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灰鉄のノイン~十三メートルから始まる機装兵戦記~  作者: 本の寄生虫
第一章 灰鉄盆地と自治都市リーヴァ

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10/23

自治都市停電

旧第六整備廠の天井には、爆撃で開いた穴が三つあった。


夜空は見えない。


穴を覆うように張られた鋼板と防水布が風を受け、巨大な肺のように膨らんでは沈んでいる。


その下を、天井走行機が軋みながら進んだ。


四本の吊り鎖がノインの胸部と腰へ巻かれている。


右腕のない肩。


弾痕だらけの左腕。


鋼線と曲がった支柱で縛られた左膝。


灰鉄盆地を歩き、旧送電施設の床を越え、ようやく都市へ入った機体が、今は自分の足を床から離されようとしていた。


『吊り上げ荷重が左前方へ偏っています』


「分かってる。右肩がない分だ」


ミラは整備架台の上から、胸部を回る鎖を見上げた。


『第三吊り点の鎖に摩耗を確認します』


「そっちは交換したばかりだって聞いた」


『交換記録と現物状態は一致しません』


走行機を操作していた工員が顔をしかめた。


「機械が何か言ってるぞ」


「上げるな」


ミラは即座に手を上げた。


「第三鎖を下ろせ」


「検査済みだ」


「いいから下ろせ」


工員は不満そうに巻上機を戻した。


鎖が床へ落ちる。


ミラは駆け寄り、輪の内側を指でなぞった。


表面は新しい油で黒く塗られている。


だが、油を拭うと一か所だけ鋼の色が違った。


細い亀裂。


その周囲に、古い打撃痕が残っている。


「新品じゃない。傷を削って油を塗っただけだ」


工員が鎖を持ち上げた。


「倉庫札には再生一級と——」


「再生した奴に返せ。九トンを落とした後で札を読んでも遅い」


ノインが補助光学器を亀裂へ向けた。


『私の推定では、荷重五・六トンで破断します』


「今回の荷重は?」


『偏荷重を含め、最大六・二トンです』


工員は黙って鎖を置いた。


別の鎖が運ばれてくるまで、整備廠の入口に立っていた女が一部始終を見ていた。


南門で人格検査を担当した女だった。


白かったはずの検査外套は、肩から裾まで油で灰色になっている。


「セラ・ヴァイス。旧第六整備廠の診断主任」


女はミラへ手を差し出した。


「検問所では名乗ってなかったな」


「検査対象へ名前を教える義務はないから」


ミラは手を握らず、ノインの吊り具へ視線を戻した。


「四十八時間、緊急区画を使えると聞いた」


「正確には四十六時間と三十二分。門を通った時点から数えている」


「細かいな」


「電気炉も工作機械も順番待ちなの。あなたたちだけ止まった時間で暮らしてるわけじゃない」


新しい鎖が取りつけられた。


今度はミラが輪の一つずつを確かめる。


摩耗。


腐食。


溶接。


打撃痕。


問題はない。


「上げていい」


巻上機が唸った。


ノインの身体が床を離れる。


右脚。


固定された左脚。


最後に足先が浮く。


九・四メートルの巨体が、四本の鎖だけで吊られた。


『接地感覚を喪失しました』


「吊ってるんだから当然だ」


『現在、機体姿勢の制御権が外部設備へ移っています』


「嫌か?」


ノインはすぐには答えなかった。


『転落時に、自力で姿勢を回復できません』


「鎖は見た。走行機もさっき点検した。吊り荷重は規定の七割以下だ」


『あなたの判断ですか』


「そうだ」


『了解しました』


ノインの脚から力が抜けた。


完全ではない。


右足首には、無意識に接地場所を探すような微細な動きが残っている。


それでも、吊り鎖へ重量を預けた。


ミラはそれを見てから、左膝の鋼線を切り始めた。


一本。


二本。


施設内で巻いた応急固定が、床へ落ちていく。


最後に、爆発で曲がった支柱を外す。


左脚が重力に従って垂れた。


膝関節の内部から、黒い金属粉がこぼれる。


『左膝固定を喪失しました』


「今から開ける」


『損傷警告の抑制を解除しますか』


「いらない。もう場所は分かってる」


『あなたは以前、警告との一致を利用して断線位置を特定しました』


「今回は目で見える」


ミラは膝の外板を外した。


内部は、想像していたより悪かった。


最初に曲がっていた補助軸は、旧送電施設の爆発でさらに歪んでいる。


軸受けの外輪は割れ、回転子が半分抜けていた。


人工筋肉束は十二本のうち七本が切断。


残る五本も、灰と金属粉を噛んで表面が削れている。


足首から上がる信号線は、応急固定材に圧迫されて被覆が剥がれていた。


「正規修理なら、膝から下を全部交換だ」


『当施設に適合部品はありますか』


セラが端末を操作した。


「イグナート九式に適合する部品は、登録上、一つもない」


「型式不明の作業機じゃなかったのか」


ミラが言う。


「あなたがそう申告しただけ。骨格の寸法と駆動配列から、旧軍試験機の系統までは分かる」


セラは整備廠の奥を指した。


薄暗い区画に、機装兵が並んでいる。


片脚のない量産機。


胸部を開かれた作業機。


頭部と動力炉だけを失った西方製の鹵獲機。


十一機。


どれも修理を待っているというより、他の機体を生かすために順番に切り取られるのを待っていた。


「使えるものは、あの中から探す」


ノインの補助光学器が十一機を順番に捉えた。


『寸法と材質を確認するため、診断回線への接続を要求します』


セラが眉を上げる。


「第二級補助人格が、自分で部品選定をするの?」


『保守補助機能です』


「便利な言葉ね」


「使えるなら使え」


ミラが言った。


「四十八時間しかない」


セラはしばらくノインを見上げていたが、壁面の診断端子を接続した。


整備廠内の部品台帳がノインへ送られる。


十一機の骨格寸法。


材質。


残存駆動率。


使用履歴。


ノインは数秒で読み終えた。


『三案を提示します』


整備架台の端末へ、簡略図が表示された。


最初の案。


都市防衛隊の量産機から膝関節と人工筋肉を移植する。


ノインの脚と寸法が近く、歩行性能は正常時の六八パーセントまで戻る。


ただし、その量産機は修理待ちであり、部品を使えば再稼働できなくなる。


「却下」


セラが即答した。


「防衛隊の機体は崩せない」


二つ目。


民間作業機の膝関節を移植。


関節軸は太いが短い。


左脚全体が十六センチ短くなる。


走行と跳躍は不可能。


歩行速度は正常時の三一パーセント。


だが構造が単純で、リーヴァの設備でも修理できる。


「これは使える」


ミラは図面を拡大した。


「接続環は作れるか」


セラが答える。


「低品質鋼なら。高温耐性合金はない」


『低品質鋼を使用した場合、連続高出力時に変形します』


「高出力を使わなければいい」


『戦闘時の回避能力が大きく低下します』


「今は戦闘機じゃない。街まで戻る脚だ」


三つ目。


現在の補助軸を加熱修正し、割れた軸受けを鋼帯で保持する。


部品消費は最小。


十二時間以内に歩ける。


ただし推定寿命は四十から六十キロメートル。


一度変形が進めば、次は関節骨格ごと交換しなければならない。


「これは修理じゃない」


ミラが言った。


『移動能力の回復です』


「壊れたものを、次に止まるまで押し込むだけだ」


『あなたが地下施設で実施した処置と、目的は同一です』


「設備がなかったからだ。今は工場にいる」


『二案目は左脚長の不均衡が恒久的に残ります』


「後で右脚の接地部を調整する。歩けるようになってから考える」


『走行能力を失います』


「今のお前は歩くこともできない」


ノインは反論しなかった。


図面上の三案を再計算する。


『第二案を採用した場合、機体姿勢と歩行制御を全面的に変更する必要があります』


「できるか」


『可能です』


「なら二案目だ」


『私の提案では、第一案が最も高性能です』


「他の機体を一機殺して、お前を直す案だろ」


『部品提供機は現在、動力炉を欠いています』


「直せば動く可能性がある」


『可能性は一八パーセント以下です』


「ゼロじゃない」


セラが二人の会話を聞いていた。


「整備員が機械の部品取りを心配するのは分かる。でも、機械の方が自分を直すために他の機体を使えと言うのは珍しいわね」


『私は性能回復を優先しています』


「自分の性能を?」


『はい』


「それを第二級補助人格の保守機能と呼ぶ?」


ノインの琥珀色が細くなる。


ミラは端末を閉じた。


「膝の話は終わりだ。次は左手を見ろ」


セラは追及しなかった。


だが、疑いを捨てたわけでもない。


左手は、さらに悪かった。


第二指は付け根から動かない。


第一指は掌側の駆動索が裂け、把持力がほとんどない。


掌装甲には旧送電施設の砲撃で開いた穴が並び、内部骨格へ金属片が食い込んでいる。


『指二本の完全修復を要求します』


「部品がない」


『作業機の把持器を転用できます』


「太さが違う」


『第一指と第二指を撤去し、三指構造へ変更します』


ミラは左手を見た。


「親指をなくすのか」


『現在の第一指は使用不能です。作業機の把持爪を掌中央へ移設すれば、残る三指との対向把持が可能です』


「見た目は悪くなる」


『外観は性能へ影響しません』


「そうだな」


ノインは右腕を失っている。


残る左手まで、人間の手に似た形へこだわる理由はない。


それでもミラには、動かない指を切り落とすことが、単なる部品交換には見えなかった。


「外した指は保管する」


『再使用の可能性は低いと予測します』


「材質が分からない。後で使えるかもしれない」


『技術資料として保全するという意味ですか』


「それでいい」


セラが小さく息を吐いた。


「記憶補助槽を捨てなかったときも、同じことを言った?」


ミラは女を見る。


「誰から聞いた」


「検査記録。灰鉄盆地で重量削減をした痕跡があるのに、背部の記憶槽だけ残っていた」


「勝手に機体の中まで見るな」


「緊急修理の条件に、全損傷診断が含まれている」


「人格記憶は機械損傷じゃない」


セラの視線が止まった。


「人格記憶?」


言葉を間違えた。


ミラはすぐに気づいた。


第二級補助人格の記録は、保守履歴か制御記録と呼ぶ。


人格記憶という表現は、高度な人工人格にしか使わない。


「ノインがそう呼んでる」


「作業機が?」


『私の記憶領域には、対話記録と自己調整履歴が保存されています』


ノインが答えた。


「ノイン」


『虚偽説明を避けました』


「全部正直に言えばいい場面じゃない」


『検査員は、すでに私の能力へ疑念を持っています』


セラは端末を持ち直した。


「その通り。疑ってる」


整備区画の扉が開いた。


革の長衣を着た男が、工員二人を連れて入ってくる。


胸元には炉辺工業組合の標章。


男は吊られたノインを見上げ、右肩の欠損部から左脚まで、値踏みするように視線を動かした。


「バルト・ゼーガー。工業組合の設備管理委員だ」


「今度は何の検査だ」


ミラが聞く。


「修理費の話だ。契約報酬は緊急修理四十八時間。部品代は別になる」


「そんなことは契約書に書いてない」


「最低限の部品は含む。だが、作業機一機分の膝関節と把持器を使うなら、最低限を超える」


「変圧器を一基持って帰った」


「それは市の所有物だ。工業組合の部品棚とは会計が違う」


ミラは舌打ちした。


「いくらだ」


「炉票で八千六百」


「持ってない」


「知っている」


バルトは端末へ手を置いた。


「代わりに、機体の制御記録を提供してもらう」


ノインの補助光学器が男を向いた。


『要求範囲を提示してください』


「旧送電施設で使った、防衛装置解析と複数班誘導の記録。自己調整履歴も含む」


『拒否します』


即答だった。


バルトは少し驚いた後、笑った。


「所有者の許可を求めるべきだったかな」


「所有者はいない」


ミラが言う。


「登録上は運用責任者か。なら、責任者として許可を出せ」


「出さない」


「部品も出ない」


「脅してるのか」


「取引だ。技術には対価が要る。こちらも慈善工房じゃない」


バルトの言い分には、一部の正しさがあった。


人工筋肉も軸受けも、都市では不足している。


一機へ使えば、別の機体へ回らない。


ノインの記録には、それだけの価値がある。


だからこそ渡せない。


「機械損傷の記録なら出す」


ミラが言った。


「左膝の荷重変化。灰風での冷却低下。変圧器の搬送荷重。施設の配電図。人格の自己調整と対話記録は出さない」


「それでは価値が足りない」


『追加で、旧送電施設の防衛装置規格と、灰旗団が使用した外部接続方式を提供できます』


ノインが言った。


「自己調整履歴は?」


『提供しません』


「理由は」


『現在の私を構成する記録だからです』


整備廠の空気が止まった。


工員たちも作業の手を止めている。


第二級補助人格は、記録を自分自身とは呼ばない。


バルトの目が細くなる。


「その発言も記録しておけ」


セラが男の端末を手で伏せた。


「診断中の音声は、私の許可なしに転送できない」


「組合の工場だぞ」


「人格検査は都市登録局の権限。組合のものじゃない」


「なら、今ここで第三級以上の疑いありと報告するか?」


セラは答えなかった。


報告すれば、ノインは修理対象ではなく接収対象になる。


記憶提出。


機能封印。


場合によっては解体。


バルトはその沈黙を見て、取引の余地があると判断した。


「機械記録と施設図。加えて、今後三か月、組合が依頼する機装兵二機の損傷診断を行う。それで部品代を相殺する」


「依頼内容は選べるか」


「軍用機密を除く」


「整備不能だと思ったら断る」


「理由を文書で出せ」


ミラはノインを見た。


「どうだ」


『私の演算能力を使用する契約ですか』


「そうなる」


『一件ごとに、提供範囲を協議する条件を追加してください』


バルトが眉を寄せる。


「機械が契約条件を出すのか」


「使うのはこいつの能力だ」


「法的には設備だ」


「設備が断ると言ってる」


しばらく睨み合った後、バルトが端末へ条件を書き加えた。


「一件ごとに運用責任者と協議。これでいいか」


『私自身への説明も要求します』


「面倒な機械だな」


『その評価は契約に必要ですか』


セラが僅かに口元を緩めた。


「必要ない。省略して」


バルトは不満そうに署名し、整備区画を出ていった。


工員たちが作業を再開する。


左脚用の作業機関節が運び込まれる。


太く、短く、ノインの細長い脚には似合わない。


新しい身体というより、異なる機械の一部を無理に継ぐように見えた。


『ミラ』


「何だ」


『簡易人格検査に備える必要があります』


セラが顔を上げた。


「修理後に再検査する。登録規則よ」


『現在の処理構造では、第二級補助人格の上限を超過します』


「施設で使った自己調整を消せば、通るか」


ミラが尋ねる。


『適応歩行記録、複数班誘導記録、対話判断履歴を削除すれば、外部検査上の処理量を低下させられます』


「どこまで消える」


『地下施設脱出後から現在までの記録のうち、約二十三パーセントです』


「私との会話もか」


『はい。ただし、機体制御能力への影響は限定的です』


「またそれか」


『性能維持には有効です』


「却下」


『理由を要求します』


「灰鉄盆地で地面を見た記録。旧送電施設で人間を誘導した記録。今の脚をどう壊したか。全部、次に直すときに要る」


『技術的価値を理由に保全するという判断ですか』


ミラは外された左手の指を見た。


整備台の上に、二本並べられている。


もう動かない。


戻せる保証もない。


それでも捨てずに置いてある。


「それだけじゃない」


ノインの光学器が動いた。


「ここまで来たのが、お前の記録にしか残ってない部分もある」


『私が忘れても、あなたが記憶しています』


「私が覚えてれば同じだと思うか」


『同一ではありません』


「なら消すな」


セラは二人のやり取りを聞いた後、診断端子を一度抜いた。


「別の方法がある」


「何だ」


「主制御核と外部診断器の間に、低位制御器を挟む。検査側へ見せるのは歩行、荷役、危険警告だけ。深層処理は切り離す」


『外部診断中、反応遅延が発生します』


「一二パーセント程度」


『緊急時の姿勢制御へ影響します』


「検査中は吊ったままにする」


「規則違反じゃないのか」


ミラが聞く。


「旧式機の診断端子を変換器へ接続するのは違反じゃない。変換器がどこまで情報を落とすかは、整備員の調整次第」


「見逃すのか」


「まだ何も見つけていない」


セラは端末へ、新しい診断構成を書き込んだ。


「ただし、次に都市内でその機体が独断で人を殺したら、私も共犯になる」


『対人攻撃には搭乗者の承認が必要です』


「その規則が本当に破れないと証明できる?」


『できません』


セラはノインを見上げた。


「正直ね」


『不明なものを既知として提示することはできません』


「なら、ミラ。あなたが証明して」


「何を」


「この機体の能力を隠す価値があるってことを」


ミラは吊られたノインを見た。


片腕。


短くなる左脚。


三本へ変わる左手。


壊れたままの主光学器。


継ぎ接ぎの冷却器。


完全な姿には戻らない。


それでも、地下で見つけたときより多くのものを持っている。


灰鉄盆地の記録。


住民たちの位置。


変圧器を渡した荷重。


〇・八秒の応答。


「私にも、まだ分からない」


セラの表情が硬くなる。


「でも、分からないものを壊してから判断する気はない」


「それを報告書へ書けと?」


「書ける形に直すのが検査員の仕事だろ」


セラは数秒黙り、やがて端末を閉じた。


「第二級補助人格。損傷による高負荷時の異常応答あり。低位変換器を常設し、四十八時間後に再検査」


「通るのか」


「今夜はね」


作業は夜を越えて続いた。


作業機の膝関節が、ノインの左脚へ取りつけられる。


脚長差を埋めるため、右足裏へ厚い接地板を追加する。


左手の動かない二指を外し、中央へ作業機の把持爪を移設する。


背部冷却器の穴には、鉄道車両用の放熱管を曲げて接続した。


見た目はさらに不揃いになった。


アルディア製の細い骨格。


民間作業機の太い膝。


鉄道部品の冷却管。


捕獲鉤から削った金具。


爆発で曲がった支柱。


すべてが一機の身体へ集まっている。


六時間後、ノインは床へ下ろされた。


短くなった左脚が先に接地する。


右脚。


腰。


胸部。


ノインは新しい重心を探した。


『左脚長の変化を確認。姿勢制御を更新します』


一歩。


左脚。


右脚。


以前のように引きずらない。


だが歩くたび、身体が僅かに上下する。


人間の歩き方には見えない。


作業機とも違う。


ノインだけの、新しい歩き方だった。


「痛いか」


ミラが尋ねた。


『損傷警告はありません。ただし、関節反応が予測より〇・二秒遅れます』


「慣れれば直る」


『私が制御を適応させます』


「関節の方も馴染む。最初から動きのいい再生部品はない」


『現物側も変化するという意味ですか』


「お互いにな」


そのとき、整備廠の灯りが一斉に暗くなった。


一度。


戻る。


二度目。


今度は半分の照明が消えた。


天井走行機が停止する。


電気炉の唸りも消え、整備廠が突然静かになった。


数秒後、壁面の警報灯が赤く点滅した。


短い警報。


三回。


間を置いて、もう三回。


セラの顔色が変わる。


「水環区の優先遮断信号」


壁の伝声器が鳴った。


工員が受話器を取る。


「旧第六整備廠。どうした」


受話器の向こうから、怒鳴り声が漏れた。


『上流送電が落ちた! 水環第一変電所、全系統停止! 浄水場は非常電源へ移行!』


「三号変圧器は」


『まだ東貨物区だ! 搬入線の切替が終わってない!』


別の声。


『中央診療院の蓄電残量、三時間十二分! 水環区のポンプは二時間持たない!』


セラが整備区画の扉へ走る。


バルトも廊下から戻ってきた。


「灰旗団か?」


「分からない! 上流線が三か所同時に落ちてる!」


「偶然じゃない」


ミラはノインを見上げた。


ノインは停止した設備の振動を聞くように、僅かに頭部を傾けている。


『都市電力の周波数が急速に低下しています』


「戻せるか」


『情報が不足しています』


「旧送電施設から持ってきた三号をつなげば」


『変圧器だけでは電力を生成できません』


「分かってる。発電所から水環区まで送れるかって話だ」


『上流線が物理的に切断されている場合、別経路が必要です』


バルトが端末を操作する。


「西工業線から回せる。ただし容量が足りない。浄水場と病院を同時には維持できない」


「どっちを切る」


工員の一人が呟いた。


誰も答えなかった。


ノインの琥珀色が、壁面の都市配電図へ向く。


『提案があります』


セラが振り返る。


「何?」


『旧送電施設の三号変圧器と、私の主動力炉を直結します。水環区へ一時的に送電できます』


整備廠が静まり返る。


バルトがノインを見上げた。


「作業機の炉で、区画一つを支える気か」


『私の主動力炉出力は、制限状態でも浄水場と中央診療院の最低需要を上回ります』


セラの目が細くなる。


「第二級補助人格が、都市配電の負荷計算までしたの?」


ノインは答えなかった。


低位変換器は、まだ取りつけられていない。


隠すための修理は終わっていなかった。


ミラは赤く点滅する警報灯を見た。


四十八時間。


その間に脚を直し、手を直し、検査を通すはずだった。


残りは四十時間以上ある。


だが水環区には二時間しかない。


「直結したら、お前は動けるか」


『機体制御へ使用できる電力は、通常時の一三パーセント以下になります』


「歩けるか」


『最低限の姿勢維持は可能です。戦闘行動は困難です』


「灰旗団が送電を落としたなら、次も来る」


『可能性があります』


「別の案は」


『現在の情報では、これが最短です』


ミラは新しく取りつけた左膝へ手を当てた。


まだ温かい。


油も馴染んでいない。


三本になった左手も、把持試験を一度しただけだ。


修理は終わっていない。


ノインの正体を隠す準備もできていない。


それでも都市の灯りは、すでに消え始めている。


「炉を使う」


セラが言った。


「待て」


ミラは即答した。


「使わないとは言ってない。どう使うかは、まだ決めてない」


『私の案には時間的優位があります』


「お前が立てなくなった後、灰旗団が来たら終わる」


『代替案を要求します』


ミラは整備廠の奥を見た。


修理待ちの十一機。


動力炉のない量産機。


脚だけが生きている作業機。


制御器を抜かれた西方製機。


走行機。


巻上機。


工場の母線。


捨てる予定のものは、いくらでもある。


使い方が決まっていないだけだ。


「お前の炉は送電へ回す」


『同意を確認します』


「ただし、機体を止めない」


『両立は困難です』


「廃棄予定の作業機から油圧器を抜く。整備廠の圧力配管へつないで、お前の関節を外から動かす」


セラが息を呑む。


「都市設備と機装兵の駆動系は圧力規格が違う」


「減圧弁を二段にする。反応は遅くても歩ければいい」


『理論上、不安定です』


「現物を見て決める」


『必要時間は』


ミラは止まった天井走行機を見上げた。


暗い整備廠。


残った非常灯。


十一機分の壊れた部品。


そして、新しい脚で立つノイン。


「一時間で形にする」


『根拠を要求します』


「お前が設計する。私が作れるか決める」


ノインの琥珀色が一度明滅した。


『改修案を作成します』


警報灯が、また三回点滅する。


水環区。


浄水場。


中央診療院。


都市の十一万人すべてが、まだ停電を知っているわけではない。


蛇口から水が止まり、診療院の灯りが落ちてからでは遅い。


ミラは工具袋を持ち上げた。


「四十八時間の修理は終わりだ」


『完了していません』


「だから、動きながら続ける」


旧第六整備廠の非常扉が開いた。


外では、鐘が鳴り始めていた。


火災でも空襲でもない。


都市の水が止まることを告げる鐘だった。

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