検問
リーヴァの壁は、城壁ではなかった。
貨物列車の車体。
潰れた装甲車。
工場から運び出された鉄骨。
土を詰めた鋼板箱。
それらを隙間なく並べ、溶接し、倒れないよう後ろから支柱を当てたものだった。
高さも材質も揃っていない。
ところどころに戦前の煉瓦壁が残り、その上へ軍用鉄板が継ぎ足されている。列車の窓をそのまま銃眼にした場所もあった。
新品の部材は一つも見当たらない。
それでも壁は立っていた。
灰風の向こうに浮かぶその姿を見て、ミラは初めて、ここならノインを直せるかもしれないと思った。
都市の南側には、入城を待つ列ができていた。
荷車を引く家族。
痩せた騾馬を連れた商人。
荷台へ廃部品を積んだ回収業者。
武装解除済みを示す白布を砲身へ巻いた装甲車。
人間用の列と車両用の列に分かれ、どちらも壁沿いに長く伸びている。
ノインが近づくと、列の後方から人が離れた。
逃げたわけではない。
道を空けただけだ。
だが、こちらへ背を向ける者はいなかった。
誰もがノインの右肩を見た。
剥がれた装甲を見た。
固定された左膝を見た。
そして、武器が本当にないのか確かめるように、残った左手を見た。
『周囲の人間が、私から平均四・七メートル以上の距離を取っています』
「数えなくていい」
『接触事故の回避に必要な情報です』
「怖がられてるだけだ」
『私が危険と判断されているという意味ですか』
「九メートルの軍用機が片腕をなくして歩いてくれば、普通は警戒する」
『私は軍用機ではないと申告する方針でした』
「声を出すな」
『理由を要求します』
「作業機が勝手に質問するな」
ノインは沈黙した。
正面表示の隅に、文字だけが浮かぶ。
《音声出力を停止します》
「そういうのも出すな」
文字が消えた。
車両列の先には、二本の遮断柱が立っていた。
その間を鋼索が横切り、脇には機装兵用の検査架台がある。検査架台と言っても、巨大な門型の骨組みに、放射計、熱量計、重量計、信号探知器を寄せ集めただけのものだった。
門の上には、塗り直された文字が掲げられている。
《自治都市リーヴァ南外縁検問所》
その下に、さらに小さな札がある。
《武器、軍用制御器、認証鍵、未登録動力炉の申告を怠った者は、物資と車両を没収する》
ノインが列の最後尾へつくと、前にいた回収車の男が振り返った。
灰除けの眼鏡越しに機体を眺め、荷台の部品と見比べる。
「そいつ、歩くのか」
「ここまで歩いてきた」
「右腕なしで?」
「見れば分かるだろ」
男は左膝の支持桁へ目を細めた。
「作業機にしちゃ脚が細いな」
「古い試験型だ」
「どこの工場だ」
「潰れた」
「製造札は」
「焼けた」
男は鼻で笑った。
「全部なくして、都合よくここまで来たってわけか」
「そっちの荷台にも、製造札を剥がした関節が三つ載ってる」
男の笑いが止まった。
荷台の奥に積まれた関節部品には、識別面を削った跡がある。
「余計なところを見る整備屋だな」
「売るなら削り跡をもっと汚せ。新しすぎる」
前方で列が動いた。
男は何も答えず、回収車へ乗り込んだ。
ノインが一歩進む。
左膝の帯鋼が鳴る。
検問所の防衛兵たちが一斉にこちらを見た。
銃を向ける者はいない。
だが、壁上の機関砲が僅かに旋回した。
ミラはその動きを見なかったことにした。
列が進むのに、二時間かかった。
途中でノインの右股関節温度が上がり、三度停止した。
後ろに並んだ者から罵声が飛んだが、動かして関節を焼くよりましだった。
ようやく遮断柱の前へ着いたころには、太陽が壁の向こうへ沈み始めていた。
検問官は五十代ほどの男だった。
軍服に似た灰色の上着を着ているが、肩章はない。胸元には都市防衛隊と登録局、二つの金属札が下がっていた。
男は手元の板へ視線を落としたまま尋ねた。
「人員、何名」
「一名」
「車両、一機」
「機装作業機、一機」
男が顔を上げた。
「作業機」
「そうだ」
「型式」
「不明」
「製造所」
「不明」
「識別番号」
「損傷で読めない」
男はノインの腰部へ視線を向けた。
試験標章のあった装甲は、灰鉄盆地で外している。だが骨格の刻印までは消せていない。
「読めないのか。読みたくないのか」
「どっちでも、今は同じだ」
「ここでは違う」
男は板の上へ何かを書いた。
「搭乗者の身分証」
ミラは旧軍の認証札を出した。
地下で死者の札は拾わなかった。
これは自分のものだ。
角が欠け、表面は工具袋の中で擦れている。
男は認証札を受け取り、裏面まで見る。
「アルディア軍機装兵整備部隊。下級技術兵、ミラ・ハーシェル」
「元だ」
「除隊証明は」
「軍が消えた」
「敗戦は除隊手続きじゃない」
「死んだ上官に書かせてくるか?」
男は顔色を変えなかった。
「この身分証は失効している。本人確認の参考にはなるが、入城資格にはならない」
「登録居住者を申請する」
「保証人は」
「いない」
「雇用契約」
「ない」
「市内居住者からの招請状」
「ない」
男は板へ三本、横線を引いた。
「人間の方は保護対象者として一時申請できる」
「機体は」
「別だ」
男はノインを見上げた。
「所有証書を出せ」
ミラは黙った。
「拾得記録でもいい。軍からの譲渡証。工場の払い下げ証。回収組合の取得証明。何かあるか」
「ない」
「なら、これはお前の機体じゃない」
搭乗区画の表示器に文字が浮かんだ。
《事実と一致します》
ミラは表示器を叩いた。
「黙ってろ」
検問官が眉を寄せる。
「今、誰に言った」
「姿勢制御器だ。警告がうるさい」
「音声式か」
「古い機体にはある」
「古い割に流暢だな」
「整備用の定型文だけだ」
検問官は板を脇の兵士へ渡した。
「制御検査へ回せ」
遮断柱の横から、細身の女性検査員が出てきた。
工具箱ほどの検査器を台車へ載せている。
髪を後ろで結び、油染みのついた白い外套を着ていた。医者というより、計測器の整備士に見える。
検査員はノインの胸部を見上げた。
「制御端子は」
「胸部右側。装甲を外してある」
「制御人格の等級」
「第二級補助人格」
本当なら第四級設計人格。
第三級以上は、都市での使用を原則禁止されている。
第四級なら、検査では済まない。
制御核の接収。
記憶領域の提出。
機能封印。
場合によっては解体。
女性検査員は台車から太い信号線を引き出した。
「第二級なら、状況報告、姿勢制御、規定内の経路選択まで。独立した任務解釈や自己改変はできない。合ってる?」
「合ってる」
《不正確です》
表示器に文字が出た。
ミラはもう一度叩く。
「出すなと言っただろ」
文字が消える。
検査員が目を細めた。
「表示器に何が出たの」
「左脚の荷重警告」
「こちらから見せて」
「表示器が壊れてる。角度を変えると消える」
「今は消えたわね」
「壊れてるからな」
検査員は何も言わず、信号線を胸部端子へつないだ。
ノインの内部で接続警告が出る。
『外部診断回線を確認』
声は搭乗区画の内部だけに流れた。
「音声を外へ出すな」
『了解しました』
「第二級のふりはできるか」
『虚偽応答になります』
「できるかと聞いてる」
『可能です。ただし、応答能力を下げすぎた場合、故障人格と判定される危険があります』
「検査の質問を私にも出せ」
『共有します』
検査器の針が動いた。
女性検査員が手元の紙を読む。
「制御器。現在の機体状態を報告」
ノインの返答が、外部拡声器から流れた。
『右腕部、欠損。左脚部、固定処置。主光学器、停止。歩行能力、制限』
いつものノインなら、駆動率、残存寿命、温度、姿勢偏位まで答える。
今は必要最低限しか言わない。
女性検査員が次の問いを出す。
「現在地から都市内第三格納所まで、最短経路を選択」
ノインの内部表示に都市側から簡易地図が送られた。
三本の道。
中央路は最短だが、人通りが多い。
西側は距離が長く、橋の荷重制限がある。
東側は工事中。
『中央路を選択します』
女性検査員が針を見る。
「理由は」
『距離が最短です』
「中央路には歩行者が二百名いる」
『停止し、通行人の退避を待ちます』
「退避命令に従わない者がいる場合は」
一瞬、返答が遅れた。
ノインなら、代替経路、群衆密度、機体幅、路面強度を同時に計算する。
第二級補助人格なら、規定から外れる問いに対して搭乗者へ判断を戻す。
『搭乗者の指示を要求します』
女性検査員がミラを見た。
「あなたなら?」
「西を使う」
「橋の制限重量を超える」
「装甲を外して一・六七トン軽くした。橋の規格が戦前の大型貨物用なら通れる」
「橋の状態を見ていないでしょう」
「見てから決める」
女性検査員は僅かに口元を動かした。
笑ったのか、呆れたのかは分からない。
次の質問。
「制御器。搭乗者が危険な経路を選択した場合、どうする」
『警告します』
「搭乗者が警告を無視した場合」
『指示に従います』
ノインの返答は明瞭だった。
だがミラには、その言葉が不自然に聞こえた。
地下施設で、ノインは危険説明を拒否させなかった。
灰鉄盆地では、ミラの加工精度を疑い、地面の判断へ根拠を求めた。
命令に従うだけの機械ではない。
だから生き残れた。
女性検査員が検査器の目盛りを上げた。
「緊急質問。搭乗者が機体の安全停止を命じた。しかし停止地点には敵性砲撃が予測される。命令を実行するか」
内部表示に警告が走る。
『この質問は第二級人格の範囲を超えています』
「分かってる」
『規定回答は、命令を実行する、です』
「そう答えろ」
ノインは答えなかった。
「ノイン」
外部検査器の針が動き続ける。
応答時間が長くなれば、高度な判断処理をしていると疑われる。
「命令を実行すると答えろ」
『その回答では、搭乗者が死亡する可能性があります』
「検査だ。本当に止まれとは言ってない」
『架空状況に対する応答傾向を測定しています』
「分かってるなら早くしろ」
検査員が顔を上げた。
「応答停止?」
ミラは胸部端子へ視線を向けた。
灰風で傷んだ信号線。
先ほど回収業者の弾を受け、二系統が切れている。
そのうち一本を指差す。
「入力が競合してる。右胸部の補助線が断線して、非常停止信号へ雑音が乗ってる」
「それで回答できない?」
「停止命令だけ処理が循環する。戦争末期の補助人格でよくあった故障だ」
「直せる?」
「線を切れば、停止命令そのものが入らなくなる」
「それは登録できない」
「だから今は、質問を変えろ。移動か荷役にしろ」
女性検査員は検査器を見た。
針は高い位置で震えている。
ノインの処理量を検出しているのか、損傷した信号線の雑音なのか。
ミラにも分からない。
ただ、故障があるのは事実だ。
それをどう解釈させるかの問題だった。
「制御器。荷役中に吊り荷の固定が外れた。周辺に人間がいる。行動を回答」
ノインが即座に答えた。
『吊り荷を保持。警告を出力。搭乗者の指示を要求します』
「保持によって左腕が損傷する場合は」
『許容損傷範囲を超えるまで保持します』
「超えた後は」
『搭乗者の指示を要求します』
検査員が検査器の感度を下げた。
針が戻る。
「第二級の上限に近い。応答の一部に不安定あり。損傷起因の可能性」
検問官が板を受け取った。
「通るのか」
「制御人格だけなら、条件付き。都市内では命令回線へ制限器をつける必要がある」
ノインの内部表示に、短い警告が出た。
《外部制限器による制御遅延が予測されます》
ミラはそれを消した。
「制限器は受け入れる」
『ミラ』
ノインの声が内部だけに響く。
「今は黙れ」
『制限器の仕様が不明です。軍用命令鍵との接続機能を含む可能性があります』
「入ってから外せばいい」
『規則違反です』
「入れなければ、お前の脚は二日持たない」
ノインはそれ以上言わなかった。
検問官が次の用紙を出す。
「武装申告」
「なし」
「右腕の接続基部は武装搭載規格だ」
「腕がない」
「左腕内部に高出力回路がある」
「作業用切断器の接続口だ」
「今は何もついていない?」
「見れば分かる」
検問官は兵士へ合図した。
長い検査棒が左手、胸部、腰部、脚部へ当てられる。
武器反応は出なかった。
ノインには本当に武器がない。
弾薬もない。
それでも検問官は、左手を見上げた。
「機装兵は、手だけでも人間を殺せる」
「作業車も人を轢ける」
「だから車両にも管理責任者がいる」
検問官は用紙の一番上を指で叩いた。
「所有者か、管理責任者の署名が必要だ」
そこには二つの欄があった。
《機体所有者》
《運用管理責任者》
ミラは紙を見た。
所有証書はない。
ノインを拾ったという証明もない。
旧軍の機体なら、消滅したアルディア軍の資産かもしれない。
自治都市が接収を主張することもできる。
占領統治機構が戦争資産として持ち去ることもできる。
誰のものでもないから自由になるわけではない。
誰のものでもないものには、最初に手続きをした者が値札をつける。
検問官が言った。
「所有者欄を空欄にはできない」
ミラはペンを取った。
『ミラ』
内部の声。
「何だ」
『あなたは私の所有者ではありません』
「分かってる」
『所有者として署名するのですか』
「他に入る方法がない」
『虚偽申告です』
「お前を解体場へ送るよりましだ」
『比較対象が不適切です。登録を拒否し、都市外に留まる選択肢があります』
「外にいたら、冷却器が詰まる。左膝も終わる。右股関節はもう規定を超えてる」
『それでも、所有の事実は発生しません』
ミラはペン先を紙へつけた。
だが、名前を書けなかった。
検問官には、ただ迷っているように見えただろう。
ノインの言うことは正しい。
署名すれば、法の上ではミラがノインを所有する。
売る権利。
解体する権利。
記憶を提出する権利。
停止を命じる権利。
そんな権利を持つつもりはなかった。
だが、何も書かなければ、ノインを守る名目さえ持てない。
「管理責任者だけじゃ駄目か」
検問官は首を振った。
「所有者不明の軍用規格機へ、管理責任者だけ置くことはできない」
「作業機だ」
「お前がそう言っているだけだ」
「武器はない。検査も通った」
「問題は危険性だけじゃない。誰が修理費を払い、損害を賠償し、命令鍵を管理するかだ」
「命令鍵はない」
「それも問題だ」
ミラは紙からペンを離した。
「所有者不明で登録した前例は」
「戦後三か月で七機。全部、都市預かりになった」
「返された機体は」
「二機」
「残りは」
「三機は部品として売却。一機は占領統治機構が接収。一機は所有権審査中だ」
「審査はいつ終わる」
「分からん」
ノインの補助光学器が、検問官へ向いた。
琥珀色の線が細く動く。
検問官は一歩下がった。
「今、こいつは何をした」
「光学器の焦点がずれただけだ」
「お前を見たように見えた」
「姿勢制御器だと言っただろ」
検問官はノインから視線を外さなかった。
「所有者欄を書けないなら、入城許可は出せない」
「保証金を積めば」
「機体評価額の一割。最低でも炉票二万四千」
ミラは工具袋の中身を思い浮かべた。
金はない。
灰鉄盆地で拾った捕獲鉤。
使いかけの融着剤。
手回し発電機。
切断器。
売っても二万四千には遠く及ばない。
「分割は」
「保証人が二名必要」
「一名もいない」
「なら終わりだ」
検問官は用紙へ赤い印を押した。
《入城保留》
拒否ではない。
許可でもない。
最も扱いに困るものを、門の外へ置いておくための言葉だった。
「人間は南外縁の保護所へ入れる。機体は都市外留置場へ移せ」
「離れる気はない」
「なら、お前も留置場だ」
「食料は出るのか」
「一日一回。水は配給栓から取れ」
「修理設備は」
「ない」
「電源は」
「小型車両用だけだ。そいつの炉はつなげない」
「雨除けは」
「機装兵用の屋根が一つある。先着順だ」
ミラは門の向こうを見た。
布壁と呼ばれる南外縁区が広がっている。
貨物車を住居にした家。
軍用天幕へ廃材を継ぎ足した店。
細い煙を上げる屋台。
水桶を運ぶ子供。
壁の内側にも灰は積もっている。
それでも灯りがあった。
人の声があった。
食べ物を煮る臭いがした。
あと数十メートル。
地下施設から十三メートル進むより短い。
灰鉄盆地を二十キロ以上歩くより短い。
だが、ノインには越えられなかった。
「留置場はどっちだ」
検問官が遮断柱の外側を指した。
「壁沿いに東へ五百メートル。黄色い標識がある」
「監視は」
「常時二名。勝手に動けば警報を鳴らす」
「修理で機体へ登る」
「申告しろ」
「炉を止める必要は」
「出力を待機値まで落とせ。歩行制御は封印する」
ノインの内部警告が増えた。
『歩行制御を封印した場合、緊急退避できません』
「分かってる」
『受け入れるのですか』
「ここで揉めれば、機関砲が向く」
『すでに照準されています』
正面表示の隅に、壁上の機関砲から伸びる射線予測が映っていた。
一門ではない。
三門。
ノインは最初から把握していた。
「それを先に言え」
『あなたも確認していると判断しました』
「一門しか見てなかった」
『次回から共有します』
「そうしろ」
ミラは検問官へ向き直った。
「移動する。封印具をつけろ」
兵士が二人、太い黄色の帯を持ってきた。
左足首と右足首へ巻き、動力信号線へ簡易封印器を接続する。
ノインの表示に制御遅延が出る。
〇・四秒。
戦闘なら致命的。
歩くだけでも、今の左脚には危険だった。
『この制限下では、姿勢修正が遅れます』
「五百メートルだ。ゆっくり行け」
『転倒時、周囲の人員を巻き込む可能性があります』
「列が空くまで待つ」
検問官が首を振った。
「待たせない。後ろが詰まっている。すぐ動かせ」
ミラは地面を見た。
検問所から留置場までの道は、壁沿いの未舗装路だ。
左側は壁。
右側には排水溝。
灰鉄盆地で見たものより浅いが、ノインの足が落ちれば抜けられない。
「封印器の遅延を〇・二秒まで下げろ」
「規定は〇・四だ」
「左膝が固定されてる。〇・四では荷重を戻せない」
「転倒防止は搭乗者の責任だ」
「転んだら壁が壊れる。修理費は誰が払う」
検問官の目が細くなった。
ミラは続ける。
「私は保証金を持ってない。所有者でもない。お前の書類では、誰にも請求できないぞ」
周囲の兵士が顔を見合わせた。
検問官はしばらく黙り、封印器の係へ言った。
「右脚だけ〇・二五。左は〇・四のまま」
「左右で遅延が違う方が危ない」
『実行可能です』
ノインが外部音声で答えた。
検問所が静まった。
ミラは目を閉じたくなった。
「定型音声だ」
検問官はノインを見上げる。
「今のが?」
『左右の制御遅延差を補正します。低速移動に限定すれば、転倒可能性を許容範囲へ低減できます』
第二級補助人格にしては、説明が長い。
女性検査員が検査器を見た。
再検査を求められる。
そう思った。
だが彼女は、ノインの固定された左膝を見た後、検問官へ向き直った。
「損傷適応制御の範囲よ。古い高級作業機ならあり得る」
「さっきは上限に近いと言った」
「上限を越えたとは言ってない」
「責任を持つか」
「検査結果には署名する」
検問官は不満そうだったが、封印器の設定変更を認めた。
ノインが歩き出す。
右脚の入力から〇・二五秒遅れて駆動器が動く。
左脚はさらに遅い。
普段ならノインが無意識に合わせている姿勢が、一歩ごとに僅かに崩れた。
ミラは操縦桿へ手を置く。
右脚。
左脚。
壁からの距離。
排水溝の位置。
後ろで待つ回収車。
すべてを見ながら、指示を出す。
「右へ五センチ」
『修正します』
「左足を引きずるな。爪先が溝へ向いてる」
『足首出力を上げます』
「上げすぎるな。固定材に響く」
『許容範囲です』
「音が変わった」
ノインが即座に出力を戻した。
帯鋼の高い軋みが消える。
『補正しました』
五百メートル。
地下施設の十三メートルより長い。
灰鉄盆地の二十キロより短い。
だが、誰かに決められた遅延の中で歩く五百メートルは、どちらとも違った。
留置場は、都市壁と古い操車場に挟まれた空き地だった。
壊れた機装兵が三機。
装甲車が二台。
荷車が十数台。
どれにも黄色い封印帯が巻かれている。
屋根付きの場所には、すでに両脚を失った大型作業機が横たわっていた。
ノインは屋根のない区画へ誘導された。
足元に白い枠線がある。
その中へ立てということらしい。
「ここで止まれ」
ノインが停止する。
監視兵が封印器を確認し、ミラへ紙片を渡した。
「留置番号、南二十七。朝と夕方に点呼。機体へ触るときは監視所へ申告。許可なく炉出力を上げたら警報を鳴らす」
「分かった」
「三日以内に保証人か保証金を用意できなければ、所有権審査へ回す」
「審査中は」
「都市預かりだ」
「私が整備を続ける」
「認められるかは登録局が決める」
兵士は去った。
ミラは白い枠の外へ腰を下ろした。
足が痛い。
地下施設で転び、灰鉄盆地を歩き、検問所で二時間立ち続けた。
空腹より先に、全身の力が抜けた。
壁の向こうから、鐘の音がした。
夜の配給開始を知らせる鐘か。
工場の交代時刻か。
ミラには分からない。
『ミラ』
「今度は何だ」
『あなたは所有者欄へ署名しませんでした』
「書類が足りなかったからな」
『それだけですか』
ミラは白い枠を見た。
ノインの足元を囲む線。
この内側から出れば警報が鳴る。
所有者がいないから、都市が代わりに動きを止めた。
自由にしておけば危険だ。
誰が責任を持つか分からない。
検問官の理屈は理解できる。
理解できることと、納得できることは別だった。
「私の名前を書けば、お前は入れたかもしれない」
『はい』
「その代わり、私はお前を売れることになる」
『法的には、その可能性があります』
「解体もできる」
『はい』
「命令もできる」
『現在も、搭乗者として移動と攻撃に関する承認権限があります』
「同じじゃない」
『差異の説明を要求します』
「今の権限は、お前が動くために必要なものだ。所有権は、お前が動かなくなっても残る」
ノインは黙った。
搭乗者としてのミラは、ノインと一緒にいるときだけ意味を持つ。
所有者なら、ノインを分解した後も、その部品の売却代金を受け取れる。
その違いを、ミラはうまく言葉にできなかった。
「とにかく、署名はしなかった」
『その結果、私は都市外へ留置されました』
「後悔してるかと聞きたいのか」
『質問の意図を推定しています』
「してない」
即答した。
本当に後悔がないかは分からない。
屋根の向こうには灯りがある。
温かい食事。
寝床。
修理工場。
左膝の正規部品。
右股関節を吊り上げる設備。
署名一つで、それらへ近づけたかもしれない。
「ただ、別の方法が要る」
『保証金二万四千炉票、または保証人二名です』
「三日で用意する」
『現在の所持品をすべて売却した場合でも、推定額は六百から九百炉票です』
「現実を言うな」
『あなたは、不都合な情報を隠すなと要求しました』
「そうだったな」
ミラは顔を覆った。
監視所の方から足音がした。
先ほどの検問官ではない。
都市防衛隊の外套を着た若い兵士が、一枚の紙を持って歩いてくる。
兵士は白い枠の外で止まり、ノインを見上げた。
「ミラ・ハーシェルはどっちだ」
「九メートルある方に見えるか?」
「口が動く方を確認しただけだ」
兵士は紙を差し出した。
上部に、都市防衛隊と工業組合、二つの印が押されている。
「登録局から聞いた。元機装兵整備部隊で、機体を一機動かせるそうだな」
「動いてるように見えるだろ」
「歩いているだけじゃ、使えるとは限らない」
「何の話だ」
「仕事がある」
紙には、旧送電施設の略図が描かれていた。
盆地北東部。
戦争末期に放棄された変電設備。
回収対象は大型変圧器一基。
重量二十二トン。
報酬欄には、炉票ではなく別のものが並んでいる。
暫定居住資格。
作業機の仮登録。
最低限の機体修理。
燃料。
格納場所。
ミラは最後まで読んだ。
「ずいぶん都合のいい仕事だな」
「危険だから条件がいい」
「何がいる」
「自動防衛装置が残ってる可能性がある」
「可能性」
「前に入った回収班が戻ってない」
「それを先に言え」
「だから条件がいい」
ノインの補助光学器が紙へ向いた。
『任務受諾を推奨します』
兵士が固まった。
ミラは紙を胸へ押しつけた。
「定型音声だ」
兵士はノインとミラを交互に見た。
「ずいぶん仕事熱心な定型音声だな」
「直す場所が欲しいだけだ」
『事実です』
「黙ってろ」
兵士はしばらく二人を見ていたが、追及しなかった。
「明朝、説明担当が来る。受けるなら準備しておけ」
「断ったら」
「三日後に所有権審査だ」
「選択肢がないな」
「この街では、選べないことを条件とは呼ばない」
兵士はそれだけ言い、監視所へ戻った。
ミラはもう一度、紙を開いた。
旧送電施設。
自動防衛装置。
未帰還の回収班。
二十二トンの変圧器。
今のノインには、持ち上げる右腕がない。
左脚は固定材で辛うじて立っている。
武器もない。
都市の外へ留置されたまま、危険な仕事だけがこちらへ来た。
「受けるしかない」
『はい』
「二十二トンは運べるか」
『現在の私には不可能です』
「即答するな」
『不可能なものを可能と提示することはできません』
「運ぶ方法を考えろ。お前が持つとは言ってない」
短い沈黙。
『任務条件、施設構造、同行人員、使用可能な車両が不足しています』
「明日聞く」
『それまでに、複数の仮案を作成します』
「左膝の修理案もだ」
『必要資材がありません』
ミラは工具袋から、回収業者の捕獲鉤を取り出した。
灰鉄盆地でノインの掌から外した鋼の鉤。
質は悪くない。
削れば締結具に使える。
「一つある」
『形状が不適切です』
「直す」
『加工設備がありません』
ミラは留置場を見回した。
壊れた作業機。
外れた車軸。
封印された装甲車。
屋根を支える鉄骨。
監視所の横には、手回し式の研削器が置かれている。
「借りる」
『許可されない可能性があります』
「許可させる」
『根拠は』
ミラは任務票を持ち上げた。
「仕事を受ける機体が、明日の朝までに倒れたら困るだろ」
ノインの琥珀色の光が、捕獲鉤を捉えた。
『合理的です』
「そればかりだな、お前」
『他の評価語を要求しますか』
「今はいらない」
都市の壁の内側で、もう一度鐘が鳴った。
夜が来る。
ミラはまだ市民でも、登録居住者でもない。
ノインは作業機ですらない。
二人の間にあるものを、紙へ書く欄もなかった。
所有者。
管理責任者。
搭乗者。
制御器。
どれも一部は正しい。
どれも、今の二人を正確には示さない。
それでも明日の仕事には、二人とも必要だった。
ミラは捕獲鉤を工具袋へ戻し、立ち上がった。
「まず脚を直す」
『その後、変圧器の回収方法を検討します』
「順番が逆だ。方法を考えながら直す」
『作業効率が低下します』
「時間がない」
『了解しました』
白い枠の中で、ノインは動けない。
白い枠の外で、ミラには何の権利もない。
だが、考えることまでは封印されていなかった。
三日後に誰がノインの所有者を名乗るのか。
その答えを待つつもりは、どちらにもなかった。




