未分類意思応答体
西部鉄道隧道を抜けた瞬間、空の色が変わった。
灰ではない。
薄い青の下に、白い雲が浮かんでいる。
線路の両側には濡れた草が生え、岩肌から細い水が流れていた。灰鉄盆地では油と鉄粉の臭いを運んでいた風が、ここでは土と苔の臭いを運んでくる。
《灰走》の機関車が長く汽笛を鳴らした。
応答する汽笛はない。
代わりに、隧道西口を囲むコンクリート陣地から、青白い信号弾が上がった。
前方停止。
線路を横切る鋼製遮断柵が降りる。
その左右には、土嚢に囲まれた機関砲座が二つ。
砲身は列車へ向いていた。
『西側検問施設を確認。武装人員四十六。固定火器四門。装輪車三台』
「数えるな。余計に警戒される」
『周辺認識を停止しますか』
「声に出すなって意味だ」
『了解しました』
低床貨車へ固定されたノインは、頭部を胸側へ傾けたままだった。
琥珀色の補助光学器から見えるのは、貨車の床と遮断柵の下端だけだ。
貸与された偵察無人機も、隧道内での救助後に回収されている。
ノインは列車の振動と、車内通信、貨車脇を通る靴音だけで状況を読んでいた。
《灰走》が遮断柵の三十メートル手前で停止する。
今度はすべての制動器が正常に働いた。
だが、車輪が止まっても砲口は下がらない。
駅舎から白い腕章をつけた兵士が出てきた。
続いて鉄道局員。
最後に、長い革外套を着た男が現れる。
襟には西方協約鉄道警備部の徽章。
男は列車先頭でオスカーの書類を受け取り、数枚めくったところで手を止めた。
「リーヴァ自治評議会交易使節。装甲列車《灰走》。積荷、圧延鋼材、鉄道部品、工作機械部品」
「書いてある通りだ」
オスカーが答える。
「保線車両との接触事故あり」
「接触してない。十一メートル手前で止めた」
「負傷者を一名収容」
「西方鉄道局の保線員だ。先に医者を寄こせ」
男は列車の後方を見た。
「負傷者の移送前に、全車両を検査する」
「脚が潰れてる。検査票を待って治るのか」
「隧道内で偽の開通信号が使用された。列車側の関与を排除できない」
「こっちは殺されかけた側だ」
「それを調べる」
オスカーが一歩前へ出る。
鉄道警備兵の銃口が上がった。
エルナの隊員も動く。
両側の指が、同時に引き金へ近づく。
「負傷者だけ先に出す」
ユリアが列車から降りた。
濃紺の外套。
銀の監察徽章。
彼女が端末を開くと、鉄道警備部の男の姿勢が僅かに変わった。
「条約監察官ユリア・メーレン。緊急人命保護権限を行使します。担架一台、衛生兵二名の通過を要求します」
「監察官の到着予定は二日後と通知されている」
「予定を繰り上げました」
「認証を」
ユリアは端末を差し出した。
男は携帯照合器へ接続する。
表示が赤く点滅した。
「中央照会不能」
「隧道回線が切られています」
「なら、本人確認もできない」
「局内暗号署名は端末内にあります」
「盗難端末でも署名は表示される」
ユリアの顔から、わずかな柔らかさが消えた。
隧道内で灰色の外套を着た二人が、監察局の先行検査を名乗った。
偽の開通信号装置。
本物に見える身分証。
その情報は、すでに西口側へ届いているらしい。
「私を疑うのは構いません」
ユリアは言った。
「その間に負傷者の脚へ血が戻らなくなる」
「負傷者の状態をこちらの衛生兵が確認する」
「なら今すぐ乗せて」
革外套の男が兵士へ合図する。
西方側の衛生兵二人が、武器を置いて兵員車へ向かった。
数分後、担架が運び出される。
若い保線員の顔は白く、右脚は添え木で固定されていた。
付き添っていた年長の保線員も降りる。
隧道内でノインを警戒していた男だ。
「所属と氏名を」
鉄道警備部の男が尋ねる。
「西方占領鉄道局、西隧道保線第三区。班長エーリヒ・ハルト。負傷者は部下のマルク・ゼン」
「列車と接触したか」
「していない」
「負傷原因は」
「天井材の崩落だ」
「なぜ閉塞信号が開通になっていた」
「知らん。こちらは短絡器を入れた」
「列車側から信号操作を受けた可能性は」
エーリヒの視線が《灰走》の後方へ移った。
低床貨車。
固定されたノイン。
「あの機装兵が列車を止めた」
周囲の兵士がざわめく。
「自律機が?」
「制動弁を操作したと聞いた」
「見たのか」
「列車が止まったのは見た。あれが何をしたかまでは見ていない」
男は一度言葉を切った。
「だが、あれが警告を送らなければ、俺たちは列車に潰されていた」
「アルディア軍機を擁護するのか」
エーリヒの顔が険しくなる。
「擁護はしていない」
低い声だった。
「西側換気所で死んだ百十二人を忘れたわけでもない。あの手の機械を信用する気もない」
男は担架を運ぶ衛生兵を見た。
「それでも、起きたことは起きたことだ」
鉄道警備部の男は答えず、書類へ何かを記入した。
「負傷者は西口診療所へ移送。班長は事情聴取のため残れ」
「先にこいつの手術を始めろ」
「医師が判断する」
担架が検問所内へ運ばれていく。
エーリヒは最後まで見送った。
遮断柵は上がらない。
代わりに、検査班が列車へ乗り込んだ。
貨物封印。
車軸。
制動管。
乗員名簿。
武器庫。
一つずつ確認される。
第四貨物車の後端では、閉じられていた制動管の閉塞弁が調べられた。
検査員が弁の取手を布で包み、固定ねじを外す。
「取手に新しい傷がある」
ミラはしゃがみ込んだ。
「工具傷じゃない。鋼線を巻いた跡だ」
「触るな」
西方の検査員がミラの手を払った。
「調査対象だ」
「見れば分かる。取手に線を巻いて、貨物扉の開閉桿へつないだ。誰かが扉を閉めたとき、弁も一緒に閉じる」
検査員が扉の裏を照らす。
隅に、切れた細い鋼線が残っていた。
「列車が隧道へ入る前に、第四貨物車の扉を閉めた者は」
オスカーが名簿を開く。
「積荷検査の後、鉄路工員が閉めた。三人いる」
「名前を」
三人が呼ばれる。
全員、リーヴァの鉄路労働者だった。
顔色が変わる。
「俺たちは線なんか巻いてない」
「扉を閉めただけだ」
「積込み前の検査では弁は開いてた!」
ユリアが鋼線の切れ端を見た。
「扉を閉める者に細工を気づかせず、制動弁だけ閉じさせた」
『列車内部の協力者を必要としない工作です』
ノインの声が貨車間回線へ流れた。
検査員たちが一斉に低床貨車を見る。
「誰が接続を許可した」
鉄道警備部の男が怒鳴る。
「列車回線へは契約上接続済みです」
ユリアが答えた。
「制動系への介入は隧道内の緊急措置に限定しました。現在は音声回線だけです」
「その機体は何だ」
「リーヴァ都市防衛外部契約機」
「形式を聞いている」
ユリアは一瞬、答えなかった。
ミラが低床貨車から降り、二人の間へ入る。
「旧アルディア製の試験機だ」
鉄道警備兵の手が銃へ動く。
「自律型か」
「自分で話す」
「それは見れば分かる。人格区分は」
『戦術適応型設計演算核です』
ノインが自分で答えた。
検問所の空気が凍った。
警備兵が散開する。
機関砲座の砲身が、低床貨車へ向きを変える。
左手の三本指には武器接続封印。
右腕はない。
固定鎖で貨車へ縛られている。
それでも兵士たちには、動けない機体ではなく、二十七年間の戦争を支えた自律兵器に見えた。
「全員、貨車から離れろ!」
鉄道警備部の男が命じる。
「制御核を停止する。記憶領域を封印し、協約軍の保管所へ移送する」
「特例通行審査を申請済みです」
ユリアが言う。
「承認記録が照会できない」
「回線が切られているためです」
「なら未承認として扱う」
「私の監察権限で、照会回復までの一時保留を宣言します」
「監察官本人の認証もできない」
「端末内署名を確認したはずです」
「盗難の可能性がある」
男の視線が証拠袋へ向く。
隧道で回収した偽の開通信号装置。
監察局の身分証が使われた疑い。
そのために、本物のユリアまで疑われている。
「制御核を停止すれば、記憶が損傷する」
ミラが言った。
「兵器の記録保全より、検問所の安全が優先だ」
「ノインの記憶には、隧道工作の原記録がある」
「複製を提出しろ」
『一部の記録は私の自己調整履歴と不可分です』
「なら全領域を提出しろ」
『拒否します』
「拒否権はない」
『私は、リーヴァの暫定契約上、意思確認を必要とする構成員です』
「ここはリーヴァではない」
短い言葉だった。
だが、その一言で、左腰の契約札が急に薄いものへ変わった。
所有者なし。
最終命令者なし。
二人の暗号署名。
リーヴァの壁の内側では、それを認める採決があった。
ここでは違う。
西方協約の規則では、ノインは封印対象兵器だった。
「停止命令を準備しろ」
警備部の男が兵士へ告げる。
「待って」
ユリアの声が鋭くなった。
「ノインは隧道工作事件の直接証人です」
「機械記録は証拠物だ」
「証拠物ではなく、証言主体として扱うよう要求します」
男がユリアを見る。
「何を言っている」
「ノインは偽信号を検出し、制動系へ限定的に介入し、操作記録を自分の判断で保存した。私の許可を求め、許可範囲を守り、終了後に制御を返還した」
「高度な兵器なら可能だ」
「拒否された場合にどうするかを検討し、自分の選択として介入を決めようとしていた」
「それも制御結果だ」
「人間の判断も、神経系の制御結果だと言えます」
周囲が静まる。
男の目が細くなった。
「監察官。あなたは違法人工人格を擁護しているのか」
「分類している途中です」
「規則は明確だ」
「証人を取り調べ前に停止し、記憶を損傷させれば、工作事件の立証ができなくなる」
「記録を抽出すればいい」
「抽出した側が編集していないと、誰が証明するのです」
ユリアは自分の端末を掲げた。
「隧道内の操作記録は、ノインと私が別々に保存しています。暗号署名も別です。照合できるから証拠になる。ノインを停止し、片方の記録だけを残せば証拠能力が下がります」
鉄道警備部の男はすぐには答えなかった。
安全規則。
証拠保全。
監察権限。
どれも西方側の制度だった。
ノインを通すための情ではない。
同じ規則同士をぶつけている。
「証人として扱う法的根拠を示せ」
ユリアは端末を操作した。
「条約監察手続規則、第四十二条。意思表示可能な未分類対象が条約違反事件の情報を保持する場合、分類確定まで証言能力を保全する」
「それは人間と、国籍未確定の人工補助員を想定した条文だ」
「適用対象に人間限定とは書かれていません」
「拡大解釈だ」
「禁止されていないことを、後から禁止扱いにはできません」
ミラはユリアを見た。
隧道の中で、ノインが言った言葉と同じだった。
ユリアも気づいている。
だが、顔には出さない。
『その解釈を支持します』
ノインが言った。
「お前は黙っていろ!」
『私の証言能力について協議されています』
「黙れと言われたら黙れ」
『拒否します』
兵士の一人が銃を構えた。
ミラは低床貨車と銃口の間へ立った。
「撃つなら、どこを狙うか考えろ」
「退け」
「胸を撃てば炉に当たる。頭を撃てば証言記録が損傷する。左手を撃っても止まらない」
兵士の銃口が迷う。
「脅しか」
「構造説明だ」
革外套の男が片手を上げた。
兵士たちが射撃姿勢を保ったまま止まる。
「一時証言保全を認める」
男は言った。
「ただし、検問所管理下の隔離線へ移す。主動力炉は待機出力。列車回線との接続を切断。武装封印を再確認。監察官と整備員以外、接近禁止」
「列車から降ろすのか」
ミラが問う。
「低床貨車ごと側線へ移す」
オスカーが即座に首を振る。
「その側線は死んでる。転轍器が錆びて動かん」
「作業員を出す」
「この列車は二日遅れてる。いつまで止める気だ」
「照会回復までだ」
「何時間だ」
「不明」
オスカーの顔が険しくなる。
「わからないことのために交易列車を止めるのか」
「違法兵器を積んで国境を越えようとした列車だ」
「書類は出してある」
「承認を確認できない」
『列車全体を停止する必要はありません』
ノインが言った。
ミラが振り返る。
「何を言う気だ」
『低床貨車だけを切り離し、隔離側線へ移動させてください。《灰走》は先行できます』
「お前を置いていくのか」
『交易品の到着遅延は、リーヴァの送電設備へ影響します』
「修理部品の選定はどうする」
『必要寸法と材質記録は、あなたへ送信済みです』
「現物を見た方が正確だと言っただろ」
『はい。しかし、列車全体を停止するより損失が小さいと判断します』
「隧道の向こうで一人残されることも含めてか」
『ユリアが残ります』
ユリアがノインを見る。
「私は残ると、まだ言っていません」
『証人保全を主張した監察官が、対象を置いて先行する可能性は低いと推定しました』
「勝手に決めないで」
『訂正します。残留を要請します』
ユリアは数秒黙った。
「残ります」
「私も残る」
ミラが言った。
『あなたはセレネで部品選定を行う必要があります』
「お前の現物を見ながら寸法を取り直す必要がある」
『記録値があります』
「右腰の曲がりは記録値より五ミリ内側だった。左膝の接続環は、列車の急制動でまた歪んでる。今の寸法を見ないで部品を買えば、合わない」
『セレネ到着後の再計測でも間に合います』
「お前が到着すればな」
『検問所で解体される可能性を指摘していますか』
「そうだ」
ノインは沈黙した。
「私が残れば、勝手に外板を開けさせない」
『あなたが拘束される可能性があります』
「旧軍歴はもう名簿に書いてある。今さら隠れられない」
『危険です』
「分かってる」
『交易使節の任務を優先すべきです』
「それはお前の判断だ」
『はい』
「私は残る」
二人の結論が違った。
どちらも同じ任務を見ている。
どちらも相手の危険を減らそうとしている。
それでも、同じ答えにはならない。
『根拠を提示しました。再検討を要求します』
「検討した」
『結果は変わりませんか』
「変わらない」
ノインの琥珀色が、固定鎖の隙間からミラへ向く。
『あなたの意思を確認しました』
「従うのか」
『従うという表現は不適切です』
「じゃあ何だ」
『異議を維持したまま、受け入れます』
ミラは短く息を吐いた。
「それでいい」
低床貨車の切り離し作業が始まった。
連結器。
制動管。
信号線。
暖房管。
最後に列車回線。
一本ずつ外される。
ノインの内部表示から、《灰走》の各車両情報が消えていく。
工作車。
客車。
兵員車。
貨物車。
最後に機関車。
オスカーの声だけが伝声器から残った。
『三日待つ。それ以上は交易期限に間に合わん』
「二日で追いつく」
ミラが答える。
『何で追う』
「それを考えるのは、置かれてからだ」
『お前はいつもそうだな』
「予定にないから止められるって言ったのはそっちだ」
オスカーが笑った。
『違いない』
エルナが低床貨車の脇へ来る。
「私は列車を守る。ミラ、お前はノインを守れ」
「役割を決めるな」
「違うなら後で直せ」
エルナはユリアを見る。
「監察官を信用していいのか」
ユリアが答えた。
「信用を要求しません。私の行動記録を残します」
「ノインと同じことを言う」
「監察対象から学ぶこともあります」
連結器が外れた。
《灰走》がゆっくり前へ動く。
低床貨車だけが、その場へ残る。
鉄の車輪が遠ざかる。
貨物。
工員。
防衛隊。
リーヴァの札をつけた列車が、西方の線路を先へ進んでいく。
ミラは小さくなる最後尾を見た。
不安がないわけではない。
だが、オスカーもエルナも、自分たちの判断で進んだ。
止める理由はなかった。
鉄道警備部の作業機関車が後方から連結される。
低床貨車を隔離側線へ押す。
錆びた転轍器が動く。
最初は半分。
作業員が槌で叩く。
もう一度。
軌条が側線へ開いた。
『転轍器先端に隙間があります』
「三ミリだ。低速なら越えられる」
『貨車左前輪の踏面に、制動時の損傷があります』
「二ミリまでなら持つ」
『二・六ミリメートルです』
「なら一度止めろ」
鉄道警備部の男が振り返る。
「勝手に作業を指示するな」
「脱線してノインが倒れたら、あんたたちの砲台へ炉が向く」
作業機関車が停止した。
ミラは線路へ降りる。
左前輪を調べる。
制動靴が砕けたとき、踏面の縁が欠けている。
数字だけなら危険。
だが欠けは外側。
転轍器を通るときに軌条へ触れる場所ではない。
「そのまま通せ。速度は人の歩幅以下」
鉄道警備部の男が問う。
「危険ではないのか」
「危険だ。脱線する危険より、ここで車輪を交換して夜になる危険の方が大きい」
「夜になると何がある」
「灰色の外套が二人、閉塞所へ向かったんだろ」
男の顔が変わる。
「西口閉塞所との連絡は、まだ戻っていない」
「そいつらが消えたと思うか」
誰も答えなかった。
低床貨車が転轍器へ乗る。
左前輪。
隙間を越える。
一度、車輪が鳴る。
ノインの固定鎖が張る。
脱線しない。
貨車は隔離側線へ入った。
三方をコンクリート壁に囲まれた短い線路。
正面には閉じた検査庫。
背後では、鉄製の遮断柵が下りる。
鉄道警備部の男が書類を持ってきた。
「一時証言保全対象。名称、ノイン。分類、未確定自律兵器」
「兵器は消せ」
ミラが言う。
「武装回路を持つ」
「今は武器がない」
「軍用設計核だ」
「証人なんだろ」
男は書類を見た。
「分類欄を空白にはできない」
ユリアが手を出す。
「未分類人工人格」
「人格と確定していない」
「だから未分類です」
「兵器性を落とせない」
「なら、別欄へ《旧軍用機体に搭載》と書いて。証言主体の分類と、身体の用途を一つにしないで」
男はしばらく書類を見ていた。
やがて線を一本引く。
《未確定自律兵器》
その文字を消す。
上へ書き直す。
《未分類意思応答体》
備考欄。
《旧アルディア軍用機体に搭載》
正式な人格ではない。
法的な人間でもない。
それでも、単なる証拠物や兵器とは異なる欄が作られた。
「仮の呼称だ」
男が言う。
「審査結果によっては消える」
『理解しました』
「署名は監察官が行う」
『私の署名欄はありませんか』
「ない」
『証言保全対象本人の同意を確認する欄を追加してください』
「規則にない」
『私を意思応答体として記録するなら、応答を記録してください』
男は額を押さえた。
「面倒な対象だ」
「慣れる」
ミラが言った。
ユリアが小さく息を吐いた。
「私も同じことを言われました」
書類の下へ、細い線が一本引かれる。
《対象の同意》
ノインの暗号署名が印字された。
次にユリア。
最後に鉄道警備部の男。
隔離検査庫の扉が開く。
内部は暗い。
天井走行機。
診断端子。
機体固定用の鎖。
壁際には、停止命令器が三台並んでいる。
ミラは工具袋を持ち上げた。
「ノイン。入るぞ」
『はい』
「記憶は渡すな」
『必要範囲は私が判断します』
「外板を開けるなら私を通せ」
『整備判断はあなたへ委ねます』
ユリアが二人の後ろに立つ。
「私は、手続き違反がないかを見る」
「違反があったら」
「止めます」
『私たちをですか』
「検査官を含め、違反した側を」
三人は検査庫の中へ入った。
扉が閉じる。
外では、西口閉塞所との通信がまだ戻っていない。
灰色の外套を着た二人も見つかっていない。
《灰走》は先へ進んだ。
ノインとミラは残った。
同じ列車を選んでも、同じ場所へ同時に着くとは限らない。
それでも、どちらかが相手の意思を曲げたわけではなかった。
異議を残したまま。
危険を理解したまま。
別の結論を受け入れて、次の扉へ入った。




