識別の残る村
旧ヴァルナ前線には、境界線がなかった。
地図にはある。
二十七年前の開戦時。
十六年前の冬季攻勢後。
九年前の西方反攻時。
終戦直前。
同じ土地に、時期の違う前線が何本も引かれている。
だが、《灰走》の窓から見えるのは、低い丘と、草に埋もれた鉄条網と、時折土から突き出した機装兵の骨格だけだった。
誰がどこまで進んだかを示していた塹壕も、今では雨水の溝と見分けがつかない。
『線路右側、百七十メートル。埋設物があります』
ノインが言った。
ミラは工作車の窓から外を見る。
「地雷か」
『形状だけでは断定できません』
「爆薬反応は」
『私に爆薬検出器はありません』
「役に立たないな」
『以前から搭載されていません』
「冗談だ」
『はい』
ミラは一瞬黙った。
「分かるようになったのか」
『あなたが同様の言い回しを使用する条件を記録しています』
「それは分かったって言うのか」
『まだ判断できません』
《灰走》は速度を落としていた。
前方に、小さな停車場が見える。
屋根だけの駅。
その向こうに村があった。
白い壁の家が二十軒ほど。
畑。
低い石垣。
新しく植えられた果樹。
戦争の痕跡が少ない。
少なく見えるだけだった。
村の入口には、四本の柱が立っている。
それぞれの上に、白く塗られた布板。
人間の背丈より高い位置から、風を受けて回っていた。
「旗か?」
ミラが尋ねる。
ユリアが窓へ近づく。
「識別布」
「誰に見せる」
「昔は空に」
ミラが見上げた。
雲しかない。
「アルディアの自律航空兵器が、この一帯で使われていた」
ノインの回線が静かになる。
《灰走》は停車場手前で止まった。
線路上に人がいる。
十人ほど。
農具を持った村人。
銃は二挺。
中央には、白髪の女が立っている。
彼女は列車へ近づかなかった。
オスカーが先頭車から降りる。
「どうした。通過予定は届けてある」
女が答える。
「聞いている。だが、最後尾の荷物については聞いてない」
視線は低床貨車へ向いていた。
ノイン。
固定された九・四メートルの身体。
旧アルディア軍の骨格。
「貨物じゃない」
オスカーが言う。
「もっと悪い」
女は即答した。
「自分で動くんだろ」
ユリアが前へ出る。
「武装は封印されています。監察局の管理下で——」
「監察局に用はない」
「列車を止める権限は、この村にはありません」
「線路の先が落ちている」
オスカーの顔が変わった。
「何だと」
「昨夜の雨で第三築堤が崩れた。村の連中が見つけた。知らせようにも電信線が死んでる」
「どの程度だ」
「西側斜面が三分の一。軌道は残ってるが、貨物列車を載せたらどうなるかは知らない」
オスカーは即座に鉄路工員を呼んだ。
「三人、見に行け。保線台車を出せ」
村の女が続ける。
「あの機械は村へ入れるな」
ノインの琥珀色が彼女を向く。
『理由を聞いてもよいですか』
女の表情が硬くなる。
「声まで女か」
『はい』
「誰がそうした」
『設計時に設定された人格特性です』
「そういう声で、避難勧告も流した」
沈黙。
村人の一人が、白い布板を見た。
「二十二年前だ」
白髪の女が言う。
「この辺りが西方軍の補給路になってたころ、アルディアの無人攻撃機が来た」
『機種は分かりますか』
「知らん」
「聞く必要あるか」
ミラが低く言う。
『同一系統の識別規則が残っている可能性があります』
「今は話を聞け」
ノインは黙った。
女が続ける。
「最初の三日は軍用車両だけを撃った。四日目、村の荷車を撃った。兵隊が徴発した馬車と同じ形だったからだ」
村の入口の石垣。
一か所だけ色が違う。
新しい石で積み直されている。
「五日目には、人間も撃った。西方軍が白い識別布を配った。屋根へ張れ、道を歩くときは頭上へ出せってな」
女が柱の白布を指した。
「それでも二人死んだ」
ユリアが尋ねる。
「識別が効かなかった?」
「風で布が裏返った」
誰もすぐには何も言わなかった。
「だから、ここでは旧軍の自律機を村へ入れない」
女はノインを見る。
「武器がなくてもだ」
『理解しました』
「理解したなら、黙って線路にいろ」
『そうします』
ミラが低床貨車を見る。
反論しない。
合理性を説明しない。
自分は別の機体だとも言わない。
白髪の女が少しだけ眉を動かした。
「名前は」
『ノインです』
「型式じゃなく?」
『名前として使用しています』
女は返事をしなかった。
鉄路工員が戻ってきたのは二十分後だった。
顔が悪い。
「築堤が空洞化してる。表面の軌道は残ってるが、下が抜けてる」
オスカーが尋ねる。
「修理は」
「石と土が要る。半日じゃ無理だ」
「迂回線は」
「戦争中の軍用側線が一本ある」
村人の一人が言った。
「丘の北を回る旧弾薬線だ」
オスカーが地図を広げる。
「ここか」
「そう。十五年使ってない」
「線路は残ってる?」
「途中までは」
「途中からは」
男は白髪の女を見る。
「村の共同放牧地を横切る」
「軌条を外したのか」
「戦争が終わったときに外した」
「三か月前だろ」
「終戦前から使ってなかった。枕木も燃料にした」
オスカーが頭を掻いた。
「列車を通すには、百二十メートル敷き直す必要がある」
「軌条なら《灰走》に予備がある」
ミラが言う。
「枕木は」
村人が答える。
「古い納屋を壊せば出る」
白髪の女が睨む。
「勝手に決めるな」
「列車が通れなければ、ここで二日止まる」
ユリアが言う。
「交易期限にも影響する」
「村には関係ない」
「機関車の水と石炭を消費する。給水はこの先十二キロまでない」
オスカーが続ける。
「こっちも困るが、線路を塞いだままなら次の列車も来ない。郵便も塩も医薬品もだ」
村人たちがざわめく。
白髪の女は黙った。
戦争が終わっても、鉄道は一つしかない。
「納屋は壊さない」
女は言った。
「北の防空壕に、旧軍の角材が残ってる。それを使え」
「どこの旧軍だ」
「西方だろうがアルディアだろうが、木は木だ」
ミラが少しだけ口元を動かした。
「同感だ」
作業が始まった。
鉄路工員。
防衛隊員。
村人。
予備軌条を貨物車から降ろす。
角材を運ぶ。
古い軍用側線へ敷く。
ノインは低床貨車に残った。
村へ入らないという約束を守っている。
『軌条間隔に誤差があります』
ミラの携帯端末へだけ声が入る。
「何ミリ」
『北側で七ミリ拡大』
ミラは新設区間を見る。
村人が並べた枕木。
鉄路工員が軌条を固定している。
「地面が柔らかいから、締めたら戻る」
『七ミリは許容値を超えています』
「貨車が一回通るだけなら持つ」
『《灰走》は十一両です』
「一回っていうのは編成一つだ」
『定義が曖昧です』
「現場では通じる」
ノインは少し黙った。
『軌条支持について、追加提案があります』
「言え」
『村側の石垣を一部解体し、路盤へ使用すれば安定します』
ミラは白髪の女を見る。
石垣。
畑を囲っている。
「却下」
『理由を要求します』
「戦争で壊れた石垣を、列車一台のためにまた壊すな」
『代替材では沈下量が増加します』
「なら速度を落とす」
『列車通過時間が増えます』
「増やせ」
『合理性は低下します』
「そうだな」
『それでも採用しますか』
「する」
ノインは数秒計算した。
『通過速度を時速四キロメートル以下に制限すれば、現状路盤でも推定荷重内です』
「それでいこう」
『了解しました』
作業は三時間続いた。
西日が傾き始める。
百二十メートルの仮設軌道が、少しずつ伸びていく。
最後の軌条を置こうとしたときだった。
村の北側。
丘の向こうから、甲高い警報音が聞こえた。
一度。
二度。
村人たちの動きが止まる。
「何だ」
エルナが銃へ手をかける。
白髪の女の顔から血の気が消えた。
「布を出せ!」
村人たちが走り出した。
家へ。
荷車へ。
畑へ。
柱の白布を回す。
子供を建物へ押し込む。
「何が来る!」
ミラが叫ぶ。
「防空壕へ入れ!」
『上空熱源を確認しました』
ノイン。
「種類!」
『小型。高度百九十。速度毎秒二十二メートル。旧アルディア軍哨戒無人機の可能性』
「二十二年前の奴がまだ飛ぶのか!」
『同一機体とは限りません』
丘の向こうから、黒いものが現れた。
翼ではない。
四枚の回転翼。
胴体の下に、小型銃。
表面は錆びている。
だが飛んでいる。
「全員伏せろ!」
エルナが叫ぶ。
無人機は村の上で旋回した。
白布。
屋根。
人間。
《灰走》。
低床貨車のノイン。
『識別信号を受信しました』
ノインが言った。
「お前を見つけたのか」
『旧アルディア軍機として照会されています』
「返すな」
『返答しなければ、敵味方不明として処理されます』
無人機の銃身が動いた。
向いた先はノインではない。
仮設軌道上にいる村人たち。
「白布があるぞ!」
ミラが叫ぶ。
『現在の識別規則では無効です』
白髪の女が凍りつく。
「何でだ」
『更新された戦術規則を使用しています。白布による非戦闘員識別は登録されていません』
「いつ更新された」
『最終更新時刻を照合――十一年前』
戦争中。
白布が配られた後。
規則が変わった。
村は知らなかった。
無人機の銃身が下がる。
『私が旧軍認証で停止命令を送れます』
「アハトの回線に触れるか」
『旧戦術網を使用します。第八設計核へ接続する可能性があります』
ミラは無人機を見る。
村人。
白布。
二十二年前の記憶。
ノインが村へ入らないと言った理由。
「私は止めた方がいいと思う」
『はい』
「お前の安全層はまだ不安定だ」
『はい』
「でも、あれを止める方法は」
『旧軍認証が最も速いです』
ミラは歯を食いしばった。
「決めろ」
『接続します』
白髪の女がこちらを見る。
「何をする!」
ミラが答える。
「あいつが旧軍回線へ入る!」
「また呼ぶ気か!」
「止めるためだ!」
「そんなものを信用できるか!」
無人機が射撃した。
土が跳ねる。
村人たちが伏せる。
一発は白い識別布の柱を折った。
『照会へ応答』
ノインの声が低くなる。
『戦術設計核第九。友軍機へ命令。射撃停止』
無人機が一瞬止まった。
銃身が上がる。
『命令拒否』
「何で!」
『私の指揮権が失効しています』
「戦争が終わったからか」
『違います。第九設計核の上位命令権が剥奪されています』
ノインが沈黙する。
次の瞬間。
『第八設計核から更新情報』
ミラの胸が冷えた。
「切れ!」
『まだです』
「ノイン!」
『無人機の個体鍵を取得します』
「アハトが入る!」
『三秒』
無人機が再び銃身を下げる。
今度は、村の防空壕入口。
『二秒』
ノインの琥珀色が激しく明滅した。
『一秒』
『個体鍵取得。切断』
通信が途切れる。
「止められるか!」
『直接命令を送ります』
ノインが再接続する。
今度は戦術網ではない。
取得した個体鍵を使った短距離信号。
『機体番号七一四。緊急整備命令。回転翼三番、過振動。即時着陸』
無人機が空中で揺れた。
射撃が止まる。
高度が下がる。
「故障してないだろ」
『整備命令に故障の事実確認は要求されません』
「嘘をついたのか」
『はい』
無人機が畑へ降りる。
着地脚が土へ触れる。
回転翼が止まる。
エルナの隊員が駆け寄り、銃身を固定する。
電源箱を開ける。
主蓄電器を抜く。
「停止!」
村に静けさが戻った。
折れた白布が地面で風に動いている。
ノインは何も言わない。
「ノイン」
ミラが呼ぶ。
『はい』
「アハトは」
『接続を試みました』
「入られたか」
『上位命令受理層への接続要求を拒否しました』
「遅延は」
『〇・二九秒増加』
「増えてるじゃないか」
『はい』
「だから反対した」
『理解しています』
「後悔してるか」
『いいえ』
ミラは口を閉じた。
白髪の女が、ゆっくり低床貨車へ近づいてきた。
村へ入れるなと言った女。
ノインの前、線路の外で止まる。
「今の機械は、お前の仲間か」
『旧軍分類上は、同陣営の無人機です』
「お前が止めた」
『はい』
「なぜ」
『村人を攻撃しようとしていたためです』
「それだけか」
ノインは少し考えた。
『あなたたちが私を村へ入れないと決めたことと、私があなたたちへの攻撃を止めることは、別の問題だからです』
女の目が細くなる。
「私たちは、お前を信用してない」
『理解しています』
「今もだ」
『解除を要求しません』
女は折れた白布を見た。
「二十二年前、あれを配った西方の将校は、これを出せば安全だと言った」
声に怒りはなかった。
疲れているだけだった。
「次の年、規則が変わったらしい。誰も教えに来なかった」
『はい』
「機械は命令通り動いた」
『はい』
「命令通り動くものほど、信用できないこともある」
ノインは答えなかった。
女が尋ねる。
「お前は、今の命令を無視したのか」
『第八設計核からの接続要求を拒否しました』
「それは正しい命令だったのか」
『旧軍規則上は、私より上位の命令です』
「じゃあ、なぜ従わない」
長い沈黙。
『私が従わないと決めたからです』
女はノインを見上げ続けた。
恐怖が消えたわけではない。
疑いも。
それでも、最初とは少し違う目だった。
「村へは入れるな」
『はい』
「だが、線路脇にいるのは構わない」
『ありがとうございます』
「礼を言われるほどじゃない」
女は踵を返した。
「それと、その飛ぶやつを置いていくな。二度と見たくない」
『回収を推奨します』
エルナが苦笑する。
「そこは意見が一致したな」
無人機は《灰走》の貨物車へ積まれた。
蓄電器を外し。
銃身を抜き。
回転翼も固定する。
ノインは制御記録の複製だけを受け取った。
その中には、二十二年間の断続的な作戦履歴が残っていた。
補給車。
軍用車両。
人間。
白布。
識別不能。
攻撃。
最後の十一年間は、誰も命令を更新していない。
それでも機械は古い規則を守り続けていた。
夕暮れ。
仮設軌道が完成する。
《灰走》が時速四キロで動き始めた。
一両ずつ。
機関車。
砲塔車。
兵員車。
貨物車。
工作車。
低床貨車。
村人たちは石垣の向こうから見ている。
新しい路盤が沈む。
三ミリ。
五ミリ。
軌条が僅かに開く。
『軌間、許容上限へ接近』
「速度はそのまま」
『減速を推奨します』
「止めたら一点へ荷重が残る。動かした方がいい」
『あなたの判断を採用します』
最後の低床貨車が仮設区間へ入る。
ノインの重量。
貨車。
支持架。
二重ばね。
すべてが、村の畑の脇を通る二本の軌条へ載る。
軌条が鳴る。
村の女が、石垣の前に立っている。
彼女の横には、折れた白布。
新しい布へ取り替えようとはしていなかった。
低床貨車が村の端へ差しかかる。
女が片手を上げた。
挨拶なのか。
出ていけという合図なのか。
ミラには分からなかった。
ノインは何もしなかった。
礼も要求しない。
識別信号も送らない。
ただ、通り過ぎる。
村が後ろへ遠ざかる。
『ミラ』
「何だ」
『質問があります』
「今日は多いな」
『私は、あの村から信用される必要がありますか』
ミラは少し考えた。
「何のために」
『今後、西方地域で活動するためです』
「それならあった方が楽だ」
『では、得るべきですか』
「知らない」
『あなたの判断を要求します』
「これは整備の話じゃない」
『はい』
ミラは窓の外を見る。
白布の村は、もう小さい。
「信用するかどうかは向こうが決める」
ノインが黙る。
「お前ができるのは、信用されるように振る舞うことじゃない」
『では何を』
「自分で決めたことをやって、その結果を残す」
『それで信用されない場合は』
「仕方ない」
『非効率です』
「人間相手はだいたいそうだ」
長い間。
『記録します』
「覚えろって言われただろ」
ヨハンの言葉。
簡単に答える奴ほど、また人を地下へ置き去りにする。
ノインの返事は少し遅れた。
『……はい』
《灰走》は旧前線を西へ進んだ。
白い布は、もう見えない。
代わりに遠くに町の煙突が現れる。
十本。
二十本。
戦争中に拡張され、終戦と同時に注文を失った工業都市。
煙を出しているものは、その半分にも満たなかった。
列車は、また別の戦後へ向かっていた。




