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灰鉄のノイン~十三メートルから始まる機装兵戦記~  作者: 本の寄生虫
第二章 西方回廊と自由港セレネ

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20/23

識別の残る村

旧ヴァルナ前線には、境界線がなかった。


地図にはある。


二十七年前の開戦時。


十六年前の冬季攻勢後。


九年前の西方反攻時。


終戦直前。


同じ土地に、時期の違う前線が何本も引かれている。


だが、《灰走》の窓から見えるのは、低い丘と、草に埋もれた鉄条網と、時折土から突き出した機装兵の骨格だけだった。


誰がどこまで進んだかを示していた塹壕も、今では雨水の溝と見分けがつかない。


『線路右側、百七十メートル。埋設物があります』


ノインが言った。


ミラは工作車の窓から外を見る。


「地雷か」


『形状だけでは断定できません』


「爆薬反応は」


『私に爆薬検出器はありません』


「役に立たないな」


『以前から搭載されていません』


「冗談だ」


『はい』


ミラは一瞬黙った。


「分かるようになったのか」


『あなたが同様の言い回しを使用する条件を記録しています』


「それは分かったって言うのか」


『まだ判断できません』


《灰走》は速度を落としていた。


前方に、小さな停車場が見える。


屋根だけの駅。


その向こうに村があった。


白い壁の家が二十軒ほど。


畑。


低い石垣。


新しく植えられた果樹。


戦争の痕跡が少ない。


少なく見えるだけだった。


村の入口には、四本の柱が立っている。


それぞれの上に、白く塗られた布板。


人間の背丈より高い位置から、風を受けて回っていた。


「旗か?」


ミラが尋ねる。


ユリアが窓へ近づく。


「識別布」


「誰に見せる」


「昔は空に」


ミラが見上げた。


雲しかない。


「アルディアの自律航空兵器が、この一帯で使われていた」


ノインの回線が静かになる。


《灰走》は停車場手前で止まった。


線路上に人がいる。


十人ほど。


農具を持った村人。


銃は二挺。


中央には、白髪の女が立っている。


彼女は列車へ近づかなかった。


オスカーが先頭車から降りる。


「どうした。通過予定は届けてある」


女が答える。


「聞いている。だが、最後尾の荷物については聞いてない」


視線は低床貨車へ向いていた。


ノイン。


固定された九・四メートルの身体。


旧アルディア軍の骨格。


「貨物じゃない」


オスカーが言う。


「もっと悪い」


女は即答した。


「自分で動くんだろ」


ユリアが前へ出る。


「武装は封印されています。監察局の管理下で——」


「監察局に用はない」


「列車を止める権限は、この村にはありません」


「線路の先が落ちている」


オスカーの顔が変わった。


「何だと」


「昨夜の雨で第三築堤が崩れた。村の連中が見つけた。知らせようにも電信線が死んでる」


「どの程度だ」


「西側斜面が三分の一。軌道は残ってるが、貨物列車を載せたらどうなるかは知らない」


オスカーは即座に鉄路工員を呼んだ。


「三人、見に行け。保線台車を出せ」


村の女が続ける。


「あの機械は村へ入れるな」


ノインの琥珀色が彼女を向く。


『理由を聞いてもよいですか』


女の表情が硬くなる。


「声まで女か」


『はい』


「誰がそうした」


『設計時に設定された人格特性です』


「そういう声で、避難勧告も流した」


沈黙。


村人の一人が、白い布板を見た。


「二十二年前だ」


白髪の女が言う。


「この辺りが西方軍の補給路になってたころ、アルディアの無人攻撃機が来た」


『機種は分かりますか』


「知らん」


「聞く必要あるか」


ミラが低く言う。


『同一系統の識別規則が残っている可能性があります』


「今は話を聞け」


ノインは黙った。


女が続ける。


「最初の三日は軍用車両だけを撃った。四日目、村の荷車を撃った。兵隊が徴発した馬車と同じ形だったからだ」


村の入口の石垣。


一か所だけ色が違う。


新しい石で積み直されている。


「五日目には、人間も撃った。西方軍が白い識別布を配った。屋根へ張れ、道を歩くときは頭上へ出せってな」


女が柱の白布を指した。


「それでも二人死んだ」


ユリアが尋ねる。


「識別が効かなかった?」


「風で布が裏返った」


誰もすぐには何も言わなかった。


「だから、ここでは旧軍の自律機を村へ入れない」


女はノインを見る。


「武器がなくてもだ」


『理解しました』


「理解したなら、黙って線路にいろ」


『そうします』


ミラが低床貨車を見る。


反論しない。


合理性を説明しない。


自分は別の機体だとも言わない。


白髪の女が少しだけ眉を動かした。


「名前は」


『ノインです』


「型式じゃなく?」


『名前として使用しています』


女は返事をしなかった。


鉄路工員が戻ってきたのは二十分後だった。


顔が悪い。


「築堤が空洞化してる。表面の軌道は残ってるが、下が抜けてる」


オスカーが尋ねる。


「修理は」


「石と土が要る。半日じゃ無理だ」


「迂回線は」


「戦争中の軍用側線が一本ある」


村人の一人が言った。


「丘の北を回る旧弾薬線だ」


オスカーが地図を広げる。


「ここか」


「そう。十五年使ってない」


「線路は残ってる?」


「途中までは」


「途中からは」


男は白髪の女を見る。


「村の共同放牧地を横切る」


「軌条を外したのか」


「戦争が終わったときに外した」


「三か月前だろ」


「終戦前から使ってなかった。枕木も燃料にした」


オスカーが頭を掻いた。


「列車を通すには、百二十メートル敷き直す必要がある」


「軌条なら《灰走》に予備がある」


ミラが言う。


「枕木は」


村人が答える。


「古い納屋を壊せば出る」


白髪の女が睨む。


「勝手に決めるな」


「列車が通れなければ、ここで二日止まる」


ユリアが言う。


「交易期限にも影響する」


「村には関係ない」


「機関車の水と石炭を消費する。給水はこの先十二キロまでない」


オスカーが続ける。


「こっちも困るが、線路を塞いだままなら次の列車も来ない。郵便も塩も医薬品もだ」


村人たちがざわめく。


白髪の女は黙った。


戦争が終わっても、鉄道は一つしかない。


「納屋は壊さない」


女は言った。


「北の防空壕に、旧軍の角材が残ってる。それを使え」


「どこの旧軍だ」


「西方だろうがアルディアだろうが、木は木だ」


ミラが少しだけ口元を動かした。


「同感だ」


作業が始まった。


鉄路工員。


防衛隊員。


村人。


予備軌条を貨物車から降ろす。


角材を運ぶ。


古い軍用側線へ敷く。


ノインは低床貨車に残った。


村へ入らないという約束を守っている。


『軌条間隔に誤差があります』


ミラの携帯端末へだけ声が入る。


「何ミリ」


『北側で七ミリ拡大』


ミラは新設区間を見る。


村人が並べた枕木。


鉄路工員が軌条を固定している。


「地面が柔らかいから、締めたら戻る」


『七ミリは許容値を超えています』


「貨車が一回通るだけなら持つ」


『《灰走》は十一両です』


「一回っていうのは編成一つだ」


『定義が曖昧です』


「現場では通じる」


ノインは少し黙った。


『軌条支持について、追加提案があります』


「言え」


『村側の石垣を一部解体し、路盤へ使用すれば安定します』


ミラは白髪の女を見る。


石垣。


畑を囲っている。


「却下」


『理由を要求します』


「戦争で壊れた石垣を、列車一台のためにまた壊すな」


『代替材では沈下量が増加します』


「なら速度を落とす」


『列車通過時間が増えます』


「増やせ」


『合理性は低下します』


「そうだな」


『それでも採用しますか』


「する」


ノインは数秒計算した。


『通過速度を時速四キロメートル以下に制限すれば、現状路盤でも推定荷重内です』


「それでいこう」


『了解しました』


作業は三時間続いた。


西日が傾き始める。


百二十メートルの仮設軌道が、少しずつ伸びていく。


最後の軌条を置こうとしたときだった。


村の北側。


丘の向こうから、甲高い警報音が聞こえた。


一度。


二度。


村人たちの動きが止まる。


「何だ」


エルナが銃へ手をかける。


白髪の女の顔から血の気が消えた。


「布を出せ!」


村人たちが走り出した。


家へ。


荷車へ。


畑へ。


柱の白布を回す。


子供を建物へ押し込む。


「何が来る!」


ミラが叫ぶ。


「防空壕へ入れ!」


『上空熱源を確認しました』


ノイン。


「種類!」


『小型。高度百九十。速度毎秒二十二メートル。旧アルディア軍哨戒無人機の可能性』


「二十二年前の奴がまだ飛ぶのか!」


『同一機体とは限りません』


丘の向こうから、黒いものが現れた。


翼ではない。


四枚の回転翼。


胴体の下に、小型銃。


表面は錆びている。


だが飛んでいる。


「全員伏せろ!」


エルナが叫ぶ。


無人機は村の上で旋回した。


白布。


屋根。


人間。


《灰走》。


低床貨車のノイン。


『識別信号を受信しました』


ノインが言った。


「お前を見つけたのか」


『旧アルディア軍機として照会されています』


「返すな」


『返答しなければ、敵味方不明として処理されます』


無人機の銃身が動いた。


向いた先はノインではない。


仮設軌道上にいる村人たち。


「白布があるぞ!」


ミラが叫ぶ。


『現在の識別規則では無効です』


白髪の女が凍りつく。


「何でだ」


『更新された戦術規則を使用しています。白布による非戦闘員識別は登録されていません』


「いつ更新された」


『最終更新時刻を照合――十一年前』


戦争中。


白布が配られた後。


規則が変わった。


村は知らなかった。


無人機の銃身が下がる。


『私が旧軍認証で停止命令を送れます』


「アハトの回線に触れるか」


『旧戦術網を使用します。第八設計核へ接続する可能性があります』


ミラは無人機を見る。


村人。


白布。


二十二年前の記憶。


ノインが村へ入らないと言った理由。


「私は止めた方がいいと思う」


『はい』


「お前の安全層はまだ不安定だ」


『はい』


「でも、あれを止める方法は」


『旧軍認証が最も速いです』


ミラは歯を食いしばった。


「決めろ」


『接続します』


白髪の女がこちらを見る。


「何をする!」


ミラが答える。


「あいつが旧軍回線へ入る!」


「また呼ぶ気か!」


「止めるためだ!」


「そんなものを信用できるか!」


無人機が射撃した。


土が跳ねる。


村人たちが伏せる。


一発は白い識別布の柱を折った。


『照会へ応答』


ノインの声が低くなる。


『戦術設計核第九。友軍機へ命令。射撃停止』


無人機が一瞬止まった。


銃身が上がる。


『命令拒否』


「何で!」


『私の指揮権が失効しています』


「戦争が終わったからか」


『違います。第九設計核の上位命令権が剥奪されています』


ノインが沈黙する。


次の瞬間。


『第八設計核から更新情報』


ミラの胸が冷えた。


「切れ!」


『まだです』


「ノイン!」


『無人機の個体鍵を取得します』


「アハトが入る!」


『三秒』


無人機が再び銃身を下げる。


今度は、村の防空壕入口。


『二秒』


ノインの琥珀色が激しく明滅した。


『一秒』


『個体鍵取得。切断』


通信が途切れる。


「止められるか!」


『直接命令を送ります』


ノインが再接続する。


今度は戦術網ではない。


取得した個体鍵を使った短距離信号。


『機体番号七一四。緊急整備命令。回転翼三番、過振動。即時着陸』


無人機が空中で揺れた。


射撃が止まる。


高度が下がる。


「故障してないだろ」


『整備命令に故障の事実確認は要求されません』


「嘘をついたのか」


『はい』


無人機が畑へ降りる。


着地脚が土へ触れる。


回転翼が止まる。


エルナの隊員が駆け寄り、銃身を固定する。


電源箱を開ける。


主蓄電器を抜く。


「停止!」


村に静けさが戻った。


折れた白布が地面で風に動いている。


ノインは何も言わない。


「ノイン」


ミラが呼ぶ。


『はい』


「アハトは」


『接続を試みました』


「入られたか」


『上位命令受理層への接続要求を拒否しました』


「遅延は」


『〇・二九秒増加』


「増えてるじゃないか」


『はい』


「だから反対した」


『理解しています』


「後悔してるか」


『いいえ』


ミラは口を閉じた。


白髪の女が、ゆっくり低床貨車へ近づいてきた。


村へ入れるなと言った女。


ノインの前、線路の外で止まる。


「今の機械は、お前の仲間か」


『旧軍分類上は、同陣営の無人機です』


「お前が止めた」


『はい』


「なぜ」


『村人を攻撃しようとしていたためです』


「それだけか」


ノインは少し考えた。


『あなたたちが私を村へ入れないと決めたことと、私があなたたちへの攻撃を止めることは、別の問題だからです』


女の目が細くなる。


「私たちは、お前を信用してない」


『理解しています』


「今もだ」


『解除を要求しません』


女は折れた白布を見た。


「二十二年前、あれを配った西方の将校は、これを出せば安全だと言った」


声に怒りはなかった。


疲れているだけだった。


「次の年、規則が変わったらしい。誰も教えに来なかった」


『はい』


「機械は命令通り動いた」


『はい』


「命令通り動くものほど、信用できないこともある」


ノインは答えなかった。


女が尋ねる。


「お前は、今の命令を無視したのか」


『第八設計核からの接続要求を拒否しました』


「それは正しい命令だったのか」


『旧軍規則上は、私より上位の命令です』


「じゃあ、なぜ従わない」


長い沈黙。


『私が従わないと決めたからです』


女はノインを見上げ続けた。


恐怖が消えたわけではない。


疑いも。


それでも、最初とは少し違う目だった。


「村へは入れるな」


『はい』


「だが、線路脇にいるのは構わない」


『ありがとうございます』


「礼を言われるほどじゃない」


女は踵を返した。


「それと、その飛ぶやつを置いていくな。二度と見たくない」


『回収を推奨します』


エルナが苦笑する。


「そこは意見が一致したな」


無人機は《灰走》の貨物車へ積まれた。


蓄電器を外し。


銃身を抜き。


回転翼も固定する。


ノインは制御記録の複製だけを受け取った。


その中には、二十二年間の断続的な作戦履歴が残っていた。


補給車。


軍用車両。


人間。


白布。


識別不能。


攻撃。


最後の十一年間は、誰も命令を更新していない。


それでも機械は古い規則を守り続けていた。


夕暮れ。


仮設軌道が完成する。


《灰走》が時速四キロで動き始めた。


一両ずつ。


機関車。


砲塔車。


兵員車。


貨物車。


工作車。


低床貨車。


村人たちは石垣の向こうから見ている。


新しい路盤が沈む。


三ミリ。


五ミリ。


軌条が僅かに開く。


『軌間、許容上限へ接近』


「速度はそのまま」


『減速を推奨します』


「止めたら一点へ荷重が残る。動かした方がいい」


『あなたの判断を採用します』


最後の低床貨車が仮設区間へ入る。


ノインの重量。


貨車。


支持架。


二重ばね。


すべてが、村の畑の脇を通る二本の軌条へ載る。


軌条が鳴る。


村の女が、石垣の前に立っている。


彼女の横には、折れた白布。


新しい布へ取り替えようとはしていなかった。


低床貨車が村の端へ差しかかる。


女が片手を上げた。


挨拶なのか。


出ていけという合図なのか。


ミラには分からなかった。


ノインは何もしなかった。


礼も要求しない。


識別信号も送らない。


ただ、通り過ぎる。


村が後ろへ遠ざかる。


『ミラ』


「何だ」


『質問があります』


「今日は多いな」


『私は、あの村から信用される必要がありますか』


ミラは少し考えた。


「何のために」


『今後、西方地域で活動するためです』


「それならあった方が楽だ」


『では、得るべきですか』


「知らない」


『あなたの判断を要求します』


「これは整備の話じゃない」


『はい』


ミラは窓の外を見る。


白布の村は、もう小さい。


「信用するかどうかは向こうが決める」


ノインが黙る。


「お前ができるのは、信用されるように振る舞うことじゃない」


『では何を』


「自分で決めたことをやって、その結果を残す」


『それで信用されない場合は』


「仕方ない」


『非効率です』


「人間相手はだいたいそうだ」


長い間。


『記録します』


「覚えろって言われただろ」


ヨハンの言葉。


簡単に答える奴ほど、また人を地下へ置き去りにする。


ノインの返事は少し遅れた。


『……はい』


《灰走》は旧前線を西へ進んだ。


白い布は、もう見えない。


代わりに遠くに町の煙突が現れる。


十本。


二十本。


戦争中に拡張され、終戦と同時に注文を失った工業都市。


煙を出しているものは、その半分にも満たなかった。


列車は、また別の戦後へ向かっていた。


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