九メートルです』
「十三メートルより長いな」
『はい』
「でも、今度は押す奴がいる」
ドーマたちが軌条を穴へ渡す。
回収車の巻上機が唸る。
三号変圧器が、再び動き始めた。
施設の外では、住民たちが待っている。
信用はしていない。
それでも約束が守られるかを見ている。
ミラは最後の鎖を締めた。
「立てるか」
ノインが左脚へ僅かに荷重を移す。
新しい固定材が軋む。
一秒。
二秒。
右脚が前へ出る。
『立位を維持できます』
「なら帰るぞ」
『変圧器を回収し、住民と全人員を施設外へ搬出します』
「それが今の目的だ」
ノインの琥珀色の光が、穴へ渡された二本の軌条を捉えた。
『目的を共有しました』
変圧器が軌条へ乗る。
鋼が沈む。
回収員たちが索を引く。
ノインが左手で傾きを支える。
ミラは搭乗席へ入り、固定帯を締めた。
誰か一人の命令ではない。
誰か一つの計算でもない。
それぞれが見えるものを持ち寄り、帰るための一本の道を作る。
灰旗団が壊した床の上を、二十一トンの変圧器が進んだ。
その後ろを、片腕の機装兵が追う。
戦争のために作られた送電施設から、都市を生かす設備と、そこで生き延びた人々が同じ出口へ向かっていた。




