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灰鉄のノイン~十三メートルから始まる機装兵戦記~  作者: 本の寄生虫
第一章 灰鉄盆地と自治都市リーヴァ

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十三メートル

戦争が終わって三か月後も、地下では終戦を告げるものがなかった。


照明は消え、時計は止まり、命令だけが生き残っていた。


ミラ・ハーシェルが最初の隔壁をこじ開けたとき、扉の向こうから流れ出してきた空気は、古い油と焼けた絶縁材の臭いがした。湿気を含んだ冷気が頬を撫で、携帯灯の細い光の中で埃が舞った。


赤錆の浮いた隔壁には、かつて白かった文字が残っている。


第三地下整備施設。


第二種機密区画。


許可なき立ち入りを禁ず。


許可を出す軍はもう存在しなかった。


ミラは肩から下げた工具袋を持ち直し、隙間へ身体を滑り込ませた。背中の金属板が扉に当たり、乾いた音を立てる。立ち止まって耳を澄ませたが、返ってくるのは遠くで落ちる水滴の反響だけだった。


銃声はない。


人の声もない。


ならば、まだ進める。


地上へ戻ったところで、待っているものは灰風と、腹を空かせた回収業者と、所属証を要求する検問だ。失効した軍の身分証では、配給所の薄い粥一杯すら保証されない。


地下に残っているものが何であれ、売れるなら食料になる。使えるなら、なおよかった。


ミラは腰の鞘から短い解体棒を抜き、先端で床を叩きながら歩いた。


空洞音がした場所を避ける。


水の溜まった場所では携帯灯を低く向け、油膜の有無を見る。燃料が漏れていれば火花は出せない。天井の配管には何度も視線を走らせた。戦争末期の地下施設には、敵より危険なものがいくらでもある。


破裂寸前の蒸気管。


腐食した蓄電器。


感圧式の防衛装置。


それから、命令を失っても停止しなかった機械。


通路の先で、床が大きく陥没していた。


爆撃の衝撃が地下まで届いたのか、右側の壁が内側へ膨らみ、搬送用レールが波打っている。ミラは崩れた資材箱を踏み台にし、壁際の細い縁を渡った。


途中、軍用外套を着た人骨が一体、制御盤にもたれていた。


頭蓋骨の下に認証札が残っている。


ミラは拾わなかった。


死者の名前は売れない。軍の認証札は、今では持っているだけで旧軍残党と疑われる。


その先に、整備用の昇降路があった。


梯子は途中で折れていたため、吊り下がった電纜を手掛かりに降りる。手袋越しにも、被覆のひび割れが分かった。全体重を預けるたび、上方で金属が軋んだ。


床まで残り二メートルほどのところで、電纜が切れた。


ミラは落ちた。


肩から着地し、息が肺から押し出される。工具袋が床を打ち、中身が派手に散らばった。


数秒、身動きができなかった。


やがて痛みが骨折ではないと判断し、仰向けのまま悪態をついた。


「終戦っていうのは、整備まで勝手に終わることじゃないだろ」


天井の暗闇は答えなかった。


ミラは起き上がり、散らばった工具を拾った。六角軸が二本。切断器。手回し式の小型発電機。絶縁布。細線。検査針。使いかけの融着剤。


圧着具だけが見当たらない。


携帯灯で辺りを照らすと、三メートルほど先に転がっていた。


拾いに行き、そこで足を止めた。


圧着具の向こうに、巨大な指があった。


鉄の塊ではない。


人の手を模した、五本の指だった。


濃灰色の装甲に覆われ、関節の隙間から黒い人工筋肉束が覗いている。人間の胴ほどもある指先が床へ沈み、落下してきた天井材を受け止めていた。


ミラは灯りを上げた。


腕がある。


肩がある。


胸郭がある。


地下格納庫の暗闇の中に、一機の機装兵が膝をついていた。


全高は九メートルを超える。頭部は垂れ、胸部装甲の一部が焼け落ち、左肩から腰にかけて煤が走っている。右腕は肩の付け根から失われていた。断面には爆発で引きちぎられた痕跡があり、複数の駆動索が黒く垂れている。


残った左腕だけが、崩落した梁を支えていた。


その下には、押し潰された整備架台と作業員用の通路があった。


人を守った姿勢にも見えた。


あるいは、単に倒れかけたところへ梁が落ちたのかもしれない。


ミラはまず足を見た。


右脚は外見上、大きな損傷がない。左脚は膝装甲が割れ、脛部の外板がめくれている。足首の駆動器から漏れた潤滑油が、床に乾いた筋を作っていた。


腰部の装甲には、見慣れない軍の試験標章があった。


量産機ではない。


通常、試作機には技術者が群がっている。運用記録を取る者、保守責任を負う者、機密漏洩を防ぐ者。こんな地下で、誰にも回収されず放置されるようなものではない。


だからこそ、値打ちがある。


生きていれば。


ミラは携帯灯を口にくわえ、胸部の補助点検口へ近づいた。装甲の継ぎ目に指をかけるが、開かない。


解体棒を差し込む。


力を込める。


固着していた留め具が外れ、点検口が半ばまで開いた。内部から焦げ臭い空気が漏れる。


配線の規格は旧軍制式に見えたが、配置が違う。


予備制御線が多すぎる。信号束の一部は、通常なら操縦席へ向かうはずの位置から頭部と脊椎部へ分岐していた。


ミラは眉を寄せた。


操縦者を補助する構造ではない。


機体そのものが、何かを判断するための構造だった。


胸部奥に、緊急用の診断端子が見つかった。規格は知っている。ミラは工具袋から手回し発電機を取り出し、端子へ接続した。


電圧を最低に合わせる。


一度回す。


反応はない。


二度目。


診断灯が弱く明滅した。


三度目に回したとき、機装兵の頭部で何かが動いた。


ミラは手を止めた。


暗闇の中に、一本の赤い線が灯った。


主光学器ではない。補助光学器の起動光だ。


赤い線は細く震え、いったん消えた。数秒後、今度は弱い琥珀色で点灯する。


発電機のハンドルが急に重くなった。


電力を吸われている。


ミラは歯を食いしばり、回し続けた。


『外部電源を確認』


声がした。


女性の声だった。


若くも老いてもいない。感情の起伏を抑えた、明瞭な声。


地下の壁面に反響し、どこから発せられたのか分からない。


『供給電圧、不安定。規格外接続。認証を要求します』


ミラはハンドルを回す手を緩めなかった。


「認証できるものはない。軍は負けた。指揮系統も消えた」


沈黙があった。


機械が言葉の意味を照合しているような間だった。


『情報が不足しています。現在日時を提示してください』


「アルディア標準暦、二一七年、炉月の十二日」


『不整合を検出』


「そっちの時計が遅れてる」


『内部時計との差は九十一日、七時間、十九分です』


「だいたい合ってる。その間に戦争が終わった」


また沈黙した。


ミラは腕の筋肉が震え始めるのを感じた。手回し発電機は診断灯を点けるための道具であって、大型機装兵と会話を続けるためのものではない。


「話すなら早くしろ。私の腕が先に終わる」


『外部電源の供給停止を許可します。補助蓄電器に二分四十秒分を確保しました』


ミラは即座にハンドルから手を離した。


肩で息をしながら、機体を見上げる。


琥珀色の光は消えなかった。


機装兵が、こちらを見ている。


頭部そのものは垂れたままだったが、補助光学器だけがミラの移動を追尾した。


『所属と階級を申告してください』


「元アルディア軍機装兵整備部隊。下級技術兵、ミラ・ハーシェル。今は無所属」


『整備資格を照会します』


「照会先はもうない」


『資格証を提示してください』


「取得前に国がなくなった」


『正式資格なし』


「現場経験はある」


『証明できません』


「お前が動けば証明になる」


光学器の明滅が一度止まった。


返答までの時間が、先ほどより短い。


『合理的です』


ミラは思わず鼻で笑った。


「素直な機械だな」


『訂正します。私は機械という分類を否定しませんが、その呼称では対話対象を特定できません』


「じゃあ、何て呼べばいい」


『戦術適応型設計演算核・第九試験体。搭載機体はイグナート九式』


長すぎた。


軍は、兵器の名前を長くすれば機密性が上がるとでも思っていたらしい。


「第九試験体。ノインでいいか」


『ノイン』


声が、その音を確かめるように繰り返した。


『通称として受理します』


「私はミラだ。さっき言った」


『記録済みです、ミラ・ハーシェル』


「ハーシェルはいらない」


『ミラ。修正しました』


ミラは機体の左脚へ回り込んだ。


会話できるなら、制御核は生きている。制御核が生きていても、九メートルを超える鉄塊が動くとは限らない。


左膝の装甲へ手を当てる。


冷たい。


だが、完全に死んだ機械の冷たさではなかった。内部で微かな振動が続いている。


「損傷状況を出せるか」


『可能です』


「簡潔に」


『右腕がありません』


ミラは顔を上げた。


報告の形式が妙だった。


右腕部を喪失。


通常の診断人格ならそう答える。


「見れば分かる。他は」


『左脚部駆動率四一パーセント。主動力炉出力六二パーセント。主光学センサー損傷。外部通信不能。武装なし。弾薬なし。背部冷却器の第一系統は停止。第二系統は出力制限下で使用可能。胸部装甲に貫通損傷。記憶領域の一部に読出不能区画があります』


「動力炉が六二パーセントなら、どうして止まってる」


『主動力炉は安全停止中です。再起動には外部始動電力が必要です』


「予備蓄電器は」


『始動に必要な容量を下回っています』


「外部電源はどこだ」


『当格納庫の北側壁面。予備電源設備まで十三・二メートルです』


ミラは携帯灯を向けた。


格納庫の北側には、大型機用の給電柱が立っている。機体からの距離は、目測で十三メートルほど。


だが、その間には崩れた整備架台、落下した装甲板、切断された搬送レールが横たわっていた。


機体用の給電線は壁面に巻き上げられている。


人間が引き出せる太さではない。


ノインが歩いて接続口まで行かなければならない。


ミラは左脚をもう一度見た。


「自力で歩けるか」


『現在の制御設定では不可能です』


「設定を変えれば」


『可能性があります』


「どのくらい」


『前提条件が不足しています』


「現物を見ろ」


『主光学センサーが損傷しています。左側補助光学器の視野は正常時の一七パーセントです。左脚内部の詳細は確認できません』


「自分の脚だろ」


『はい。私の左脚です。しかし、内部感覚の一部が断線しています』


ミラは返す言葉を失った。


自分の脚。


比喩ではないらしい。


ミラは腰を落とし、めくれた脛装甲の隙間へ携帯灯を差し込んだ。奥に人工筋肉束が見える。三本が切断。二本は熱で収縮し、硬化している。膝から足首へ向かう主駆動索には、表面剥離があった。


触れようとして、手を止める。


「今から左脚を調べる。感覚はあるか」


『圧力感覚は部分的にあります。痛覚に相当する損傷警告は、現在抑制されています』


「解除しろ」


『理由を要求します』


「触った場所とお前の警告が一致すれば、断線位置を絞れる」


短い沈黙。


『合理的です。損傷警告の抑制を解除します』


ミラは駆動索へ指を当てた。


『警告。左下腿、駆動索外被への接触』


少し上へ移す。


『警告。信号不明瞭』


さらに上。


『検出不能』


「ここから死んでるな」


ミラは装甲の縁へ解体棒をかけた。焼けて変形した留め具を一本ずつ外していく。


三本目で棒が滑り、手袋の掌を擦った。


六本目は動かなかったため、小型切断器を使った。青白い火花が散り、格納庫の暗闇に機体の輪郭が浮かぶ。


胸部は厚い。


腰は細い。


脚部は量産型より長く、膝関節の位置が高い。速度と姿勢変更を重視した設計に見えるが、今はその長い左脚が重荷になっていた。


装甲板を外すと、損傷の全体が見えた。


膝関節の補助軸が曲がっている。


人工筋肉だけを交換しても動かない。


正規修理なら関節を分解し、軸を抜き、加工し直す。吊り上げ設備と工場が必要だ。今のミラには手工具しかない。


十三メートルどころか、一歩目で膝が折れる可能性がある。


ノインが尋ねた。


『修復可能ですか』


「修復は無理だ」


補助光学器の光量が僅かに落ちた。


電力節約か。


それとも、その言葉に反応したのか。


『了解しました』


「話は最後まで聞け。直すのは無理だ。だが、歩かせるだけなら手はある」


光量が戻った。


『提案を要求します』


「曲がった補助軸は戻せない。固定する。膝の可動域を殺して、左脚を棒みたいに使う」


『その場合、通常歩行制御は成立しません』


「通常歩行を捨てろ」


『転倒確率が増加します』


「転ばないように、お前が別の歩き方を考える」


『私の制御変更だけでは、固定加工を実施できません』


「加工は私がやる」


『あなたの加工精度を確認できません』


「私も、お前の制御精度を確認できない。条件は同じだ」


『同一ではありません。転倒時、あなたが機体周辺に存在すれば死亡する可能性があります』


「お前も壊れるだろ」


『私の損傷と、あなたの死亡は同じではありません』


即答だった。


ミラは切断器を止めた。


この機械は、自分を人間だと思ってはいない。


だからといって、単なる物として扱うには、返答があまりに明確だった。


「死にたくないなら、転ばない方法を出せ」


『私は死という語を、機能停止と同義には使用していません』


「面倒だな、お前」


『その評価は移動計画に必要ですか』


「必要ない」


『では省略を推奨します』


ミラは口元を歪めた。


愛想はない。


だが、嘘もないらしい。


ミラは格納庫を見回した。


使える資材を探す。


曲がった搬送レール。


整備架台の支柱。


油圧配管。


吊り下げ鎖。


どれも重すぎるか、太すぎる。


壁際に、破損した小型作業機が倒れていた。工場内で資材を運ぶ二脚式の機械だ。操縦席は潰れているが、左脚の支持桁は残っている。


長さは足りる。


鋼材の厚みもある。


ミラは解体棒を肩へ担いだ。


「資材を取ってくる。補助電源はあと何分だ」


『一分三十八秒』


「短いな」


『あなたが会話を継続したためです』


「お前も答えただろ」


『対話は起動直後の状況把握に必要でした』


「今は」


『あなたの作業中、私は制御変更を行います。音声出力を停止します』


「そうしてくれ」


琥珀色の光が細くなった。


完全には消えない。


ミラは作業機へ向かい、支持桁の接続部を調べた。留め具は四本。二本は錆び、一本は折れている。最後の一本だけが生きていた。


切断器を当てる。


火花。


金属臭。


融けた鋼が床に落ちる。


切り離した支持桁は、一人で持ち上げるには重すぎた。ミラは吊り下げ鎖を通し、崩れた架台を支点にして少しずつ引いた。


鉄が床を擦る音が格納庫に響く。


途中で鎖が外れ、支持桁が倒れた。


足先を掠めた。


ミラは後ろへ跳び、尻餅をついた。


「くそっ」


『負傷を確認します』


停止していたはずの声がした。


「制御変更中じゃなかったのか」


『転倒音を検出しました』


「私じゃない。鉄骨だ」


『歩行に影響する負傷は』


「ない。黙って計算してろ」


『了解しました』


再び沈黙する。


ミラは支持桁を睨んだ。


それから、自分を見ている補助光学器を一度だけ見上げた。


心配されたとは思わなかった。


利用可能な整備要員が壊れていないか確認しただけだ。


自分だって同じだった。


動かせる兵器だから直している。


価値がなければ、こんな重い鉄骨を引きずりはしない。


支持桁をノインの左膝まで運び、曲がった軸に沿わせた。長さを測り、二か所を切断する。固定には整備架台から外した帯鋼を使う。


本来なら加熱して巻き、ボルトで締結する。


加熱器はない。


ミラは手回し式の締め具と、作業機から外した油圧管を組み合わせた。圧着力は不足する。ならば締結点を増やす。


四点。


五点。


六点。


作業が進むにつれ、手袋の中が汗で濡れた。地下の冷気が首筋を冷やす。


帯鋼の最後の一本を締めたところで、ミラは支持桁を蹴った。


鈍い音が返る。


動かない。


少なくとも、無荷重なら固定されている。


「ノイン。起きてるか」


『稼働しています』


「左膝を固定した。可動域はほぼゼロ。足首は生きてるが、横方向へ荷重をかけるな。支持桁は作業機用だ。お前の重量を受ける規格じゃない」


『固定状態を感覚入力から確認します。左膝の屈曲は二・三度以内。想定より小さい』


「悪いか」


『有利です。制御案を更新します』


「歩けるか」


『歩行という定義を変更する必要があります』


「進めれば何でもいい」


ノインは数秒黙った。


『右脚で立ち上がり、左脚を前方へ滑らせます。左脚への荷重時間を〇・七秒以内に制限し、その間に右脚を引き寄せます。歩幅は最大〇・四メートル。十三・二メートルの移動に、最低三十三回の荷重移行が必要です』


「途中の瓦礫は」


『現在の視野では完全に把握できません』


「私が見る」


『あなたが機体外にいる場合、進行中の位置修正を伝達できません』


「音声で指示する」


『通信遅延と誤認の危険があります』


ミラは頭部を見上げた。


「操縦席は使えるか」


『搭乗区画は使用可能です。ただし、内部主表示器の六一パーセントが停止しています。操縦系統は訓練用制限設定のままです』


「十分だ。入口は」


ノインの胸部で、小さな作動音がした。


左胸の装甲板が数センチ浮き、途中で止まる。


『開閉機構の出力が不足しています』


「手で開ける」


『重量は百八十六キログラムです』


「全部持ち上げる必要はない。隙間があれば工具を入れられる」


ミラは胸部へ登った。


装甲の継ぎ目、点検用の足掛かり、露出した骨格を使う。九メートルの機装兵は、立っていなくても高い。腰を過ぎた辺りで床を見ると、携帯灯の明かりが小さく見えた。


右肩の断面には近づかなかった。


切れた駆動索が予期せず動けば、人間の腕など簡単に巻き込まれる。


胸部装甲の隙間へ解体棒を差し込み、体重をかける。


装甲板は動かない。


足場を変え、もう一度押す。


金属が軋む。


『警告。胸部外装へ過剰な荷重が加わっています』


「開けないと乗れない」


『外装の変形が拡大します』


「もう穴が開いてる。少しくらい増えても同じだ」


『同じではありません。亀裂が内部骨格へ到達する可能性があります』


「なら、お前も開閉器へ電力を回せ」


『補助電力を消費します』


「使わないまま止まるよりましだ」


一瞬の間を置き、内部で駆動音が響いた。


ミラが押す。


装甲板が二十センチ持ち上がった。


肩を入れる。


さらに押す。


最後は機構が自重を支え、搭乗口が開いた。


内部は狭かった。


量産型の操縦席とは違う。操縦桿や足踏み板が少なく、代わりに左右の壁面へ多数の表示器が埋め込まれている。その半分以上が暗い。


中央に一人分の座席。


座席の周囲を保護枠が囲み、身体を固定する帯が垂れていた。


壁面には乾いた血が残っている。


搭乗者がいた。


脱出できたのか、運び出されたのかは分からない。


ミラは指で血痕に触れず、座席へ身体を滑り込ませた。


『生体信号を検出。搭乗者認証を要求します』


「認証できないって言っただろ」


『緊急時暫定登録を実施します。氏名を確認。ミラ』


「合ってる」


『攻撃権限は付与できません』


「武器がないなら関係ない」


『機体の移動、出力配分、経路選択について、搭乗者の承認を要求します』


「承認する」


『回答が早すぎます。危険説明を開始します』


「必要ない」


『必要です』


ノインの声は変わらない。


だが、その一言だけは拒否だった。


『左膝固定材の強度は不明。左脚への荷重中に固定が破断した場合、転倒を回避できません。右腕欠損により、転倒時の支持動作は不可能です。胸部装甲の損傷により、正面転倒時には搭乗区画が破壊される可能性があります。主動力停止中のため、各駆動器の応答速度は通常時の二八パーセントです』


「成功率は」


『現時点では算出不能です』


「じゃあ、失敗率は」


『同様です』


「ずいぶん役に立つ説明だな」


『不明なものを既知として提示することはできません』


ミラは固定帯を引き寄せた。


金具が錆びていたので、二度引いて強度を確かめる。


「それでいい」


『意味を確認します』


「分からないなら、分からないと言え。都合のいい数字を出すな」


『了解しました』


「それから、私も言っておく。左膝の固定は正規の加工じゃない。最初の一歩で外れるかもしれない。三十三歩は持たないかもしれない。私は試作機の構造を知らない。失敗すれば、お前の脚を完全に壊す」


『それでも、予備電源まで移動できる可能性は残ります』


「そういうことだ」


『あなたは危険を隠していません』


「隠して成功率が上がるか?」


『上がりません』


「なら、言う」


暗い表示器の一部に光が入った。


正面映像は砂嵐のように乱れ、左下の狭い範囲しか映っていない。距離表示は何度も欠けた。


ノインが、残存している機能を一つずつ起動していく。


姿勢角。


右脚荷重。


左脚推定荷重。


胸部傾斜。


搭乗区画の保護状態。


どれも正常域から外れていた。


ミラは操縦桿に手を置いた。


「私は機体を動かす試験くらいしかしたことがない」


『記録しました』


「実戦操縦はない」


『現在、実戦行動は予定されていません』


「そうだな」


『移動のみです』


それは慰めではなく、事実の確認だった。


ミラにはその方がよかった。


「立てるか」


『立ち上がり動作を再設計しました。右脚出力を一時的に上限の一二四パーセントまで引き上げます』


「壊れないか」


『右股関節の残存寿命が推定三・六パーセント減少します』


「他の案は」


『左脚にも荷重を分配する案があります。固定材の破断危険が増加します』


「右脚を使え」


『承認を確認』


機体の奥で、低い振動が始まった。


停止していた油圧器へ圧力が戻り、配管の中を液体が走る。胸郭の左右で、何かが順番に噛み合う。


巨体が軋んだ。


ノインの残った左手が、支えていた梁を押し返す。


梁の上から砂と小石が降り注いだ。


右脚の駆動器が唸る。


身体が数センチ浮く。


直後、警告音が鳴った。


『右足部、接地圧偏位』


「踵の下に装甲片がある。右へ三センチずらせ」


『視認できません』


「私が見た。やれ」


右足が僅かに動く。


床を擦る震動が座席へ伝わる。


姿勢角の表示が一度跳ね、戻った。


『接地状態を改善』


「今度は真上だ」


『立ち上がります』


機体が持ち上がった。


膝立ちから、中腰へ。


さらに上へ。


九・四メートルの身体が、三か月ぶりに自重を取り戻していく。


崩れた天井が近づき、胸部装甲の上を瓦礫が滑り落ちた。左腕が梁から離れる。


自由になった梁が床へ落ちた。


轟音。


格納庫全体が揺れる。


その衝撃で左脚の支持桁が軋んだ。


『固定材に変位』


「どのくらい」


『推定二ミリ』


「それなら持つ」


『根拠を要求します』


「音だ。帯鋼が切れる音じゃない」


『音響情報を記録します』


「後で勝手に勉強しろ。今は前だ」


ノインは立った。


完全な直立ではない。


左脚を前へ突き出し、右膝を曲げ、胸部をわずかに右へ傾けている。右腕を失った分の重心を、左腕と腰の捻りで補っていた。


その姿は兵器というより、折れた骨を庇う獣に近かった。


正面表示に、給電柱の影が映る。


十三・二メートル。


ミラは息を整えた。


「一歩目」


『左脚を移動します』


左足が床から浮いた。


膝が曲がらないため、腰を持ち上げ、脚全体を振り子のように前へ送る。足裏が瓦礫へ触れ、滑った。


「止めろ。左へ十センチ。そこはレールだ」


『修正します』


足が動く。


固定した膝から、帯鋼の軋みが伝わる。


『接地』


「荷重を移せ」


『固定材の状態を監視。荷重二〇パーセント。三五。五〇』


支持桁が低く鳴った。


「そこで止めるな。一気に行け」


『六五。右脚を移動します』


巨体が前へ傾いた。


表示器の地平線が大きく傾く。


ミラの身体が固定帯へ押しつけられる。


右脚が床を離れた。


一瞬、全重量が壊れた左脚へ乗った。


帯鋼が悲鳴を上げる。


ノインが右脚を前へ引き寄せ、踏み下ろした。


衝撃。


姿勢が戻る。


『一回目の荷重移行を完了』


ミラは握っていた操縦桿から手を離し、掌を開いた。汗で濡れている。


「あと三十二回」


『現時点の移動距離は〇・三六メートルです。残距離は十二・八四メートル』


「細かいな」


『距離は重要です』


「なら、次」


二歩目。


左脚を滑らせる。


右脚を寄せる。


三歩目で、左足が小さな装甲片を踏んだ。


足裏が傾く。


『姿勢偏位』


「右へ倒すな。胸を左へ」


『左側には瓦礫があります』


「当てろ。左肩で受けろ」


『左肩外装が損傷します』


「転ぶより安い」


ノインは左肩を壁へ当てた。


鈍い衝撃。


胸部の傾きが止まる。


『外装に新規損傷。移動継続は可能』


「なら続けろ」


四歩目。


五歩目。


六歩目。


一歩進むたび、機体のどこかが鳴った。


装甲板が擦れ、人工筋肉が引き攣り、駆動器が不均等な回転音を上げる。


ノインはすべてを報告した。


右股関節の温度上昇。


左足首の出力低下。


胸部傾斜の増大。


補助電力の残量。


不都合な情報も省かなかった。


ミラも、見えたものをすべて伝えた。


床の亀裂。


瓦礫の高さ。


支持桁のずれ。


帯鋼の変色。


どちらも、相手を信用してはいなかった。


だが、相手の情報を無視できるほど、自分だけでは足りなかった。


九歩目で、補助表示器が一つ消えた。


『補助電力残量、一九パーセント』


「給電柱まで」


『九・七メートル』


「足りるか」


『現在の消費率では不足します』


「何を切れる」


『音声出力。損傷記録。搭乗区画環境制御。左側補助光学器』


「目は残せ。環境制御を切れ」


『搭乗者の体温上昇が予測されます』


「今は寒いくらいだ」


『損傷記録を停止します』


「待て。それは残せ」


『理由を要求します』


「同じ壊れ方をしたときに使える」


『現在の移動成功率を優先すべきです』


「記録を消して成功しても、次に直せない」


数秒の沈黙。


機体は止まったまま、右脚だけで重量を支えている。


『記録を継続。音声出力を最低化。環境制御を停止します』


送風音が消えた。


搭乗区画の空気がすぐに重くなる。


ミラは上着の襟を開いた。


「次」


ノインの返答は、先ほどより小さかった。


『移動を継続します』


十歩目。


十一歩目。


十二歩目。


左膝の固定材が、少しずつ上へずれている。


ミラは表示器ではなく、側面の点検窓から直接脚を見た。視野は狭い。移動のたび、梁と瓦礫が横切る。


十五歩目。


帯鋼の一本が浮いた。


「止まれ」


機体が静止する。


『異常を報告してください』


「上から二本目の帯鋼が外れかけてる」


『左脚への次回荷重で破断する可能性があります』


「直す」


『機体外へ出ることを推奨しません』


「このまま進めるか」


『推奨できません』


「なら、出る」


『補助電力の残量は十一パーセントです。搭乗口の再開閉に必要な電力を確保できません』


ミラは胸部装甲を見た。


内側に手動解放器がある。


開ければ閉じられない。


開いたまま移動すれば、転倒時の危険はさらに上がる。


「開けろ」


『危険です』


「知ってる」


『外部作業中に電力が尽きれば、私は姿勢を維持できません』


「右脚の固定は」


『無電力状態では油圧が低下します。四十七秒から七十二秒で転倒します』


「四十秒で戻る」


『あなたの作業時間を確認できません』


「私も確認できない」


『代替案があります』


「言え」


『左膝の固定を放棄します。以降は左脚を接地させず、左肩を壁面へ接触させながら右脚のみで跳躍に近い移動を行います』


「何回持つ」


『右股関節は推定六回から九回。給電柱までは現在七・六メートルです。必要回数は最低十一回』


「却下だ」


『外部作業も成功は保証できません』


「成功するようにやる」


『根拠は』


「私が整備員だからだ」


根拠になっていない。


だが、ノインは反論しなかった。


胸部装甲が開く。


ミラは固定帯を外し、外へ這い出た。


格納庫の床は遠い。


左肩が壁へ接触しているため、機体は僅かに傾いていた。胸部から左脚までは、装甲の突起を伝って降りられる。


ミラは切断器と締め具だけを腰へ吊った。


降りる。


八秒。


十二秒。


足が腰装甲へ着く。


二十秒。


左大腿へ移る。


機体が小さく震えた。


『残圧低下』


「数えるな。焦る」


『必要情報です』


二十七秒。


膝へ到達。


帯鋼は予想より悪かった。留め具が折れている。締め直せない。


ミラは浮いた帯鋼を切断した。


代わりに、下の二本をずらして荷重を分ける。


締め具をかける。


回す。


固い。


三十二秒。


『姿勢維持限界まで推定二十二秒』


「十分」


嘘だった。


締め具が途中で止まる。


ねじ山に鉄粉が噛んでいる。


ミラは一度緩め、袖でねじを拭い、もう一度回した。


三十九秒。


『右膝の圧力が低下』


機体が沈んだ。


数センチ。


だが九メートルの身体では、その僅かな沈下も大きな揺れになる。


ミラは左脚へしがみついた。


『ミラ、退避してください』


「まだだ」


『転倒危険が増加しています』


「分かってる」


締め具を回す。


掌の皮が手袋の中で擦れた。


四十四秒。


『作業を中止してください』


「お前、命令できる立場か」


『命令ではありません。危険の通知です』


「なら聞いた」


最後の一回転。


留め具が噛んだ。


ミラは支持桁を蹴る。


動かない。


「固定した。圧を戻せ」


『補助電力を使用します』


ノインの身体が強く震えた。


右脚の油圧が戻り、沈下が止まる。


『姿勢を維持』


「私が戻るまで、そのまま」


『了解しました』


登る。


腕が重い。


息が切れる。


行きより時間がかかる。


胸部装甲まで戻ったとき、ミラの指はほとんど動かなかった。搭乗口へ転がり込み、座席の縁に肩をぶつける。


固定帯を締める。


「戻った」


『生体信号を確認』


「残りは」


『補助電力、五パーセント。距離七・六メートル』


「足りないな」


『はい』


ミラは正面表示を見た。


給電柱の輪郭は、まだ遠い。


周囲には使えそうな外部電源もない。


手回し発電機は最初の場所に置いたままだ。取りに戻る余裕はない。


ノインが言った。


『提案があります』


「聞く」


『左脚固定の改善により、一歩当たりの荷重時間を延長できます。歩幅を〇・四メートルから〇・六メートルへ拡大します』


「固定材の寿命は」


『短縮します』


「給電柱までは持つか」


『不明です』


「右脚は」


『出力上限を一四〇パーセントへ引き上げます。到達後、右股関節に恒久的な損傷が残る可能性があります』


「他は」


『記憶領域の保全機能を一時停止し、電力を駆動制御へ転用します』


ミラは顔を上げた。


「何が消える」


『不明です。破損区画に近い記録から損失する可能性があります』


「戦闘記録か」


『人格形成記録を含みます』


「人格形成記録って何だ」


『開発者との対話、試験搭乗者の評価、自己改変履歴、判断基準の形成過程です』


「それを消したら、お前はどうなる」


『機体制御能力への影響は限定的と予測されます』


「そうじゃない。お前がどうなる」


ノインは答えなかった。


表示器の隅で、補助電力が四パーセントへ落ちた。


「分からないなら、分からないと言え」


『分かりません』


ミラは歯を食いしばった。


停止すれば終わる。


記憶を守っても、再起動できなければ意味がない。


ノイン自身も同じ結論なのだろう。


だから提案した。


「保全機能は切るな」


『到達確率が低下します』


「不明だろ」


『はい』


「なら、別のものを切れ」


『切断可能な機能は残っていません』


「ある。会話だ」


『音声出力はすでに最低です』


「私への説明も止めろ。姿勢制御と脚だけに集中しろ」


『危険情報を伝達できません』


「表示器に出せ」


『あなたが見落とす可能性があります』


「見落とさない」


『保証できません』


「お前が私の加工精度を保証できないのと同じだ」


ノインは沈黙した。


それが音声出力を切った結果なのか、考えているのかは分からない。


やがて正面表示に、一行だけ文字が現れた。


《音声出力停止。移動制御へ移行》


ミラは操縦桿を握った。


「行け」


返事はない。


左脚が前へ出る。


歩幅は先ほどより大きい。


足裏が床を叩く。


荷重。


右脚が追いつく。


表示器に赤い警告が三つ浮かぶ。


ミラは読む。


右股関節温度。


左膝固定材変位。


胸部傾斜。


進める。


二歩目。


給電柱まで六・四メートル。


三歩目。


五・八メートル。


支持桁が軋む。


四歩目。


左膝の帯鋼が一本切れた。


警告が点滅する。


ミラは操縦桿を右へ倒し、胸を壁側へ寄せる。


左肩がコンクリートを削った。


進む。


五歩目。


補助電力三パーセント。


六歩目。


右股関節の温度表示が上限を越える。


七歩目。


左脚が接地した瞬間、支持桁が大きくずれた。


機体が前へ倒れかける。


ミラは操縦桿を引いた。


「右脚を出せ!」


音声入力が切れている。


ノインには届かない。


だが、右脚が出た。


床を踏む。


姿勢を戻す。


ノイン自身が同じ判断をした。


八歩目。


距離二・九メートル。


給電柱の基部が見える。


給電線は頭上に巻き上げられている。


到達しても、接続作業が必要だ。


右腕はない。


左腕だけで線を下ろし、胸部接続口へ差し込まなければならない。


九歩目。


補助電力二パーセント。


左足首の出力が落ちる。


足を持ち上げられない。


ノインは左脚を床へ引きずった。


固定材から火花が散る。


十歩目。


距離一・七メートル。


右脚が震える。


十一歩目。


給電柱は目の前だった。


だが、左足が瓦礫に引っかかった。


機体が止まる。


正面表示が赤く染まる。


補助電力一パーセント。


ミラは点検窓から下を見た。


左足の爪先に、切断された搬送レールが噛み込んでいる。


前には出せない。


後ろへ戻る電力もない。


給電線までは、左手を伸ばせば届く距離だった。


だが姿勢が低い。


あと半歩、前へ出なければならない。


ミラは操縦桿を見た。


ノインへ指示する方法は残っている。


操縦者入力。


動かすのはノインだが、方向と優先を伝えられる。


ミラは右前方への最大入力を入れた。


表示器に確認表示が出る。


《左脚拘束。転倒危険》


承認を求める表示。


ミラは押した。


右脚の駆動器が唸った。


ノインが身体を前へ投げ出す。


歩くのではない。


倒れる力を使って距離を稼ぐ。


左肩が給電柱へ衝突した。


胸部が傾く。


搭乗席が激しく揺れ、ミラの額が保護枠へぶつかった。


視界に白い光が散る。


それでも左腕は動いていた。


巨大な手が、壁面の給電線を掴む。


巻き上げ器を引き壊す。


太い電纜が落ちる。


左手が接続端子を胸部へ運ぶ。


角度が合わない。


一度、端子が装甲へ当たる。


補助電力表示が〇パーセントになる。


表示器が消えた。


駆動音が止まる。


ノインの左腕も止まった。


接続端子は胸部口の数センチ手前にあった。


「ノイン」


返事はない。


格納庫に、金属の冷える音だけが響く。


機体は給電柱へ寄りかかった姿勢で停止している。完全に倒れてはいない。だが、電力なしでは腕を動かせない。


端子は届いている。


差し込む者がいないだけだ。


ミラは固定帯を外した。


搭乗口は開いたままになっている。


胸部の外へ出る。


額から流れた血が片目に入った。袖で拭い、装甲の上を這う。


給電端子は、成人一人では持ち上げられない重量だった。


ただし、ノインの左手が支えている。


ミラがするのは、角度を変えることだけでいい。


端子へ両手をかける。


押す。


動かない。


足を胸部装甲の亀裂へかけ、全身で押す。


一センチ。


端子の案内溝が接続口へ触れる。


さらに押す。


腕が震える。


指が滑る。


ミラは端子へ肩を当てた。


「お前が十三メートル歩いたんだ」


誰に聞かせるでもなく、声が漏れた。


「最後の数センチくらい、私がやる」


息を止める。


押す。


端子が溝へ入った。


その瞬間、給電柱の上部で遮断器が作動した。


重い接点音。


青白い火花。


電纜が震える。


胸部の奥へ電力が流れ込む。


最初に灯ったのは、補助光学器だった。


琥珀色の光が暗闇を切る。


続いて胸部の内部で、複数の制御器が順番に起動した。


ミラの肩の下で、装甲が微かに振動する。


『外部電源を確認』


声が戻った。


ミラは端子へもたれたまま笑った。


安堵ではない。


まだ地下から出てもいない。


動力炉も起動していない。


この先に何が残っているかも分からない。


ただ、十三メートルを越えた。


それだけだった。


「遅い」


『音声機能の再起動を後回しにしました』


「そういうところは合理的だな」


『あなたの額に裂傷を確認します』


「浅い」


『治療が必要です』


「先にお前の炉を起こす」


『私の主動力炉起動には、予備電源から二分十二秒の給電が必要です』


「その間に傷を縛る」


『合理的です』


ミラは胸部装甲の上へ座り込み、工具袋から絶縁布を取り出した。細く裂き、額へ巻く。


ノインの左手はまだ給電端子を支えていた。


指先には、ミラが押した跡など残っていない。


それでも、最後の接続は一人ではできなかった。


ノインだけでも。


ミラだけでも。


地下施設のどこかで、電力が戻った。


遠くの配電盤から低い唸りが伝わり、天井の非常灯が一つ、また一つと赤く点灯していく。


暗闇に埋もれていた格納庫の全景が、鈍い赤の中へ浮かび上がった。


崩れた整備架台。


焼けた作業機。


押し潰された通路。


床に残る古い血痕。


そして、給電柱へ身体を預ける、片腕の機装兵。


警報音が鳴った。


最初は小さかった。


やがて施設全体へ広がる。


ミラは顔を上げる。


壁面の表示板に、赤い文字が流れた。


《未認証機体への給電を検出》


《保安封鎖を開始》


《自動防衛系統を再起動》


格納庫の奥で、重い隔壁が閉じ始めた。


さらに別の音がした。


床下の格納機構が開く音。


錆びついた機械が、長い眠りから起き上がろうとしている。


「ノイン」


『確認しています』


「動力炉の起動まで」


『一分五十三秒』


床の一部が左右へ割れた。


下から、砲身がせり上がってくる。


旧軍の施設防衛用自動砲台。


敵味方識別灯は赤。


こちらを敵と判定している。


「武器はないんだったな」


『ありません』


「私は実戦操縦をしたことがない」


『記録済みです』


「逃げ道は」


『隔壁閉鎖まで四十八秒。主動力炉起動まで一分四十六秒。通常の手段では間に合いません』


「なら、通常じゃない手を出せ」


琥珀色の光が砲台を捉えた。


ノインの声は静かだった。


『利用可能な設備を検索します』


ミラは切断器を握り直した。


「私も探す」


二十七年続いた戦争は終わった。


けれど地下では、まだ一つの命令が生きている。


侵入者を排除せよ。


それに対し、ミラとノインが共有している目的は、今のところ一つしかなかった。


ここから出る。


互いが何者なのかを決めるのは、その後でよかった。


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