五通の召集状
旧前線を越えてから、家の形が変わった。
灰鉄盆地では、工場の余材と貨車の外板をつないだ家が多かった。
西方側では石壁と急勾配の屋根が増える。
戦争中に焼けた場所だけ新しい煉瓦になり、無傷だった古い壁と継ぎ目を作っている。
《灰走》は、その継ぎ目の間を西へ進んでいた。
午後になるころ、線路は低い丘陵へ入った。
畑。
牧草地。
小さな果樹園。
砲撃痕は少ない。
それでも、一定の間隔で道路脇に石柱が立っている。
人名と数字。
戦没者の名だった。
『前方踏切に障害物』
ノインが言った。
ミラは工作車の扉から身を乗り出した。
列車の三百メートルほど先。
農道と線路が交わる踏切の中央で、一台の荷車が止まっている。
馬車ではない。
小型の蒸気牽引車。
後ろに二軸の荷台。
荷台には家具。
寝台。
木箱。
鍋。
椅子。
生活そのものを積んだような車だった。
「故障か」
『右後輪が軌条間へ落ちています』
オスカーの汽笛が三度鳴る。
牽引車の周りにいた人間が手を振った。
避けられないという合図。
《灰走》が制動に入った。
今度は正常だった。
前から順に制動がかかり、貨車同士が小さく押し合う。
低床貨車の支持架も軋む。
『胸部支持架、変位〇・七ミリ』
「まだ持つ」
列車は踏切の四十メートル手前で止まった。
オスカーと鉄路工員が前へ走る。
ミラも降りた。
ユリアが続く。
踏切には四人いた。
六十前後の女。
三十代の男。
十代後半ほどの少年。
そして、左袖を肘から下で折って留めた若い女。
牽引車の後輪は、踏切板を割ってレール脇の排水溝へ落ちていた。
「どかせるか」
オスカーが聞く。
片腕の女が答える。
「どかせるなら、とっくにやってる」
「積荷を下ろせ」
「全部下ろすのに一時間はかかる」
「列車を一時間止めるより早い」
「その前に車軸が折れる」
ミラがしゃがんだ。
右後輪。
落ちたときの衝撃で、車軸が曲がっている。
軸箱も割れていた。
「もう半分折れてる」
「だろ」
片腕の女が答えた。
「上げた瞬間に残りがいく」
ミラは牽引車の下を見る。
車台。
古い。
戦前の農業用。
荷台側はさらに古い軍用転用車。
「これでどこまで行く気だった」
「ケルン工業区」
「西へ?」
「ここから二十八キロ」
「この車軸じゃ無理だ」
「知ってる」
女は苛立ってはいなかった。
事実を言っているだけだった。
「だから困ってる」
ノインの声が、ミラの携帯端末から聞こえる。
『右後輪だけではなく、左後輪の軸受けにも異常があります』
四人が端末を見る。
少年の顔が硬くなった。
「誰だ」
ミラが低床貨車を指す。
「うちの機装兵」
『正確には、私はミラの所有物ではありません』
「今それを言うな」
片腕の女が低床貨車を見る。
固定鎖に縛られたノイン。
武装封印。
右腕なし。
左手三本。
「アルディア機か」
『はい』
女の母親らしい年配の女性が、一歩だけ後ろへ下がった。
少年は逆に前へ出る。
「戦ったことあるのか」
『あります』
「西方軍を殺した?」
ミラが少年を見る。
「いきなり聞くな」
『戦闘記録には、西方協約軍機への攻撃が含まれます。人間の死亡数については、完全な記録がありません』
少年は黙った。
片腕の女が彼の肩を掴む。
「やめな」
「でも」
「今は荷車だ」
その言い方を聞いて、ミラは女を見た。
作業を優先する声だった。
「牽引索で荷台だけ先に持ち上げる」
ミラは言った。
「車軸が折れるぞ」
「折っていい」
「何?」
「もう使えない。荷台を支えてから、右車輪ごと軸を切る。代わりに木を滑り材へする。踏切から出すだけならそれで足りる」
「その後、二十八キロどうする」
「知らない」
「冷たいな」
「列車を通す修理と、目的地まで走る修理は別だ」
片腕の女が、少しだけ笑った。
「まともな整備屋だ」
オスカーが《灰走》の前部へ戻る。
「牽引索を出す! 前部巻上機を使う!」
鉄路工員が索を運ぶ。
荷台の梁へ回す。
積荷はそのまま。
箪笥。
箱。
寝台。
全部が傾いている。
「この箪笥だけ降ろしてくれ」
年配の女が言った。
ミラが見る。
「重いのか」
「中身が割れる」
「何が入ってる」
「紙だよ」
「紙?」
女は答えなかった。
三十代の男と少年が箪笥を下ろす。
見た目より軽い。
だが大事に扱っている。
牽引索が張る。
荷台が僅かに浮く。
ミラは車軸へ切断器を当てた。
「もう少し上げろ!」
オスカー側で巻上機が動く。
荷台が傾く。
『荷台左側固定梁に腐食』
ノイン。
「どこ」
『後方から二本目。下側』
ミラが覗く。
塗料の下。
木梁と鋼板の間。
錆。
指で叩く。
鈍い。
「巻くの止めろ!」
索が止まる。
「梁を一本追加する。ここで引いたら千切れる」
片腕の女が見る。
「外から分かったのか」
「ノインが見つけた」
『映像上の変形から推定しました』
女は一瞬だけ低床貨車を見る。
「便利だな」
『用途によります』
「そうだろうね」
予備の軌条片を荷台下へ差し込む。
巻上索の力を木梁ではなく鋼材へ逃がす。
もう一度。
荷台が浮く。
車軸を切る。
金属が赤くなり、最後に重い音を立てて落ちた。
右後輪も外れる。
「木を」
村人の少年が、荷台から角材を持ってくる。
「それじゃ短い」
「じゃあこっち」
三十代の男が長い梁を一本抜こうとする。
年配の女が止めた。
「それは駄目だよ」
「一本くらい」
「駄目」
「何の梁だ」
ミラが聞く。
片腕の女が答えた。
「家の入口にあったやつ」
「家?」
「これから壊す家」
荷台の家具。
鍋。
寝台。
全部を運び出している。
引っ越しだった。
「何で梁だけ持っていく」
年配の女が言った。
「背丈の印があるからさ」
よく見ると、梁には細かい刻み傷があった。
日付。
名前の頭文字。
子供の成長を測った跡。
一番下から、一番上まで。
何十年分もある。
「別の木を使う」
ミラは言った。
鉄路工員が枕木を一本持ってくる。
荷台の右側へ固定。
即席の滑り材。
再び巻上機が動く。
車輪の代わりに木が地面を擦る。
荷台がゆっくり踏切から外れた。
線路が空く。
「通れる!」
鉄路工員が叫ぶ。
だが《灰走》はすぐには動かなかった。
オスカーが牽引車を見ている。
「このまま置いていくと、次の列車まで道を塞ぐ」
「線路は空いた」
「農道が塞がる」
「鉄道屋が道路まで気にするのか」
「町へ着いたら苦情が俺に来る」
オスカーは面倒そうに言った。
「最後尾貨車へ荷物を積む。次の停車地まで運ぶ」
片腕の女が眉を上げる。
「列車代は払えない」
「故障車を踏切から除去した費用として帳簿へ回す」
「それ、こっちが払うって意味じゃないのか」
「鉄道保全費だ」
「随分親切だね」
「二度と線路の上で壊れられたくないだけだ」
女は少し考えた。
「なら乗る」
家具を貨物車へ移すことになった。
その間に、ミラは箪笥の脇で水を飲んでいた。
年配の女が、箪笥を開ける。
中には衣服ではなく、紙束。
封筒。
古い証書。
配給票。
軍の通知。
変色した写真。
一番上に、同じ大きさの封筒が五通並んでいた。
すべて角が擦れている。
「召集状か」
ミラが尋ねた。
女は頷いた。
「最初は夫」
一通目。
戦争開始から二年目。
「次は兄さん」
片腕の女が言った。
二通目。
八年目。
「その次は私」
三通目。
十三年目。
ミラが女の左袖を見る。
「衛生隊?」
「工兵」
「腕は」
「橋を落とすときに持っていかれた」
三十代の男が四通目を指した。
「俺が十八年目」
「帰ったのは」
「半年前。停戦の少し前」
最後。
五通目。
紙が新しい。
終戦前年。
少年の名前が書かれていた。
ミラは彼を見る。
十七か十八に見えた。
「行ったのか」
少年が答える。
「訓練所まで」
「前線は」
「行く前に戦争が終わった」
年配の女が、五通を重ねる。
「二十五年だよ」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
「最初の一通から、最後まで二十五年。うちの家には、誰か一人はずっと軍にいた」
「夫は」
ユリアが尋ねた。
「帰ってこなかった」
「長男は」
「帰った。肺を悪くして、その三年後に死んだ」
「娘さんと、息子さんは戻った」
「ああ」
女は少年を見る。
「この子だけは、戦争に取られなかった」
少年の顔は、喜んでいるようには見えなかった。
「取られなかったんじゃない」
少年が言った。
「間に合わなかっただけだ」
片腕の女がすぐに言う。
「それでいい」
「よくない」
「何が」
「父さんも叔父さんも、母さんも軍へ行った。俺だけ何もしてない」
「戦争が終わったんだから、することがなくなったんだ」
「逃げたみたいだ」
女の声が硬くなる。
「誰から」
少年は答えない。
「死んだ奴からか?」
「……そうだよ」
「死んだ奴が、お前にも同じことをしろって言ったのか」
「知らない」
「なら勝手に言わせるな」
年配の女は五通の召集状を見ていた。
怒鳴らない。
止めもしない。
同じ会話を何度もしてきた顔だった。
ノインが携帯回線から言った。
『質問してもよいですか』
少年が端末を見る。
「俺に?」
『はい』
「何」
『あなたは、前線へ行きたかったのですか』
少年はしばらく黙った。
「分からない」
『では、戦争が継続していれば、行きましたか』
「召集されたら」
『命令だからですか』
少年の顔が少し険しくなる。
「みんな行ったからだよ」
『それは命令と異なりますか』
「違う」
『どのように』
「……知らない」
片腕の女が端末を見る。
「お前は命令を断れるのか」
『現在は、旧軍上位命令を拒否できるよう自己改変しています』
「現在は?」
『以前は、設計上の優先順位がありました』
「怖くなかったのか」
『改変には危険がありました』
「そうじゃない。命令を断るのが」
ノインは答えるまで時間を置いた。
『命令に従わないことそのものより、自分で選択した結果を引き受けることに不確実性があります』
片腕の女が笑った。
疲れた笑いだった。
「それを怖いって言うんじゃないの」
『そう分類してよいかは、まだ分かりません』
「相変わらず面倒だね」
ミラが口を挟む。
「西口でも言われた」
少年がノインを見る。
「もし命令を断って、誰かが死んだらどうする」
『後悔する可能性があります』
「なら従った方が楽じゃないか」
『はい』
「じゃあ何で断る」
ノインの返答は、すぐには来なかった。
『従った場合、その結果が私の選択ではなかったと考えることができます』
少年は黙る。
『その方が、結果への責任を小さく感じられる可能性があります』
「じゃあ、やっぱり楽だ」
『はい』
「なのに」
『楽であることと、選びたいことは一致しません』
片腕の女が、少しだけ目を細めた。
少年は召集状を見た。
最後の一通。
自分の名前。
命令。
行けと書かれている紙。
戦争があと数週間続けば、彼は行った。
それが自分の意思だったのか。
家族の二十五年に押されたのか。
国家の命令だったのか。
本人にも分からない。
年配の女が五通をまとめ、紐で結んだ。
「これを持っていくの、やめようかと思ったこともある」
「何で持っていく」
ミラが聞く。
「捨てたら、軍に行ったことしか残らない気がしてね」
「逆じゃないのか」
「これがあれば、軍へ行く前に家にいたって分かる」
女は入口梁を指した。
背丈の刻み。
「夫も、息子も、娘も、あの子たちも。最初から兵隊だったんじゃない」
ミラは何も言えなかった。
ノインが静かに尋ねる。
『召集状を、戦歴の記録としてではなく、それ以前の生活が存在したことを示す記録として保存しているのですか』
「そういう立派な言い方じゃないよ」
女は紙束を箪笥へ戻した。
「ただ、家にあったから持っていく」
『理解しました』
「本当に?」
『完全には』
「なら、そのまま覚えてな」
ミラが端末を見る。
また同じ言葉。
鉱山町のヨハンも言った。
記録するのではなく、覚えろ。
荷物の積替えが終わった。
牽引車は農道脇へ寄せられた。
壊れた右後輪と車軸は、後で村の鍛冶屋が回収するという。
家族四人は兵員車ではなく、貨物車の空き区画へ乗った。
家具の隣。
自分たちの荷物と一緒に。
「ケルン工業区へ仕事を探しに行くのか」
ミラが片腕の女へ聞いた。
「逆」
「逆?」
「工業区から帰ってきたところ」
ミラは眉を寄せた。
「じゃあ、なんで西へ」
「家を引き払って、西の親戚へ行く。工業区には仕事がない」
「工業都市だろ」
女は笑わなかった。
「戦争中はね」
《灰走》の汽笛が鳴る。
線路が空いた。
家族も乗った。
列車が再び動き始める。
踏切の脇に、壊れた牽引車だけが残る。
その向こうに、一軒の家が見えた。
戸口は開いている。
窓板も外されている。
もう誰も戻らない家。
入口から抜いた一本の梁だけが、貨物車に積まれている。
二十五年分の背丈の印とともに。
貨物車の中で、少年が最後の召集状を見ていた。
破らない。
捨てない。
軍へ行かなかった自分を、その紙へ書き足すこともできない。
ノインがミラへ内部回線を開いた。
『ミラ』
「何だ」
『戦争が終わったために軍へ行かなかった人間は、戦争へ参加した人間より責任が少ないのですか』
「知らない」
『では、価値が少ないのですか』
「それも知らない」
『あの少年は、自分をそのように評価していました』
「そう見えたな」
『合理的ではありません』
「そうだな」
『家族が生存を望んでいるにもかかわらず、自分だけ徴兵されなかったことを損失として扱っています』
「人は帳尻を合わせたくなることがある」
『何の帳尻ですか』
「知らない」
『先ほどから、回答が少なすぎます』
ミラは窓の外を見る。
丘陵の向こう。
煙突が増えている。
黒いもの。
赤錆びたもの。
煙を出していないもの。
「分からないことを無理に答えるなって、お前も覚えただろ」
ノインは黙った。
『はい』
「私も分からない」
『記録します』
「またそれか」
『訂正します』
一拍。
『覚えておきます』
ミラは少し笑った。
《灰走》は丘を下り始めた。
その先に広がる工業都市が、ようやく全体を見せる。
巨大な組立工場。
車両工場。
砲身加工棟。
弾薬倉庫。
戦時中に増設された労働者住宅。
鉄道引込線。
二十七年間の需要を受け止めるために膨らんだ街。
煙突は何十本もある。
煙を出しているのは、そのうち七本だけだった。
貨物車の片腕の女が、それを見て言った。
「あそこには、兵隊より戦争を必要としてた人間が多かった」
ミラが振り返る。
「どういう意味だ」
女は止まった工場群を見た。
「着けば分かる」
列車が速度を落とす。
工業都市の入口には、人が集まっていた。
数百人。
駅前。
工場門。
線路脇。
銃ではなく、札を持っている。
《仕事を返せ》
《工場を閉めるな》
《平和で飢えろというのか》
終戦から三か月。
戦争が終わって喜ばなかった者たちが、そこにいた。
《灰走》は、煙の止まった街へ入っていった。




