特例外出許可・四十八時間
朝までに、捕獲鉤は膝の部品になった。
回収業者がノインの掌へ撃ち込んだ鋼の鉤を、ミラは夜通し削った。
留置場の監視所から借りた手回し研削器は軸がぶれ、一周するたび甲高い音を立てた。火花避けの覆いもなかったため、ミラは壊れた装甲車の扉を立て、灰を被せた毛布で周囲を囲った。
鉤の曲がった先端を切り落とす。
穴を広げる。
支持桁へ合わせて側面を削る。
最後に、左膝の帯鋼を留める補助金具として噛ませた。
正規部品とは呼べない。
それでも、作業機から剥がした帯鋼だけで支えていた昨日よりはましだった。
ミラは締結具を二度叩いた。
高く澄んだ音が返る。
「左脚へ荷重をかけろ」
ノインの右脚が僅かに沈み、固定された左脚へ重量が移る。
捕獲鉤から作った補助金具が軋んだ。
割れない。
ずれない。
『左膝固定部の横方向変位、〇・六ミリメートル』
「昨日はいくつだった」
『同荷重で一・九ミリメートルです』
「なら使える」
『使用可能期間は算出できません』
「今日一日持てばいい」
『任務の所要時間は不明です』
「だから今日一日だ」
『論理が成立していません』
「整備の願掛けに論理を求めるな」
『願掛けは修理手順ですか』
「違う」
『では、記録から除外します』
「そうしろ」
ミラは膝装甲から飛び降りた。
着地と同時に足元が揺れた。
睡眠は一時間も取っていない。
空腹も昨日からほとんど変わっていない。
それでも、ノインの脚は立っている。
なら、眠る理由はなかった。
留置場の入口から、三台の車両が入ってきた。
先頭は都市防衛隊の装輪車。
後ろに、巻上機を積んだ回収用牽引車が二台。
どの車体も継ぎ接ぎだった。
都市防衛隊の車両には左右で異なる型の車輪がつき、後部装甲には古い砲弾痕が残っている。
回収車の一台は運転席の扉がなく、代わりに鎖を張って人が落ちないようにしていた。
装輪車から、灰色の外套を着た女が降りた。
三十代半ば。
短く切った黒髪の左側に、火傷の痕がある。肩には都市防衛隊の小隊長章がついていた。
女はノインを一度見上げ、それから足元の白い枠を確認した。
「ミラ・ハーシェル」
「そうだ」
「都市防衛隊第三外縁小隊長、エルナ・ライツ。今回の現場指揮を執る」
エルナは紙束を差し出した。
「任務説明の前に、契約条件を確認する」
「昨日の紙なら読んだ」
「昨日渡したのは募集票だ。これは契約書だ」
ミラは一枚目をめくった。
目的。
旧第四送電中継所から、三号変圧器を回収すること。
地点はリーヴァ北東十四・二キロメートル。
搬出対象の重量、二十二・四トン。
報酬は募集票と同じだった。
ミラの暫定居住資格。
ノインの作業機仮登録。
旧第六整備廠での緊急修理四十八時間。
燃料。
格納場所。
二枚目には、同行人員が記されている。
都市防衛隊八名。
民間回収員六名。
車両三台。
さらに、小型運搬機一機。
三枚目からは、文字が細かくなった。
「長いな」
「重要なのは五枚目だ」
ミラは五枚目を開いた。
任務中断時の費用負担。
車両損失。
人員損害。
回収物の所有権。
そして、その下。
《契約履行不能時、使用機装作業機を損失補填資産として都市管理下へ移管する》
ミラは紙を閉じた。
「受けない」
エルナは表情を変えなかった。
「説明を最後まで聞け」
「聞く必要がない。失敗したらノインを取ると書いてある」
『事実です』
ノインが外部音声で答えた。
エルナの後ろにいた兵士が顔を上げた。
「定型音声だ」
ミラは言った。
『訂正します。契約文書の内容を確認した結果です』
「黙ってろ」
『了解しました』
エルナはノインをしばらく見ていた。
「昨日の検査報告より流暢だな」
「一晩で接触不良を直した」
「そういうことにしておく」
エルナは契約書をミラへ戻した。
「都市は、保証人も所有証書もない機体を外へ出す。戻らなければ、車両と人員を失う。担保を求めるのは当然だ」
「戻らなかった機体を、どうやって管理下へ置く」
「機体だけ残った場合だ」
「私が死んで、ノインが戻ったら、都市が取るのか」
「書類上はそうなる」
「なら、なおさら受けない」
『ミラ』
ノインの声は搭乗区画内だけに切り替わった。
『契約を受けなければ、三日後に所有権審査へ移行します。受諾した場合、修理設備を得られる可能性があります』
「お前を担保にしてか」
『私は現在も都市留置物として扱われています。法的状況の悪化は限定的です』
「そういう話じゃない」
『では、何の話ですか』
「昨日と同じだ。私が勝手に、お前を失敗の支払いに使うなって話だ」
ノインは沈黙した。
エルナには内部の会話は聞こえていない。
だが、ミラが返答を待っていることには気づいたらしい。
「その機体は、契約を理解しているのか」
「姿勢制御器にしては賢い」
「昨日の検査員も、同じようなことを言っていた」
「何が言いたい」
「何も。今はな」
エルナは契約書の五枚目を抜き取った。
紙を折る。
腰の小さな炉へ差し込む。
火が縁から広がり、文字を黒くした。
「担保条項は外す」
後ろの兵士が驚いた。
「小隊長、登録局の承認がありません」
「現場指揮官の裁量で、任務資産の補償方法を変更する」
エルナは新しい紙を出した。
「代わりに、機体と搭乗者を一つの外部搬送班として扱う。任務を放棄した場合、報酬は出ない。故意に回収物を損なえば、その後五年間、都市契約を受けられない」
「それだけか」
「人を死なせれば、普通に裁かれる」
「分かりやすい」
「ただし、機体の所有権問題は解決しない。今回の外出許可は、四十八時間限定の特例だ」
「十分だ」
ミラは新しい契約書へ目を通した。
所有者の欄はない。
代わりに、《運用責任者》と《使用設備》の欄がある。
運用責任者、ミラ・ハーシェル。
使用設備、名称不明機装作業機一機。
ノインという名を書く場所はなかった。
だが、売却担保の文字もなかった。
ミラは署名した。
『契約条件を確認します』
「声を出していい」
『任務目的は、旧第四送電中継所から三号変圧器を回収し、リーヴァへ搬入すること。任務中の経路選択と機体制御については現場指揮官の命令に従う。機体の整備判断は運用責任者が行う。正確ですか』
エルナが答える。
「正確だ。ただし、人員の安全に関わる場合、私の退避命令を優先する」
『私の搭乗者に対する退避命令も含まれますか』
「含む」
『ミラが拒否した場合は』
エルナがミラを見た。
「抱えてでも運べ」
「私を荷物にするな」
『左手による保持が可能です』
「お前も真に受けるな」
エルナは初めて、僅かに笑った。
すぐに消えた。
「契約の次は、実行能力の確認だ」
回収車から、太い腕をした男が降りた。
四十代後半。
革の前掛けをつけ、右手の小指と薬指がない。
男はノインの左膝へ近づき、許可も求めず補助金具を蹴った。
ミラはその足首を解体棒で払った。
「触るな」
男が一歩よろめいた。
「壊れた機体に二十二トンの仕事ができるか見てる」
「蹴って分かるなら、お前の頭も蹴って調べるか」
「口だけは正規兵並みだな」
「正式資格のない下級技術兵だ」
「もっと悪い」
男は前掛けの胸元を叩いた。
「民間回収組合のドーマ・ゲルツ。変圧器を外すのは俺たちだ。運ぶのも俺たちだ。お前の機体には、通路の瓦礫を退けてもらう」
「二十二トンを持ち上げろとは言わないのか」
「その片腕で持てるなら、見せてくれ」
『現在の左腕安全荷重は三・八トンです』
ノインが答えた。
「正直で結構」
ドーマは回収車を指した。
後部には二基の巻上機が並んでいる。
「変圧器は施設内の搬送台へ載ってる。台の車輪が生きていれば、こいつで引く。死んでれば、そりへ載せ替える。機装兵は前方で牽引索を支え、傾きを抑える」
「施設の床は」
「図面じゃ最大荷重五十トン」
「二十七年間、爆撃と水に耐えた後もか」
「それを調べるのは現場に入ってからだ」
「最初の回収班は」
ドーマの顔から軽さが消えた。
「六日前に入った。四人と牽引車一台。通信は施設へ入って十二分後に切れた」
「死体は」
「確認してない」
「自動防衛装置が撃ったのか」
エルナが答えた。
「可能性が高い。施設は終戦前、軍の送電設備に指定された。内部に対人砲台と保安隔壁がある」
「識別信号は」
「旧軍の保守班信号を用意した」
『有効性を保証できません』
ノインが言った。
エルナの視線が上がる。
「理由は」
『三か月以上無通電だった設備が再起動した場合、認証時刻、命令系統、敵味方情報のいずれかに不整合が発生します。保守班信号を旧軍資産への侵入と判定する可能性があります』
ドーマが鼻を鳴らした。
「作業機の割に、防衛装置に詳しいな」
『軍用設備の保守補助記録を保持しています』
「便利な定型音声だ」
ミラはドーマを見た。
「使えるものを疑ってる余裕があるのか」
「使えるか確かめるところだ」
エルナが留置場の奥へ合図した。
兵士二人が手動切替器を操作し、ノインの足首につけられた封印帯を解除する。
黄色い帯が外れた。
〇・四秒遅れていた信号が戻る。
ノインの身体が僅かに姿勢を変えた。
右脚。
腰。
左肩。
遅延を補うため不自然に固めていた関節が、順番に緩む。
『歩行制御を回復しました』
「試験場へ移動しろ」
エルナが指した先には、短い貨物線が残っていた。
線路上に、平たい重量台車が置かれている。
上には鋳鉄塊が積まれていた。
「重量二十二トン。変圧器の代わりだ」
ミラは台車の車輪を見た。
四軸。
軸受けの油は乾いている。
牽引索は二本。
一本は新しい。
もう一本は表面が毛羽立っていた。
「この索は使わない」
ドーマが答える。
「昨日まで使ってた」
「だからだ。内側が切れてる」
「見ただけで分かるか」
ミラは索の中央を曲げた。
表面の編み線が開く。
中から、赤く錆びた芯線が覗いた。
「これで二十二トンを引けば、最初の衝撃で切れる」
ドーマの顔が険しくなる。
回収員の一人へ振り返った。
「誰が出した」
「第二倉庫です。荷重札は残ってました」
「札を信じたのか」
「昨日、小型車を引けました」
ミラは索を地面へ落とした。
「小型車を引ける索と、二十二トンを動かす索は同じじゃない」
ドーマは返答せず、新しい索をもう一本出させた。
ミラが折り曲げ、油の状態を見る。
今度は使える。
「試験を始める」
エルナの合図で、二台の回収車が台車の後方へついた。
ノインは前方。
左手で二本の牽引索をまとめ、胸部の高さへ保持する。
片腕で引くのではない。
索の角度を一定に保ち、台車が左右へ振れないよう支える役目だった。
ミラは搭乗席へ入った。
固定帯を締める。
「左腕へどれくらい来る」
『発進時、最大二・六トン。台車が直進すれば一・一トンまで低下します』
「膝は」
『索を胸部中央で保持すれば、左脚への横荷重は許容範囲です』
「地面が平らならな」
『はい』
エルナが旗を上げた。
回収車の巻上機が動く。
索が張る。
台車の車輪が軋んだ。
動かない。
巻上機の音が高くなる。
『牽引力三・二トン。台車静止』
「右前の車輪だ」
ミラは正面表示の狭い映像を見た。
車輪と線路の間に、錆びた留め金が噛んでいる。
「停止させろ」
『停止を要求します』
ノインが外部へ伝える。
巻上機が止まった。
ドーマが台車の下を覗く。
「制動片が戻ってない」
「叩けば外れる」
「誰が行く」
「私だ」
ミラは搭乗口を開けた。
『台車の牽引索には残留張力があります』
「分かってる」
『索が破断した場合、作業位置へ跳ね返ります』
「張力を抜け」
ドーマが回収車へ指示を出し、巻上機を僅かに戻した。
索が緩む。
ミラは線路へ降りた。
台車の下へ潜り込む。
制動片は錆び、車輪の内側へ食い込んでいた。
解体棒を当てる。
一度。
動かない。
二度。
錆が落ちる。
三度目で、制動片が外れた。
その瞬間、台車が動いた。
緩んでいたはずの牽引索が一気に張る。
右側の回収車が後ろへ引かれた。
巻上機の制動爪が滑っている。
台車は緩い下り勾配へ乗った。
二十二トンの鋳鉄が、ミラの頭上で動き始める。
『ミラ、退避してください』
「車輪止めを!」
回収員が木製の車輪止めを投げ込む。
台車の前輪が砕いた。
速度が上がる。
進行方向には、留置場の監視所がある。
兵士が二人。
燃料缶が積まれた荷車。
その先は都市壁だった。
ミラは台車の下から這い出した。
索の一本が足元を跳ねる。
ノインの左手が牽引索を握った。
片腕へ急激に荷重がかかる。
表示器に警告が走る。
『左腕荷重、五・八トン。安全域を超過』
「腕で止めるな!」
『他の制動手段を提示してください』
ミラは線路を見た。
台車の先。
二十メートル先に、使われていない分岐器がある。
左は監視所。
右は土砂を積んだ引込線。
分岐器の転換桿は倒れたまま動かない。
だが、軌条そのものは生きている。
「右の引込線へ入れろ!」
『分岐器は左方向へ固定されています』
「先端を壊せ。左足で転換桿の根元を踏め」
『距離十一・三メートル。牽引索を保持したまま移動すれば、左膝へ横荷重が発生します』
「補助金具は持つ」
『根拠を要求します』
「私が朝まで削った!」
『技術的根拠ではありません』
「金具じゃない。支持桁の荷重方向を見ろ。腕を張ったまま、胸を右へ回せば、力は右脚へ逃がせる」
ノインの腰が回る。
左肩を前へ出す。
牽引索の角度が変わる。
左膝の荷重表示が一度跳ね、下がった。
『荷重経路を修正しました』
「行け!」
ノインが右脚を踏み出す。
台車に引かれながら、分岐器へ向かう。
固定された左脚を地面へ滑らせる。
一歩。
二歩。
左手の人工筋肉束が軋む。
掌の装甲に残っていた亀裂が広がる。
『左手第一指、駆動率低下』
「握るのは三本でいい。親指を外せ」
『把持安定性が低下します』
「索を掌へ巻け。指で持つな」
ノインが手首を回す。
二本の索が左前腕へ巻きつく。
指の荷重が減る。
代わりに、剥がれた装甲へ鋼索が食い込んだ。
分岐器まで三メートル。
転換桿は、錆びた箱の中から斜めに突き出している。
「左足を上げろ」
『膝は屈曲できません』
「腰から振れ」
左脚が半円を描く。
足裏が転換桿の根元へ当たった。
「踏め!」
ノインが体重をかける。
転換桿の箱が潰れた。
内部の連結棒が外れ、分岐器の先端軌条が動く。
完全には切り替わらない。
指二本分の隙間を残して止まった。
「足りない。もう一度」
『台車までの距離、七・二メートル』
「間に合う」
『成功の保証はありません』
「分かってる!」
ノインが左足を持ち上げた。
二度目。
転換箱を踏み抜く。
先端軌条が右へ動いた。
台車の前輪が分岐へ到達する。
一軸目が右へ入る。
二軸目。
三軸目。
最後の車輪が激しく跳ねた。
台車全体が右へ曲がる。
牽引索がノインの腕から外れ、地面を打った。
二十二トンの台車は引込線へ突っ込み、積まれていた土砂の山へ車輪を沈めた。
鋳鉄塊が一つ、台車から落ちる。
地面が揺れる。
それきり、動かなかった。
監視所まで残り十二メートル。
燃料缶は無事だった。
誰も潰されていない。
ノインは左手を下げた。
索が食い込んだ前腕から、黒い潤滑液が流れている。
『台車の移動を停止しました』
ミラは線路脇へ座り込んだ。
息が切れていた。
自分が押したわけでもないのに、腕が震えている。
ドーマが台車と潰れた転換器を交互に見た。
「俺の試験場を壊したな」
ミラは顔を上げた。
「監視所へ突っ込ませるより安い」
「分岐器一式だぞ」
「二十七年物の錆びた分岐器だ」
「直せるか」
「部品を出せばな」
ドーマはしばらく黙っていた。
やがて、台車の下へ入り、滑った制動機構を確認する。
巻上機の制動爪を取り出す。
表面には、古い亀裂があった。
「こいつも見落としてた」
「昨日まで動いてたんだろ」
「動いてた」
「なら今日も動くと思った」
「そうだ」
ドーマは亀裂を親指で撫でた。
「お前は気づいたか」
「動くまでは分からなかった」
「偉そうに言うな」
「分からなかったものは分からない」
ドーマは鼻を鳴らした。
だが、今度は笑っていた。
「現場でそれを言える奴なら、まだ使える」
エルナがノインの左前腕を見上げる。
「機体の損傷は」
『左前腕外装の亀裂拡大。人工筋肉束二本に表面損傷。左手第一指の出力が一二パーセント低下しました』
「任務へ出られるか」
『可能です』
ミラは立ち上がった。
「私がまだ見てない」
エルナがこちらを見る。
「ノインが可能だと言っている」
「自分を動かせるかは分かっても、索が筋肉束をどこまで削ったかは見えない」
『内部圧力は正常です』
「外皮が裂けてたら、灰が入る。施設内で切れるかもしれない」
『移動開始まで四十六分です』
「二十分で見る」
『先ほど、今日一日持てばいいと判断しました』
「状況が変わった」
『了解しました』
ミラはノインの腕へ登った。
索の痕へ指を入れる。
装甲の下。
一本目。
傷は浅い。
二本目。
外皮が削れている。
だが、芯までは届いていない。
絶縁布を巻く。
その上から薄い鋼板を当て、細線で縛る。
左手第一指の駆動索は、掌側で引っかかっていた。
位置を戻す。
油を差す。
指が一度曲がる。
『出力低下、四パーセントまで改善』
「任務へ出られる」
『先ほどと結論は同じです』
「根拠が増えた」
『重要な差異です』
「そういうことだ」
出発準備が再開された。
壊れた索は捨てられた。
巻上機の制動爪は交換された。
重量台車の代わりに、実際の回収用そりが牽引車へ連結される。
都市防衛隊員八名が弾薬を確認する。
民間回収員六名が切断器、油圧持上機、滑車、鎖を積む。
小型運搬機は、二脚を不規則に動かしながら荷台の後ろへついた。
最後に、エルナがノインの足首へ新しい黄色い札を取りつけた。
封印帯ではない。
《特例外出許可・四十八時間》
所有者の名はない。
運用責任者の欄に、ミラの名だけが記されている。
「門を出たら、私の命令系統へ入る」
エルナが言った。
「任務目的に反しない限りな」
ミラが答える。
「契約書に異議権は書いてない」
「書いてなくても、壊れる動かし方を命じられたら止める」
『整備上の危険については、ミラの判断を優先することを推奨します』
エルナはノインを見上げた。
「お前は誰の命令を聞く」
『任務中の経路、人員配置、退避については、現場指揮官の命令に従います。機体制御は私が行います。損傷状態から実行不能と判断した場合、ミラへ整備判断を要求します』
「ずいぶん面倒な作業機だ」
『面倒という評価は、任務遂行に必要ですか』
ミラは額へ手を当てた。
エルナは笑わなかった。
「必要ない。省略する」
『合理的です』
南外縁の門が開いた。
車両が一台ずつ外へ出る。
灰鉄盆地の風は、昨日より弱かった。
空には低い雲が広がり、遠くの山肌まで見える。
ノインは車列の中央へ入った。
先頭に都市防衛隊の装輪車。
次にノイン。
後ろへ二台の回収車と小型運搬機。
片寄った足音と、車輪の音が並んだ。
昨日まで、ノインとミラは二人だけで進んでいた。
今は十四人と三台の車両がいる。
それでも、誰もノインの正体を知らない。
誰もミラを正式な整備士とは認めていない。
一つ判断を誤れば、都市へ戻る権利も失う。
旧第四送電中継所が見えたのは、昼を大きく過ぎてからだった。
盆地北東の岩山を削り、半分を地中へ埋めた施設。
地上に見えるのは、変電設備の骨組みと、二本の送電塔。
送電線は切れ、黒く垂れている。
正面門は閉じていた。
その前に、回収車が一台残されている。
六日前に入った班の車両だ。
運転席は空だった。
扉は開いている。
荷台の工具は、そのまま残っている。
人だけがいない。
エルナが拳を上げ、車列を止めた。
「周辺警戒。遺体と足跡を探せ」
隊員が散開する。
ドーマは置き去りの回収車へ近づき、機関部へ触れた。
「燃料は残ってる。故障で捨てたんじゃない」
ミラは地面を見た。
複数の足跡が正面門へ向かっている。
四人分。
戻ってきた跡はない。
その脇に、別の靴跡があった。
底の模様が違う。
新しい。
施設へ向かう足跡が六人分。
こちらも戻っていない。
「先の班だけじゃない」
エルナがしゃがみ込む。
「いつの跡だ」
「昨日か、一昨日。灰風の後だ」
「回収業者か」
「軍靴だ。踵に鋲がある」
エルナの表情が硬くなった。
現在の都市防衛隊は、鋲付きの旧軍靴を使わない。
ノインの補助光学器が、閉じた正面門を向いた。
『微弱な認証信号を受信しています』
「施設の防衛装置か」
『一つは旧軍保安系統です。もう一つは規格が一致しません』
「誰かが通信してる?」
『暗号化されています』
エルナが隊員へ退避位置を指示した。
「保守班信号を出す。全員、遮蔽物へ」
携帯認証器が起動する。
旧軍の保守信号が、閉じた門へ送られた。
数秒。
反応はない。
その後、施設上部の監視窓で赤い光が灯った。
一つ。
二つ。
三つ。
外壁の装甲板が開く。
中から、細い砲身がせり出した。
「伏せろ!」
全員が地面へ飛び込んだ。
砲台は撃たなかった。
赤い光が車列をなぞる。
ノインの胸部で止まる。
旧軍規格の認証信号が、強くなる。
『私に対して、所属照会が行われています』
「第二級作業機として返せ」
『その識別情報は正式な軍用認証ではありません』
「偽装できるか」
『可能です。ただし、施設側の保安人格が追加質問を行う場合があります』
「答えられなければ」
『攻撃を受けます』
エルナが低い声で尋ねた。
「対応できるか」
ノインはすぐには答えなかった。
補助光学器の琥珀色が、赤い照準光を正面から受けている。
搭乗区画の表示器に、別の情報が現れた。
施設内熱源。
外壁の奥。
地下方向。
一つではない。
十七。
小さなものも含まれている。
機械の熱ではない。
人間の体温だった。
ノインの声は、ミラにだけ届いた。
『施設内部に生体反応があります』
ミラは閉じた門を見た。
取り残された回収班か。
新しい軍靴の者たちか。
それだけでは数が合わない。
「エルナには言うな」
『理由を要求します』
「まだ正確な数を見せられる理由を説明できない」
『生体反応の存在は、任務計画へ影響します』
「分かってる。私から別の根拠を作る」
『虚偽の根拠ですか』
「現物を探す」
ミラは回収車の運転席を見た。
開いた扉。
残された工具。
食料袋だけがない。
血もない。
争った痕もない。
四人は、自分で施設へ入った。
そして戻っていない。
正面門の下には、僅かな隙間があった。
そこから、細い水の筋が流れ出している。
水は濁っていない。
つい最近、内部の配管が使われた水だ。
ミラはエルナへ言った。
「中に人がいる」
「根拠は」
「排水が新しい。回収班が入って六日経ってるのに、工具も食料以外は残ってる。生きてる奴が施設の水を使ってる」
エルナは水の筋へ触れた。
指先を嗅ぐ。
「油は混じっていない」
「生活排水に近い」
ノインが内部音声で言った。
『あなたの推定は、生体反応と一致します』
「なら覚えろ」
『記録します』
施設の砲台が、再び動いた。
砲身が下がる。
照準先はノインではない。
置き去りにされた回収車の陰。
そこには、都市防衛隊員が一人伏せている。
『所属照会の猶予、推定八秒です』
エルナが銃を構えた。
「作業機。施設の質問へ答えろ」
ミラは操縦席へ滑り込んだ。
固定帯を締める。
「ノイン。中の人間を撃たせるな」
『任務目的は変圧器の回収です』
「分かってる」
『生体反応の救助は、契約に含まれていません』
「それも分かってる」
『では、現在の優先目的を要求します』
砲台の照準光が、伏せた隊員の背中で止まる。
ミラは操縦桿を握った。
「まず、扉を開ける」
『その後は』
「中を見て決める」
ノインは一秒だけ沈黙した。
『所属偽装を開始します』
旧軍の認証信号が、ノインの胸部から送られる。
閉じた門の向こうで、何かが応答した。
戦争が終わって三か月。
それでも旧軍の設備は、正しい所属と、正しい命令を求めている。
ノインが返したのは、どちらでもなかった。
生き残るために作られた、偽りの名前だった。




