赤い隔壁
砲台の照準器が点灯した。
赤い円環が一度だけ収縮し、給電柱へ寄りかかったノインの胸部を捉える。
砲身の基部で装填機が動いた。
乾いた金属音。
ミラは胸部装甲から身を滑り込ませ、座席の固定帯を引いた。金具を留めるより早く、ノインの左腕が胸部前面へ回る。
残った片腕で、自分の傷口を覆うような動きだった。
「来るぞ」
『確認しています』
砲口が白く光った。
衝撃が来た。
砲弾はノインの左前腕へ当たり、装甲表面で弾けた。内部まで貫通しなかったが、剥がれた金属片が胸部へ降り注ぐ。
搭乗区画が揺れ、ミラの後頭部が座席へ打ちつけられた。
表示器に警告が並ぶ。
左前腕外装損傷。
第三指駆動索への衝撃。
胸部補助配線の瞬断。
ノインは腕を下げなかった。
『次弾発射まで六・八秒』
「主動力炉は」
『起動まで一分三十九秒』
「長すぎる」
『時間経過速度は変更できません』
「分かってる」
ミラは正面表示へ顔を寄せた。
赤い非常灯だけでは、格納庫全体を見通せない。ノインの主光学器は壊れ、補助光学器も左側の狭い範囲しか映していない。
だが、先ほど胸部の外にいたとき、格納庫の天井に何があったかは見ている。
機体搬送用の走行梁。
大型吊り具。
整備架台を動かす床下牽引器。
どれも給電前には死んでいた。
今は施設の予備電力が戻っている。
「天井の走行梁は動くか」
『制御回線を検索します』
二発目。
ノインは左腕の角度を変えた。
砲弾が肘の外側を叩き、装甲を抉る。衝撃で左手が給電端子からずれかけた。
巨大な指が端子を握り直す。
外れれば、動力炉の起動は最初からやり直しになる。
『走行梁二号機の制御器が応答。主巻上機は停止。横行機構のみ使用可能です』
「吊り具はどこだ」
『私の左後方、十一・四メートル。現在の視野外です』
「私が見た。砲台の真上を通る」
『利用方法を提示してください』
「吊り具を砲身へ落とす。壊せなくても、照準をずらせる」
『吊り具の推定重量は四百二十キログラム。落下だけでは砲台の装甲を破壊できません』
「砲台を壊す必要はない。撃てなくすればいい」
砲台の装填音がした。
三発目。
ノインの左腕が胸部へ押しつけられる。
装甲に新しい亀裂が走った。
ミラは歯を食いしばった。
ノインが腕を盾にしているから、自分はまだ生きている。
それが保護なのか、搭乗者を失えば移動不能になるからなのか、今は考える意味がなかった。
『走行梁の操作盤は格納庫西側壁面です。現在位置から九・一メートル。手動復帰操作が必要です』
「機体からは届かないな」
『はい』
「搭乗口を開けろ」
『却下を推奨します』
「推奨だけか」
『あなたが死亡した場合、私は施設から脱出できません』
「私が出なければ、炉が起きる前にお前の腕がなくなる」
『左腕を喪失しても、主動力炉起動後の移動は可能です』
「給電端子を外せなくなる」
ノインは答えなかった。
砲台の赤い照準光が、左腕の縁を探るように動く。
同じ場所へ撃ち続ければ貫通できると判断したらしい。
「それに、出口の隔壁も閉じてる」
『隔壁閉鎖まで二十六秒』
「炉が起きても、閉じ込められたままだ」
『隔壁を破壊するために必要な出力を算出しています』
「その左腕でか」
沈黙は一秒にも満たなかった。
『操作盤までの安全経路を提示します』
胸部装甲が開いた。
ミラは切断器を腰へ吊り、解体棒を背中へ差した。
外へ出る前に、正面表示へ視線を戻す。
「砲台の発射間隔を数えろ」
『現在までの平均は六・九秒です。装填機の摩耗により、〇・三秒の変動があります』
「撃ったら走る。止まれと言ったら止まる」
『私には、あなたを停止させる手段がありません』
「言葉の話だ」
『了解しました』
四発目が左前腕へ着弾した。
ミラは胸部から飛び出した。
装甲の縁を蹴り、給電柱の保守足場へ移る。そこから壁際の配管へ手を伸ばした。
床までは六メートル以上ある。
梯子は途中で折れていた。
残った縦材へ足をかけ、滑るように降りる。
『五秒』
ノインの声が格納庫へ響く。
『四秒』
ミラは床へ飛び降りた。
着地の衝撃が左肩へ走る。
『三秒』
操作盤まではまだ四メートル。
『二秒』
「止まれ」
ミラは崩れた整備架台の陰へ身体を投げ込んだ。
砲声。
砲弾はノインの左手首へ当たった。
格納庫の床を、破片が跳ねる。
『発射を確認。次弾まで推定七・一秒』
ミラは立ち上がり、走った。
西側壁面の操作盤は蓋が半分外れ、内部へ雨水のような錆汁が入り込んでいた。
非常灯だけが点いている。
横行操作の表示は消えていた。
「復帰手順は」
『上段左から二番目の遮断器を切断。下段の補助回路と直結してください』
「切るのは遮断器じゃない。焼けた接点だ」
『視認できません』
「だから私がいる」
ミラは検査針を差し込んだ。
電圧がある。
絶縁布を手へ巻き、切断器を接点へ当てる。
『三秒』
火花が散った。
『二秒』
溶けた接点を解体棒で押し倒す。
「止まる」
ミラは操作盤の横へ伏せた。
砲声。
着弾音が、先ほどまでと違った。
鈍く、深い。
顔を上げる。
ノインの左腕の装甲が大きく剥がれていた。黒い人工筋肉束が露出し、一本が切れて垂れている。
左手はまだ給電端子を支えている。
『横行回路への通電を確認しました』
「吊り具を動かせるか」
『制御権限がありません』
「操作盤からなら」
『手動操作が可能です。上方向の黒色把手です』
把手はあった。
だが、その下に認証錠が付いている。
旧軍規格の角形錠。
鍵はない。
「錠を切る」
『次弾まで四秒』
切断器を当てる。
火花。
錠の表面だけが溶ける。
厚い。
『二秒』
「まだだ」
『退避してください』
「まだ切れてない」
『ミラ、退避してください』
砲台が旋回した。
赤い照準光が、ノインの腕から外れる。
床を走り、壁面の操作盤へ近づく。
ミラは自分の胸へ赤い光が届くのを見た。
「私を狙ってる」
『確認しました』
ノインの左手が給電端子から離れた。
動力炉の起動表示が消える。
その手が床へ向かって伸びる。
ミラと砲台の間へ、巨大な掌が落ちた。
砲声。
砲弾が掌の中央へ命中する。
装甲が内側へ凹み、二本の指が痙攣した。
「端子が外れたぞ!」
『確認しています』
「炉の起動は」
『停止しました』
「何で手を出した」
『あなたが死亡した場合、脱出できません』
「それはさっき聞いた」
『理由は同じです』
ノインの左手が、壁のようにミラの前へ立っている。
砲台は射線を変えようと旋回を始めた。
ミラは解体棒を認証錠の切れ目へ差し込み、両足で操作盤を蹴った。
金属が裂ける。
錠が外れた。
把手を上へ引く。
天井で駆動音がした。
長い間動かなかった車輪が錆を削り、走行梁の上を進み始める。
吊り具が暗闇の中を横切る。
だが、砲台の真上より二メートル手前で停止した。
「止まった」
『横行軌道に異物を検出。駆動器の出力不足です』
「何が引っかかってる」
『視認できません』
ミラは天井を見た。
非常灯の赤い光に、垂れ下がった電纜が浮かんでいる。
走行梁の車輪へ巻き込まれていた。
「電纜だ。切れば進む」
『切断位置まで高さ八・七メートルです』
「届かない」
『私なら届きます』
「給電なしで動けるのか」
『補助蓄電器に、姿勢変更一回分の電力が残っています』
ノインは給電柱へ寄りかかったまま、左肩を動かした。
砲台の一発を掌で受けた衝撃で、左腕の動きは鈍い。
それでも腕が持ち上がる。
巨大な指先が走行梁へ近づく。
『切断位置を指示してください』
「梁の右。車輪の後ろ。黒い線が二本重なってる」
『確認できません』
「あと三十センチ上」
指が上がる。
「右へ十五」
動く。
「そこで止めろ」
ノインの指先が電纜へ触れた。
「掴め」
『左手第三指の駆動索が損傷しています。把持力が不足します』
「切らなくていい。引っ張れ」
左手の二本の指が、電纜を挟んだ。
砲台が旋回する。
今度は伸ばされた腕の付け根を狙っていた。
『次弾まで一・八秒』
「そのまま引け!」
電纜が張った。
被覆が裂ける。
火花が天井から降った。
砲声。
砲弾が左肩へ突き刺さる。
ノインの全身が給電柱へ押しつけられた。
同時に電纜が切れ、走行梁が動き出す。
吊り具が砲台の真上へ到達した。
「落とせ!」
『巻上機は停止しています』
「吊り具の保持器を切れば落ちる!」
『保持器の位置を確認できません』
ミラは操作盤の配線図を見た。
文字は焼けている。
残っている線を指で追う。
横行。
制動。
非常停止。
荷重解放。
赤い蓋の下に、小さな引き金があった。
本来は吊り荷を緊急投棄するためのものだ。
「これか」
『判断できません』
「私が決める」
ミラは赤い蓋を叩き割った。
引き金を引く。
天井で接点が外れる音がした。
四百キログラムを超える吊り具が落下する。
砲台の上面へ激突した。
装甲は潰れなかった。
だが、吊り具から伸びた鎖が砲身と旋回基部へ絡みついた。
砲台がミラを追って動こうとする。
鎖が張る。
走行梁が軋む。
照準器の赤い円環が壁と床を行き来し、止まらなくなった。
『砲台の照準機能に偏差を確認』
「止まってはいない」
『はい』
「次は出口だ」
隔壁は、すでに床まで残り一・五メートルの位置まで降りていた。
人間なら通れる。
ノインは通れない。
しかも油圧器は閉鎖を続けている。
「炉を起こし直す時間はない」
『外部給電を再接続すれば、一分五十一秒です』
「隔壁は何秒で閉じる」
『十九秒』
ミラは閉じていく隔壁を見た。
厚さは一メートル近い。
切断器では傷をつけるだけで終わる。
ノインの腕でも止められない。
だが、隔壁を動かしているものは装甲ほど強くない。
側壁の中から、油圧器の作動音がする。
「駆動筒はどっちだ」
『隔壁左側の壁内です』
「点検口は」
『床上二・二メートル。隔壁から一・八メートル手前』
ミラは走った。
砲台が無秩序に旋回し、発砲した。
砲弾は天井へ当たり、コンクリート片が降る。
次弾は床を抉った。
狙ってはいない。
だからこそ、どこへ飛ぶか分からない。
ミラは隔壁脇の壁へ飛びつき、配管を足場にして点検口へ登った。
解体棒を差し込む。
蓋を外す。
内部には、隔壁を支える二本の油圧筒が並んでいた。
「どっちを切る」
『両方を切断した場合、隔壁が自重で落下します』
「片方なら」
『隔壁が傾き、案内溝へ噛み込む可能性があります』
「止まる可能性は」
『算出不能です』
「十分だ」
ミラは左側の圧力管へ切断器を当てた。
『警告。高圧作動液が噴出します』
「見れば分かる」
『皮膚に接触した場合、組織内部へ侵入します』
「それも知ってる」
火花が散る。
圧力管の表面が赤熱する。
切れ目から、細い液体が噴き出した。
ミラは顔を背ける。
作動液が点検口の反対側へ突き刺さり、金属壁を叩いた。
圧力が落ちる。
隔壁の左側が沈んだ。
右側だけが閉鎖を続ける。
巨大な板が斜めになり、案内溝の途中で噛み込んだ。
轟音。
格納庫全体が揺れる。
隔壁の下に、三メートルほどの三角形の隙間が残った。
ノインには足りない。
だが、完全に閉じることもない。
『隔壁停止を確認』
「次は、お前を動かす」
『外部給電端子の再接続が必要です』
「分かってる」
床へ降りる。
ノインまで走る。
途中、砲弾が崩れた架台へ当たり、跳ねた破片がミラの背中を掠めた。
熱が走る。
足は動く。
なら問題ない。
ノインの左手は床に下りていた。
掌の装甲が裂け、内部骨格が見えている。
「腕は使えるか」
『駆動率三四パーセント。精密作業には適しません』
「端子を支えるだけでいい」
『可能です』
ミラは給電端子へ両手をかけた。
ノインの指が下から持ち上げる。
一度外れた端子を胸部口へ合わせる。
今度は案内溝の位置が分かっていた。
押す。
接続音。
遮断器が作動する。
『外部電源を確認。主動力炉の起動を再開します』
「一分五十一秒だな」
『はい』
「その間、砲台は」
『無作為に近い射撃を継続します』
ミラは格納庫を見た。
逃げ込める遮蔽物はある。
だがノインは動けない。
左腕はもう、胸部全体を守れる状態ではなかった。
吊り具の鎖に絡まった砲台が旋回する。
砲口が偶然こちらを向いた。
「ノイン。砲台が撃つ前に、装填音がするな」
『はい』
「発射の瞬間、給電を切れるか」
『可能ですが、主動力炉の起動工程が停止します』
「〇・五秒だけだ」
『再接続時に起動工程を保持できる保証はありません』
「砲台の照準器も予備回線だ。給電が落ちれば止まる」
『施設全体の電源を遮断する方法がありません』
「ある。お前が電気を全部食え」
沈黙。
砲台の装填機が鳴った。
「始動回路へ上限以上に流せ。施設側の遮断器を落とす」
『過電流により、私の始動器が損傷する可能性があります』
「炉が起きれば始動器はいらない」
『炉が起動しなければ、修復なしで再始動できなくなります』
「そのときは、ここで解体されるだけだ」
『あなたも死亡する可能性があります』
「だから成功させろ」
赤い照準光が胸部へ近づく。
ノインが言った。
『過電流を開始します』
給電柱が唸った。
電纜が激しく震える。
格納庫の非常灯が明滅する。
砲台の照準器が乱れた。
装填音。
電流の唸り。
次の瞬間、施設のどこかで遮断器が落ちた。
非常灯が消える。
砲台の赤い光も消えた。
完全な暗闇。
砲声は来なかった。
ノインの内部だけで、低い振動が続いている。
「炉は」
『起動工程を維持しています』
「始動器は」
『温度上限を超過。起動完了後に停止します』
「十分だ」
暗闇の中で、ミラはノインの胸部へ登った。
搭乗区画へ戻り、座席へ身体を滑り込ませる。
表示器は消えている。
ノインの声だけが聞こえた。
『起動まで十八秒』
「隔壁の隙間は三メートルくらいだ」
『私の胸部幅は三・一メートルです』
「装甲を擦れば通る」
『右肩断面の駆動索が隔壁へ接触する可能性があります』
「先に切る」
『切断した場合、将来の右腕接続に追加修理が必要です』
「将来の腕より、今の出口だ」
『合理的です』
切断器を握る。
右肩の断面から垂れた駆動索は三本。
ミラは搭乗口から身を乗り出し、手の届く二本を切った。
最後の一本は届かない。
「残りは、お前が通るときに引きちぎれ」
『損傷が拡大します』
「知ってる」
『起動まで三秒』
機体の奥で、何かが回り始めた。
最初は小さな振動だった。
やがて胸郭全体へ広がり、床を通して格納庫へ響く。
動力炉の回転音。
人工筋肉へ圧力が戻る。
消えていた表示器が、一つずつ点灯した。
『主動力炉を起動しました』
ノインが左手を床へついた。
右脚へ荷重を集める。
固定された左脚を引きずりながら、給電柱から身体を起こした。
胸部接続口から端子が抜け、床へ落ちる。
格納庫の暗闇に火花が散った。
「出口まで進め」
『隔壁通過時の損傷予測を表示します』
「見る必要はない」
『必要です』
正面表示へ警告が並んだ。
右肩骨格の変形。
胸部外装の剥離。
左背部冷却器への接触。
転倒可能性。
どれも低くはない。
「確認した。行け」
ノインは斜めに停止した隔壁へ近づいた。
左肩を下げる。
右肩の欠損部を上へ向ける。
九・四メートルの身体を、三メートルの隙間へ押し込む。
胸部装甲が隔壁へ触れた。
金属が削れる。
右肩の駆動索が引っかかる。
ノインは止まらなかった。
一本目が切れる。
二本目。
最後の太い索が伸び、胸部骨格を引いた。
『右肩内部に過剰荷重』
「あと少しだ」
『隔壁右側の油圧器が再加圧しています』
施設の予備電力が戻り始めていた。
斜めに止まっていた隔壁が動く。
噛み込んだ案内溝が軋む。
隙間が狭くなる。
「押せ!」
ノインが右脚の出力を上げた。
胸部が隔壁へ食い込む。
装甲板が大きく剥がれ、後方へ落ちた。
最後の駆動索が引きちぎれる。
ノインの身体が前へ抜けた。
直後、隔壁が案内溝から外れた。
巨大な板が背後へ落ちる。
轟音とともに、格納庫への道が塞がれた。
ノインは前へ倒れかけた。
左脚の支持桁が悲鳴を上げる。
ミラは操縦桿を左へ押した。
「壁を使え!」
ノインの左肩が通路壁面へ当たる。
コンクリートを削りながら、傾きを止める。
姿勢が戻った。
『転倒を回避しました』
「出口はどっちだ」
『施設図面を検索。南部貨物搬出口まで三百十二メートルです』
「防衛装置は」
『現在区画では反応を確認できません』
「なら、止まるな」
ノインは歩き始めた。
左脚を引きずるたび、固定した支持桁が床へ筋を刻む。
通路には放棄された貨物車と資材箱が並んでいた。
ノインはそれらを避けられない。
左足で押し退け、胸部で潰し、少しずつ進む。
途中、天井の一部が低くなっていた。
ノインは腰を曲げ、左手を床へつき、這うように通過した。
右腕があれば、もっと楽だったはずだ。
左脚が正常なら、もっと速かったはずだ。
主光学器が生きていれば、ミラが一つずつ瓦礫の位置を教える必要もなかった。
それでも進んだ。
三百十二メートルは、十三メートルより長かった。
だが今度は、動力炉が動いている。
そして二人とも、相手が何をできるかを少しだけ知っていた。
貨物搬出口の扉は、半分まで開いた状態で歪んでいた。
隙間の向こうから、灰色の光が差し込んでいる。
ノインが左手を扉へかけた。
『外気を確認。金属粉濃度が高い。風速毎秒十一・二メートル』
「灰風か」
『長時間の曝露により、関節摩耗と冷却効率低下が予測されます』
「地下に戻るよりましだ」
『同意します』
扉を押す。
錆びた蝶番が折れる。
外の光が一気に広がった。
灰色の空。
黒い山並み。
崩れた工場の煙突。
地面を這うように流れる鉄粉混じりの風。
ミラは搭乗口を開き、胸部の外へ顔を出した。
灰風が額の絶縁布を揺らす。
空気は乾き、焦げた石炭と錆の臭いがした。
遠く北西に、細い煙の柱が何本も上がっている。
都市の煙だ。
「リーヴァだ」
『距離を算出します』
「その目で測れるのか」
『地形記録と煙の角度から、推定二十七から三十三キロメートルです』
「歩けるか」
『現在の状態では不明です』
「分からないなら、分からないでいい」
『ただし、停止した場合は再始動用設備が必要です』
「リーヴァなら工場と発電所がある」
『軍用機装兵の受け入れを許可する保証はありません』
「お前は軍用機じゃない」
一拍置いて、ノインが答える。
『私の設計目的と構造は、軍用機装兵に該当します』
「街でそう名乗れば、入口で解体される。旧式の作業機だ」
『事実と異なります』
「事実を全部言って死ぬか、必要な分だけ言って生きるかだ」
『虚偽申告を推奨していると理解しました』
「理解が早いな」
『あなたは、私を売却する予定ですか』
ミラは答える前に、胸部装甲へ付着した灰を手で払った。
試作機なら値がつく。
制御核だけでも、一生分の食料と交換できるかもしれない。
相手を選ばなければ。
だが、都市まで辿り着けなければ、値段をつける者にも会えない。
「今は売らない」
『理由を要求します』
「お前がいないと、私はここから出られない」
『すでに地下施設からは脱出しています』
「盆地を一人で歩けば、回収業者に剥がされる。お前が立っていれば近づきにくい」
『合理的です』
「お前はどうだ。私を降ろすか」
『あなたがいなければ、左脚固定材の再調整ができません。右肩断面の処理も必要です。私はあなたを同行させる利益があります』
「なら決まりだ」
『何が決定したのですか』
「リーヴァまで、互いを使う」
ノインの琥珀色の光が、灰風の向こうにある煙を捉えた。
『受理します』
ノインが一歩を踏み出す。
左脚の支持桁が鳴る。
右股関節が低く唸る。
背部冷却器から、灰を含んだ空気が吐き出される。
機体の後ろには、壊れた地下施設の入口が残った。
前には、灰鉄盆地が広がっている。
九・四メートルの巨体が残す片寄った足跡のそばを、ミラの靴跡が続いた。
二人はまだ、互いを信頼してはいなかった。
ただ、どちらか一方だけでは、次の一歩を進めないことを知っていた。




