途切れた搬送波
旧蓄電室へ続く階段は、途中から水に沈んでいた。
赤い非常灯が水面へ映り、壁から壁へ揺れている。
最初の一段では靴底が濡れただけだった。
三段下りると足首。
さらに五段で脛まで浸かった。
水は冷たく、金属と古い薬品の臭いがした。
マルタが手摺を掴み、足元を確かめる。
「ここまで水位が上がったのは初めて」
「排水ポンプは」
「二週間前に止まった。予備部品がない」
ミラは携帯灯を水へ向けた。
表面に油膜はない。
だが、沈んだ床のどこを電纜が通っているか分からない。
「生きてる母線は左壁の上段二本だったな」
「ええ。けれど、灰色の連中が来てから配線を変えられた。どこへつないだかは分からない」
ミラは壁へ手を当てた。
水面から一メートルほど上に、三本の電纜が金具で固定されている。
二本は古い。
一本だけ被覆の色が違った。
新しい線は階段の下へ延び、途中で壁の配管穴へ潜り込んでいる。
「通信室の電源だ」
「分かるの?」
「施設の工事じゃない。留め金の間隔が揃ってない。急いで引いた線だ」
耳元の小型受話器から、ノインの声がした。
施設内の有線保守回線を使っている。
雑音が多く、言葉の末尾が途切れた。
『ミラ。回収班が四号変圧器の排油口を開放しました。油槽内に水分混入を確認しています』
「量は」
『底部の推定八パーセント。上層油は使用可能です』
「ドーマに、下から抜くなと言え。上から吸わせろ」
『伝達します』
マルタが受話器を見た。
「全部の班と話してるの?」
「話すだけじゃない。砲台と隔壁と配電の動きも見てる」
『正確には、見ているのではなく信号から推定しています』
「聞こえてるなら、いちいち直すな」
『不正確な説明でした』
雑音が強くなる。
ノインの声が一度消えた。
代わりに、遠くで金属が破裂する音が響く。
天井から錆が落ち、水面へ小さな輪を作った。
「何の音?」
「回収班じゃない」
ミラは受話器を叩いた。
「ノイン。応答しろ」
数秒後、声が戻る。
『避難区画西側で対人砲台が一門起動しました。防衛隊が射線外へ退避。負傷者はいません』
「止められるか」
『遠隔停止は拒否されています。砲台は手動命令を受信しています』
「灰旗団か」
『可能性が高いと判断します』
マルタの顔が強張った。
「子供たちは」
『入口へ向けて移動中です。エルナが同行しています』
「通信室まで、あとどれくらい」
マルタは階段の先を見た。
「蓄電室を抜けて、保守隧道を百メートル。そこから下へ一層」
ノインが告げる。
『搬送波同期まで九分四十秒です』
「間に合うか」
『現在位置からの移動時間を算出できません。通路状態が不明です』
ミラは腰の切断器を確かめた。
「分からないなら、進むしかない」
二人は水の中を下りた。
旧蓄電室の扉は、半分まで水へ沈んでいる。
鍵穴へマルタの鍵を入れたが、回らなかった。
「錆びた?」
「違う。内側から何か噛んでる」
ミラは扉の隙間へ検査針を入れた。
金属へ当たる。
細い棒。
閂ではない。
扉の取手と床の配管を、鋼線で縛ってある。
「灰旗団が閉じた」
「なぜ?」
「保守通路を使われたくなかった」
ミラは水中へ手を入れた。
鋼線の位置を探る。
手袋の中へ冷水が入り込む。
指先がすぐに痺れた。
「切断器は使えない。水の中だ」
「他の道はない」
「なら手で切る」
ミラは工具袋から小型の鋸を出した。
水中へ沈め、見えない鋼線へ歯を当てる。
一度引く。
滑る。
角度を変える。
再び引く。
鋼線が擦れる振動だけが手へ伝わった。
マルタが扉を押さえる。
「代わる」
「位置が分からないだろ」
「あなたの手が動かなくなったら、どちらにしても進めない」
ミラは一瞬だけマルタを見た。
それから鋸の柄を渡した。
「取手の下、指二本分。線は右下へ張ってる。押すな。引くだけだ」
マルタが水へ腕を入れる。
鋸が動く。
最初は鋼線へ当たらない。
三度目で、微かな振動が扉へ伝わった。
「そこ。角度を変えるな」
マルタは歯を食いしばって鋸を引いた。
一回。
二回。
十回を越えたころ、鋼線の一本が切れた。
扉が数センチ動く。
残った線が張る。
「もう一本」
「手の感覚がない」
「私もだ」
二人は交代しながら切った。
最後の鋼線が切れたとき、扉は水圧に押されて内側へ開いた。
溜まっていた水が旧蓄電室へ流れ込み、二人の脚を取る。
ミラは扉へ肩をぶつけた。
マルタが手摺を掴み、もう一方の手でミラの工具袋を引いた。
二人とも倒れずに済んだ。
「借り一つ」
マルタが言う。
「水に流されなかっただけだ」
「そういうのを借りと言うの」
室内には、巨大な蓄電槽が六列並んでいた。
戦前の鉛蓄電器。
どれも腰ほどの高さがあり、上面の端子は白く腐食している。
三列は完全に水没。
残る三列も、配線の半分が切られていた。
壁際の制御盤には、灰旗団が引いた新しい電纜が接続されている。
非常母線から通信室へ、電力を盗んでいた。
「これを切れば通信は止まる?」
マルタが問う。
「止まる。避難区画の換気も一緒にな」
「つなぎ替える時間は」
受話器からノインの声。
『同期まで七分二十一秒です』
「あるかもしれない」
『具体的な作業内容を要求します』
ミラは制御盤の蓋を開けた。
内部は浸水を免れている。
だが端子の半分が焼け、番号札も失われていた。
「三号から来てる非常母線を、残ってる蓄電槽へ一度入れる。蓄電槽から避難区画の換気回線へ直接返す」
『旧蓄電槽の状態が不明です。充電開始時に破裂する可能性があります』
「全部は使わない。一列だけだ」
『使用可能な列を判断できますか』
ミラは蓄電槽を見た。
端子の腐食。
槽の膨らみ。
床に流れた電解液の跡。
数字で測る時間はない。
一列目は端子が黒い。
過熱している。
二列目は側面が膨らみ、蓋が浮いている。
三列目。
端子は白く腐食しているが、槽の形は変わっていない。
配線も切れていない。
「奥から三列目を使う」
『外観以外の根拠を要求します』
「一列目は焼けてる。二列目は内部でガスが溜まってる。三列目だけ、液漏れの筋がない」
『容量は不明です』
「換気を二十分動かせればいい。その間に四号へつなぐ」
『二十分を保証できません』
「保証じゃない。手順だ」
ノインは一拍置いた。
『作業を支援します。端子配置を推定します』
制御盤の小さな表示灯が一つずつ点いた。
ノインが施設回線を通じて信号を送り、死んでいる線と生きている線を見分けている。
『上段右から三番目が避難区画換気。下段左から二番目が三号変圧器からの非常母線です』
「マルタ。換気線を外せ」
「通電してる」
「絶縁布を巻け。端子の根元じゃなく、上の留め具から外す」
ミラは三号から来る母線へ切断器を当てた。
火花が散る。
施設の灯りが一度暗くなる。
『通信搬送波の出力低下を確認』
「まだ止めない。蓄電槽へ入れる」
切った母線を三列目の端子へ接続する。
規格が違う。
端子穴が合わない。
ミラは工具袋から捕獲鉤の残りを出した。
左膝の補助金具を作ったとき、切り落とした先端部分。
鋼の厚みは足りる。
「それ、膝に使った部品の残り?」
「捨てなくてよかった」
ミラは鋼片へ穴を開け、端子を橋渡しした。
融着剤を塗る。
締め具で固定する。
『接続抵抗が高すぎます』
「最初だけだ。電流が流れれば熱で馴染む」
『過熱するという意味です』
「その前に作業を終える」
『理論上、不安定です』
「現物は持つ」
『根拠を要求します』
「鋼片の縁を見ろ。錆が薄い。灰鉄盆地でレールを踏ませたときと同じだ」
『私は視認できません』
「なら、私を使え」
短い沈黙。
『あなたの現物判断を採用します』
母線を接続する。
三列目の蓄電槽が低く唸った。
一つ目。
二つ目。
順番に端子へ熱が入る。
膨らみはない。
液漏れもない。
「換気線を戻せ!」
マルタが線を持ち上げる。
ミラが蓄電槽の出力側へ押し当てる。
火花。
二人の手が弾かれる。
だが線は外れなかった。
遠くで、巨大な送風機の回り始める音がした。
『避難区画の換気を確認。出力は正常時の四一パーセントです』
マルタが息を吐く。
「動いた」
「約束の半分だ」
「半分?」
「リーナを戻す」
ミラは新しい電纜を見た。
通信室へ延びる線。
これを切れば、灰旗団の送信は止まる。
切断器を当てようとした瞬間、ノインが警告した。
『待ってください。電纜に別の負荷が接続されました』
「何だ」
『兵器保管区画の封鎖機構です。切断した場合、保管扉が開放されます』
マルタの顔色が変わった。
「兵器庫は終戦前に封鎖された。機装兵用の弾薬と無人機がある」
「灰旗団は通信と一緒に開けるつもりか」
『可能性があります』
受話器へ別の声が割り込む。
エルナ。
『ミラ、避難区画西側の砲台を停止した。だが灰旗団二名が補助階段へ向かった。そちらへ下りる可能性がある』
「人数は」
『二名。長銃と切断器を所持』
「ノイン、位置は」
『あなたたちの前方、保守隧道まで推定六十メートル』
ミラは制御盤を見た。
通信線を切れば兵器庫が開く。
切らなければ送信が始まる。
別の場所で封鎖回線を保持しながら、通信だけを止める必要がある。
「ノイン。兵器庫の封鎖を、お前が代わりに保持できるか」
『施設回線からの制御は拒否されています』
「物理的には」
『兵器保管区画の扉を、私の左手で押さえる案があります』
「そこまで行けるのか」
『大型搬送路から壁面を破壊すれば到達可能です』
マルタが即座に言う。
「施設を壊さない約束よ」
『兵器庫が開放された場合、施設全体の危険が増加します』
「壁の中には冷却水管がある。破れば変圧器区画が浸水する」
「別の道は」
『兵器保管区画へ接続する貨物昇降路があります。現在、隔壁で閉鎖されています』
「開けられるか」
『ミラが先ほど停止させた右巻上機と、同一の予備回路を使用しています』
ミラは理解した。
自分が隔壁を止めるために焼いた回路。
それが貨物昇降路の開閉にも使われていた。
「直せる」
『現在地からでは不可能です』
「ドーマなら直せる。巻上機の制動爪を交換した」
ノインは即座に回線を切り替えた。
『ドーマへ作業を指示します。必要時間は』
遠くから、ドーマの声が返る。
『現物を見なきゃ分からん!』
「焼けた予備回路を、四号の起動盤から迂回しろ。太い線は要らない。昇降路を一度開けるだけだ!」
『線の長さが足りん!』
「回収車の巻上機用を外せ!」
『変圧器をどうやって運ぶ!』
「開けた後で戻せ!」
ドーマが悪態をつく。
だが通信は切らなかった。
『五分よこせ!』
ノインが告げる。
『搬送波同期まで三分十二秒です』
「五分はない」
『通信開始後も、全情報の送信には二分以上必要と推定します』
「最初に何を送るか分かるか」
『不明です』
「なら最初から止める」
ミラは制御盤の通信線へ切断器を当てた。
『兵器庫の封鎖が解除されます』
「ノインが押さえる」
『貨物昇降路の開放は保証されていません』
「ドーマが開ける」
『私の左腕駆動率は二六パーセントです。兵器庫扉の閉鎖圧へ耐えられるか不明です』
「耐えられなければ言え」
『扉が開いてからでは遅い可能性があります』
ミラは切断器を止めた。
ノインは、自分の身体を賭けると言っている。
地下施設では、同じような不明を二人で越えた。
だが今は、ノインの左腕が壊れれば、変圧器の搬出も住民の護衛もできなくなる。
一つの危険だけを見れば、切るべきではない。
全体を見れば、送信を許す方が危険かもしれない。
「ノイン。お前の判断は」
『搬送波を停止すべきです』
「左腕を失う可能性があってもか」
『灰旗団が外部の旧軍資産へ命令を送信した場合、影響範囲を推定できません』
「分かった」
ミラは切断器を構え直した。
「戦闘と施設全体は、お前が見ろ。線を切れるかは私が決める」
『了解しました』
「切れる」
青白い火花が走った。
新しい電纜が焼ける。
被覆が溶け、芯線が露出する。
一度では切れない。
二度目。
銅線が赤く輝く。
『搬送波出力、急速低下』
三度目。
電纜が切れた。
施設の奥から、巨大な錠が外れる音が響いた。
『兵器保管区画の封鎖解除を確認』
同時に、ノインの足音が施設全体を揺らした。
大型搬送路を走っている。
固定された左膝を引きずり、右脚だけで身体を投げ出すように進む。
一歩ごとに金属が軋む。
『貨物昇降路はまだ閉鎖されています』
「ドーマ!」
『分かってる!』
受話器の向こうで、切断器の音が鳴る。
『あと二本!』
保守隧道の奥で、灯りが動いた。
灰色の外套。
二人。
灰旗団の兵士がこちらを見つけた。
一人が長銃を上げる。
「伏せろ!」
ミラはマルタを蓄電槽の陰へ引いた。
銃声。
弾丸が制御盤へ当たり、火花が散る。
もう一発。
蓄電槽の外板へ穴が開く。
内部から酸の臭いが漏れた。
「三列目じゃない!」
マルタが叫ぶ。
「なら動く!」
ミラは床を這い、壁際の蒸気管へ近づいた。
戦前の暖房用。
今は止まっている。
だが配管の圧力計はゼロではない。
灰旗団が通信装置を冷却するため、別系統から蒸気を流している。
「ノイン。ここの蒸気弁を開けたら、通信室へ影響するか」
『冷却効率が低下します。しかし現在、通信は停止しています』
「人を殺す温度か」
『配管内温度は七十八度。直接噴射を受ければ熱傷しますが、致死可能性は低いと推定します』
「十分だ」
ミラは解体棒を弁へかけた。
固い。
両足で壁を蹴る。
「マルタ、伏せてろ!」
弁が回った。
蒸気管の腐食した継ぎ目が破裂する。
白い蒸気が通路へ噴き出した。
灰旗団の二人が叫ぶ。
一人が銃を落とす。
もう一人が後退し、足を滑らせた。
「今だ!」
ミラとマルタは反対側の壁沿いを走る。
倒れた兵士の横を抜ける。
ミラは長銃を蹴り、水の中へ落とした。
もう一人が腰の短銃へ手を伸ばす。
マルタが消火器を掴み、顔へ噴射した。
白い粉が兵士を覆う。
ミラは腕を捻り、短銃を奪った。
「撃つな!」
マルタが叫ぶ。
「撃たない!」
ミラは弾倉を抜き、短銃を遠くへ投げた。
二人を配管の手摺へ縛る。
細線では人間を完全に拘束できない。
それでも蒸気の中で追ってくる余裕はない。
『ドーマから報告。予備回路の接続を完了しました』
施設の奥で昇降機が動く。
重い扉が上がる音。
『貨物昇降路を開放。兵器保管区画へ進入します』
ノインの声に、微かな雑音が混じった。
機体が高速で動くときの振動だ。
「扉まで何秒」
『十一秒』
ミラとマルタは保守隧道を走った。
通信室の一層上。
兵器保管区画の扉が開き始めている。
その隙間から、折り畳まれた無人機の脚が見えた。
天井まで積まれた弾薬箱。
自動搬出用のレール。
封鎖解除と同時に、内部の搬送装置が起動していた。
弾薬箱が一つ、扉の隙間へ押し出される。
『到達します』
ノインが貨物昇降路から現れた。
右腕はない。
左手も二本の指が満足に動かない。
それでも、開きかけた兵器庫扉へ肩を入れた。
左掌を床へつく。
右脚を踏ん張る。
固定された左脚を壁へ当てる。
扉がノインの胸部を押す。
『閉鎖圧、増加』
「持つか!」
『不明です』
「姿勢を見せろ!」
ミラの携帯端末へ、ノインの荷重情報が送られる。
右脚へ七割。
左脚の支持桁へ二割。
残りが左腕。
このままでは、左膝の補助金具が先に外れる。
「左足を壁へ寝かせろ! 膝じゃなく、脚全体で受けろ!」
『その姿勢では再移動できません』
「今は扉を止めろ!」
ノインが腰を落とす。
曲がらない左脚を斜めに滑らせ、脛全体を壁面へ当てた。
荷重が分散する。
捕獲鉤から作った金具が低く鳴った。
切れない。
『姿勢を変更。閉鎖を維持します』
「私の金具は持つ」
『記録します』
通信室から男の怒声が聞こえた。
「何をした! 回線を戻せ!」
ミラとマルタは階段を下りた。
中央通信室の扉は開いている。
内部には灰旗団の残り四人。
床へ固定された通信装置。
黒い認証箱。
そして、椅子へ縛られたリーナがいた。
頬から血を流しているが、意識はある。
灰旗団の指揮官らしい男が、リーナの首へ短銃を当てた。
「武器を捨てろ」
ミラは何も持っていない両手を上げた。
「もう捨てた」
「回線を直せ」
「切った線は蓄電室だ。私を撃てば直せる奴がいなくなる」
男の目が動く。
嘘ではない。
マルタでは、あの接続を再現できない。
「お前は整備員か」
「資格なしのな」
「なら分かるだろ。これは正式な継戦命令だ」
男が黒い認証箱を示す。
旧軍標章。
だが、所属番号が削られている。
「どこからの命令だ」
「答える必要はない」
「戦争は終わった」
「国家が降伏しても、軍の任務は消えない」
「命令した奴は生きてるのか」
「命令鍵は有効だ」
「人間の話をしてる」
男の銃口がリーナの皮膚へ食い込む。
「黙れ」
その瞬間、通信装置の表示器が一度だけ点灯した。
切断前に蓄えられた電力。
短い受信信号が入る。
文字が流れた。
《同期失敗》
《受信記録を保存》
《上位統制核応答――識別情報破損》
男が表示器へ振り返る。
ほんの一瞬。
リーナが椅子ごと身体を倒した。
銃口が外れる。
マルタが消火器を投げた。
男の腕へ当たる。
ミラは床を蹴り、通信装置の冷却管を切断器で叩いた。
管が外れ、熱い冷却液が噴き出す。
灰旗団の兵士たちが退く。
通信装置から煙が上がった。
「伏せろ!」
ノインの声が施設の拡声器から響いた。
『中央通信室の床下防衛装置が起動します』
ミラはリーナの椅子を倒したまま引いた。
マルタが縄を切る。
床の小さな蓋が開き、銃身が出る。
だが照準は灰旗団へもミラたちへも向かなかった。
ノインが最後に送った誤距離情報が残っている。
砲身は天井を撃った。
破片が降る。
灰旗団の指揮官が黒い認証箱を掴み、奥の非常口へ走った。
残りの三人も続く。
「追うか!」
マルタが叫ぶ。
ミラはリーナを見た。
足首に血が滲んでいる。
自力では走れない。
通信装置は煙を上げ、兵器庫ではノインが扉を支えている。
「追わない。リーナを運ぶ」
「箱を持っていかれる!」
「今追えば、こっちが誰か置いていく!」
ミラはリーナの腕を肩へ回した。
マルタも反対側を支える。
「歩けるか」
「少しなら」
「少しでいい」
受話器からノインの声。
『灰旗団四名が東側排水路へ移動。追跡可能です』
「追うな」
『黒い認証装置を所持しています』
「分かってる」
『将来の脅威になる可能性があります』
「今、扉を離れられるか」
短い沈黙。
『離れれば兵器庫が開放されます』
「なら、そこにいろ。私はリーナを運ぶ」
『了解しました』
ミラたちは階段を上がった。
背後で、通信装置の表示器が最後の一行を映している。
《受信記録 零・八秒》
送信は止めた。
命令も届かなかった。
けれど、向こうから何かが応答した。
誰が。
どこで。
何のために待っていたのか。
確かめる時間はなかった。
旧蓄電室へ戻ると、三列目の蓄電槽はまだ動いていた。
鋼片の端子が赤く焼けている。
絶縁布から煙が出ていた。
『避難区画換気、出力三七パーセント。継続時間は推定十一分です』
「十分だ。四号へつなぐまで持たせる」
『接続部の温度が限界を超えています』
ミラはリーナをマルタへ預け、工具袋から水に濡れた布を出した。
端子の根元ではなく、鋼片の外側へ巻く。
急に冷やせば割れる。
少しずつ熱を逃がす。
「持つ」
『理論上は推奨できません』
「お前は兵器庫を持たせろ。こっちは私が持たせる」
ノインは反論しなかった。
『了解しました』
遠くで、四号変圧器が低く唸り始めた。
ドーマたちが油を移し、死んでいた設備を起こした音。
避難区画の送風機が一度止まりかけ、再び回転を上げる。
灯りが戻る。
赤ではない。
白い作業灯。
三か月ぶりに点いた光が、旧蓄電室の水面へ広がった。
マルタはリーナを抱えたまま、目を細めた。
「戻った」
「約束の残り半分だ」
「ええ」
通信は止まった。
リーナは戻った。
住民の換気も、今のところ動いている。
それでも灰旗団は逃げ、黒い箱も失った。
完全な成功ではない。
完全な失敗でもない。
ノインの声が、各班へ同時に流れた。
『避難区画の電力を四号変圧器へ切り替えました。防衛装置の一部は停止。三号変圧器の切り離し作業を再開できます』
ドーマの声が返る。
『ようやく本来の仕事か』
エルナが続く。
『全員の所在を報告しろ。負傷者を先に入口へ運ぶ。灰旗団は追わない』
ノインが確認する。
『任務目的を、住民退避と変圧器回収へ戻します』
ミラは焼けた端子を見た。
灰鉄盆地で拾った鉤の欠片が、今は十七人分の空気をつないでいる。
正規部品ではない。
長くは持たない。
けれど、次へ渡す時間は作った。
「ノイン」
『はい』
「受信記録は残ってるか」
『中央通信装置に保存されています。回収可能です』
「消される前に押さえろ」
『兵器庫封鎖を維持したまま、施設回線から記録領域を保護します』
「できるか」
『可能性があります』
「なら任せる」
ノインは僅かに間を置いた。
『受理します』
ミラはリーナの腕を取り、旧蓄電室の扉へ向かった。
今度は水に流されないよう、三人で互いの服を掴む。
後ろでは蓄電槽が唸っている。
前では白い灯りが一つずつ点いていく。
一人では届かない場所へ、別の手が伸びる。
それだけで、止まっていた設備が動く。
閉じていた扉が開く。
届かなかった終戦が、ようやく十七人のいる区画まで近づいていた。




