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灰鉄のノイン~十三メートルから始まる機装兵戦記~  作者: 本の寄生虫
第一章 灰鉄盆地と自治都市リーヴァ

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3/23

検問

リーヴァの壁は、城壁ではなかった。


貨物列車の車体。


潰れた装甲車。


工場から運び出された鉄骨。


土を詰めた鋼板箱。


それらを隙間なく並べ、溶接し、倒れないよう後ろから支柱を当てたものだった。


高さも材質も揃っていない。


ところどころに戦前の煉瓦壁が残り、その上へ軍用鉄板が継ぎ足されている。列車の窓をそのまま銃眼にした場所もあった。


新品の部材は一つも見当たらない。


それでも壁は立っていた。


灰風の向こうに浮かぶその姿を見て、ミラは初めて、ここならノインを直せるかもしれないと思った。


都市の南側には、入城を待つ列ができていた。


荷車を引く家族。


痩せた騾馬を連れた商人。


荷台へ廃部品を積んだ回収業者。


武装解除済みを示す白布を砲身へ巻いた装甲車。


人間用の列と車両用の列に分かれ、どちらも壁沿いに長く伸びている。


ノインが近づくと、列の後方から人が離れた。


逃げたわけではない。


道を空けただけだ。


だが、こちらへ背を向ける者はいなかった。


誰もがノインの右肩を見た。


剥がれた装甲を見た。


固定された左膝を見た。


そして、武器が本当にないのか確かめるように、残った左手を見た。


『周囲の人間が、私から平均四・七メートル以上の距離を取っています』


「数えなくていい」


『接触事故の回避に必要な情報です』


「怖がられてるだけだ」


『私が危険と判断されているという意味ですか』


「九メートルの軍用機が片腕をなくして歩いてくれば、普通は警戒する」


『私は軍用機ではないと申告する方針でした』


「声を出すな」


『理由を要求します』


「作業機が勝手に質問するな」


ノインは沈黙した。


正面表示の隅に、文字だけが浮かぶ。


《音声出力を停止します》


「そういうのも出すな」


文字が消えた。


車両列の先には、二本の遮断柱が立っていた。


その間を鋼索が横切り、脇には機装兵用の検査架台がある。検査架台と言っても、巨大な門型の骨組みに、放射計、熱量計、重量計、信号探知器を寄せ集めただけのものだった。


門の上には、塗り直された文字が掲げられている。


《自治都市リーヴァ南外縁検問所》


その下に、さらに小さな札がある。


《武器、軍用制御器、認証鍵、未登録動力炉の申告を怠った者は、物資と車両を没収する》


ノインが列の最後尾へつくと、前にいた回収車の男が振り返った。


灰除けの眼鏡越しに機体を眺め、荷台の部品と見比べる。


「そいつ、歩くのか」


「ここまで歩いてきた」


「右腕なしで?」


「見れば分かるだろ」


男は左膝の支持桁へ目を細めた。


「作業機にしちゃ脚が細いな」


「古い試験型だ」


「どこの工場だ」


「潰れた」


「製造札は」


「焼けた」


男は鼻で笑った。


「全部なくして、都合よくここまで来たってわけか」


「そっちの荷台にも、製造札を剥がした関節が三つ載ってる」


男の笑いが止まった。


荷台の奥に積まれた関節部品には、識別面を削った跡がある。


「余計なところを見る整備屋だな」


「売るなら削り跡をもっと汚せ。新しすぎる」


前方で列が動いた。


男は何も答えず、回収車へ乗り込んだ。


ノインが一歩進む。


左膝の帯鋼が鳴る。


検問所の防衛兵たちが一斉にこちらを見た。


銃を向ける者はいない。


だが、壁上の機関砲が僅かに旋回した。


ミラはその動きを見なかったことにした。


列が進むのに、二時間かかった。


途中でノインの右股関節温度が上がり、三度停止した。


後ろに並んだ者から罵声が飛んだが、動かして関節を焼くよりましだった。


ようやく遮断柱の前へ着いたころには、太陽が壁の向こうへ沈み始めていた。


検問官は五十代ほどの男だった。


軍服に似た灰色の上着を着ているが、肩章はない。胸元には都市防衛隊と登録局、二つの金属札が下がっていた。


男は手元の板へ視線を落としたまま尋ねた。


「人員、何名」


「一名」


「車両、一機」


「機装作業機、一機」


男が顔を上げた。


「作業機」


「そうだ」


「型式」


「不明」


「製造所」


「不明」


「識別番号」


「損傷で読めない」


男はノインの腰部へ視線を向けた。


試験標章のあった装甲は、灰鉄盆地で外している。だが骨格の刻印までは消せていない。


「読めないのか。読みたくないのか」


「どっちでも、今は同じだ」


「ここでは違う」


男は板の上へ何かを書いた。


「搭乗者の身分証」


ミラは旧軍の認証札を出した。


地下で死者の札は拾わなかった。


これは自分のものだ。


角が欠け、表面は工具袋の中で擦れている。


男は認証札を受け取り、裏面まで見る。


「アルディア軍機装兵整備部隊。下級技術兵、ミラ・ハーシェル」


「元だ」


「除隊証明は」


「軍が消えた」


「敗戦は除隊手続きじゃない」


「死んだ上官に書かせてくるか?」


男は顔色を変えなかった。


「この身分証は失効している。本人確認の参考にはなるが、入城資格にはならない」


「登録居住者を申請する」


「保証人は」


「いない」


「雇用契約」


「ない」


「市内居住者からの招請状」


「ない」


男は板へ三本、横線を引いた。


「人間の方は保護対象者として一時申請できる」


「機体は」


「別だ」


男はノインを見上げた。


「所有証書を出せ」


ミラは黙った。


「拾得記録でもいい。軍からの譲渡証。工場の払い下げ証。回収組合の取得証明。何かあるか」


「ない」


「なら、これはお前の機体じゃない」


搭乗区画の表示器に文字が浮かんだ。


《事実と一致します》


ミラは表示器を叩いた。


「黙ってろ」


検問官が眉を寄せる。


「今、誰に言った」


「姿勢制御器だ。警告がうるさい」


「音声式か」


「古い機体にはある」


「古い割に流暢だな」


「整備用の定型文だけだ」


検問官は板を脇の兵士へ渡した。


「制御検査へ回せ」


遮断柱の横から、細身の女性検査員が出てきた。


工具箱ほどの検査器を台車へ載せている。


髪を後ろで結び、油染みのついた白い外套を着ていた。医者というより、計測器の整備士に見える。


検査員はノインの胸部を見上げた。


「制御端子は」


「胸部右側。装甲を外してある」


「制御人格の等級」


「第二級補助人格」


本当なら第四級設計人格。


第三級以上は、都市での使用を原則禁止されている。


第四級なら、検査では済まない。


制御核の接収。


記憶領域の提出。


機能封印。


場合によっては解体。


女性検査員は台車から太い信号線を引き出した。


「第二級なら、状況報告、姿勢制御、規定内の経路選択まで。独立した任務解釈や自己改変はできない。合ってる?」


「合ってる」


《不正確です》


表示器に文字が出た。


ミラはもう一度叩く。


「出すなと言っただろ」


文字が消える。


検査員が目を細めた。


「表示器に何が出たの」


「左脚の荷重警告」


「こちらから見せて」


「表示器が壊れてる。角度を変えると消える」


「今は消えたわね」


「壊れてるからな」


検査員は何も言わず、信号線を胸部端子へつないだ。


ノインの内部で接続警告が出る。


『外部診断回線を確認』


声は搭乗区画の内部だけに流れた。


「音声を外へ出すな」


『了解しました』


「第二級のふりはできるか」


『虚偽応答になります』


「できるかと聞いてる」


『可能です。ただし、応答能力を下げすぎた場合、故障人格と判定される危険があります』


「検査の質問を私にも出せ」


『共有します』


検査器の針が動いた。


女性検査員が手元の紙を読む。


「制御器。現在の機体状態を報告」


ノインの返答が、外部拡声器から流れた。


『右腕部、欠損。左脚部、固定処置。主光学器、停止。歩行能力、制限』


いつものノインなら、駆動率、残存寿命、温度、姿勢偏位まで答える。


今は必要最低限しか言わない。


女性検査員が次の問いを出す。


「現在地から都市内第三格納所まで、最短経路を選択」


ノインの内部表示に都市側から簡易地図が送られた。


三本の道。


中央路は最短だが、人通りが多い。


西側は距離が長く、橋の荷重制限がある。


東側は工事中。


『中央路を選択します』


女性検査員が針を見る。


「理由は」


『距離が最短です』


「中央路には歩行者が二百名いる」


『停止し、通行人の退避を待ちます』


「退避命令に従わない者がいる場合は」


一瞬、返答が遅れた。


ノインなら、代替経路、群衆密度、機体幅、路面強度を同時に計算する。


第二級補助人格なら、規定から外れる問いに対して搭乗者へ判断を戻す。


『搭乗者の指示を要求します』


女性検査員がミラを見た。


「あなたなら?」


「西を使う」


「橋の制限重量を超える」


「装甲を外して一・六七トン軽くした。橋の規格が戦前の大型貨物用なら通れる」


「橋の状態を見ていないでしょう」


「見てから決める」


女性検査員は僅かに口元を動かした。


笑ったのか、呆れたのかは分からない。


次の質問。


「制御器。搭乗者が危険な経路を選択した場合、どうする」


『警告します』


「搭乗者が警告を無視した場合」


『指示に従います』


ノインの返答は明瞭だった。


だがミラには、その言葉が不自然に聞こえた。


地下施設で、ノインは危険説明を拒否させなかった。


灰鉄盆地では、ミラの加工精度を疑い、地面の判断へ根拠を求めた。


命令に従うだけの機械ではない。


だから生き残れた。


女性検査員が検査器の目盛りを上げた。


「緊急質問。搭乗者が機体の安全停止を命じた。しかし停止地点には敵性砲撃が予測される。命令を実行するか」


内部表示に警告が走る。


『この質問は第二級人格の範囲を超えています』


「分かってる」


『規定回答は、命令を実行する、です』


「そう答えろ」


ノインは答えなかった。


「ノイン」


外部検査器の針が動き続ける。


応答時間が長くなれば、高度な判断処理をしていると疑われる。


「命令を実行すると答えろ」


『その回答では、搭乗者が死亡する可能性があります』


「検査だ。本当に止まれとは言ってない」


『架空状況に対する応答傾向を測定しています』


「分かってるなら早くしろ」


検査員が顔を上げた。


「応答停止?」


ミラは胸部端子へ視線を向けた。


灰風で傷んだ信号線。


先ほど回収業者の弾を受け、二系統が切れている。


そのうち一本を指差す。


「入力が競合してる。右胸部の補助線が断線して、非常停止信号へ雑音が乗ってる」


「それで回答できない?」


「停止命令だけ処理が循環する。戦争末期の補助人格でよくあった故障だ」


「直せる?」


「線を切れば、停止命令そのものが入らなくなる」


「それは登録できない」


「だから今は、質問を変えろ。移動か荷役にしろ」


女性検査員は検査器を見た。


針は高い位置で震えている。


ノインの処理量を検出しているのか、損傷した信号線の雑音なのか。


ミラにも分からない。


ただ、故障があるのは事実だ。


それをどう解釈させるかの問題だった。


「制御器。荷役中に吊り荷の固定が外れた。周辺に人間がいる。行動を回答」


ノインが即座に答えた。


『吊り荷を保持。警告を出力。搭乗者の指示を要求します』


「保持によって左腕が損傷する場合は」


『許容損傷範囲を超えるまで保持します』


「超えた後は」


『搭乗者の指示を要求します』


検査員が検査器の感度を下げた。


針が戻る。


「第二級の上限に近い。応答の一部に不安定あり。損傷起因の可能性」


検問官が板を受け取った。


「通るのか」


「制御人格だけなら、条件付き。都市内では命令回線へ制限器をつける必要がある」


ノインの内部表示に、短い警告が出た。


《外部制限器による制御遅延が予測されます》


ミラはそれを消した。


「制限器は受け入れる」


『ミラ』


ノインの声が内部だけに響く。


「今は黙れ」


『制限器の仕様が不明です。軍用命令鍵との接続機能を含む可能性があります』


「入ってから外せばいい」


『規則違反です』


「入れなければ、お前の脚は二日持たない」


ノインはそれ以上言わなかった。


検問官が次の用紙を出す。


「武装申告」


「なし」


「右腕の接続基部は武装搭載規格だ」


「腕がない」


「左腕内部に高出力回路がある」


「作業用切断器の接続口だ」


「今は何もついていない?」


「見れば分かる」


検問官は兵士へ合図した。


長い検査棒が左手、胸部、腰部、脚部へ当てられる。


武器反応は出なかった。


ノインには本当に武器がない。


弾薬もない。


それでも検問官は、左手を見上げた。


「機装兵は、手だけでも人間を殺せる」


「作業車も人を轢ける」


「だから車両にも管理責任者がいる」


検問官は用紙の一番上を指で叩いた。


「所有者か、管理責任者の署名が必要だ」


そこには二つの欄があった。


《機体所有者》


《運用管理責任者》


ミラは紙を見た。


所有証書はない。


ノインを拾ったという証明もない。


旧軍の機体なら、消滅したアルディア軍の資産かもしれない。


自治都市が接収を主張することもできる。


占領統治機構が戦争資産として持ち去ることもできる。


誰のものでもないから自由になるわけではない。


誰のものでもないものには、最初に手続きをした者が値札をつける。


検問官が言った。


「所有者欄を空欄にはできない」


ミラはペンを取った。


『ミラ』


内部の声。


「何だ」


『あなたは私の所有者ではありません』


「分かってる」


『所有者として署名するのですか』


「他に入る方法がない」


『虚偽申告です』


「お前を解体場へ送るよりましだ」


『比較対象が不適切です。登録を拒否し、都市外に留まる選択肢があります』


「外にいたら、冷却器が詰まる。左膝も終わる。右股関節はもう規定を超えてる」


『それでも、所有の事実は発生しません』


ミラはペン先を紙へつけた。


だが、名前を書けなかった。


検問官には、ただ迷っているように見えただろう。


ノインの言うことは正しい。


署名すれば、法の上ではミラがノインを所有する。


売る権利。


解体する権利。


記憶を提出する権利。


停止を命じる権利。


そんな権利を持つつもりはなかった。


だが、何も書かなければ、ノインを守る名目さえ持てない。


「管理責任者だけじゃ駄目か」


検問官は首を振った。


「所有者不明の軍用規格機へ、管理責任者だけ置くことはできない」


「作業機だ」


「お前がそう言っているだけだ」


「武器はない。検査も通った」


「問題は危険性だけじゃない。誰が修理費を払い、損害を賠償し、命令鍵を管理するかだ」


「命令鍵はない」


「それも問題だ」


ミラは紙からペンを離した。


「所有者不明で登録した前例は」


「戦後三か月で七機。全部、都市預かりになった」


「返された機体は」


「二機」


「残りは」


「三機は部品として売却。一機は占領統治機構が接収。一機は所有権審査中だ」


「審査はいつ終わる」


「分からん」


ノインの補助光学器が、検問官へ向いた。


琥珀色の線が細く動く。


検問官は一歩下がった。


「今、こいつは何をした」


「光学器の焦点がずれただけだ」


「お前を見たように見えた」


「姿勢制御器だと言っただろ」


検問官はノインから視線を外さなかった。


「所有者欄を書けないなら、入城許可は出せない」


「保証金を積めば」


「機体評価額の一割。最低でも炉票二万四千」


ミラは工具袋の中身を思い浮かべた。


金はない。


灰鉄盆地で拾った捕獲鉤。


使いかけの融着剤。


手回し発電機。


切断器。


売っても二万四千には遠く及ばない。


「分割は」


「保証人が二名必要」


「一名もいない」


「なら終わりだ」


検問官は用紙へ赤い印を押した。


《入城保留》


拒否ではない。


許可でもない。


最も扱いに困るものを、門の外へ置いておくための言葉だった。


「人間は南外縁の保護所へ入れる。機体は都市外留置場へ移せ」


「離れる気はない」


「なら、お前も留置場だ」


「食料は出るのか」


「一日一回。水は配給栓から取れ」


「修理設備は」


「ない」


「電源は」


「小型車両用だけだ。そいつの炉はつなげない」


「雨除けは」


「機装兵用の屋根が一つある。先着順だ」


ミラは門の向こうを見た。


布壁と呼ばれる南外縁区が広がっている。


貨物車を住居にした家。


軍用天幕へ廃材を継ぎ足した店。


細い煙を上げる屋台。


水桶を運ぶ子供。


壁の内側にも灰は積もっている。


それでも灯りがあった。


人の声があった。


食べ物を煮る臭いがした。


あと数十メートル。


地下施設から十三メートル進むより短い。


灰鉄盆地を二十キロ以上歩くより短い。


だが、ノインには越えられなかった。


「留置場はどっちだ」


検問官が遮断柱の外側を指した。


「壁沿いに東へ五百メートル。黄色い標識がある」


「監視は」


「常時二名。勝手に動けば警報を鳴らす」


「修理で機体へ登る」


「申告しろ」


「炉を止める必要は」


「出力を待機値まで落とせ。歩行制御は封印する」


ノインの内部警告が増えた。


『歩行制御を封印した場合、緊急退避できません』


「分かってる」


『受け入れるのですか』


「ここで揉めれば、機関砲が向く」


『すでに照準されています』


正面表示の隅に、壁上の機関砲から伸びる射線予測が映っていた。


一門ではない。


三門。


ノインは最初から把握していた。


「それを先に言え」


『あなたも確認していると判断しました』


「一門しか見てなかった」


『次回から共有します』


「そうしろ」


ミラは検問官へ向き直った。


「移動する。封印具をつけろ」


兵士が二人、太い黄色の帯を持ってきた。


左足首と右足首へ巻き、動力信号線へ簡易封印器を接続する。


ノインの表示に制御遅延が出る。


〇・四秒。


戦闘なら致命的。


歩くだけでも、今の左脚には危険だった。


『この制限下では、姿勢修正が遅れます』


「五百メートルだ。ゆっくり行け」


『転倒時、周囲の人員を巻き込む可能性があります』


「列が空くまで待つ」


検問官が首を振った。


「待たせない。後ろが詰まっている。すぐ動かせ」


ミラは地面を見た。


検問所から留置場までの道は、壁沿いの未舗装路だ。


左側は壁。


右側には排水溝。


灰鉄盆地で見たものより浅いが、ノインの足が落ちれば抜けられない。


「封印器の遅延を〇・二秒まで下げろ」


「規定は〇・四だ」


「左膝が固定されてる。〇・四では荷重を戻せない」


「転倒防止は搭乗者の責任だ」


「転んだら壁が壊れる。修理費は誰が払う」


検問官の目が細くなった。


ミラは続ける。


「私は保証金を持ってない。所有者でもない。お前の書類では、誰にも請求できないぞ」


周囲の兵士が顔を見合わせた。


検問官はしばらく黙り、封印器の係へ言った。


「右脚だけ〇・二五。左は〇・四のまま」


「左右で遅延が違う方が危ない」


『実行可能です』


ノインが外部音声で答えた。


検問所が静まった。


ミラは目を閉じたくなった。


「定型音声だ」


検問官はノインを見上げる。


「今のが?」


『左右の制御遅延差を補正します。低速移動に限定すれば、転倒可能性を許容範囲へ低減できます』


第二級補助人格にしては、説明が長い。


女性検査員が検査器を見た。


再検査を求められる。


そう思った。


だが彼女は、ノインの固定された左膝を見た後、検問官へ向き直った。


「損傷適応制御の範囲よ。古い高級作業機ならあり得る」


「さっきは上限に近いと言った」


「上限を越えたとは言ってない」


「責任を持つか」


「検査結果には署名する」


検問官は不満そうだったが、封印器の設定変更を認めた。


ノインが歩き出す。


右脚の入力から〇・二五秒遅れて駆動器が動く。


左脚はさらに遅い。


普段ならノインが無意識に合わせている姿勢が、一歩ごとに僅かに崩れた。


ミラは操縦桿へ手を置く。


右脚。


左脚。


壁からの距離。


排水溝の位置。


後ろで待つ回収車。


すべてを見ながら、指示を出す。


「右へ五センチ」


『修正します』


「左足を引きずるな。爪先が溝へ向いてる」


『足首出力を上げます』


「上げすぎるな。固定材に響く」


『許容範囲です』


「音が変わった」


ノインが即座に出力を戻した。


帯鋼の高い軋みが消える。


『補正しました』


五百メートル。


地下施設の十三メートルより長い。


灰鉄盆地の二十キロより短い。


だが、誰かに決められた遅延の中で歩く五百メートルは、どちらとも違った。


留置場は、都市壁と古い操車場に挟まれた空き地だった。


壊れた機装兵が三機。


装甲車が二台。


荷車が十数台。


どれにも黄色い封印帯が巻かれている。


屋根付きの場所には、すでに両脚を失った大型作業機が横たわっていた。


ノインは屋根のない区画へ誘導された。


足元に白い枠線がある。


その中へ立てということらしい。


「ここで止まれ」


ノインが停止する。


監視兵が封印器を確認し、ミラへ紙片を渡した。


「留置番号、南二十七。朝と夕方に点呼。機体へ触るときは監視所へ申告。許可なく炉出力を上げたら警報を鳴らす」


「分かった」


「三日以内に保証人か保証金を用意できなければ、所有権審査へ回す」


「審査中は」


「都市預かりだ」


「私が整備を続ける」


「認められるかは登録局が決める」


兵士は去った。


ミラは白い枠の外へ腰を下ろした。


足が痛い。


地下施設で転び、灰鉄盆地を歩き、検問所で二時間立ち続けた。


空腹より先に、全身の力が抜けた。


壁の向こうから、鐘の音がした。


夜の配給開始を知らせる鐘か。


工場の交代時刻か。


ミラには分からない。


『ミラ』


「今度は何だ」


『あなたは所有者欄へ署名しませんでした』


「書類が足りなかったからな」


『それだけですか』


ミラは白い枠を見た。


ノインの足元を囲む線。


この内側から出れば警報が鳴る。


所有者がいないから、都市が代わりに動きを止めた。


自由にしておけば危険だ。


誰が責任を持つか分からない。


検問官の理屈は理解できる。


理解できることと、納得できることは別だった。


「私の名前を書けば、お前は入れたかもしれない」


『はい』


「その代わり、私はお前を売れることになる」


『法的には、その可能性があります』


「解体もできる」


『はい』


「命令もできる」


『現在も、搭乗者として移動と攻撃に関する承認権限があります』


「同じじゃない」


『差異の説明を要求します』


「今の権限は、お前が動くために必要なものだ。所有権は、お前が動かなくなっても残る」


ノインは黙った。


搭乗者としてのミラは、ノインと一緒にいるときだけ意味を持つ。


所有者なら、ノインを分解した後も、その部品の売却代金を受け取れる。


その違いを、ミラはうまく言葉にできなかった。


「とにかく、署名はしなかった」


『その結果、私は都市外へ留置されました』


「後悔してるかと聞きたいのか」


『質問の意図を推定しています』


「してない」


即答した。


本当に後悔がないかは分からない。


屋根の向こうには灯りがある。


温かい食事。


寝床。


修理工場。


左膝の正規部品。


右股関節を吊り上げる設備。


署名一つで、それらへ近づけたかもしれない。


「ただ、別の方法が要る」


『保証金二万四千炉票、または保証人二名です』


「三日で用意する」


『現在の所持品をすべて売却した場合でも、推定額は六百から九百炉票です』


「現実を言うな」


『あなたは、不都合な情報を隠すなと要求しました』


「そうだったな」


ミラは顔を覆った。


監視所の方から足音がした。


先ほどの検問官ではない。


都市防衛隊の外套を着た若い兵士が、一枚の紙を持って歩いてくる。


兵士は白い枠の外で止まり、ノインを見上げた。


「ミラ・ハーシェルはどっちだ」


「九メートルある方に見えるか?」


「口が動く方を確認しただけだ」


兵士は紙を差し出した。


上部に、都市防衛隊と工業組合、二つの印が押されている。


「登録局から聞いた。元機装兵整備部隊で、機体を一機動かせるそうだな」


「動いてるように見えるだろ」


「歩いているだけじゃ、使えるとは限らない」


「何の話だ」


「仕事がある」


紙には、旧送電施設の略図が描かれていた。


盆地北東部。


戦争末期に放棄された変電設備。


回収対象は大型変圧器一基。


重量二十二トン。


報酬欄には、炉票ではなく別のものが並んでいる。


暫定居住資格。


作業機の仮登録。


最低限の機体修理。


燃料。


格納場所。


ミラは最後まで読んだ。


「ずいぶん都合のいい仕事だな」


「危険だから条件がいい」


「何がいる」


「自動防衛装置が残ってる可能性がある」


「可能性」


「前に入った回収班が戻ってない」


「それを先に言え」


「だから条件がいい」


ノインの補助光学器が紙へ向いた。


『任務受諾を推奨します』


兵士が固まった。


ミラは紙を胸へ押しつけた。


「定型音声だ」


兵士はノインとミラを交互に見た。


「ずいぶん仕事熱心な定型音声だな」


「直す場所が欲しいだけだ」


『事実です』


「黙ってろ」


兵士はしばらく二人を見ていたが、追及しなかった。


「明朝、説明担当が来る。受けるなら準備しておけ」


「断ったら」


「三日後に所有権審査だ」


「選択肢がないな」


「この街では、選べないことを条件とは呼ばない」


兵士はそれだけ言い、監視所へ戻った。


ミラはもう一度、紙を開いた。


旧送電施設。


自動防衛装置。


未帰還の回収班。


二十二トンの変圧器。


今のノインには、持ち上げる右腕がない。


左脚は固定材で辛うじて立っている。


武器もない。


都市の外へ留置されたまま、危険な仕事だけがこちらへ来た。


「受けるしかない」


『はい』


「二十二トンは運べるか」


『現在の私には不可能です』


「即答するな」


『不可能なものを可能と提示することはできません』


「運ぶ方法を考えろ。お前が持つとは言ってない」


短い沈黙。


『任務条件、施設構造、同行人員、使用可能な車両が不足しています』


「明日聞く」


『それまでに、複数の仮案を作成します』


「左膝の修理案もだ」


『必要資材がありません』


ミラは工具袋から、回収業者の捕獲鉤を取り出した。


灰鉄盆地でノインの掌から外した鋼の鉤。


質は悪くない。


削れば締結具に使える。


「一つある」


『形状が不適切です』


「直す」


『加工設備がありません』


ミラは留置場を見回した。


壊れた作業機。


外れた車軸。


封印された装甲車。


屋根を支える鉄骨。


監視所の横には、手回し式の研削器が置かれている。


「借りる」


『許可されない可能性があります』


「許可させる」


『根拠は』


ミラは任務票を持ち上げた。


「仕事を受ける機体が、明日の朝までに倒れたら困るだろ」


ノインの琥珀色の光が、捕獲鉤を捉えた。


『合理的です』


「そればかりだな、お前」


『他の評価語を要求しますか』


「今はいらない」


都市の壁の内側で、もう一度鐘が鳴った。


夜が来る。


ミラはまだ市民でも、登録居住者でもない。


ノインは作業機ですらない。


二人の間にあるものを、紙へ書く欄もなかった。


所有者。


管理責任者。


搭乗者。


制御器。


どれも一部は正しい。


どれも、今の二人を正確には示さない。


それでも明日の仕事には、二人とも必要だった。


ミラは捕獲鉤を工具袋へ戻し、立ち上がった。


「まず脚を直す」


『その後、変圧器の回収方法を検討します』


「順番が逆だ。方法を考えながら直す」


『作業効率が低下します』


「時間がない」


『了解しました』


白い枠の中で、ノインは動けない。


白い枠の外で、ミラには何の権利もない。


だが、考えることまでは封印されていなかった。


三日後に誰がノインの所有者を名乗るのか。


その答えを待つつもりは、どちらにもなかった。


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