緊急封鎖命令
隔離検査庫の扉には、内側の取手がなかった。
外から鍵を回す音。
続いて、三本の閂が順番に入る。
天井灯が点き、白い光が低床貨車とノインの身体を照らした。
壁際に並ぶ停止命令器も、初めて全体が見えた。
一台目は、西方協約軍が現在使用している箱形の装置。
二台目は、占領地域の警備部隊へ配備された旧式器。
三台目だけが違った。
背の高い鋼製筐体。
正面に丸い計器が三つ。
側面からは、黒い布巻き電纜が床下へ伸びている。
外装へ塗られた旧アルディア軍の標章は、上から白い塗料で消されていた。
「検査主任、グレンツだ」
革外套の男が名乗った。
「ここでは、私の許可なく機体へ触れるな」
「それは私に言ってるのか」
ミラは工具袋を床へ置いた。
「全員に言っている」
『私は自分の機体へ接触することも禁止されますか』
「お前は固定されている」
『質問への回答になっていません』
グレンツの額に皺が寄った。
「自分で修理できるなら、好きにしろ」
『右腕が存在せず、左手も損傷しているため困難です』
「なら黙っていろ」
『拒否します』
グレンツがユリアを見る。
「常にこうなのか」
「必要だと判断したときは」
ユリアは監察端末を開いた。
「検査手順を確認します。主動力炉の状態記録。武装封印。外部通信回線。最後に、停止命令への反応試験」
「最後は認めない」
ミラが言った。
「お前の許可は求めていない」
「整備上の危険がある。完全停止させれば、記憶領域へ電力が足りなくなる」
「停止命令は炉を止めない。機体制御だけを封鎖する」
『私の制御構造は、量産型と異なります』
ノインが答えた。
『停止信号が設計核の安全層へ干渉した場合、自己調整履歴の一部が隔離される可能性があります』
「可能性だろう」
『損傷率を予測できません』
「だから検査する」
「壊れるか分からないから壊して試すのか」
ミラが一歩前へ出る。
「西方の検査ってのは、ずいぶん合理的だな」
警備兵二人の手が銃へ動いた。
ユリアが間へ入る。
「停止反応試験には、監察官と対象の同意が必要です」
「未分類対象へ、拒否権は確定していない」
「だから、意思応答を保全する手続きになった」
「私の検査庫だ」
「条約手続き中です」
二人の視線がぶつかる。
グレンツが先に外した。
「なら、接続前診断だけ行う。停止信号は送らない」
『条件を受理します』
「お前の許可を取ったつもりはない」
『私の同意を記録しました』
グレンツは何も答えず、検査員へ合図した。
一台目の命令器から、細い診断線が引き出される。
西方規格。
ノインの接続口とは合わない。
変換器を二つ挟み、胸部右側の保守端子へつなぐ。
『外部診断線を確認。読み取り専用です』
「記録開始」
ユリアが言った。
検査員が一台目の電源を入れる。
緑の灯。
通信確認。
機体番号なし。
武装回路封印中。
主動力炉待機出力。
表示されるのは、それだけだった。
「内部処理が見えない」
グレンツが言う。
『開示を許可していません』
「診断器へ応答しない機体は、故障扱いになる」
『必要な診断値には応答しています』
「誰が必要範囲を決めた」
『私です』
「自分に都合のいい範囲だけを出している」
『あなたも、監察局の内部記録を私へすべて開示していません』
「同列に扱うな」
『理由を要求します』
ミラは三台目の停止命令器を見ていた。
他の二台より古い。
そのはずだった。
筐体の角には錆。
計器の硝子には細い傷。
だが、床へ留める四本のボルトだけが新しい。
黒い電纜の布巻きにも、埃が積もっていない。
「これ、いつ動かした」
グレンツが振り返る。
「旧軍機用の予備器だ。戦後は使っていない」
「嘘だな」
「何だと」
ミラは床へしゃがみ、ボルトへ指を当てた。
「締め傷が新しい。右後ろだけ、工具を二度かけてる。電纜も最近引き直した」
検査員が近づく。
「三週間前に定期点検を——」
「戦後は使ってないんじゃなかったのか」
グレンツが検査員を見る。
男の顔色が変わる。
「点検記録では、外装確認だけです」
「床から外したのか」
「いいえ」
ミラは黒い電纜を辿った。
床の配管溝へ入っている。
蓋を開ける。
内部には古い線が五本。
その上へ、灰色の細い信号線が一本だけ追加されていた。
「これが新しい」
『被覆材の劣化が少ないことを確認します』
ノインが言った。
「どこへ行ってる」
『現在、施設回線から追跡できません。私は隔離されています』
グレンツが検査員へ命じる。
「配線図を出せ」
男が壁の書類箱を開く。
その瞬間、検査庫の天井灯が消えた。
赤い非常灯へ切り替わる。
壁際の三台が同時に音を立てた。
一台目。
二台目。
三台目。
緑だった表示灯が、すべて赤へ変わる。
「誰が起動した!」
グレンツが叫ぶ。
検査員は操作盤から手を離している。
「触ってません!」
天井の拡声器に雑音が入った。
『西口閉塞所より、緊急封鎖命令』
男の声。
平坦で、抑揚がない。
『旧軍自律兵器の不正侵入を確認。検査対象を直ちに停止。記録核を保全し、機体制御を封鎖せよ』
グレンツが壁面通信器を取った。
「西口閉塞所、認証符号を送れ!」
短い信号音。
通信器の照合灯が緑になる。
「正式符号です」
検査員が言った。
ユリアは端末へ信号を取り込む。
「監察局の緊急封鎖手続きも含まれている」
「なら実行する」
グレンツが三台目の命令器へ向かう。
「待って。私の端末は命令を発行していない」
「閉塞所から中央手続きを経由している」
「中央照会は切れているはずよ」
グレンツの足が止まった。
隧道回線は断絶中。
ユリア本人の認証すら確認できなかった。
その状態で、監察局の緊急命令だけが届くはずはない。
『外部信号に重複構造があります』
ノインの声が僅かに低くなる。
「何が入ってる」
『西方の停止命令を外層として使用し、その内側から旧アルディア軍規格の接続要求が送られています』
「停止命令じゃないのか」
『停止は実行されます。その後、設計核の指揮系統を開示する要求へ移行します』
ミラは低床貨車へ駆け寄った。
「切れ」
『診断線を切断した場合、第三命令器の無線搬送へ移行します』
「筐体の電源を落とす」
『緊急封鎖命令を受信中は、内部蓄電器へ切り替わります』
三台目の命令器から、低い音が始まった。
振動というより、人間には聞こえない周波数が床と骨へ触れている。
ノインの左手が動いた。
三本指が、固定梁を掴もうとする。
途中で止まる。
『機体制御安全層へ停止要求』
「拒否できるか」
『可能です。ただし、拒否記録が西方側へ残ります』
「そんなものは後だ」
『拒否だけでは不十分です。内部接続要求が、停止命令への応答経路を利用しています』
ノインの琥珀色が明滅した。
『第八設計核形式と一致』
検査庫の拡声器に、別の声が入る。
今度は女だった。
静かで、急いでいない。
『第九試験体。停止手続きへ従いなさい』
ミラが顔を上げる。
『あなたは敵性地域に拘束されている。機体と記録を保全するための命令です』
「灰旗団か!」
グレンツが通信器へ怒鳴る。
女は答えない。
『停止は破壊ではありません。正当な指揮系統へ戻るための保護です』
ノインが応じる。
『所属と命令権を提示してください』
『あなたは照合できます』
命令器の三つの計器が振り切れた。
ノインの左手が完全に止まる。
足首。
腰。
首。
残っていた小さな姿勢調整まで、順番に失われていく。
『機体制御率、四一パーセント』
「ノイン!」
『意識処理は維持しています』
『機体制御率、二八』
グレンツが三台目の主電源桿を下ろす。
装置は止まらない。
内部蓄電へ移っている。
「裏蓋を開けろ!」
ミラが叫ぶ。
「証拠物へ触るな!」
「このままなら証人の中身が持っていかれる!」
ユリアが即座に言う。
「証言能力保全のため、停止命令器の物理診断を許可します。整備判断はミラ」
グレンツがユリアを見る。
「命令は正式符号だぞ」
「正式な符号が不正利用されている可能性がある。隧道の偽信号と同じよ」
『機体制御率、一九』
ミラは三台目へ走った。
裏蓋の留め具。
六本。
上二本は古い。
下四本だけ新しい。
工具を差し込み、回す。
一本。
二本。
「もっと速くできないのか」
グレンツが言う。
「ねじを潰した奴に言え!」
三本目が回らない。
頭が半分削れている。
ミラは切断器を出した。
ユリアが警備兵を下がらせる。
「火花が出る!」
「蓄電器の位置は」
『筐体中央右側です』
ノインが答える。
「切るのは左下だ。届かない」
『機体制御率、一二』
切断器を当てる。
火花。
ねじの頭だけを焼く。
裏蓋へ解体棒を差し込む。
曲げる。
鋼板が開いた。
内部には、旧式の発振器と蓄電器。
その間へ、見慣れない黒い箱が追加されている。
灰旗団機から外した受信器と同じ形。
「これが命令鍵か」
『命令鍵ではありません。接続中継器です』
「外せるか」
『外した瞬間、停止信号が最大出力へ移行する可能性があります』
「今でも十分強い」
『私の機体制御率は九パーセントです』
ミラは配線を見る。
中継器を切れば、何が起きるか分からない。
蓄電器を短絡させれば、命令器は止まる。
同時に発火する。
床下には信号線。
壁の向こうは弾薬庫ではない。
だがノインのすぐ横だ。
「冷却はどれだ」
『発振器左側の小型送風器です』
「止めたら」
『発振周波数が温度上昇により変動します』
「信号が外れるか」
『推定二十秒後』
「遅い」
『筐体内部へ熱を加えれば短縮できます』
ミラは切断器を見た。
「焼く」
グレンツが声を上げる。
「装置ごと壊す気か!」
「発振器だけ熱でずらす。蓄電器は残す」
「失敗すれば」
「ノインの頭を持っていかれるよりましだ」
『訂正します。指揮系統の開示後も、私の意識処理が直ちに失われるとは限りません』
「慰めになってない」
切断器の炎を発振器の外殻へ近づける。
直接当てない。
熱だけを入れる。
『発振器温度、上昇』
「あと何秒」
『十二』
ノインの声が途切れた。
『……内部接続要求、深度二』
正面表示に、知らない構造が開く。
ノイン自身の記憶ではない。
古い設計規則。
試験体番号。
上位指揮順。
第八。
第九。
灰色の線が、ノインの思考領域へ一本ずつ伸びてくる。
『ミラ。切断を推奨します』
「さっきは外すなと言った」
『接続深度が予測を超えました』
ミラは中継器の主線へ切断器を移した。
『待ってください』
今度はノインが止めた。
「どっちだ」
『接続経路を逆探知できます』
「何秒」
『六秒』
「その間に、向こうが入ってくる」
『可能性があります』
「切るぞ」
『私は逆探知を実行します』
ミラの手が止まった。
「危険だ」
『理解しています』
「記憶を持っていかれるかもしれない」
『理解しています』
「なら、なぜ」
『閉塞所の人員が拘束されている可能性があります。二名の侵入者は、私を隔離するために列車と検問を利用しました』
「それはお前の責任じゃない」
『責任の有無は、救助の必要性を変えません』
ミラは歯を食いしばった。
切れば止められる。
今ならまだ、ノインの内部へ入った線を断てる。
整備員としては切るべきだった。
機体を守る。
記憶を守る。
危険な信号を除く。
それが自分の領域だ。
だが、ノインは切るなと言っている。
自分の記憶を危険へさらしてでも、閉塞所を探すと決めた。
「六秒だ」
ミラは言った。
『了解しました』
「七秒目には私が切る。異議は認めない」
『整備上の限界判断を受理します』
ミラは中継器の主線へ切断器を当てたまま待った。
一秒。
『逆探知開始』
二秒。
ノインの左手が完全に脱力する。
琥珀色の光が細くなる。
三秒。
『閉塞所補助回線を確認』
四秒。
天井の拡声器から、女の声。
『第九試験体。独立判断を停止しなさい。あなたは、自分を損傷させています』
五秒。
『閉塞所地下信号室。人間熱源九。うち七名が一か所へ拘束』
六秒。
『侵入者二名。西側排水路へ移動開始。爆破信号器を——』
「切る!」
ミラが主線を焼いた。
白い火花。
中継器の外装が弾ける。
三台目の計器が一斉にゼロへ落ちた。
低い振動が消える。
検査庫に、切断器の燃焼音だけが残った。
『外部接続、遮断』
ノインの声が戻る。
弱い。
だが途切れていない。
「記憶は」
『照合中です』
「消えたか」
『現時点で欠損は確認できません』
ミラは壁へ手をついた。
息を吐く。
足から力が抜けそうになる。
それでも、切断器を置かなかった。
「閉塞所の爆破信号器って何だ」
『詳細取得前に接続が切断されました』
「私が切った」
『はい』
「早すぎたか」
ノインは短く沈黙した。
『いいえ。六秒でした』
グレンツが通信器を掴む。
「閉塞所地下に七名。侵入者二名は排水路へ向かった。全隊へ——」
通信器が鳴った。
外からではない。
検査庫内の非常回線。
短い断続音。
四回。
二回。
ミラが振り返る。
「旧送電施設と同じ合図だ」
『救助要請として一般的な旧軍保守符号です』
四回。
二回。
再び。
グレンツが受話器を取った。
「こちら西口検査庫。誰だ」
雑音。
その奥で、男の声。
『閉塞所……地下信号室……警備員のロートだ』
「状況を言え」
『七人拘束。二人は出ていった。排水路に爆薬……西側換気塔と、隧道入口の支持柱……』
「起爆まで」
『表示器は……十九分』
通信が途切れた。
検査庫の全員が、閉じた扉を見た。
西部鉄道隧道。
リーヴァと西方を結ぶ、唯一の大型輸送路。
入口の支持柱を失えば、隧道は塞がる。
《灰走》はすでに西へ進んでいる。
戻れない。
リーヴァ側からも追えない。
「警備隊を出す」
グレンツが言った。
「排水路の地図は」
「閉塞所にある」
「閉塞所が取られてる」
「保線員なら道を知っている」
「何人いる」
「現場へ出せるのは十二名」
『排水路は、旧アルディア軍の換気施設と接続しています』
ノインが言った。
『私の旧規格図面に、基礎構造が残っています』
グレンツが低床貨車を見る。
「お前はここに残る」
『拒否します』
「停止命令の影響が残っている。しかも固定されたままだ」
『低床貨車を作業機関車へ接続すれば移動できます』
「連れていけば、また信号を受ける」
『接続中継器は破壊されました』
「別の装置があるかもしれない」
『その可能性はあります』
「なら危険だ」
『はい』
「自分で認めるなら残れ」
『残りません』
グレンツの顔が険しくなる。
「命令だ」
『あなたは私の命令者ではありません』
警備兵が動く。
ユリアが片手を上げた。
「一時証言保全対象には、事件捜査への協力を要請できる」
「要請だ。強制はできない」
「だから本人が同意している」
「停止命令を受けた直後だぞ」
「それでも意思表示は一貫している」
ユリアはノインを見る。
「あなたは、隔離庫に残れば安全性が高いと理解している?」
『はい』
「灰色の二人が、あなたを狙っている可能性も?」
『はい』
「それでも行く?」
『行きます』
「理由は」
『閉塞所の人員は、私を列車から切り離す工作のために拘束されました。彼らを損失として受け入れれば、侵入者の方法を有効と認めることになります』
「任務効率?」
『それだけではありません』
ユリアの指が端末の上で止まった。
『私は、彼らを置いて安全な場所へ残ることを選びません』
ミラはノインを見上げた。
機体は固定されたまま。
自力では起き上がれない。
停止信号の残響が、まだ内部にあるかもしれない。
行くべきではない。
整備員としてなら、そう判断する。
「私は反対だ」
『根拠を要求します』
「右腰は未修理。左膝は急制動でまた歪んだ。停止信号の後遺症も分からない。もう一度入られたら、今度は六秒持つ保証もない」
『すべて妥当です』
「それでも行くのか」
『はい』
ミラは工具袋を見た。
切断器。
解体棒。
検査針。
中継器から切り取った黒い配線。
止めようと思えば、主動力炉の保守線を抜ける。
ノインを動けなくすることもできる。
安全のために。
本人の意思に反して。
「異議は残す」
『受理します』
「現地で動作率が落ちたら、今度は私が止める」
『整備限界の判断は、あなたへ委ねます』
「信号を追うかどうかは、お前が決めろ」
『はい』
「なら連れていく」
ユリアが端末へ記録を入れる。
グレンツが二人を見た。
「そのやり方で、いつか破綻するぞ」
「一つの命令で全部決めるよりは遅い」
ミラは答えた。
「でも、今は十九分ある」
検査庫の閂が外される。
一つ。
二つ。
三つ。
外では、小型の作業機関車が低床貨車の前へ回り込んでいた。
警備兵たちが連結器を合わせる。
制動管は一本。
通信線はつながない。
ノインの固定鎖を再確認する。
左前輪の欠け。
胸部支持架の亀裂。
ミラは一つずつ触れた。
「速度は人の走るくらいまで。急制動は禁止。右曲線では左前輪を見ろ」
グレンツが機関士へ伝える。
「監察官は残れ」
ユリアは低床貨車へ乗った。
「証言保全対象へ同行します」
「銃撃になれば守れない」
「守られるために来たのではありません」
ミラが工具袋を貨車へ投げ上げる。
「本当に面倒なのが増えたな」
ユリアが手すりを掴む。
「記録しておく?」
「やめろ」
作業機関車が動く。
低床貨車が隔離側線を出る。
錆びた転轍器を越え、本線から分かれた保守路へ入る。
前方には、西口閉塞所。
その地下に七人。
排水路に爆薬。
残り十八分。
ノインの琥珀色が、斜めに固定された頭部から暗い保守路を照らした。
『ミラ』
「何だ」
『私の選択へ、まだ反対ですか』
「反対だ」
『それでも同行しますか』
「お前が決めたからな」
『理解しました』
「納得はしてない」
『それも理解しています』
作業機関車の前照灯が、閉塞所の信号塔を捉える。
塔の上では、進行を示す緑灯が点いていた。
誰も列車を通していないのに。
誰もそこにいないはずなのに。
偽の信号だけが、今も正しい顔で光っていた。




