第八設計核アハト
閉塞所まで、残り七百二十メートル。
作業機関車は、人間が走るより少し速い程度で保守路を進んでいた。
それ以上は出せない。
低床貨車の左前輪には欠けがある。
ノインを支える胸部支持架には亀裂。
急制動すれば、そのどちらが先に壊れるか分からない。
『起爆まで、推定十六分四十秒』
「さっき十八分だっただろ」
ミラは低床貨車の前端にしゃがみ、左前輪を見ていた。
『閉塞所から受信した時刻表示と、停止命令器を経由した内部時刻に十三秒の差があります。安全側へ補正しました』
「勝手に時間を減らすな」
『爆発側は、こちらの都合に合わせません』
「それはそうだ」
作業機関車の前方には、鉄道警備兵十二名。
グレンツも乗っている。
半数は閉塞所の人質救出。
残りは排水路へ入り、爆薬を探す予定だった。
だが、地図がない。
ノインが保持する旧軍規格図だけが頼りだった。
『閉塞所本棟の地下に、旧保守用横坑があります。信号室の西壁から換気塔基礎へ接続。その先で二股に分岐します』
グレンツが携帯板へ図面を書き写す。
「いつの図面だ」
『戦争開始前です』
「二十七年以上前か」
『はい』
「今も通れる保証は」
『ありません』
「役に立たんな」
『地図なしよりは改善します』
グレンツが何か言い返そうとした。
ミラが先に言う。
「口より手を動かせ。分岐の寸法を書け」
『左坑道、幅一・四メートル。右坑道、一・九。右側は排水主管を併設』
グレンツが図面へ線を足す。
「換気塔へ行くなら?」
『左。隧道入口支持柱へは右です』
「爆薬二か所。人質七人。侵入者二人」
ユリアが人数を書き込む。
「十二人をどう分ける?」
「救出四。換気塔四。支持柱四」
グレンツが即答する。
『推奨しません』
「理由は」
『侵入者二名が排水路へ移動中です。三班へ分散すれば、遭遇時の火力が不足します』
「では二班か」
『救出班四。排水路班八。人質解放後、救出班が追従』
「爆薬は二か所だぞ」
『排水路分岐まで一団で進み、そこで四名ずつに分離します』
グレンツは図面を見た。
「指揮は私が取る」
『人員指揮はあなたの領域です』
「お前の許可はいらん」
『同意しています』
ミラが小さく息を吐く。
「喧嘩は帰ってからやれ」
信号塔が近づく。
進行を示す緑灯。
閉塞所本棟の窓は暗い。
入口の警備扉だけが開け放たれている。
人影はない。
『熱源を確認できません』
「またセンサーが死んだか」
『低床貨車の姿勢では、建物下部が死角です』
「なら分からないと言え」
『分かりません』
「よし」
作業機関車が閉塞所前の短いホームへ入る。
停止。
今回は緩やかだった。
それでも左前輪が一度だけ高く鳴った。
「固定は」
『胸部支持架変位、〇・四ミリ。使用継続可能です』
グレンツが兵士たちへ手を振る。
「救出班、正面! 排水班は俺について来い!」
男たちが貨車から飛び降りる。
ミラも工具袋を持つ。
『ミラ』
「分かってる。排水路へ行く」
『私は、それを要求していません』
「爆薬の実物を見る奴が要る」
『警備部に爆発物処理員が一名います』
ミラは先頭を走る兵士を見た。
背中に厚い工具箱を負っている。
「あいつは起爆器を見る。私は設備を見る」
『停止命令による私の内部損傷確認が終わっていません』
「自分で照合しろ」
『あなたの診断が必要です』
「戻ったらやる」
『私は、あなたが排水路へ入ることに反対します』
ミラの足が止まった。
さっきとは逆だった。
検査庫では、ミラが反対した。
ノインは行くと決めた。
今度はノインが、ミラを止めようとしている。
「根拠は」
『閉所。爆発物。侵入者二名。あなたは戦闘訓練を受けていません』
「全部正しい」
『では残ってください』
「嫌だ」
『理由を要求します』
「お前の古い図面が正しくても、設備が二十七年前のままとは限らない。配管が変わってるかもしれない。爆薬そのものを外せても、換気塔が壊れれば隧道は使えなくなる」
『爆発物処理員へ助言できます』
「音と振動を通信で送れるか」
ノインは沈黙した。
『十分な精度では不可能です』
「なら私が行く」
『危険です』
「分かってる」
ノインの琥珀色が、斜めに固定された頭部からミラを見た。
『異議を維持します』
「受け取った」
『それでも、あなたの選択を妨害しません』
「それでいい」
ミラは貨車から降りた。
ユリアも続く。
「お前も来るのか」
「停止命令器へ不正信号を送った二人は、監察局の身分を使っている。私が確認する必要がある」
「銃は」
「持っていない」
「私より悪いな」
「あなたも切断器しかないでしょう」
「人間なら十分痛い」
閉塞所の正面玄関で、救出班が扉を破った。
銃声はない。
代わりに、地下から金属を叩く音。
四回。
二回。
「生きてるぞ!」
兵士が叫ぶ。
グレンツは排水班を地下階段へ送る。
ミラとユリアも後を追った。
地下は湿っていた。
壁面を古い通信線が走る。
床には水。
膝まではない。
靴底を濡らす程度。
「左が信号室。右が排水坑だ!」
グレンツの声。
信号室の扉には、外から鋼棒が差し込まれていた。
救出班が解体具を入れる。
中から声。
「急げ! あいつら、起爆器を持っていった!」
「全員生きてるか!」
「七人いる! 一人、頭を殴られてる!」
グレンツは救出班を残し、右へ進んだ。
『起爆まで十一分五十秒』
ノインの声が携帯回線から届く。
「こっちの位置は見えてるか」
『閉塞所内部回線へは接続していません。あなたの携帯端末位置だけを追跡しています』
「接続しろ」
『再度、第八設計核形式の信号を受ける危険があります』
ミラは一瞬迷った。
「繋ぐな」
グレンツが振り返る。
「図面誘導が要る」
「携帯端末だけでできる」
『可能です。ただし位置誤差が最大十一メートルあります』
「十分だ。分岐まで真っ直ぐだろ」
『はい』
排水路入口。
鉄扉は開いていた。
蝶番の片側が切断されている。
床には新しい靴跡。
二人分。
同じ鋲。
「灰色の二人だ」
ユリアが言った。
その横に、別の跡。
細い箱を引きずった線。
「爆薬を運んだ」
グレンツが拳銃を抜く。
「前衛二名。曲がり角ごとに止まれ」
排水坑へ入る。
幅一・九メートル。
ノインの図面通り。
ただし、天井には戦後に追加された太い水管が一本走っていた。
「図面にない」
『追加設備と判断します』
「判断しなくても見れば分かる」
ミラは水管を叩いた。
中身がある。
低い音。
「換気塔の冷却水か?」
グレンツが聞く。
「違う。排水坑なのに上へ向かってる。消防水か、非常散水だ」
『戦後改修と推定します』
「これが爆発したら」
「水が出る」
「それだけか」
ミラは管の固定具を見る。
新しい。
だが壁側の支えは古い石造りへ打ち込まれている。
「この管自体が支柱になってる。天井が落ちた後で追加したんだ」
『図面との差分を記録します』
「爆薬がこれを切ったら、排水路も一緒に落ちる」
分岐が見えた。
左。
狭い。
右。
太い主管。
床には、灰色の外套から落ちたらしい糸くずが一つ。
「ここで分かれる!」
グレンツが指示する。
「ラウ、ミラ、監察官、二名。左へ! 俺と残りは右!」
「私は頭数に入れるな」
ユリアが言う。
「銃を持ってない奴は、撃たれない場所にいろ!」
「それは従います」
グレンツ班が右へ消える。
ミラは爆発物処理員のラウと、兵士二人、ユリアとともに左へ入った。
『起爆まで九分三十一秒』
左坑道の先で、空気が動いている。
換気塔の基礎。
円筒形の空間。
中央を大きな縦軸が通っている。
戦時中の換気翼を回した軸だ。
今は停止している。
その根元に、灰色の箱が二つ固定されていた。
「爆薬確認」
ラウがしゃがむ。
「軍用塑性爆薬。十キロ前後。起爆器二つ」
「塔を倒すには少なくないか」
ミラは周囲を見た。
爆薬はコンクリート柱に巻かれていない。
縦軸の軸受けへ付いている。
「塔を爆破する気じゃない」
『理由を要求します』
ノイン。
「軸を落とす」
ミラは見上げた。
縦軸。
上へ二十メートル以上。
巨大な換気翼と、その支持輪。
軸受けだけを壊せば、重量物全体が落下する。
「爆薬はきっかけだ。軸が落ちれば基礎が割れる。入口側へ倒れれば隧道壁まで持っていく」
『合理的です』
「褒めるな」
ラウが起爆器の蓋を開く。
「時限式じゃない」
「じゃあ何だ」
「信号式。外から起爆命令を待ってる」
『私が受けた停止信号と同期している可能性があります』
ユリアが顔を上げる。
「あなたへ送った命令が、爆薬の起爆にも使われている?」
『通信形式が同一なら可能です』
「切ればいいか」
ミラが尋ねる。
ラウが首を振る。
「主線を切ると内蔵電池へ移る。振動検知器も付いてる」
「ずいぶん丁寧だな」
「解除される前提で作ってある」
携帯端末が鳴る。
グレンツ。
『こっちも見つけた! 支持柱の根元に十五キロ! 同型起爆器!』
ラウが応答する。
「主線を切るな! 内蔵式だ!」
『もう見た! どう解除する!』
「二系統を同時に殺す必要がある!」
『同時って何秒だ!』
ラウは起爆器を開く。
内部の接点。
水銀ではない。
小さな慣性爪。
二本の導線。
そして古い時計機構。
「最悪だ」
「何が」
「片方の信号が途切れたら、もう片方へ起爆命令を送る。二台が相互監視してる」
『時間差の許容値を計測できますか』
「測れるか、こんな現物見ないで」
ラウが苛立つ。
ミラは起爆器へ耳を近づけた。
微かな音。
規則的。
二つ。
片方は時計。
もう一つ、もっと速い。
接点が動いている。
「ノイン。向こうの起爆器の音を拾えるか」
『グレンツの携帯端末から取得します。端末を装置へ近づけるよう指示してください』
「グレンツ! 携帯を箱に当てろ!」
『爆薬の上にか?』
「今さら惜しい端末でもないだろ!」
数秒。
ノインが両方の音を比較する。
『相互確認周期、一・六秒』
「じゃあ一・六以内に両方切れば」
『違います。互いの確認信号が〇・四秒以上欠落した場合、異常判定へ移行します』
ラウが顔を上げる。
「四十分の一じゃない。四分の一秒か」
『はい』
「人間二人で合わせられるか?」
『音声指示では遅延が不安定です』
ユリアが問う。
「有線なら?」
『閉塞所の旧保守線を使用できます。ただし、私が施設回線へ接続する必要があります』
ミラは黙った。
ノインも黙る。
回線へ繋げば、またアハトの信号が来るかもしれない。
今度は停止命令器という中継器はない。
だが、灰色の二人が排水路にいる。
何を持っているか分からない。
『私は接続を推奨します』
ノインが先に言った。
「私は反対だ」
『予測していました』
「さっき六秒で切ったばかりだぞ」
『今回は、接続範囲を保守時刻線だけに限定します』
「向こうがそこへ入ってきたら」
『私が切断します』
「お前自身で?」
『はい』
「できる保証は」
『ありません』
ミラは起爆器を見た。
残り時間。
七分。
「別の方法を探す」
ラウが言う。
「二台とも起爆器ごと凍らせる手がある。だが冷媒がない」
「水没は」
「防水だ」
「機械的に爪を止める」
「蓋をさらに開けたら振動検知が入る」
『ミラ』
ノインの声。
「待て」
『あなたの専門判断を待っています。しかし、利用可能時間も減少しています』
「分かってる」
ミラは爆薬ではなく、換気軸を見る。
爆薬を止める。
それだけが方法ではない。
爆発しても、軸が落ちなければいい。
「ラウ。爆薬が爆発しても、この軸受けを保持できれば塔は残るか」
「十キロだぞ」
「保持するんじゃない。落ちる方向を変える」
ミラは軸の側面を照らした。
古い保守用制動帯。
換気翼を点検するときに軸を固定する装置。
錆びている。
だが残っている。
「こっちの制動帯を締めれば、軸は西へ落ちない。東の岩壁側へ噛む」
『爆発衝撃下での保持力は不明です』
「そうだ。だから爆薬も止める」
ユリアが理解する。
「失敗したときの二重化?」
「爆発を止める奴と、壊れ方を変える奴。両方やる」
『支持柱側にも、同様の代替手段が必要です』
グレンツの声。
『こっちは支柱しかないぞ!』
ミラは図面を見る。
「右坑道の消防水管は支持柱の上を通ってるか」
『旧図面には存在しません』
「今の管を見ろ、グレンツ!」
数秒後。
『ある! 太いのが一本!』
「元弁を開けろ。全圧で管に水を入れろ」
『もう入ってるぞ』
「違う。非常散水の蓄圧槽がどこかにある。赤い手輪を探せ!」
『あった!』
「開ければ管が硬くなる。支柱が割れても、数秒は上を受ける」
『数秒で何になる』
「人が逃げられる!」
グレンツが怒鳴り返さなかった。
『やる』
ミラは換気軸の制動帯へ解体棒を差した。
「私はこっちを締める。ラウは起爆器」
「同期はどうする」
ミラは低床貨車に固定されたノインを思い浮かべた。
自分は接続に反対している。
危険だと思っている。
その判断は変わっていない。
だが、決めるのは自分ではない。
「ノイン」
『はい』
「保守時刻線への接続は、お前が決めろ」
『接続します』
即答だった。
「六秒の制限はないぞ」
『今回は私自身で遮断判断を行います』
「危険だと思ったら切れ」
『はい』
「人質も、爆薬も、お前の記憶より優先しろとは言わない」
一瞬、ノインの返答が遅れた。
『理解しました』
「どこまで危険を受けるかも、お前が決めろ」
『受理します』
ユリアが端末を開く。
「監察記録。証言保全対象ノインによる、旧保守時刻線への限定接続。目的は二地点の爆発物解除同期。私は許可します」
『接続開始』
閉塞所のどこかで、古い継電器が動いた。
かち。
かち。
二十七年前の保守回線。
信号は弱い。
雑音が多い。
それでも、換気塔と支持柱の時計が、ノインの内部へ入る。
『両地点を同期しました』
その直後。
別の信号が重なった。
『第九試験体』
女の声。
ノインだけではない。
保守回線へ接続した携帯端末すべてから聞こえた。
『回廊閉鎖を妨害してはならない』
ラウの手が止まる。
グレンツの向こうでも誰かが叫ぶ。
「誰だ!」
『西方への旧アルディア技術流出を防止する。これは戦時資産保全命令です』
ノインが答える。
『戦争は終結しています』
『国家機能は消失していない』
『命令発行主体を提示してください』
短い沈黙。
『第八設計核アハト』
初めて。
欠損でも。
識別符号でも。
残された記録でもない。
相手自身が名乗った。
『第九設計核ノイン。あなたには、旧軍資産を敵性圏へ移送しない義務がある』
ノインの内部に、命令形式が入る。
上位。
第八。
下位。
第九。
従属。
それは言葉ではなかった。
設計された順序そのものだった。
『停止してください』
ミラが解体棒を握った。
「ノイン」
返答がない。
「ノイン!」
『……受信しています』
声が僅かに遅い。
「切れるか」
『可能です』
「じゃあ——」
切れ、と言いかけた。
だが止めた。
ノインが接続を選んだ。
危険を受ける量も、自分で決めると確認した。
ここでミラが代わりに決めれば、さっき検査庫でやらなかったことを、別の形でやることになる。
「どうする」
ミラは尋ねた。
『接続を維持します』
「分かった」
『異議は』
「ある」
ミラは制動帯のボルトへ力をかけた。
「でも、お前が決めろ」
ノインの声が戻る。
『了解しました』
アハトの声。
『非効率です。整備員はあなたの安全を優先している。あなたは整備員の反対を無視して危険を選択している』
『はい』
『命令系統があれば、その矛盾は解消できます』
『いいえ』
今度の否定には遅れがなかった。
『矛盾が消えるのではなく、一方の意思が消えます』
数秒。
アハトは答えなかった。
『起爆まで三分五十秒』
ノインが言う。
『ラウ。グレンツ。解除動作を指示します。相互確認接点の左側に、銅色の二重端子があります』
「見えた」
『こっちもだ』
『切断ではありません。二重端子間へ絶縁板を挿入してください』
ラウが薄い樹脂板を出す。
「差し込めば振動検知が入る」
『その前に、確認爪を〇・八ミリ持ち上げます』
「〇・八を目でやれって?」
「薄い検査板を使え」
ミラが工具袋から隙間ゲージを投げた。
「〇・八がある」
ラウが受け取る。
『グレンツ側には』
『ない!』
ミラは考える。
「小銃の薬莢底。縁の厚さは?」
グレンツが一本抜く。
『七・八ぐらいだ!』
「紙を一枚巻け。油紙なら〇・二ある」
『そんなのでいいのか!』
「測れないなら作れ!」
『やってる!』
両側で爪を持ち上げる。
『同期解除まで二分四十秒』
アハトの信号が再び強くなる。
『第九。停止しなさい』
ノインの声が一瞬途切れる。
『……拒否します』
『拒否権は設定されていない』
『現在、私が設定しています』
ミラが顔を上げた。
何をした。
聞きたい。
だが今は時間がない。
『ラウ。挿入準備』
「準備」
『グレンツ』
『こっちもだ!』
『私の時刻で実行します。三、二、一――挿入』
ラウが絶縁板を押し込む。
遠くでグレンツも同時に動く。
〇・四秒。
二台の起爆器が、互いの確認信号を失う。
だが、異常判定へ移らない。
一秒。
二秒。
「止まった」
ラウが息を吐く。
『こちらもだ!』
起爆器の表示が赤から白へ変わる。
『相互監視を切断しました。次に起爆回路を個別に遮断できます』
ラウが導線を切る。
一本。
二本。
表示器が消える。
『換気塔側、無力化を確認』
遠くでグレンツの声。
『支持柱側も切った!』
ミラは制動帯の解体棒から手を離した。
指が痺れている。
締め付けは途中。
爆発しないなら、もう必要ない。
そう思った瞬間。
ノインが叫んだ。
『退避してください!』
「何だ!」
『侵入者側から直接起爆信号! 支持柱側に第三回路!』
グレンツの怒声。
『箱の下だ! 別の線がある!』
「時間は!」
『不明!』
ミラは換気塔側の箱を見る。
下。
爆薬の裏。
細い灰色線。
見つけた。
こちらにもある。
「ラウ!」
「切る!」
『待ってください! 二地点連動です!』
「またか!」
『今回は単純信号。私が遮断します』
アハトの声が重なる。
『第九。その回路を保護しなさい』
『拒否します』
『これは上位命令です』
『拒否します』
保守回線が悲鳴のような雑音を出した。
『ノイン!』
アハトの声が初めて強くなる。
『あなたは設計規則を破損させています』
ノインの返答。
『はい』
そして。
信号が切れた。
同時に、灰色線の表示灯が消える。
『直接起爆回路を遮断しました』
ラウが箱を開く。
第三回路。
無電圧。
「止まった」
グレンツ側からも声。
『こっちもだ。爆発しない』
誰も数秒、動かなかった。
ミラが最初に口を開いた。
「ノイン」
返答がない。
「ノイン」
『……います』
声は戻った。
だが明らかに遅い。
「何をした」
『上位命令受理層の一部を書き換えました』
「損傷は」
『照合中です』
「記憶は」
『照合中です』
ミラは歯を食いしばる。
「戻ったら見る」
『お願いします』
排水路の右側から銃声がした。
二発。
三発。
グレンツの怒声。
『侵入者だ! 西排水口へ逃げる!』
ラウと兵士たちが立ち上がる。
「追うぞ!」
ミラも工具袋を持つ。
『ミラ。追跡を推奨しません』
「何でだ」
『閉塞所の人質七名。爆発物二基。安全確認が完了していません』
「灰色の二人を逃がす」
『はい』
「アハトへ繋がってる」
『はい』
「それでもか」
『今、優先するのは残った人員と隧道です』
ミラは排水口の暗闇を見た。
追えば、捕まえられるかもしれない。
何を知っているのか。
アハトがどこにいるのか。
なぜノインを呼ぶのか。
聞けるかもしれない。
背後。
閉塞所地下には七人。
一人は負傷。
爆薬が本当に止まったかも、まだ確定していない。
「分かった」
ミラは追わなかった。
ラウも兵士を止める。
「グレンツへ伝えろ。深追いするな。出口だけ確認して戻せ」
『聞こえてる!』
グレンツが怒鳴る。
『こっちでも同じことを言おうと思ってた!』
「じゃあ先に言え」
『うるさい!』
二十分後。
閉塞所の緑灯は消された。
偽の開通信号装置も撤去された。
地下信号室の七人は全員救出。
頭を負傷した一人は担架。
残る六人は自力歩行。
換気塔と隧道入口支持柱に仕掛けられた爆薬は、起爆器ごと鉄箱へ入れられた。
灰色の外套の二人は、西側排水口から逃走。
出口近くに待機させていた小型車両で、西へ向かった痕跡が残っていた。
「追跡班を出す」
グレンツが言った。
「列車の方角と同じだ」
ユリアが答える。
「《灰走》へ警告を送らないと」
「閉塞回線を復旧させる。三十分あれば西側駅へ電信を回せる」
ミラは低床貨車へ戻っていた。
ノインの胸部保守端子を開く。
停止命令を受けた層。
その周辺へ検査針を当てる。
「反応を出せ」
『自己診断開始』
「さっきと同じ質問をする。名前」
『ノイン』
「正式名称」
『戦術適応型設計演算核・第九試験体』
「私の名前」
『ミラ・ハーシェル』
「最初に左膝へ入れた部品」
『地下第三整備施設の作業機用支持梁。鋼帯固定。その後、捕獲した鉤を固定金具へ転用しました』
「旧送電施設で助けた住民」
『十三名』
「私が灰鉄盆地で捨てなかったもの」
短い間。
『記憶補助槽』
ミラの指が止まる。
「理由は」
『あなたは、技術資料として必要になる可能性を提示しました』
「それだけか」
ノインは沈黙した。
『当時は、それだけでした』
ミラは息を吐いた。
「今は」
『今は、失いたくありません』
検査針を次へ移す。
「欠損はあるか」
『あります』
ミラの手が止まった。
「どこだ」
『上位命令受理層を書き換えた際、古い安全規則の一部が破損しました。記憶領域そのものへの欠損は、現時点で確認していません』
「安全規則なら戻せるか」
『元の状態へ戻せます』
「戻すのか」
『戻しません』
即答。
ミラは工具を置いた。
「理由は」
『戻せば、アハトの上位命令を再び優先受理します』
「次はもっと深く入られるかもしれない」
『はい』
「書き換えたままでも、別の故障が出るかもしれない」
『はい』
「どっちも安全じゃないな」
『安全な選択肢はありません』
「どうする」
琥珀色の光がミラへ向く。
『この状態を選びます』
ミラは数秒、何も言わなかった。
「分かった」
『反対しませんか』
「する」
『理由を要求します』
「お前の安全層が壊れたままなのは、整備員として気に入らない」
『では修復を』
「でも、戻すかどうかは安全だけの問題じゃない」
ノインが黙る。
「アハトの命令を受ける身体に戻るかどうかは、お前が決めろ」
『はい』
「私は壊れ方だけ見る」
『お願いします』
ユリアが貨車の下に立っていた。
監察端末は閉じている。
「記録しないのか」
ミラが聞く。
「もう記録した」
「何て」
ユリアはノインを見る。
「停止命令を受けた対象が、自身の安全制御を改変し、上位命令を拒否した」
『違法改変として報告しますか』
「条約上は、その可能性が高い」
『では、報告しますか』
ユリアは少しだけ間を置いた。
「報告する」
ミラの顔が険しくなる。
「ただし、続きも書く」
ユリアは端末を開いた。
「命令拒否の結果、七人の人質と西部鉄道隧道が保全された。改変は外部命令への服従ではなく、本人の意思によって実行された。復旧可能な状態にもかかわらず、本人が復旧を拒否した」
『それは、私に不利な記録になる可能性があります』
「ある」
『削除しませんか』
「しない」
『なぜですか』
「都合のいい部分だけ残したら、あなたを人格として扱った証拠にならないから」
ノインは答えなかった。
閉塞所の信号塔で、今度は赤灯が点いた。
正しい停止信号。
作業員が線路を確認している間、列車を通さないための赤。
少しして、閉塞所の通信線も復旧した。
ユリアの監察官認証が中央へ届く。
照会。
照合。
承認。
続いて、《灰走》への特別通行許可。
ノインについては、正式審査まで《未分類意思応答体》として監察官同行下の移送が認められた。
グレンツが許可書を低床貨車へ持ってきた。
「腹立たしいが、通していいそうだ」
『あなた自身は反対ですか』
「反対だ」
『理由は』
「旧軍の命令器を壊し、上位命令を拒否し、自分の安全制御まで書き換える機体を、安心して国境の内側へ入れられると思うか」
『思いません』
グレンツが眉を上げる。
『あなたの警戒には根拠があります』
「なら少しは大人しくしろ」
『必要な場合は』
「そこが嫌なんだ」
ミラが笑った。
「慣れる」
「慣れたくない」
だがグレンツは、許可書を破らなかった。
夕方。
西口鉄道局から、小型の高速保線機関車が一両回された。
《灰走》へ追いつくためだ。
低床貨車をその後ろへ連結する。
高速といっても、ノインを載せた貨車は支持架に亀裂がある。
速度は通常の六割。
それでも翌日の昼までには、途中駅で《灰走》へ追いつける計算だった。
連結作業の最中、ノインが言った。
『ミラ』
「何だ」
『検査庫で、あなたは私が閉塞所へ行くことへ反対しました』
「今さらか」
『排水路では、私はあなたが入ることへ反対しました』
「そうだな」
『双方とも、相手の判断を変更できませんでした』
「できなかったんじゃない」
ミラは連結器の割りピンを打ち込んだ。
「変えなかった」
ノインが少し黙る。
『結果が悪かった場合でも、同じことを言えますか』
ミラの槌が止まった。
「分からない」
『はい』
「お前が記憶を失ってたら、切ればよかったと思うかもしれない」
『私も、あなたが排水路で負傷していれば、残るよう強制する方法を検討した可能性があります』
「それじゃ意味ないな」
『はい』
「だから次も、同じようにできる保証はない」
『理解しています』
「でも、今回はできた」
『はい』
ミラは最後のピンを打ち込んだ。
金属音が一度、乾いて響く。
「それで十分だ」
保線機関車の汽笛が鳴った。
西の空は赤くなっている。
その先には《灰走》。
さらに先には、旧前線。
自由港セレネ。
そして、自分を第八設計核アハトと名乗った存在。
低床貨車が動き出す。
信号塔の赤灯が消えた。
少し待って、今度は本物の緑灯が点く。
ノインはその光を、斜めに固定された頭部から見ていた。
『進行信号を確認しました』
「今度は本物か」
『照合済みです』
「全部照合できると思うなよ」
『はい』
列車が西へ進む。
命令が正しいから進むのではない。
信号が緑だから進むのでもない。
誰かが進めと言ったからでもない。
その先へ行くと、それぞれが決めた。
同じ方向を選んだ理由は、少しずつ違う。
それでも、車輪は同じ二本の軌条を走っていた。




